輪廻転生

てことは、要するに人が「死んで天国に行った方がマシ」みたいに考える「殉教」の思想というのは、プロパガンダとか、目の力の強い人に巻き込まれてそう思い込まされている結果? と思うわけで。そして、そういう願望の強い人を、例えば紛争地帯とかに送り込んで宣教させれば、自分からそうしようと思わなくても、何かのはずみに「殉教」してしまうかもしれないし、もしそうなっても当人も信仰心が篤くてそうなった、ということで文句を言う人もあまりいないから、ということで。

でも、そういえば初期のキリスト教、例えばイエスの直弟子達とかは殉教している人達が多いわけで、そういう人達は師匠が死んだ後も、場合によっては無謀な状況で布教を続けて殺されたりしているわけで。そういう人達は、自発的にそういう生き方を選んでいる気がするのですけれども、何故? と思うわけで。そうすると、だって、そうやって犠牲を捧げて、祖神の「死に神」をこの世に呼び戻そう、というのが本来の「犠牲」の意味でしょ? イエス・キリストも「自分は戻ってくる」って言って死んだんでしょ? って言われる気がするわけで。でも、死んだ人が生き返るわけはないし、「犠牲」を捧げて復活する、というのはむしろ「生まれ変わる」という意味に近くて、それは要するに「輪廻転生」ってことですよねえ? と思うわけで。でも、魂とか前世とか生まれ代わりなんて、無いんですよねえ? って思ったら、「お前が言ってどうする?」みたいな目で見られる気がするわけで@@。そういえば、アジア的な「活仏」とか「生き神」っていうのは、「生まれ代わる」ものでしたねえ? って思い出したわけで。そして、「だいたい力の強い人は前世のことも、けっこう良く覚えている人が多いんだけれども、お姉さんはほとんど全く覚えてないよね?」って言われる気がするわけで@@。ちょっと待って下さい? というか、なにその、まるで私の方が変わりモノみたいな物言いは? って思うわけで@@。だいたい、人工とか増える傾向があるわけで、誰にでも前世があったらヘンじゃないの? とか思うわけですが、だから前世っていうのはある人と、ない人がいて、ない人っていうのは、それこそ遺伝子とか育った環境だけで、魂とか性格が形成されるんだけど、でも力の弱い人は前世なんてあっても全然覚えていないことが多いし、性別も変わったりするし、育った環境も異なったりすれば、前世なんてあってもなくても同じ、っていう人は一杯居る、って言われるわけで@@。だから、神サマっていうのは、力の強い人がなるものだし、そういう人は前世の経験も覚えていることが多いから、それで人生経験も豊富? ということもあって、特別扱いされるんだよ、って言われる気がするわけで。じゃあさ、関係者の中で「前世」ってものを覚えている人っているんだ? って思うわけで。そうすると、2番目の子は結構覚えている人だし、蛇の兄さんも良く覚えている人、って言われるわけで@@。で、纏めると1番目の子は力が弱くて全然覚えていない、4番目の子はともかく同じ蛙さんで、私のことが好きで好きでたまらなかったことだけ覚えてる、5番目の子は古い家系の出だからどこかで会ったことはあるはずだけどやはり力が弱くてほとんど覚えていない、6番目の子は前世がない、7番目の子は「自分の前世はあった気がするんだけど、全然覚えてないし、どうせ6番目の子と自分は庶民の出なんで、例え前世があったとしても会ったことがあるはずがない。」って言われる気がするわけで@@。で、会ったこともないのに、よく「もう一度会いたい」とか「取り戻したい」って言われるでしょ、それは言っている方は昔に会ったことを覚えていて、その気分が抜けないから、って言われるわけで@@。でも、蛙の子の方は全然覚えていなくて、ヘンだと思うから「変な人」って言ってしまう、と言われる気がするのですが。でも、向こうはちゃんと覚えているし、だから「水商売をやっている所を見られたくない」とかってなって、他の人と違うリアクションになっちゃうんだけど、ご当人はずっと昔のことを思い出して欲しいと思っていたし、そう思い続けていた切ない気持ちを分かって欲しいと思ってる人もけっこういるんだよ、倉○さんとか、って言われるわけで@@。っていうか、「昔会ったことがある」っていうのは、1500年くらい昔のことだと思うわけですが、それじゃ卑弥呼って私みたいな人だったんだ? と思うわけで。そうしたら、「そんなことはない。卑弥呼は穢れにも弱くて、蛇の尻尾も生えてなくて、普通に蛙の女の子だったし、性格は似ても似つかないなら。」って言われるわけで@@。だいたい、目の力っていうのは体に備わっている力だし、性格っていうのはそちらに引きずられるから、魂だけ同じだからって同じ性格になるわけではないし、同じ生き方をするとも限らないし、性格も違って前世のことも何も覚えていなかったら、前世なんてあっても無意味、ということで、「だから、生まれ代わり、とか輪廻転生って考え方は嫌い。」って誰かさんは言っているわけですが。でも、そんなこんなで、こっちの方は前世のことなんか、思い出しそうもない、ということで「初対面の相手だと思って、機会をせっせと掴んで目の力で、女心を捕まえる努力をするべき。」って言ってくる人が多いらしいのですが。でも、その方が好きになって貰える機会も前世からのしがらみがなくて「平等」ということで、6番目の子と7番目の子は、内心自分達はラッキーだったと思っているらしいのですが@@。だから、思い出しそうもなければ、「変な人」で流しちゃっていいから、って言われるわけでーー;。で、要するにはっきりしている限りでは、前世は卑弥呼であり、その前はイエス・キリストであり、その前はダビデ王だって言われるわけで@@。

イエス・キリストという人は、本当にダビデの子孫で生まれ代わりであって、前世の記憶もあった人なんだよ、って言われるわけで@@。でも、デーヴァの人で、目を一つしか持っていなくて、そういう人は考えが偏ることが多くて、しかも前世の記憶が強くて、前世は王様だったけれども、現実は貧しい大工の息子なわけだから、フラストレーションが強くて、元の地位を取り戻そうとして暴挙に走った挙げ句にローマに捕まって殺されてしまった人、って言われるわけで@@。要するに弟子達はそれを知っていて、自分の命をかけても呼び戻そうとしてたんだ? と思うわけですが。でも、結果的にはキリスト教はローマに取り込まれてしまって、現在に至るまで、イエス・キリストの名は利用されっぱなし、ということで。

で、当代の太陽女神の中で、女王卑弥呼に近い思考回路は分割統治主義ではなくて、平等主義であることくらい。イエス・キリストらしいところは、最後の病院を去るときに、「必ずここに戻ってきて復讐してやる」と思ったことで、まさにそれが、その有名なご先祖サマが死ぬ間際に非常に怒り狂いながら思っていたこと、ということらしくて@@。でも、私自身は、理想も持っているけれども、どちらかといえば、「戦争と平和」という点に関してはパワーバランスを重視する現実主義者で、そして理想とか関係なく、実際に必要があると感じれば勝つためにギリシャ・ローマ式の手法を採ることにためらいのない性格であり、しかもけっこう冷静な人、ということで、為政者でもないのに、そういう思考回路だけが徹底してるっていうのは、結局ダビデの記憶が一番強いんじゃないの? って言われるわけで@@。だいたい、ギリシャ哲学とかにも全然興味がなくて、勉強したこともないくせに、なんでその手法の実践だけ得意なのさ? って言われる気がするわけで@@。

で、要するに敵が一番出て来て欲しくないのがダビデの王の記憶、そして火付け強盗の女神マグダラのマリアの性格、って言われる気がするわけで@@。向こうの人は、良くも悪くも結果を出すだけの「力」のある人しか評価しないので、搾取と独裁の王であるダビデは、十支族の人達には評判が悪いのですが、ともかくその治世中はイスラエルは繁栄していたということで、政治的手腕はそれなりにあった人だし、マリアが出した「結果」というのは目も当てられないような大惨事だけど、「結果」は「結果」なので。でも、イエス・キリストというのは、最終的に殺されてしまった人なので、実のところその人に対する評価は低い、ということで。ダビデっていう人は、小国の王であって、生前どうやって周辺諸国とパワーバランスを保っていくかっていうことばっかり考えていたし、実際に戦う時には負けるような戦争はしなかった、ということで。そういうところはしっかりしてた人だったんだ? と思うわけですが。しかも、かつての為政者としての記憶は、「国民の一人一人が主権者であるべき」という思想に上手くすり替わって、ストレスも感じず、現実に適応してそれなりに無茶なことをせずに生きてるし、そういう点では器用なタイプって言われるわけで@@。(まあ、でも体も弱いし、自分で自分の力の使い方も良く分かってないし、喰っちゃ寝の生活が好きなタイプだし、お姉さんみたいなデーヴァの目を持つ女の子は、そのくらいで丁度いいよ、って言われるわけですがーー;。そして、とあるお味方のデーヴァの女の子からは、「その目があれば充分で、前世なんか必要ない。私たちが生きているのは今なんだから。」って言って貰ったわけですが。)

そして、キリスト教を始めた人達は、古代ユダヤ人であったのでヘブライニストと言って、必ずしもギリシャ語が話せた人達ではなかったのだけれど、新訳聖書というのはギリシャ語で書かれているから、注意が必要、って言われるわけで。要するに、それはギリシャ・ローマ的なプロパガンダ思想の書物なんですねえ? 実際にあり得そうもないことも一杯書いてあるし、と思うわけで。

ということで、微妙に誰かさんが好きだった人と「似ても似つかない性格」とか言われてしまって、「離婚危機?」とかって思わず思いましたら、「そんなこと絶対にしない。そんなことしたら4番目の子に取られちゃう。」って言われる気がするわけで@@。なんで、その人だけ特に出てくるの? と思ったら、「そいつは女王のお世話係の男で、一番寵愛を受けてたの!」って言われる気がするわけで@@。昔も今も世話焼き小姑役? というか、当人も覚えていないようなことをちゃんと覚えてるんだ? っていうか、昔から面白くなく思ってたんだ? と思うわけでーー;。で、今日もライブがあったので、5時から後はしばらく静かにしていたわけで。8時半のちょっと前くらいに、頭の中に「少年」が流れたので、そろそろ終わったのかな、と思ったのですが。全体としてはヘンな一日でした;。

本日の日誌

今日は特に大きな動きはなく。そして、「殉教」ということの真の意味は、未だ良く分からないのですが、特定の状況下において、「死んだ方がマシ」みたいに思い込まされたり、思い込んだりすること、なのかな、と思って。大勢の人にそう思い込ませれば、それが「普遍的な価値観」に変貌してしまって、そういう状況に誰も違和感を感じなくなってしまったりもするわけで。で、自らもそう思い込んでしまえば、自殺願望の強い人とかには、そういう歪んだ欲望を満足させる原因にもなるわけで。そうすると、常日頃、思い通りに操りたい、と思う「集団」がいた場合に、「この状況になったら死ぬべき」という刷り込みを徹底的に行っておけば、そういう状況を作り出すか否かで、その集団の生殺与奪は間接的に思いのまま、ということで。直接手を下さなくても、直接何かを言わなくても、「状況」を作り出す「手段」さえ確保しておけば良い、ということになるわけで。

で、そもそものローマの支配方法が「分割統治」ということで。古代ローマの政治制度は、ギリシャに似ていて、「都市」が中心になっているわけです。だから、都市によって、市民権と自治権をどの程度まで認めるのか、ということが決まっていて、それぞれに一律ではなかったわけです。要するに、身分的な「階級制」を「都市」に対しても適用した、みたいな感じな気がするわけで。そうやって、それぞれの都市の利害が一致しないようにして、各都市が団結してローマに対抗しないようにしていたわけです。だから、逆に支配されている各都市の間には、それぞれの間に常に程度の差があっても緊張感があったとも思うわけで。

で、こういう都市を中心にして政治を考えるというやり方は、中世のヨーロッパ諸国にも受け継がれていて、確か戦争に負けたりして、自分達の住んでいる都市を敵に明け渡す場合には、住民全員が手荷物を持って移住というか、追い出された、というようなことがあった気がするわけで。で、昔の王とかは各都市を巡回して政治とか裁判に関わったりとかっていう風習もあった気がするわけで。王侯貴族は、それぞれに領地を持っているわけですが、「都市」というのは一定の自治権を持った、特別な場所であったような気がするわけです。

で、何が言いたいかというと、都市同士に格差をつける政治をしたら、どこかに不満が溜まる場合があって、例え一部ではあっても「反乱」が起きる可能性があるわけです。「国家」という枠があれば、そういう微妙なバランスを操って、反乱が起きないようにする、ということが政治の役割になるのだと思います。でも、そういう「枠」がなくて、単純に支配的な影響力を行使するだけなら、常にどこかに「敵対分子」というものを作っておく方が、その他の結束を強固にするのに役立つ、という気がするわけで。そういえば、古代のキリスト教というのは、最初からローマ教会が中心であったわけではなくて、各地に伝導を行っては成功したところを拠点にして、また周囲に布教していく、という形で広まっていったわけで。で、各地にさまざまな派ができるわけですが、そのうちにそれを一つに纏めて、教義も統一しよう、ということになり、正統とされなかった派は次第に「異端」として排斥されるようになっていったわけで。で、ヨーロッパではまずそういう派閥の粛正が行われ、内部の敵がほぼ消え失せると十字軍が起き、その次には魔女狩りの嵐、新教の発生へと歴史は移っていく気がするわけですが。常に常に、「教会」には敵がいたわけで。でも、そのほとんどは自らが作り上げたものなのではないの? と思うわけで。結局、人々が教会に対して不平や不満を持つことがあっても、意図的な「敵」の出現のおかげで、「一致団結して敵に立ち向かえ」って言えるから、結束を保っていられる、ということで、って思うわけで。

じゃあ、人種差別とか民族差別というのも、「分割統治」の産物ですねえ、と思うわけで。旧約聖書のノアの項には、ノアとその子供達の逸話が出てくるわけですが、その中にノアの機嫌を損ねたハムの息子のカナンをノアが呪って、「その子孫は他の子供達の子孫の下僕になれ。」と言っているわけです。で、その末裔がカナン人とされているようですので、要するにこれはノアの正統な子孫であるユダヤ人がカナン人を見下して隷属させる「根拠」となるということで、「そうやってありもしないことを書き散らしては、自分達のやっていることを正統化するやり方がギリシャ式」って言われる気がするわけでーー;。で、これはこれだけでは終わらなくて、キリスト教の時代に入ると「カナンの子孫」とは有色人種のことを指す、とされて政治における人種差別の根拠とされるようになったわけです。だから、そのギリシャ・ローマ的な思想は、ローマが滅びた後も西欧諸国が植民地支配を行うことや、そのやり方に大きく影響を与えているわけで。キリスト教というのは、宗教的・精神的な支柱と言うだけで無く、政治的にも大きくヨーロッパを支えていたわけです。

で、戦前の日本というのは「皇国史観」という思想に基づいて歴史教育が行われていたわけで。これは、日本の統合の中心を「万世一系の皇室」に求める思想ということで、そもそもは「天皇あっての日本」みたいな思想だったのではないか、と思うわけで、江戸時代に興った水戸学なんかの影響を引いているのではないかと思います。これが、戦争が始まると「日本は世界に一つの神の国」とされ、暗に「戦争に負けるはずは無い」という意味にまで発展し、天皇を擁している日本人は「特別な民族」みたいな意識になって、占領地における現地の人への差別主義に基づいた政策や教育の根拠となっている、と。

戦争というのは、結局は外交の一手段であって、いろんな状況を考えた上で行っていかなければならないものであることは、常識的には明白である気がするのですが、国民に対しては闇雲に「日本人は特別な民族なんだから戦争に負けるはずがない」と言い、かつ占領地には差別主義の手法を用いると、結局日本人の庶民は「自分達は特別だ」と思い込んでしまいますし、占領地の人達には不公平感しか生じない、ということで。結局、これも、庶民の層は庶民の層で一致団結しないように、「分割統治」してるってことなんだよねえ? と思うわけで。こうやって、いったん「遺恨」を作り出してしまえば、戦争が終わって70年経った現在でも、その「遺恨」部分さえつつけば、いくらでも人々が纏まらずに分断するように操作できるわけで。

で、興味深いことなのですが、東條英機という人は、支那事変(日中戦争)が勃発すると、兵団長として参加し、大きな成果を上げたけれども、彼の兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという、ということで、そもそも部下の命を軽視し、飢えさせることも何とも思わない人物であった、ということで。日本陸軍にも当然いろんな将校がいたことと思うわけですが、結局あらゆる方面で、こういう人格を持つ人材、「天皇」の言葉を出しただけで盲目的にどんな命令も喜んで従う人材、とかそういう人達が意図的に集められて、ある意味「適材適所」に集められていたんだろうな、と思うわけで。で、いざとなればそういう「忠誠心」だけは厚い、歪んだ人格の人達がなんでも責任を被って死んでくれるだろう、ということで。そうやって、人々を互いに憎しみ合わせ、決して纏まらないようにする政治手法こそが、まさに「ギリシャ・ローマ式」ということで。結局、「教育」で教わることというのは、知識以外に社会性とかそういう問題もあるわけですが、この「社会性」の中にはその共同体特有の礼儀作法とかも含まれるわけで、そういう点を上手に操作すれば、特定の思想に洗脳することも「可能」ということで。要するにそういうのを「プロパガンダ」と言うと思うのですが、結局そういう洗脳によく染まるだけではなくて、その結果、最終的な目的に合致した性格傾向とか思考回路を持つ人材を選別して重用すれば、最終的に目的とするようなどんな「政治的成果」でも上げられるモノなんだ? と思うわけで。学校で教わったことは、とりあえずテストの点数の分だけは取れてても、人格的にそういったモノに心の底から迎合しない人は出世させないでおけば、それで世の中の支配は事足りる、ということで。

で、ギリシャ・ローマ式の「プロパガンダ」の1例として、おそらく紀元前1世紀ローマの歴史家であったグナエウス・ポンペイウス・トログスという人が、マケドニアのピリッポス2世(紀元前382年 - 紀元前336年)について書いたことを挙げられる気がするのですが。古代のギリシャ・ローマというのは、歴史とか地理とかの著述家が多いわけで、ギリシャ・ローマ以外のこともいろいろと書き残しているわけです。で、ピリッポス2世というのは、アレクサンドロス3世(いわゆるアレクサンダー大王として有名な人)の父親であって、7人の妻がいた人物で、アレクサンダー大王の母は4番目の妻であった、ということで。このピリッポス2世という人は、46歳で暗殺されて亡くなったわけですが、亡くなる数年前からそういう気配が彼の周囲に流れていたようで、そんな中で亡くなるほんの数年前に家臣の娘でまだ10代の女の子を7番目の妻に迎えていたわけです。で、記述によれば、「この結婚はアレクサンダー大王母子の激しい怒りを買い、ピリッポス2世が亡くなると、母子は7番目の妻とピリッポス2世との間に生まれた子供を惨殺し、7番目の妻を自殺に追いやった。」とされており、アレクサンダー大王母子の苛烈な性格(特に母親の方)を強調する逸話になっているわけです。で、この殺された7番目の妻と子供達は、ピリッポス2世と共に埋葬されているらしくて。それも、古代史のミステリー? っぽい扱いになっているらしいのですが。で、マケドニアというのは騎馬の盛んな所ですし、一応「ギリシャ世界」の一部にはなっていますが、特に古代においては、トラキア・ダキアに近い文化を持っていたのではないか、と推察されるわけで。トラキアには、夫が死んだ場合、「最愛の妻が夫の供をして殉死する」という風習がありましたから、それは「自殺においやられた」のはなくて、「殉死した」のであって、むしろ自分の死を意識するようになったピリッポス2世が、「あの世」まで着いてきてくれる女性を求めて、それに応じて妻になったのは7番目の妻で、最初から当人も承知した上での「殉死用の妻」だったんじゃないの? と思うわけで。そういう習慣そのものも個人的には好ましいとは思いませんけれども、当人達の誰もが「そういうもの」だと思っていて納得しているのなら、外の人達がわざと悪く言う必要もあるの? 特に古代世界ではそういう「人身御供」的なことはあんまり珍しいことでもないし?? と思うわけで。そして、当時のローマの知識人がトラキアのそういう風習を知らないはずがない、ということで。要するに、それはローマ人ではないアレキサンダー大王の家系を意図的に中傷する記述なのですよねえ? と思うわけで。その母親がものすごく、冷酷で残酷な女性だ、と印象づけるために、ということで。何も基礎知識を持たないで、この文章だけを読んだら、そういう印象を持つ人は当然多いわけで、それこそがギリシャ・ローマ式の「プロパガンダ」ということで。で、そういうものにあっという間に巻き込まれてしまって、ギリシャ・ローマこそがすばらしい、とまで思うような人だと好都合。そこまで行かなくても、とりあえず信じてくれる人ならまあまあ。その嘘に気が付くような賢い人だと「邪魔」というか警戒すべき相手、ってランク付けするんだ、それ? って思うわけで。

だいたい、敵の文章ってみんなそういうようなモノなわけですよ。「ナルニア国物語」は、「物語の最後に世界が消滅して、良い人だけ生きたまま天国へ行って、そこは現世よりも良いところ」っていうキリスト教的な世界観に基づいた話だし、「赤毛のアン」シリーズのモンゴメリは、ご当人が現世に強い不満を持っていて、早く来世に生まれ変わりたい、と思っていた人で、そういう思いが彼女の作品の中に強く込められているし(というよりも、彼女は自分の理想の世界を物語にしたので、彼女の作品そのものが「来世」そのものと言われるわけで)、「大草原の小さな家」シリーズのワイルダーは「王の存在しないアメリカでは、(キリスト教の)神そのものがアメリカの神である」ってはっきり書いているでしょう。そういうのは、プロパガンダの目的も兼ねているし、読んだ人がどのくらいその思想に共鳴したり、染まったりするかの指標にもしてるんだ? と思うわけで。結局は「学校の教科書」というもののそういう書物の一つ、ということで。お姉さんは、ナルニアの世界観は嫌いであったし、モンゴメリはそういう価値観の時代に生きた気の毒な人、くらいに思ってたし、ワイルダーもそういう保守的な価値観の持ち主、ということで、全部「個人の価値観」の問題くらいにしか思ってなかったけど、そうじゃなくて、そういうものは政治的かつ宗教的な思想ががっちり組み込まれた「ギリシャ・ローマ式」の書物なんだわ、って言われるわけで。要するに、そういうモノに書かれたキリスト教的なプロパガンダの意図は私はちゃんと読み取っているわけですけれども、別にそれに迎合するわけでもなくて、価値観というのは「人は人、自分は自分」みたいな感じであんまり染まったりもしていないので、その点からいって、敵の目から見るとそもそも「不合格」の部類に入る人材なんだ? って思うわけでーー;。

しかも、問題は他にもあって、だいたい毎年各局で放送されるような、戦争とか、平和とかを題材にしたような番組って、そもそも好きじゃなくて、あんまり見なかったでしょ。でも、それは別に「平和」というものを軽視しているわけではなくて、そういうものの大切さも分かっているけれども、でも、「平和」というものは政治的なモノであって、外交における駆け引きとか、そういうモノで維持できる部分が多いわけで、しかもどうやって手を尽くしても、外敵から攻め込まれるようなことがもしあれば、戦わざるを得ない、という側面もあるから、子供達に戦争の話を伝えていったり、とかそういうことも大切だけれども、ただ歌を唄ったり、お題目みたいに「平和」「平和」って言っていれば「平和」なんて実現できるモノじゃないから、違和感を感じて追悼番組みたいなモノはあまり好きじゃなかったでしょ、って言われるわけで。で、だいたい「どうやったら平和を維持できるか」というのは、むしろ為政者の考えることであって、真の一般庶民というのは、「平和でありますように」って半分人ごとみたいに言わざるを得ない面があるんだけれども、お姉さんは最初からそういう風に考える人ではなかったでしょ、って言われるわけで。そもそも私自身が、政治家でもないのに、政治的な見方をしてる、って言われるわけです。でも、自分では、それを「民主主義の世の中では、誰でも自分の1票分の主権者でもあるのだから、そういう風に考えることは庶民であっても当然のこと。」って思ってたでしょ? って言われるわけで。で、いろんな考察を重ねた結果、現在のところは、私は極端な軍拡主義者でもなく、かと言って軍事力そのものを全く否定するというような極端な平和主義者でもなく、バランスを取ることこそが大事、って考える現実主義者でしょ、ということで。そして、結局一番大事なのは、制度そのものよりも運営の仕方、言い換えれば「プロパガンダのやり方」だって思ってるし、一定の理想は持っていても、いざ戦うとなれば勝つことを最重要視するし、そのための手段として、ギリシャ・ローマ式の手法を用いることには良心の咎めなんか感じるタイプじゃないでしょ、って言われるわけでーー;。それで、纏めると、私の中でギリシャ・ローマ的でない思考回路は、分割統治とか差別主義が大嫌いという点くらいであって、蛙さん達に近い思考もそのくらい、ということで、それで「どうもギリシャの血が濃いねえ」って言われちゃうんだよ、って言われる気がするわけでーー;。

そして、なんとなく昨夜のMステの録画を見ながら日記を書いていたら、SDタモリさんとは関ジャニ∞のお面のコーナーで、「真実に似ているように見えても、真実でないものに注意」ってふいに言われた気がしたわけで。たぶん、現実問題として当面気をつけなければならないのは水道管の種類とか、その程度だと思うわけですが;。プロパガンダっていうのは、怖いね、ということで;。