本日の日誌

本日も、晴れたり降ったりしていて。お昼休みに、奥が崩落したらしいです。火曜日に潜った時に、ちょっと掘りすぎかも、と思ってはいたのですが、もう少しで安全圏だしなー、と思ったら、言いそびれてしまってー;。雨が降る時期は崩れやすくなりますし、もっとちゃんと言っておけば良かったなー、と思って。自分の日記を読み返しても、「崩れた、崩れた」ってしょっちゅう書いてあるので、危ないところを頑張ってやってたんだなー、と思う。でも、ここまでやってきて、怪我するのもつまらない話ですから、もっと気を配っていければ、と思います。基礎の周囲が、崩れやすい土ばかりなので、そこの辺りを掘るときが、一番注意が必要なのです。

で、私の作業の方は、今日もノルマ以上に進めることができて。朝、3時半頃に蚊に喰われて目が覚めて、午後も家の中にいた蚊に喰われて。蚊三昧の一日だったのでした。

で、7番目の兄さんからは、「これで、甲賀三郎が、何故地上に戻ってきたときに、蛇の姿だったのか分かったでしょ?」と言われる気がするわけで。甲賀三郎は、諏訪地方の伝承で、兄弟に騙された三郎が、地面の深い穴に落とされて、地下世界をさまよった末に、地上に戻ってくる話ですが、戻ってきたときに何故か蛇の姿になっていて。人の姿に戻るまでに、もう一仕事、みたいな話であって。三郎が「穴に落とされる」というのは、男の子が植物の豊穣の祭祀で、埋められて殺されたので、大地(月)の女神と一体化して、蛇(月)の姿に生まれ変わる、というか、蛇(月)になる、という話ですねえ? と思う。だから、戻ってきた三郎は蛇(月)の姿なわけです。この「犠牲」である三郎の伝承が、御頭祭における神使(おこう)だよね、と言われる気がするわけで。御頭祭では、江戸時代までは、御贄柱という柱を立てて、そこに神の使いとされる8歳くらいの男の子を縛り付けて、その子を刺し殺そうとするところに、国司の使いが現れて、それを止めて、子供が解放されて祭りは終わる、という祭祀をやっていて。御頭祭は、今では剥製の鹿の頭を柱に供えているわけです。だから、昔は「男の子の頭」を切り落として、柱に供えたものだよね、「柱」とは「地面の上に生えた植物」だから、「男性性」のものです。男の子の頭は、「木の実」の化身でしょ、と言われる気がするわけで。「何の実ですかねえ?」と思ったら、「縄文時代の人は栗が好きだから、栗なんじゃないの?」と言われる気がするわけでー;。要するに、御頭祭は、栗の豊穣を願っている、「古栽培民」の祭祀でしょ、「農耕の祭祀」ですよ、と言われる気がするわけで-;。諏訪神が彼の地に入って、人の生け贄は禁止されたと言われている。でも、縄文時代には、男の子を生け贄にして、その子供は「湖の男神」の化身でもあったわけです。諏訪湖は「淡水」だから、「男性」なわけだ@@。でも、「湖の男神の化身」が現世における「神の代理人」という考え方そのものは、諏訪氏の当主が代々受け継いで、彼らは、室町時代くらいまで、冬になると蛇よろしく、地下室に籠もって冬ごもりをする、という生活を送っていました。殺されはしないけれども、「生きた蛇神の化身」としては生活してたわけです。農耕の豊穣のために。「でも、今でも男の子は殺さないけど、蛙は刺し殺すんだけどね。」と言われるわけでー;。それも、「農耕の豊穣の祭祀」ですねえ、と思う-;。しかも、「月の蛙」って言ったら、女性性なんで、それは「女の子」の代わりに殺されてるんですよねえ? と思う。要するに、縄文時代の諏訪の祭祀は、漁労民の祭祀を受けて、最初は男の子も女の子も殺す祭祀だったわけですが、「女の子」の方は縄文時代のうちに、自主的に「土偶」と「蛙」に置き換えられてしまって。男の子の方は、扱いが悪くて、弥生に入るまで殺され続けたもの、と言われる気がするわけでー;。鹿は角が生えてるものだから、原則としては「男性」と言われる気がするわけでー;。どうしてそういう差が生まれるかというと、縄文時代の諏訪の住民は、「母系の熊信仰」の人々であったから、女の子を大切にしていて、殺すのを嫌がったから、と言われる気がするわけで。

大名家の先祖は、諏訪にやってきて、人身御供は禁止したけれども、祭祀の一部は自分達が引き受けて、縄文系の人々も納得できる形で祭祀を続けたし、自分達が「湖の神の化身」ともなったわけです。で、どうして、そうしたかといえば、「そうやって、征服した先の住民の信仰を取り込んで、自分達の都合の良いように混血習合させて支配する手法は、印欧語族の十八番でしょ。「イエス・キリストの後継者」なんて言ったって、やって来たことは蛇のまねごとでしょ。」って誰かが言う気がするわけですが@@。しかも、筒粥神事というのは、でかい釜で米を炊いて吉凶を占うものだから、鳴釜神事と同じで、人の首を煮て農耕の吉凶を占う祭祀だよね、と言われる気がするわけでー;。その人、ものすごい「毒舌太郎」なんじゃないの? そういうところが、私と良く似てるとか、そういうこと?? と思うわけで-;。でも、こういうことで、富の王家のおっちゃんも、大名家のおっちゃんも、7番目の兄さんを前にすると、「ぐうの音」が出なくなるらしくてー;。富の王家のおっちゃんは、何とかの帝国っていう変な本に、「自分とこの先祖はウミヘビ~」みたいに書かせたら、7番目の兄さんに「漁撈民のふりをしても、あんたんとこは牛肉でしょ。」と言われたらしくてー;。「牛の神様」じゃなくて、「牛肉」なのね。まあ、神様って要は「食べ物」のことなんですけどね、漁撈民の信仰ではね、と思うわけですが-;。でも、諏訪の庶民的な信仰の根源は、今でもお山の大姥様(熊)にあるんじゃないの? と思う。多少方便でも、地元の人の気持ちを大切にすることも、大事なことではないかなー、と、まあ、そういう人達もいるわけです。まあまあ、どちらもお手柔らかに、と思うわけですが-;。

本日の日誌

本日も、晴れたり降ったりしていて。お昼休みに、奥が崩落したらしいです。火曜日に潜った時に、ちょっと掘りすぎかも、と思ってはいたのですが、もう少しで安全圏だしなー、と思ったら、言いそびれてしまってー;。雨が降る時期は崩れやすくなりますし、もっとちゃんと言っておけば良かったなー、と思って。自分の日記を読み返しても、「崩れた、崩れた」ってしょっちゅう書いてあるので、危ないところを頑張ってやってたんだなー、と思う。でも、ここまでやってきて、怪我するのもつまらない話ですから、もっと気を配っていければ、と思います。基礎の周囲が、崩れやすい土ばかりなので、そこの辺りを掘るときが、一番注意が必要なのです。

で、私の作業の方は、今日もノルマ以上に進めることができて。朝、3時半頃に蚊に喰われて目が覚めて、午後も家の中にいた蚊に喰われて。蚊三昧の一日だったのでした。

で、7番目の兄さんからは、「これで、甲賀三郎が、何故地上に戻ってきたときに、蛇の姿だったのか分かったでしょ?」と言われる気がするわけで。甲賀三郎は、諏訪地方の伝承で、兄弟に騙された三郎が、地面の深い穴に落とされて、地下世界をさまよった末に、地上に戻ってくる話ですが、戻ってきたときに何故か蛇の姿になっていて。人の姿に戻るまでに、もう一仕事、みたいな話であって。三郎が「穴に落とされる」というのは、男の子が植物の豊穣の祭祀で、埋められて殺されたので、大地(月)の女神と一体化して、蛇(月)の姿に生まれ変わる、というか、蛇(月)になる、という話ですねえ? と思う。だから、戻ってきた三郎は蛇(月)の姿なわけです。この「犠牲」である三郎の伝承が、御頭祭における神使(おこう)だよね、と言われる気がするわけで。御頭祭では、江戸時代までは、御贄柱という柱を立てて、そこに神の使いとされる8歳くらいの男の子を縛り付けて、その子を刺し殺そうとするところに、国司の使いが現れて、それを止めて、子供が解放されて祭りは終わる、という祭祀をやっていて。御頭祭は、今では剥製の鹿の頭を柱に供えているわけです。だから、昔は「男の子の頭」を切り落として、柱に供えたものだよね、「柱」とは「地面の上に生えた植物」だから、「男性性」のものです。男の子の頭は、「木の実」の化身でしょ、と言われる気がするわけで。「何の実ですかねえ?」と思ったら、「縄文時代の人は栗が好きだから、栗なんじゃないの?」と言われる気がするわけでー;。要するに、御頭祭は、栗の豊穣を願っている、「古栽培民」の祭祀でしょ、「農耕の祭祀」ですよ、と言われる気がするわけで-;。諏訪神が彼の地に入って、人の生け贄は禁止されたと言われている。でも、縄文時代には、男の子を生け贄にして、その子供は「湖の男神」の化身でもあったわけです。諏訪湖は「淡水」だから、「男性」なわけだ@@。でも、「湖の男神の化身」が現世における「神の代理人」という考え方そのものは、諏訪氏の当主が代々受け継いで、彼らは、室町時代くらいまで、冬になると蛇よろしく、地下室に籠もって冬ごもりをする、という生活を送っていました。殺されはしないけれども、「生きた蛇神の化身」としては生活してたわけです。農耕の豊穣のために。「でも、今でも男の子は殺さないけど、蛙は刺し殺すんだけどね。」と言われるわけでー;。それも、「農耕の豊穣の祭祀」ですねえ、と思う-;。しかも、「月の蛙」って言ったら、女性性なんで、それは「女の子」の代わりに殺されてるんですよねえ? と思う。要するに、縄文時代の諏訪の祭祀は、漁労民の祭祀を受けて、最初は男の子も女の子も殺す祭祀だったわけですが、「女の子」の方は縄文時代のうちに、自主的に「土偶」と「蛙」に置き換えられてしまって。男の子の方は、扱いが悪くて、弥生に入るまで殺され続けたもの、と言われる気がするわけでー;。鹿は角が生えてるものだから、原則としては「男性」と言われる気がするわけでー;。どうしてそういう差が生まれるかというと、縄文時代の諏訪の住民は、「母系の熊信仰」の人々であったから、女の子を大切にしていて、殺すのを嫌がったから、と言われる気がするわけで。

大名家の先祖は、諏訪にやってきて、人身御供は禁止したけれども、祭祀の一部は自分達が引き受けて、縄文系の人々も納得できる形で祭祀を続けたし、自分達が「湖の神の化身」ともなったわけです。で、どうして、そうしたかといえば、「そうやって、征服した先の住民の信仰を取り込んで、自分達の都合の良いように混血習合させて支配する手法は、印欧語族の十八番でしょ。「イエス・キリストの後継者」なんて言ったって、やって来たことは蛇のまねごとでしょ。」って誰かが言う気がするわけですが@@。しかも、筒粥神事というのは、でかい釜で米を炊いて吉凶を占うものだから、鳴釜神事と同じで、人の首を煮て農耕の吉凶を占う祭祀だよね、と言われる気がするわけでー;。その人、ものすごい「毒舌太郎」なんじゃないの? そういうところが、私と良く似てるとか、そういうこと?? と思うわけで-;。でも、こういうことで、富の王家のおっちゃんも、大名家のおっちゃんも、7番目の兄さんを前にすると、「ぐうの音」が出なくなるらしくてー;。富の王家のおっちゃんは、何とかの帝国っていう変な本に、「自分とこの先祖はウミヘビ~」みたいに書かせたら、7番目の兄さんに「漁撈民のふりをしても、あんたんとこは牛肉でしょ。」と言われたらしくてー;。「牛の神様」じゃなくて、「牛肉」なのね。まあ、神様って要は「食べ物」のことなんですけどね、漁撈民の信仰ではね、と思うわけですが-;。でも、諏訪の庶民的な信仰の根源は、今でもお山の大姥様(熊)にあるんじゃないの? と思う。多少方便でも、地元の人の気持ちを大切にすることも、大事なことではないかなー、と、まあ、そういう人達もいるわけです。まあまあ、どちらもお手柔らかに、と思うわけですが-;。

本日の日誌

本日は、雨が降ったり止んだりしていたのですが、作業する時間帯は晴れていたので、お外組は効率よく作業ができて。私の方は、割と順調に進んで、ノルマ以上に、作業が進んだのでした。

で、夜にテレビを見ていたら、ものすごい大きな音量でカーステレオを鳴らしている車が家の横にしばらく停まっていて。親は、「そういう騒がしいのがいるときは、こちらの気を引くためで、そういうときは誰か敷地の中に入ってるとき。」と言っていたのですが。敵はまだ懲りてないなー、と思う。

そして、色々と血なまぐさい話を聞いたので、ご飯を食べていても、「この一粒一粒が、すでに死んだ誰かの「首」かー。」と思うと、微妙に嬉しくないわけですがー;。北欧神話には、蜂蜜酒がいくらでも出てくる釜、というものがあって。こういう「中身が尽きない釜」も、「人の頭=月」の化身なんだろうな、と思う。なぜ、中身が「尽きない」のかといえば、「月」の体は大地や海だから、そこからの産物は「果てが無い」ということなのだと思う。「釜」の原型は「土器」であって、「土器」は土から作られるから、それもやはり「人」なわけです。だから、豊穣の祭祀用に作られて、わざわざ壊されて埋められた「グンデストルップの大釜」も、「人の首=月」なのだと思う。それを壊してバラして埋めることで、万物の豊穣を願っているわけです。だから、変形が著しいけれども、「こすると何でも願いを叶えてくれる」という「アラジンと魔法のランプ」の「ランプ」も「人の首=月」だし、ランプの精って、「月の神」ということになる気がします。「豊穣をもたらす人の首」だから、持主を守護して、かつ豊穣をもたらしてくれるのだと思う。

で、7番目の兄さんには、「漁撈民の信仰では、地上で実るものは「男性」、地下で成熟するものは「女性」でした。でも、小麦の化身は、タンムーズのように男性のこともあるけれども、ペルセポネーのように女性のこともある。日本の「早乙女」も米の化身だけれども、女性である。これはどうしてだと思う?」と聞かれる気がするわけで。しかも、ヨーロッパの民間伝承では、小麦の収穫が終わった後には、畑に魔女がいる、と考えるところもある、と金枝篇にある。ペルセポネーは「若い女性」だけれども、「畑の魔女」は「老婆」である。その差もどこから来るのか? と言われる気がするわけで。

そもそも、本来の漁撈民の信仰では、犠牲に性差がなく、犠牲は初子(嬰児)でした。昔の人は、子供は育つかどうか分からないので、一定の年齢に育つまでは「人間ではない」と考えていました。成人式とかの成人儀礼は、「人間ではない」ものが、「一人前の人間になる儀式」でもあります。だから、犠牲に捧げられるものは、「人間ではないもの」であり、そこに漁撈民のモラル感がある、と言われる気がするわけで。「有機物も無機物も、みんな同じもの」と言いつつも、犠牲にするものは、あくまでも「人間ではない」というところに、「人間尊重」の意思があるわけです。で、植物の栽培が始まると、地面の上のものは「男性」とされるものになりました。そして、彼らの文化を受け継いで、「穀物の化身」というものは、3種類に分かれました。一つめは、古い時代の「魚の化身」の形を引き継いで、「犠牲に性差がないもの」、「地面の上のもの」という考えを受け継いで「男性」とするもの。そして、最後に、「穀物=女性」と、無理矢理その役割をねじ曲げているもの、です。こう定めたのは、女性差別の強い父系の文化の人達、と言われる気がするわけで。男の子が大切で、生け贄にしたくないから、その役割を女の子にだけ意図的に押しつけているのです。こうすると、犠牲はペルセポネーのような、成人前の幼い女の子になります。

中国の少数民族の伝承には、「天人女房」の伝承が多いのです。母系の伝統を今も受け継ぐモソ族を含む、ナシ族の伝承では、天女が親の反対を押し切り、人の男と結婚して、地上に降り、夫と共に苦労しながら財産や子孫を増やす、という話があります。夫婦で協力して、苦労しても頑張っていこう、という話です。その一方で、男系のイ族の伝承には、イ族の先祖は竹から生まれた子供で、それを育てたイ族の母は、子供達が独り立ちした後は、天に昇っていってしまった、という話があります。これは、要するに母親が、その役目を終えた後に、「死ぬ」ことを意味する、と言われる気がするわけで。イ族の子供達は、竹から生まれた、「竹の実」であって、実が一人前になると、親は枯死します。要するに、死んでその首が「月」になる、という奴です。この場合、死ぬのは「老婆」ということになる。男系のイ族は、血縁を父親中心に考えるので、異母兄弟で結婚できず、その延長として近親婚を嫌います。近親婚を嫌えば、余所から妻を求めるしかありませんが、余所から妻が来れば、妻の側の伝統や文化が入ってくるし、相続によって財産がそちらに流れる可能性もある。それを防ぐためには、「よそ者」の妻は、用が済んだら、「首」にしてしまえばいい、ということになります。竹をわざわざ植物のトーテムに選ぶのは、そういうこと、と言われる気がするわけで@@。こういう思想を受け継いだ男系の人々は、若い娘を犠牲にせずに、用のなくなった老婆を犠牲にすることにしました。「麦畑に老婆がいる」とは、そういうことです。この思想が男系の印欧語族に受け継がれて、悪名高い印欧語族の「寡婦殉死」という制度を生み出しました。寡婦は夫の供をして、死なねばならぬ、というものです。この思想は遊牧民にも受け入れ易いものだったので、印欧語族に受け入れられたのです。遊牧民には、元々、動けなくなった年寄りは、その場に捨てていく、という習慣があったのでした。老婆を犠牲にする形式は、デーメーテール型ともえいます。妻として母として役目を終えた彼女は死なねばならず、死と共に「冬」が訪れます。そして、このように、女性のみを差別して、女性に犠牲を強いる思想が、男系の民族の農耕と共に、各地に伝播し、現在の男系文化の隆盛を生んでいるのです。でも、本来の漁労民の信仰を、漁労民でないものが、ねじ曲げて、弱い立場の女性にのみ、犠牲を強いることが当たり前にしてしまったことが、現在の世界のゆがみと狂気も生み出しているのです。そこには、元の漁労民の中にはあった、「人間を尊重する」という思想がもはやなく、「男だけが人間である」というような歪んだ思想しかないからです。

古代ギリシャでは、このように老婆が犠牲になる思想と、若い娘が犠牲になる思想が再集合して、デーメーテールとペルセポネーは「同じものである」ということになりました。元を辿れば、そういうことです。でも、彼らは、彼らの「豊穣の祭祀」は「エレウーシスの秘儀」と述べて、他にはひた隠しにしていました。彼らはいったいそこで何をしていたのでしょう? エレウーシスの民間伝承では、デーメーテール女神が、赤ん坊の王子を焼き殺して、不死にしようとする、という話がある。要するに、幼い男の赤ん坊を犠牲に捧げる、という思想がそこにあります。地中海周辺地域は、性差によらず初子を焼き殺す祭祀が盛んでしたから、これは本来の形に近い祭祀といえます。ギリシャ人は、本来は「寡婦殉死」の制度を持つ印欧語族のはずでしたが、地中海に進出して、そこの起源的な習俗を持つ人々と混血、習合して、再び元と同じような豊穣の祭祀に戻ってしまったのだと考えられます。そのことを、周囲の印欧語族に知られたくないから、「秘儀」としてこそこそやっていたのです。だから、こうやって、世界各地の人々の、「豊穣の祭祀」の歴史や形態を調べれば、その人達が元々はどこの誰であって、誰と混血している人達なのかって、すぐに分かってしまうものなんですよ、と言われる気がするわけで@@。

要するに、農耕に関する「人食いの月の神」は、伝播するに従って、時には意図的に、男性であったり、女性であったりする方向に枝分かれしていったから、彼らの祭祀を調べれば、どこでどんな風に枝分かれしていったのか一目瞭然だし、お里もばれる、ということで。それぞれの長所と短所もそれでばれる。だから、彼らの弱みや弱点を握って、支配することなど簡単なこと、と言われる気がするわけで@@。そうやって、人の弱みを見つけたり、時には作り出して、「支配すること」だけに何千年も腐心してきた「家系」があるらしくて。そういう人を人とも思わない状態を是正していかなければならないわけですが。でも、元の素朴な人食い人種に戻ることはできない。蛙の王家の作り出した階級制度に依って生きる人々と、階級制度の解消を求める人々とでは、利害が異なる、ということで。階級制度に依って生きる人々の代表格が、最古参の印欧語族である富の王家と7番目の兄さん、階級制度の解消を求める人々の代表格が大名家とイエス・キリストである、ということらしくて。その2つの利害は対立する。でも、蛙の王家に対抗するためには協力し合う必要がある、ということらしくて。とっつーには、「何でも覚えている7番目の兄さん、何も覚えていない太陽女神、でも2人は良く似ているから、お互いの足りないところを補い合うことがきっとできますよ。」と言って貰える気がするわけで。さあ、私のことは買いかぶっていすぎるかも? と思う。でも、戸塚君いい人だー、と思う。裁判官が誘導する方向には、できるだけ食いついて行きたいと思っているわけですがー;。「日記」の整理がとにかく、大変、ってそれだけです。まあ、うまくいってもいかなくても、できることは頑張ってみようと思います-;。

で、6月22日は伊野尾君、25日は太ちゃん、28日は紀香姉さんのお誕生日だったのでした。まとめてでごめんなさい。お誕生日、おめでとうございます<(_ _)>。

本日の日誌

本日は、雨が降ったり止んだりしていたのですが、作業する時間帯は晴れていたので、お外組は効率よく作業ができて。私の方は、割と順調に進んで、ノルマ以上に、作業が進んだのでした。

で、夜にテレビを見ていたら、ものすごい大きな音量でカーステレオを鳴らしている車が家の横にしばらく停まっていて。親は、「そういう騒がしいのがいるときは、こちらの気を引くためで、そういうときは誰か敷地の中に入ってるとき。」と言っていたのですが。敵はまだ懲りてないなー、と思う。

そして、色々と血なまぐさい話を聞いたので、ご飯を食べていても、「この一粒一粒が、すでに死んだ誰かの「首」かー。」と思うと、微妙に嬉しくないわけですがー;。北欧神話には、蜂蜜酒がいくらでも出てくる釜、というものがあって。こういう「中身が尽きない釜」も、「人の頭=月」の化身なんだろうな、と思う。なぜ、中身が「尽きない」のかといえば、「月」の体は大地や海だから、そこからの産物は「果てが無い」ということなのだと思う。「釜」の原型は「土器」であって、「土器」は土から作られるから、それもやはり「人」なわけです。だから、豊穣の祭祀用に作られて、わざわざ壊されて埋められた「グンデストルップの大釜」も、「人の首=月」なのだと思う。それを壊してバラして埋めることで、万物の豊穣を願っているわけです。だから、変形が著しいけれども、「こすると何でも願いを叶えてくれる」という「アラジンと魔法のランプ」の「ランプ」も「人の首=月」だし、ランプの精って、「月の神」ということになる気がします。「豊穣をもたらす人の首」だから、持主を守護して、かつ豊穣をもたらしてくれるのだと思う。

で、7番目の兄さんには、「漁撈民の信仰では、地上で実るものは「男性」、地下で成熟するものは「女性」でした。でも、小麦の化身は、タンムーズのように男性のこともあるけれども、ペルセポネーのように女性のこともある。日本の「早乙女」も米の化身だけれども、女性である。これはどうしてだと思う?」と聞かれる気がするわけで。しかも、ヨーロッパの民間伝承では、小麦の収穫が終わった後には、畑に魔女がいる、と考えるところもある、と金枝篇にある。ペルセポネーは「若い女性」だけれども、「畑の魔女」は「老婆」である。その差もどこから来るのか? と言われる気がするわけで。

そもそも、本来の漁撈民の信仰では、犠牲に性差がなく、犠牲は初子(嬰児)でした。昔の人は、子供は育つかどうか分からないので、一定の年齢に育つまでは「人間ではない」と考えていました。成人式とかの成人儀礼は、「人間ではない」ものが、「一人前の人間になる儀式」でもあります。だから、犠牲に捧げられるものは、「人間ではないもの」であり、そこに漁撈民のモラル感がある、と言われる気がするわけで。「有機物も無機物も、みんな同じもの」と言いつつも、犠牲にするものは、あくまでも「人間ではない」というところに、「人間尊重」の意思があるわけです。で、植物の栽培が始まると、地面の上のものは「男性」とされるものになりました。そして、彼らの文化を受け継いで、「穀物の化身」というものは、3種類に分かれました。一つめは、古い時代の「魚の化身」の形を引き継いで、「犠牲に性差がないもの」、「地面の上のもの」という考えを受け継いで「男性」とするもの。そして、最後に、「穀物=女性」と、無理矢理その役割をねじ曲げているもの、です。こう定めたのは、女性差別の強い父系の文化の人達、と言われる気がするわけで。男の子が大切で、生け贄にしたくないから、その役割を女の子にだけ意図的に押しつけているのです。こうすると、犠牲はペルセポネーのような、成人前の幼い女の子になります。

中国の少数民族の伝承には、「天人女房」の伝承が多いのです。母系の伝統を今も受け継ぐモソ族を含む、ナシ族の伝承では、天女が親の反対を押し切り、人の男と結婚して、地上に降り、夫と共に苦労しながら財産や子孫を増やす、という話があります。夫婦で協力して、苦労しても頑張っていこう、という話です。その一方で、男系のイ族の伝承には、イ族の先祖は竹から生まれた子供で、それを育てたイ族の母は、子供達が独り立ちした後は、天に昇っていってしまった、という話があります。これは、要するに母親が、その役目を終えた後に、「死ぬ」ことを意味する、と言われる気がするわけで。イ族の子供達は、竹から生まれた、「竹の実」であって、実が一人前になると、親は枯死します。要するに、死んでその首が「月」になる、という奴です。この場合、死ぬのは「老婆」ということになる。男系のイ族は、血縁を父親中心に考えるので、異母兄弟で結婚できず、その延長として近親婚を嫌います。近親婚を嫌えば、余所から妻を求めるしかありませんが、余所から妻が来れば、妻の側の伝統や文化が入ってくるし、相続によって財産がそちらに流れる可能性もある。それを防ぐためには、「よそ者」の妻は、用が済んだら、「首」にしてしまえばいい、ということになります。竹をわざわざ植物のトーテムに選ぶのは、そういうこと、と言われる気がするわけで@@。こういう思想を受け継いだ男系の人々は、若い娘を犠牲にせずに、用のなくなった老婆を犠牲にすることにしました。「麦畑に老婆がいる」とは、そういうことです。この思想が男系の印欧語族に受け継がれて、悪名高い印欧語族の「寡婦殉死」という制度を生み出しました。寡婦は夫の供をして、死なねばならぬ、というものです。この思想は遊牧民にも受け入れ易いものだったので、印欧語族に受け入れられたのです。遊牧民には、元々、動けなくなった年寄りは、その場に捨てていく、という習慣があったのでした。老婆を犠牲にする形式は、デーメーテール型ともえいます。妻として母として役目を終えた彼女は死なねばならず、死と共に「冬」が訪れます。そして、このように、女性のみを差別して、女性に犠牲を強いる思想が、男系の民族の農耕と共に、各地に伝播し、現在の男系文化の隆盛を生んでいるのです。でも、本来の漁労民の信仰を、漁労民でないものが、ねじ曲げて、弱い立場の女性にのみ、犠牲を強いることが当たり前にしてしまったことが、現在の世界のゆがみと狂気も生み出しているのです。そこには、元の漁労民の中にはあった、「人間を尊重する」という思想がもはやなく、「男だけが人間である」というような歪んだ思想しかないからです。

古代ギリシャでは、このように老婆が犠牲になる思想と、若い娘が犠牲になる思想が再集合して、デーメーテールとペルセポネーは「同じものである」ということになりました。元を辿れば、そういうことです。でも、彼らは、彼らの「豊穣の祭祀」は「エレウーシスの秘儀」と述べて、他にはひた隠しにしていました。彼らはいったいそこで何をしていたのでしょう? エレウーシスの民間伝承では、デーメーテール女神が、赤ん坊の王子を焼き殺して、不死にしようとする、という話がある。要するに、幼い男の赤ん坊を犠牲に捧げる、という思想がそこにあります。地中海周辺地域は、性差によらず初子を焼き殺す祭祀が盛んでしたから、これは本来の形に近い祭祀といえます。ギリシャ人は、本来は「寡婦殉死」の制度を持つ印欧語族のはずでしたが、地中海に進出して、そこの起源的な習俗を持つ人々と混血、習合して、再び元と同じような豊穣の祭祀に戻ってしまったのだと考えられます。そのことを、周囲の印欧語族に知られたくないから、「秘儀」としてこそこそやっていたのです。だから、こうやって、世界各地の人々の、「豊穣の祭祀」の歴史や形態を調べれば、その人達が元々はどこの誰であって、誰と混血している人達なのかって、すぐに分かってしまうものなんですよ、と言われる気がするわけで@@。

要するに、農耕に関する「人食いの月の神」は、伝播するに従って、時には意図的に、男性であったり、女性であったりする方向に枝分かれしていったから、彼らの祭祀を調べれば、どこでどんな風に枝分かれしていったのか一目瞭然だし、お里もばれる、ということで。それぞれの長所と短所もそれでばれる。だから、彼らの弱みや弱点を握って、支配することなど簡単なこと、と言われる気がするわけで@@。そうやって、人の弱みを見つけたり、時には作り出して、「支配すること」だけに何千年も腐心してきた「家系」があるらしくて。そういう人を人とも思わない状態を是正していかなければならないわけですが。でも、元の素朴な人食い人種に戻ることはできない。蛙の王家の作り出した階級制度に依って生きる人々と、階級制度の解消を求める人々とでは、利害が異なる、ということで。階級制度に依って生きる人々の代表格が、最古参の印欧語族である富の王家と7番目の兄さん、階級制度の解消を求める人々の代表格が大名家とイエス・キリストである、ということらしくて。その2つの利害は対立する。でも、蛙の王家に対抗するためには協力し合う必要がある、ということらしくて。とっつーには、「何でも覚えている7番目の兄さん、何も覚えていない太陽女神、でも2人は良く似ているから、お互いの足りないところを補い合うことがきっとできますよ。」と言って貰える気がするわけで。さあ、私のことは買いかぶっていすぎるかも? と思う。でも、戸塚君いい人だー、と思う。裁判官が誘導する方向には、できるだけ食いついて行きたいと思っているわけですがー;。「日記」の整理がとにかく、大変、ってそれだけです。まあ、うまくいってもいかなくても、できることは頑張ってみようと思います-;。

で、6月22日は伊野尾君、25日は太ちゃん、28日は紀香姉さんのお誕生日だったのでした。まとめてでごめんなさい。お誕生日、おめでとうございます<(_ _)>。

本日の日誌

本日は、夕方ぐらいから雨が降ったので、お外組はそれまで仕事をして。夕方は書類の整理とかをちょっとして。私の方は、なんとかノルマをこなしたのでした。

で、朝から「漁撈民の信仰を知りたければ、パプア・ニューギニアの民話を読むように。」と言われて、斜め読みしてみたわけで。パプア・ニューギニアはオーストラリアの北、インドネシアの東にある島々だから、地理的には台湾、沖縄にまあ、近いのかな? と思う。で、読んで見たら、

ココヤシの実は、男の人の首で、食べると、食べた人の胃袋の中で予言をする、ってあった@@。

それから、女の人がバラバラにされて、その首を芋と一緒に蒸したら、予言をした、ってあった@@。

それで、7番目の兄さんに、「鳴釜神事の原型がどこにあるのか、それで分かったでしょ?」と言われる気がするわけで。食べたものが、体内で予言をするのは、ギリシャ神話で、ゼウスが妻であるメーティスを食べたら、メーティスがゼウスの体内で予言を始めた、というのと同じ話、蒸した首が予言をするのは、鳴釜神事と同じ話、と言われるわけで。要するに、それは芋や木の実を食べたら、そうなるって話でもありますよねえ? なんで、芋を食べたら、芋が予言をしてくれるのですかね? と思う。

そうしたら、漁撈民の神話では、海水が女神で、淡水が男神なので。魚も地面も、そこから生えるものも、全ては淡水と海水の交わりから生まれたものである。だから、女神は海の女神であり、男神は雨水をもたらす天の神、あるいは川の神、ということになる。植物に例えると、地面の上に生えるものは、ペニスに相当するから男性である。一方、芋類は地面の中で育つものなので、地面そのものも含めて、体内で子供を育てるもの、ということで女性に相当する。地面そのものは男性も女性も生み出すし、男も女も死ねば土に帰るので、両性具有である。魚は本来的には、両性具有であったはず。貝はちょっと特殊であって、女性器に似た貝は女性であり、そうでないものは男性で現された、と言われる気がするわけで@@。

でも、乙姫様って、そもそも蛇じゃなくて、亀なんじゃないの? と思う。そうしたら、「古代中国に玄武っているでしょ。玄武は、亀と蛇が交わっている神です。要するに、古代の人々は亀と蛇の区別がついていなくて、三日月の時は蛇であり、満月の時は亀であり、両方とも同じものだと考えていたから、それが玄武です。」と言われる気がするわけで@@。漁撈民は、漁の結果で食事事情が左右されるので、広範囲で狩りと採集を行う大陸の狩猟民よりも、食料の供給が不安定でした。だから、世界最古の「農耕」とか「栽培」というものは漁撈民が始めたものなわけです。で、彼らは植物は男性、芋は女性、収穫物(実)は「人の首」だと考えていました。木は実を落としても死なない。だから、人も首を切っても死なない、と考えていました。そして、「月」とは、大地から切り離された「首」だと考えていました。月は、大地に隠れたり昇ったりしますが、大地から切り離されても死なない。欠けても、また満ちてくる神秘の存在です。しかも、魚の繁殖とは大いに関係のある存在であるので、人々は魚の運命も、それを食べる人々の運命も「月は知っている」と考えていました。人々は、大地から育つ、植物の「首」を食べるわけですが、植物の親である「大地の首」が「月」なわけですから、子供である「植物の首」である「収穫物」は、親と同じもの、すなわち「月」でもある、ということになります。植物そのものは、大地でもあり、「月の体」でもあるのです。そうすると、人間も同じ事で、「体=大地」、「首=月」ということになります。切り落とした人の首が予言を吐く、というのは、「切り落とされた首」=「月そのもの」ということで、切り落とされて、純粋な首になることで、生首は人々の運命を知る存在となる、と考えられていたからです。それが、生物として生きているのか、死んでいるのか、生なのか、火が入っているのか、ということはどうもいいわけです。と言われる気がするわけで@@。

で、栽培ということを始めたのが、漁撈民であったので、彼らの信じる「生首(収穫物)を食べる信仰」は、農業の伝播と共に、世界中に広まりました。「農耕」ということは、それだけ食料の供給を安定化させる大きな技術革新でしたが、おかげで、人類は農耕の開始と共に、全てが「人の生首を食らう月」となる呪いをかけられてしまいました。だって、麦粒も米粒も、みんな「人の生首」なわけだし。人が麦や米を食べる限り、人は麦や米と同じものなのです。どうしようもありません。こういう農耕民の思想に、あまり染まらなかったのが、牧畜を選んだ人達でした。彼らも、「人は食べるものと同じもの」と考えてはいましたが、家畜の乳とか肉を重要視しますし、そもそも本来の遊牧民は、家畜の数を減らすのが嫌なので、あんまり家畜を殺したりもしません。だから、「生首を食べる」という思想に固執する理由が牧畜民にはありませんでした。だから、非常に早い段階から、農耕民の信仰は迷信だと思って、あんまり重要視していませんでした。

牧畜を行う遊牧民は、次第に農耕地帯に侵入して、略奪や定住を行うようになり、その結果として、階級社会も形成しますが、一方で農耕民と混血習合するようになります。そうすると、農耕民の「迷信」を解消しようとするような社会的な動きも起きますが、その一方で、遊牧民も農耕民の文化の影響を受けるようになります。要するに、「農耕儀礼」であったはずの「初子の犠牲」が、家畜の豊穣の儀礼にまで拡大されたりするようになる。そして、農耕民の間では、豊穣の祭祀であったはずの、人頭食が、それを迷信だと思っている支配者の間では、単なる「常食」として広まったりする。これは、それを聖なる儀式と考えている人々から見れば、まさに神と人に対する冒涜、ということになります。

農耕民の間では、人頭は、食べると太祖である月と同じものとなって、食べた者に予言をもたらしてくれる存在とされます。支配者達は、その考えを利用して、被支配者の頭を食べては、「自分が神の予言を受ける存在だから、自分が受けた予言の言うとおりにしろ」と言いました。実際に、予言なんて受けても受けなくても、そう言えば被支配者は「その通り」だと思って、おとなしく言うことをきくのだから、なんでも非常にやりやすくなります。おかげで、この「支配者」の子孫達は、支配する相手の考えを読んでは、「おまえの考えている通りにしたんだから、言うことを聞け。」と言うようになったし、それで足りなければ、集団で、「世の中というものはこういうものだ。」と洗脳して、「こういうものなんだから、言うことを聞け。」と言うようにもなりました。まあ、例えば、「水道工事は施主が申請するものなんだから、工事を完了させないのは施主が悪い」とか、そういう妙なことを言うわけです。工事をやんない業者が悪いんですよ? 業者に損害賠償を請求して何が悪いのか? で、足りなければ、「監督官庁の監督不足で行政訴訟を起こされたいですか?」という感じの本をいくつか目に付くところに置いておく必要がある、でなければ何を勝手に言うのか知れたものではない、ということでー;。

ということで、「穀物を食べる」ということは、「生首を食べること」と同じ事ではない。他人の生首を、生首は食べ物である、という理由で勝手に食べちゃ駄目、という動きは、政治的、法律的、宗教的に、様々に試みられてきたわけですが、なにせ「一番上」にいるのが、人の首も、猿の首も「自分の食べ物」だと思ってる連中だからタチが悪い、ということで。だから、2000年前であったなら、イエス・キリストに「何故、自分は残酷な羊飼いでなければならないのか。良き羊飼いであってはならないのか?」と聞かれたら、「羊の首は、単なる食物であるので、首刈りの役を命令された者が、それを厭おうと厭うまいとその役目は果たさなければならない。それが、人類が農耕を始めた時に、定められた「首」の運命だから。」と答えた、と7番目の兄さんは言うわけで。でも、イエス・キリストはその答えを知ることなく、「人とは全て、個々の人として公平であり、平等である」という運動を始めてしまった。その考えはローマに利用されもしたけれども、多くの賛同者もいる、ということで。そして、昔の人は、「生まれ変わり」とは、「単なる若返り」と考えていたので、イエス・キリストが生まれ変わった先で、「政治とはあらゆる人々の言葉に耳を傾けて行うべき」という考えで統治を行う女王となり、その女王の政治的な後継者が大名家である、とうことは、もはや世界中の人々が注目するところ、ということで。蛙の目の人々は、自らの遠祖である、黄帝や羌子牙を神のように崇めている。でも、大名家が同じように信奉しているのは、「若返ったイエス・キリスト」であるところの女王であるということで。大名家が、彼らの神と崇めているのは、富の王家の神ではなく、彼らの遠祖といえる女王である。それを、イエス・キリスト自身とみなすのか、別の人物であるとみなすのかは別として、大名家は長い間、彼らの神の信念を受け継いでやってきたわけで。だから、大名家が、富の王家の神である大国主を捨てて、彼らの「女王とその形式的な夫」を選ぶと言うことは、事実上の富の王家からの独立、謀反ということ、と言われる気がするわけでー;。

だから、無理矢理私にも「大国主」の名前が回ってきてるのでしょう? 大名家の「女王」と「大国主」が同じものであれば、双方は対立しようがないから。それに、富の王家が定めた「夫」と私が、結婚すれば、もはや「一族郎党」といえないほど、大名家と富の王家の仲が離れていたとしても、新たな「同盟関係」を結んだことになるわけだし?? と思う。でも、こういう話を7番目の兄さんとしていると、富の王家のおっちゃんも大名家のおっちゃんも、「そういう話には自分達は、余計な首を突っ込みたくないから、二人だけでやって。」と言う気がするわけでー;。要するに、今なら分かるけれども、「大国主」というのは、「黄帝」のことであるので。「黄帝」というのは、中国の王朝の「英雄先祖」といえる存在であるので、モデルになった実在の人物がいるはず。だから、「黄帝」の名前を貰うべき人は、もちろんそのご当人ということになる。その人が、今「生きて」いればだけれども。だから、他の人がその名前を貰いたいと思えば、元の持ち主と争うことになうし、その名前の持ってる「権力」を争うことにもなる。そして、その名前は蛙の王家の「最上位」に位置する名前だから、身分の低い富の王家の人々が、その取り分に口出しするような問題では、そもそもないし、下手に口を出すと後が怖い、ということらしくて。でも、7番目の兄さんは、「今の自分の身分からいえば、その名前だけ貰っても、意味がないことになりかねない。人がその才能だけで評価されるべき存在なら、自分の首を絞めかねない名前なんて必要はない。」と言う気がするわけで。なんというか、イエス・キリストが何故、女の子に生まれ変わりたかったのか、といえば、「神を生み出す目」を持つ太母になって、自らが「黄帝」になりたかったのかも、と思う。そうすれば、神に問うても答えて貰えなかった疑問に、自らが神になることで自分で答えを出せるでしょ? と思う。そうしたら、7番目の兄さんに「あなたは、そのくらいのことをやりそうな性格だよね。」と言われる気がするわけで。大国主の名前も、黄帝の名前も、兄さんと平和的に折半でよろしいのではないのですかねえ? 兄さんが、それで良いのであれば、と言うしかない。まあ、兄さんは「自分で言い出したことなのだから、嫌とは言わんでしょ。」と言う気がするわけですが。

でも、最近ちょっとずつ、福山君のドラマを見ているわけですが。要するに、そこそこ中堅の平に近い銀行員が、銀行の最上層部に位置する人々の腐敗・不正と戦う、というお話ですよねえ? と思う。普通は、トップの人達の腐敗や不正に、一介の平社員が挑むなんて無理な話なわけですが。これは、要するに、蛙の王家の腐敗と不正に挑むのは、諏訪神と大名家である、というアプローチなのですかねえ? と思う。幸運の女神が片岡氏に微笑めば良いと思う。でも、幸運の女神の方は、毎日自分の日記、日記、日記って、ノルマに追われる日々なわけなのですがー;。