おまけ

そして、だいたい盛夏(7月か8月)の行われる、現在の日本の七夕は、それそのものが「死せる太母」である白い百合の女神の「白いシリウス」の呪いの祭祀へと変貌させられている、って言われるわけで。でも、多くの人達は、真に「シリウス」の力を持ち「赤毛のアン」と呼ばれるイシスの名を持っていたのは、母親ではなくて、妻である「マグダラのマリア」の方、って言うような気がするわけで。聖母マリアをイシス女神に例えることこそが、嘘つきとすり替えの始まり、ということのようなのですが。要するに、そっちが間違っているから、そっちを選んではいけない、ということのようで。どちらも一応「ご先祖サマ」なんじゃないの? それ? と思うわけですが、そこのところを間違えてはいけない、ということのようです。

本日の日誌

どこから書くべき? ということが毎日続くわけですが、1週間くらい前に蛙さん達が、蛇の兄さんと6番目の子と7番目の子に無断で私の力を試すようなことをした、ということで、蛇の人達はけっこうお怒りだったわけで。で、人の「気」というのは、その人の死後もけっこう残るもので、力の強い人の気だと、まるで当人がまだ生きているかのようにふるまうこともあるんだよ、って言われるわけで。だから、事故とかいわゆる「非業の死」と言われるような死に方をした人は、よくない気を残して、周辺の人々に悪夢を見せたりするので、そういうのを「穢れ」っていう、ということのようで。だから、亡くなった人のものを整理したり、形見として一部を残しておいたりするのは、そういう気を「自分を守る気」に変えて使ってるんだよ、って言われるわけで。で、人は動物でも植物でも生きているものを食べて生きているので、誰でも自分が生きていける程度には「穢れ」を払う力を持っているのだけれども、戦争とかで一度に大勢の人が亡くなったりすると、土地神でも払いきれないような穢れが残ってしまうし、そうすると人々は地縁とか血縁で固まって、互いに気を使いあって悪夢を見ないようにして、息を潜めるようにして生きていくしかなくなる、って言われるわけで。で、要するに神サマっていうのは、そういう穢れを払う力が強い人のことを言う、って言われるような気がするわけです。で、特にデーヴァの人達は穢れに強くて、そういうものを操る力にも優れているので、そういうものを使って力の弱い人達を押さえつけることに長けている、ということのようで。

で、月曜日に「NEWS ZERO」を見ていたら、戦争に関するプロパガンダ的な思想に私が巻き込まれてはいけない、ということで守護についている7番目の子が4番目の子のお父さんを召喚した、ということで、なんだか二人でいろいろと言ってくるわけで@@。動揺して「人が仕事してる最中に出てくるんじゃねえ」って言っている人がいた気がするわけですが。そういう口のきき方も始めて聞いた、って思ったわけで、プロパガンダも何も無いという感じであったわけですが。

で、次の日の朝目が覚めたら、私の分身の「蛙の子」が、「うわー、蟹が一杯いるよ。」って言うわけで。何事? と思うのですが、蛙の子の周りに蟹がたくさんいるわけで。で、「蟹」というのは死んだ人の魂なんだよ、って言われるわけで。そして、7番目の子が蛙の子に蟹の足を食べさせて、蟹味噌を食べさせているわけで。で、そうしたら蛙の子は、残った蟹を折り紙に変えて、鶴を折って空に放しているわけで、そうすると鶴は空高く飛んで行って消えてしまうわけで。で、鶴を折り終わったら、「気が余った」って言って蛙の子が大きいお餅を吐き出しているわけで。で、そうやって穢れを食べて、無害な力に変えて放出してしまうことを「浄化」、他の人でも使える力に変えることを「昇華」って言うんだよ、って言われるわけですが@@。どうやら、私は元々そういう力を持っているらしいのですが、自分で自分の力を意識して使えないので、無意識に勝手に気を使っていたのでは効率が悪すぎる、って言われるわけで。気が使えなくても、自分が今何をやっているのか、ということぐらい分かることができるようになっていた方がいい、ということのようで。で、昨夜パプア・ニューギニアと結縁したので、現地の人がもてあましているような穢れを送り込んで来られたね? って言われるわけで@@。こんなこと始めて、というか4番目の子も、こういうことになるとは思っていなかった、って言う気がするわけで。でも、こうやって穢れを払うことこそが、「終わり」の名前を持つ太母のお仕事、ということで、結局そうやってそこに吹き溜まっている「死の穢れ」を払える限り払わないと、戦争って言うのは終わったことにならないんですよねえ? と思うわけで。

で、昨日は「いのちのうた」を見て、「教科書で学べない戦争」を見たわけですが。「いのちのうた」では、ふいに「やっぱりかわいいね」って言われたりした気がするわけで。でも、稲佐山公園とかが映ると、きゃーきゃー言って、「今その名前を見るとトラウマになりそう」って言う人もいる気がするわけでーー;。ともかく、相手が私一人なら「静かに見ててね」って言っておけば良いけれども、下手なことをしたら7番目の子になんて突っ込まれるやら、って言われるわけで。いろんな経過から見るに、彼はけっこうな毒舌家ですよねえ? と思うわけで。「お仕事」の最中に横槍を入れられるようなことをされるのが嫌なのは、4番目の子だけではない、ということのようで。で、「いのちのうた」の最後の方で、歌を聴いていたら蛙の子の髪が伸びる気がするわけで。7番目の子が「自分で喰えるだけの穢れを喰って、直接送り込んで来てるね。」って言われるわけで。そういうことができるんだ? というか、こういうことは生放送を見ていて始めてな気がするのですけれども、と思うわけで。で、蛙の子も、7番目の子が送り込んで来る気は「食べやすくておいしい」って言っているわけで@@。7番目の子は、もしかしたら関係者の中で「気」の相性が一番いいのは自分かも、って言って喜んでいた気がするわけです。で、最後に某社長さんが降臨して、「これでYOUにも、なんで彼が一番お勧めの夫なのか分かったでしょ。」って言われるわけで。7番目の子は、「自分は誰かと違って、仕事中に保護者が降臨しても動揺しない。」ってトドメを指すようなことを言っていた気がするのですが@@。でも、4番目の子と、蛇の兄さんを黙らせちゃうだけの力を持っているというのはすごいことなのでは、と思うわけで。

で、「教科書で学べない戦争」の方は、なんというか全体は軽めな感じで、最後まで無理なく見られる構成にはなっていたと思うのですが、なんというか「のどごしは軽く、後味は悪く」っていうそういう感じであって。しかも、流れている過去の映像に映っているのは、ほぼ全員死んでいる人達だし、普通の死に方をしている人達ではないし、「穢れ」もてんこ盛りということで。番組が終わって、部屋に戻ると、蛇の兄さんから「ああいうものを見ると本気で人格が変わっちゃうでしょ。」って言われるわけで。本当にねえ、まさに「怒れる軍神」としての私はああいう時に目を覚ます、ということで、ごくごく冷酷非道な思考回路になってしまうわけですが。ともかく、「気の乱れを直す必要があるから、自分の動画を見るように。」って言われてしばらく見ていたわけで。いろいろと心配はされているんだな、と思ったわけですが。

だいたい、自分よりも力の強い「上」の命令に逆らって、言うこと聞くしかないし、ある意味「人を合法的に殺してこい」みたいなこと言われたとしても、誰も逆らえないのは現代社会もご同様なんだけど? って思うわけで。「上の者の言うことだから仕方がなかった」って、あなたはアウシュビッツ収容所の所長のヘスですか? ってなってしまうので、それを言うのは無責任に過ぎるでしょ、とそういう言葉しか出て来ない。どんな時代でも、人はそう生きるしかないのだから、そんな中で人としてどう生きるのか、そしてどう生きたのか、一人一人が個人でできる限りの範囲で、たとえそれがどんなささいな事であっても、何をしてきたのか、と。当代のユースティティアの大法廷では、「それ」しか問題にしない、ってそういう点で、ものすごく私は冷酷なんだあ、って思うわけで。別に教育のせい、とかそういうこと全くないわけですよ。何もかもが「教育」だけのせいで、戦後の教育がそんなに良いものであったとするのであれば、私が職場や裁判所であったような目にあう「はず」は無いので。祖父は、自分の小さな娘が修身の時間に「神サマは耳や目から生まれた」って教わってきたって聞いて、「そんなことはない」って笑ったそうだけれども、そう言って、例え学校や社会で何をどう教わっても「あり得ないことはあり得ないこと」なのだと自分で考えて分かる人間にならなきゃいけない、って彼が持っている力で、彼なりに教えてくれていた気がするわけですが。それが彼にできる精一杯であっても、代が下れば強い敵の力の前になし崩しにされてしまうほどの強さしかもたないものであったとしても、そういうことこそがちゃんと子々孫々まで伝えていかなければならないこと、なのではないの? と思うわけで。

で、ともかく「日付を調べて見るように」と言われるわけで。確か、番組中では真珠湾攻撃のあった12月8日と、終戦の日の8月15日が出て来ていましたよねえ? と思うわけで。で、調べて見ましたら、12月8日というのは、カトリック教会が聖母マリアの「無原罪のお宿り」を正式な教義とした日。8月15日というのは、「聖母の被昇天」の祝日、ということで。しかも、盧溝橋事件とサイパン島の玉砕は7月7日であって、七夕の日ですよねえ、それ? って思うわけで。七夕というのは、かつては織り姫星に関わる祭祀の日であったと思われるわけですが、現在では竹の木にくす玉を吊したりして、クリスマス・ツリー? っていうような様相を示していますのでね、って病院の入り口でそういうものを見かけて苦笑いするような目にあったばかりであるものですから。しかも、現在ではお盆の行事の一環ということで、「薬師の神サマの頭を捧げて、使者を呼び戻そう」っていう祭祀だよねえ、それ? というか、病院って「いい所」だよねえ、って改めて思ったわけでーー;。そして、そういう穢れた呪いをぶつけられると、やっぱり髪が伸びてしまう蛙の子がいる気がするわけで。

ともかく、始まった日は、「聖母マリアこそが唯一絶対の無垢な処女神として生まれた存在」とされる日であって、終わった日は「聖母マリアが生きたまま昇天した」とされる日であって。太平洋戦争とは、白百合に象徴される「死せる太母」に数多の穢れた犠牲を捧げる祭祀であったのだ、と。それを知って欲しくて、ああいう阿呆な事に4番目の子は頑張って関わったんだね? って思うわけですが。ともかく、蟹の件については割と誰にとっても「想定外」ということで。蛇の兄さんも「遺骨を掘り返したりして、その場の気を動かしたから、取り憑かれてきたね?」って言っていた気がするわけで。7番目の子は、「いくら『その目を信じている』って言っても、最終的に自分一人の力で始末できないようなモノを持ち込んで来たら、『力が弱い』って言われても仕方がないでしょうが。」って説教してた気がするのですが@@。

蛇の兄さんは、現段階ではともかく、私の手に余るような穢れが押し込まれてきて、私自身が悪夢を見ることをものすごく心配しているような気がするわけで。けっこうそういうモノを「喰う」作業は、自分でもとても疲れる気がするわけです。でも、やがていずれは長崎からも広島からも、その目の力を求めて召喚がかかるだろう、って7番目の子からは言われるわけで。しかも、アウシュビッツの資料を調べていたら、現在の関係者の写真も掲載されていて、そこから「あの目はいずれここへ来て、せっかくため込んでおいた穢れを払ってしまうだろう。」って言われるわけで@@。別に、旅費とか、旅行の手続きとか、そういうものを全て負担してくれて、かつ守ってくれる人がいればどこへでも行きますけれども? とは思うわけですが。でも、広島と長崎の一番恐ろしくて特殊な点は、爆心地に自分が死んだことが分かっていない人達の気が多数強固に残されていること、って言われるわけで@@。しかも、アウシュビッツに関しては、トラキアのお使者から、ポーランドは西欧と東欧の境にある重要な交通の要所なのに、穢れが強くて迷惑至極、って言われるわけで。そして、ともかく死者の数が穢れの強さに比例する、ということで、「死者の数だけ調べておくように」って言われたわけですが。だいたい、私的な大雑把な把握で、広島が20万人強、長崎が10万人弱、アウシュビッツが400万ってことで良い? と思うわけで。トラキアのお使者からは、「その数字を甘く見ないように」って言われるわけですが、そもそもそんな上野公園ですらあんまり行きたいとは思わない私なのに? と思うわけで;。出てこれるようになったら、その辺りの気から喰ってく練習をするしかないねえ、って言われるわけですが。しかし、ともかく誰かさんは「自分も一人の人間なんで。アウシュビッツからの召喚がかかってるって言われても、今は30日のことで頭がいっぱいで戦々恐々としてるんだけど。」って言われるわけで。とりあえず、当面は対外的なことは6番目の子が、内側の守りは7番目の子が受け持つ、ということでいろいろな状況が固まりつつあるようなのですが。蛇の兄さんもまだまだ「再生」の途中で全力を使えるような状態でもない、ということで。そうなっているようです。

無原罪の御宿り

今日もいろいろなことがあった上に、もう遅いのであありたくさんは書きたくないわけですが。なんというか、ポイントとしては、人が非業の死にあったりすると、「穢れた死」と言われたりするわけで、そういうものはその人が死ぬ際に感じた恐怖の狂気とか、断末魔の苦しみの中で発せられた「気」が死後まで残って、周囲に住んでいたりする人に「悪夢」を見させることを言う、って言われる気がするわけで。そういうのを、いわゆる「幽霊」と呼ぶかどうかは別として、けっこう人の「気」というのは死後も残るので、そういう「悪夢」を見せちゃうようなものを「祟り」とかそういう呼び方をするんだ? と思うわけで。

で、タイトルの説明から言うと、「無原罪の御宿り」というのは、キリスト教の概念で、「女は生まれながらにして罪深いもので、それを「原罪」というのだけれども、キリストを生んだ聖母マリアだけは例外で原罪が無い」っていうことらしいのですが。要するに罪の無い人だから、キリストみたいな立派な人を生めた、という自画自賛的なご主張? な気が個人的にはするわけですが。それは、姑だけは特別扱いして威張らせて、嫁は虐める男系の思想そのもの、って言われる気もするわけで。で、聖母マリアの象徴が「白い百合」なわけです。「百合」というものが、シリウス星であるイシスの象徴とすれば、死を意味する「白」の色の百合は、「太母を殺せ」っていう意味そのもの、って言われる気がするわけで。それって、嫁は虐めるし、母親は殺して表向きだけ立派なお墓を造る、みたいなそういうこと? と思うわけですが。これは、たまたま今日いろんなことを調べてみて知ったことなわけで。

で、ショア (映画)というのは、ほぼ「ユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)に関わった人々へのインタビュー集」ということで、10時間近くもある映画であって、思い出したくもないことを「記録を残すため」という名目で、悲痛な面持ちで延々としゃべらされている人達が次々と登場するわけで。で、「そもそもショアを全編見て、穢れを散々浴びせかけられて、悪夢を見ずにいるっていうのが普通じゃないんだよ。」って言われる気がするわけですが。というわけで、4のつく日に相応しく、穢れが一杯ありそうな番組を2つも見たわけですが。特に2つめが凄かったな、と思うわけで。ともかく、

その1。南方からの輸送船に護衛艦をつけない、ということが、「あり得ない」お思うことの1点。しかも、「アメリカにも同じ事をやり返せなかったのか?」というやりとりに関しては、「戦争肯定の発言ですか?」って突っ込まずにはいられないわけで。

その2。義烈特攻隊、について。飛行機に乗り込んだ人の映像の中に、白い百合の花を手にしている人がいて、ぎょっ、としたわけで。しかも、「特効に出る予定の内は、おいしいモノを食べさせて貰っていたけれども、作戦が中止になった途端に「まだ生きているのか」みたいな扱いを受けた。」的な証言があって、死ぬまでおいしいモノを食べられればそれでよし、というのはデーヴァ信仰の思想でしょ? ということで。

実際に大勢の人が死んでいることに関することが、何から何までオカルトまみれ、ということに非常に不条理を感じるわけで。で、インタビューに応じている人の中に一人、泣きそうになっている人がいて、その人だけは、「誰かこの苦しみと悪夢から救って助け出して欲しい。」って言っていた気がするわけですが、まあ、それ以外は??? みたいな印象を受けた気がするわけで。

ということで、結果的に言うと、「あんただったら、短期に決着をつけて、敵に足元を救われて負けるような戦争をするなって絶対言うよねえ。根っからの軍神の上に、対象が同じ日本人だからと言って同情する気が一欠片もナシ。」っていろんなところから全面的に突っ込まれた気がするわけですがーー;。言っておくけど、私だって戦争は嫌いだし、平和主義者だし、9条とかだって私になりに大事だと思ってるよ? と思うわけですが。でも、やるんだったら、わざと大勢の人を殺して挙げ句に負けるような戦争を「わざと」することないじゃんねえ? って言うしか無いわけで。その点に最大の理不尽さと、許せなさを感じる「軍神」がいるんでしょうね、きっと、と思うわけですが。(というか、その性格に薫陶を受けたのがどっかの国の今の大統領でしょ? ってことも言われる気がするわけですがーー;。)でもね、戦後の日本で「なんのせい」で人々が一番「恩恵」を受けて生活がマシになったかっていうと、それは「民主主義」のおかげじゃなくて、朝鮮戦争とベトナム戦争で多くの人の命が奪われた「おかげ」でしょ、でなきゃ日本の国は未だに戦後の混乱期の日本のように貧しいまま、ということで。制度とはあんまり関係ないんじゃないの、それ? って思うわけですが。だからねえ、表向き自分達だけが「平和」で「豊かさ」を享受できるために、どのような制度が「正しい」のかと問われれば、9条を盾にとって、自らの手を汚さずに、いつまでも「死の商人」のままに肥え太るのが一番なんじゃないの? と、私の中のデーヴァの悪魔はそう言う気がするわけですが。でも、そんなこと「良し」としちゃいけないんだあ、ってそれだけは思うわけで。私たちは今でも人食いの文化の中で、踊ったり踊らされたりして生きてるのだけれど、でも、せめてそのことを忘れないでいなければいけないし、「人間らしい」っていうこともどういうことなのかできるだけ忘れてはいけないんだ、って理想論であってもそう思うだけなわけです。それに、家の中であり得ない「マッチ棒の燃えさし」とか見つけてしまったので。こういうことが「脅し」なんだな、と思うわけで。いろんなことがあった一日だったわけです。