可哀想なニンリル

ニンリルの結婚前の名前が「Sud」という言葉なのがずっと気になっていたわけです。で、西欧世界における神名の変更ルートをだいぶ勉強しまして、
「d」という子音と「t」という子音は交通性がある
ということに気が付いたわけです。どこから気が付いたかというと、ヒッタイトの太陽女神のことをルウィ語でティヤズ(Tiwas or Tijaz)というわけで、TをDに置き換えると
Diwas → Dyaus
とできるな、ということから気が付いたわけです。ということは、「Sud」は「S-d」という子音ですので「S-t」とも変化しうるわけで、実のところ、「S-t」のつく神々というのは、男女を問わずたくさんいるわけです。例えば
エジプトのセツ:天候神(ということはその前身は太陽神):男
カフカスのソスラン:英雄、男
カフカスのサタナ:女神
ヒッタイトのイスタンあるいはエスタナ:太陽女神
エトルリアのセスランス:鍛冶神:男
ヒッタイトではヘバトとイスタンあるいはエスタナは、「太陽女神」で同一のものとみなされています。
ユダヤ神話では、ヘバと近い音から発生しているイヴの息子がセツとされているわけで、子供の方が男神となっています。でもって
ケルト神話ではセスリーンが母親で、娘がエスリンとなっています。
カフカスでは、サタナが養母でソスランが養子ということで。
要するに、彼らは元はみな「太陽女神」であったけれども、分離と習合の過程で、多神教的には親子の関係で整理されることが多いけれども、ヒッタイトでは
みな同じ太陽女神
ということで、ヘバトもヘバもエスタンもイスタヌも、蛇も蛙も関係なく纏められてしまっている、と。要するに古代世界では、古代エジプトやメソポタミアのように、特に古い時代にはちょっとずつ名前を変えていろいろな役割を持つ神々を作り出していましたが、時代が下って、特にヨーロッパ方面では、逆に
同じ性質の神々を纏めて一つにしよう
という動きがあったと思われるわけです。同じ性質の神々は当然語源が近いことが多いでしょうから、近い語源で似た性質の神々を「同じもの」として纏めていることもあるでしょうが、逆に語源が近くなくても性質が同じだったら纏められてしまうこともあったようです。例えばローマのユーノーとギリシアのヘーラーなんかは良い例だと思います。
ということで、習合主義が究極までいきつくと、ゼウスもコロンも、ベテホロンとバチカンなんか特に
同じもの
なんだ? っていうか、ベテホロンとバチカンって
語源的にも同じ
なんでは? と思うわけで。まさに、どちらもダビデとソロモン礼賛主義なわけだ、と思うわけです。ダビデとソロモン礼賛主義の上に、略奪・簒奪主義のサバジオスと習合しているとすれば、まさに
悪の世界で無敵
というわけで、頭が痛いわけです。でも、旧約聖書の真髄は
ダビデとソロモン主義への批判
なわけで、その秘密を知っているから、知っている旧約の民が邪魔なのでしょう。旧約聖書を
ダビデとソロモン礼賛主義の書
にしてしまいたい人たちにとっては、となるわけです。それにしても、元は女神であったのに、殺されてしまう可哀想なニンリル。彼女は古き時代、蛇神であっても母系社会の時代の太陽女神であったのだと思うわけです。でも、北の方から馬に乗った男系主義者達がやってきたので、
月の女神に変更されてしまった
のです。で、更に時代が下ると、男になることも多いと。
男に書き換えられなかっただけ、中国の嫦娥の方がまだマシ? かというとそういう問題でもないというか、おそらく
太陽女神が月女神に書き換えられてしまったのは嫦娥のせい
だと睨んでいるわけですが。可哀想なニンリル、殺されたり、男にされたり、いろんなことに利用されて、しまいには西方世界における女神信仰そのものが大弾圧を受ける羽目になるわけで。
セツというのは元は女の子だったのです。でも、旧約では、ニンリルの役割をディナが負っているわけで。西方神話の分離主義と習合主義には、目も覚める思いもさせられますが、読み解くのにも苦労させられるな、とそう思った一日なわけです。
で、そうやって読み解いても最後の最後に一神教の「キリスト教」で全部くくられてしまうわけで、確かに
何のために読み解いたんだろう?
みたいな虚しい気持ちにならないでもないわけですがーー;。

続きを読む

Great Ninth

「noon」の語源を求めてあちこちを彷徨っていたわけです。で、結局それは
「ninth」という言葉と同じ意味
だと分かったわけです。ninって、シュメール語で、「女性(女神)」という意味なわけです。で、一方ケルトで、
月の女神
のことを、リアンノンといって、Rhiannonと書きます。おそらく、Rhian-nonと分かれるのだと思われます。で、これが「偉大なる女王」という意味だそうです。ローマでは月の女神のことをルーナといって、Lunaと書きます。Lu-n-aと分解できるわけです。で、イタリア語では-aというのは女性名詞につく言葉のようです。またLというのは、ilという定冠詞が、男性形il、女性形loとなったものとのことですが、
一般名詞の定冠詞はかつては、Al等といって、地中海周辺地域の「神」を意味する接頭辞から変化したものです。ということは、本当の意味で「月」を意味するのは、ケルト語でもイタリア語でも
nonとか、naとか nではじまる言葉 であって、「女性」を示す言葉なわけです。シュメールでいうと、
Ningal
と同じ意味なわけ。全て 「偉大なる女」 という意味です。で、それが10進数で最大の「nine」に当てはめられているのかもしれません。
で、何がどうかというと、かくの如く、女性はこのように「月」に結びつけられるわけで、女性という言葉は
n-
という言葉につながるわけです。ということで、月は、n-という女性を介して、moonという言葉と交通性を有する。ということになります。こうして、
n-
がつく月の神様と
m-
がつく月の神様の両方が西洋社会にあふれかえることになったわけ。偉大なる「月の女神」、それを
moon woman
と呼ぶべきかと思うわけです。で、実のところ、これが西洋の dragon の正体なわけですが、一方では、東洋の「龍」は何かというと
great fire
と呼ぶべきなのだと思うわけです。ここまで来るのに、この体たらくなわけです。なにせ語学的センスが
nun
な私なものですからーー;。

アダパとハウル

アダパについて」の記事が全然進まない、のはネタがないわけではなくて、むしろ「有りすぎて整理がつかない」からだったりします。
しかも、一般的に知られていることを元にした「考察」と、一般論を度外視した独自の「推察」をきっちり分けたいと思うと、一般論をしっかり勉強しなければならないわけで。
まだまだ勉強しなければならないことがたくさんありますので、分かっていることからの「推察」のみで書きますと、シュメールの最古都市に相当するエリドゥは、遊牧民、農耕民、漁労民の三者が共同して築いた都市として考えられており、そこでの神話はすでに三者の神話が習合して構築されたものだと思われるのです。
1,遊牧民の神話とは、おそらく「天国」が天上世界に存在したとされる「アヌンナキ」神話の原型であると思われます。アヌを頂点とするアヌンナキの神々とエンキを中心とするディルムン神話の間には微妙な相違があるように感じますので、元は別々の系統の神話だったのだと思います。「アヌンナキ」に相当するのは大雑把にいえば、エジプトの「ヘリオポリス神話」、ギリシャの「オリンポス神話」のように、神々が複数纏まって、ある程度の秩序ある神々の社会が形成された神話といえるのだと思う。「天国」というのは、印欧語族に好まれるモチーフですので、そこからも北方の遊牧民起源の神話であることが推察されます。
2.漁労民の神話。おなじみエンキとアダパの神話です。ギリシャ神話においては、トリートーンとイルカ神の神話に置き換えられると思います。ここで重要なのは、イルカ大好き古代のギリシャ人はイルカを愛しこそすれ、それを食べようとか、神に犠牲として捧げようとかあまり思った形跡が無さそうですので、本来のアダパも人間と仲良しの叡智の神ではなかったのかと思います。
3,農耕民の神話。おそらくニンフルサグが地面から生えた人間を刈り取って育てたという神話かと。ニンフルサグはメソポタミアで古くから信仰された神であり、ウバイド期の「頭が男根の女神像」もおそらくニンフルサグ系の神なのではないかと個人的には思います。
ということで、都市が建設され、神話が文献に記録されるようになった時代には、水神エンキとニンフルサグがすでに夫婦神として習合していたように思います。
エンキとアダパ系の神話では、アダパはニンリルという神の翼を折ってアヌンナキの会議の場に呼び出されますが、一方アヌンナキ神話では、(理由は不明ですが)ディルムンを追放されたエンリルという天候神がニンリルを強姦して(!)無理矢理妻にし、その罰に冥界に追放されるということになっています。この二つの神話は、いずれも「『ニンリル』を傷つけて主人公が常ならぬ場所に呼び出される」という点が共通していますので、双方の神話が混在した後に、一方は人間の祖としてのアダパ神話、一方は下行神の墜落と上昇(すなわち神としての再生)の神話に分かれたものではないかと思います。
アダパは「人間の先祖」ですから、いつまでも生きていてもらっては困りますし、逆にエンリルは「神」ですから、いつまでも死んでいてもらっても困る、というそういう都合があったのではないかと思われます(泣)。
エンリル神話の壮絶な点は、夫が冥界に追放された際にニンリルが復讐のために後を追い、更に彼らは冥界で交わって新たな神々を産み出し、それを身代わりとして神として再生するという、
犠牲獣とか生贄は当時の宗教的神話世界でいったい何のために存在するのか
ということを説明するための見本のような構成になっている点であると思われます。
そして更に非常に面白くないことですが、アダパはアプカルという半鳥半魚と同一であるとみなされているのです。アプカルというのは、アッカド語で
「偉大な水の人」
という意味で、「アプカル」の「カ」が「偉大な」という意味ですので、この形容詞を取ってしまうと「アプル」すなわち「水の人」という意味になります。で、この「アプル」というのは、アヌンナキ神話において、エンリル神の子神であり、冥界の太陽神ネルガルの称号ということになるのです。で、これがギリシャ神話における太陽神アポローンの語源になるわけで、「イルカ」という名前のデルポイの神託所にイルカの姿でやってきたアポローンが「水の人」である太陽神であるということになると、意味においても性質においてもアポローンとネルガルは見事に一致するとそういうことになるわけです。そして、ネルガルといえば、太陽神ではあるけれども、冥界の女王にベタボレされて、冥界に居着いてしまい、冥界の王となったと言われる神なわけです。そのため信仰世界では、冥界を管理し、国家にとっての敵を焼いて殺し尽くすような火をもたらす神として信仰されたようです。その父親のエンリルは地上に大洪水をもたらしたとされる神ですし、どうもアヌンナキ系の神は、人類にとって「優しくない」神々の面が強いのです。
ということで、バビロニアにメソポタミアの中心が移った頃には、エンキ神話と「神が冥界に下行する」という神話が習合して、親切な神であったアダパも、「罰を受けて天国を追放され、死なねばならなくなった」存在とみなされるようになったのだと思います。これはユダヤ教のアダムの追放説話に受け継がれ、いわゆる西洋的「性悪説」というか「原罪論」の明確な根拠の出発点とされるようになったと思われます。
一方、ニンリルという女神はアッシリアでミュリッタという名で呼ばれていたわけですが、ギリシャのヘロドトスはこの女神のことを、ペルシャの「ミトラ」と同じ神であると述べています。「ミトラ」といえば、「ヴァルナ」と「ミトラ」は不可分と言われ、ヴァルナが水神、ミトラが太陽神と位置づけられるペアで、おそらく古代において女神であったと思われるミトラが男性形に変更されて、ミトラスとされた後に、この神がイエスの原型ともいえる「救世神」として確立されたことを考えると、その後の宗教史にこの神が与えた影響は計り知れないわけです。(ヴァルナとミトラの信仰においては「水の中の太陽神」が「水神」と「太陽神」に分離しているように思われます。この場合下生して、人類の運命に関わるのはミトラ神が主体となるようです。)
ということは、「救世主」の原型は天上界から「下生」してきた神のことで、そもそもそれを人間とみなすべきか否かという問題が生じるのですが、ヒンドゥーにおいては、下生神であるヴィシュヌは必要に応じて転生を繰り返すこととなっていますので、少なくとも神の姿に戻るという前提があったとしても人としては死ぬことになります。一方、キリスト教になると、イエスはいったん神だけれども生き返るとか、生き返った、とか、死んだように見えたのが幻で実は天に生きながら登ったとか、そもそも肉体を持っているように見えただけであるとか、何とか人に神としての権威を持たせようとした結果、様々な説が溢れてかえって混沌とした状況を招いているように思われます。
この点については、西洋世界の宗教思想の混沌とみて、静観することも可能なのかもしれませんが、問題があるのは、日本の神話における影響といえます。
荒ぶる闇の太陽神であるエンリルが、太陽女神を傷つけて天上界を追放されるというモチーフはそのまま天照大神と須佐之男命の関係に置き換えることができるのです。そして、追放された冥界において須佐之男命は、悪神である八岐大蛇を退治しています。蛇退治の部分はウガリット神話のバアル(バアルという名は「主」を意味し、アッシリア地方の天候神ハダドを指す言葉です。ハダドはエンリルの子神とされますが、性質が一致してますので、おそらく元はメソポタミアのエンリルに相当するシリア・カナン地方の神だと考えます)と悪神モートの関係と一致します。要するに日本神話における須佐之男命の神話はメソポタミアのエンリル系神話と相関関係があるのです。須佐之男命の妻神である奇稲田姫は名の通り、田の神、稲の神といえますが、太陽神が稲の成熟に必須なものであれば、奇稲田姫は黄泉の国における天照大神の一形態ともいえます。日本神話における須佐之男命はそのまま地上に出雲系神族の祖として留まりますので、そのような点は「楽園を追放された人類の祖」としてのアダパ神話にも通じるものがあると思うのです。(ただし、日本人には先祖を神として祀る習慣がありますので、神が不死で人間が死ぬべきものである、という区別に頭を悩ませる必要はなかったものと思われます。先祖は神であるけれども、人間でもあるのだから、死ぬのも当然であるというのはそれはそれで信仰世界に混乱をもたらさない概念であるといえます。)
一方ギリシャ世界で、アポローンが「水の人である太陽神」であるとみなされていたのだとしたら、同じイルカ神であるトリトーン、そしてトリトーンの女性形である「トリトーネス」を称号に持つ「アテーナー女神」も「叡智をもたらす神」としての性質も一致することですから、本来は彼らもまた「水の人である太陽神」であって、アテーナーはいわば地上に上り、人間の足を獲得することに成功した人魚姫のような存在になったことと、民族の興亡により、ゼウスやポセイドーンという強大な神々が登場するに至った結果、「叡智の神」であるという点と都市の守護神であるという性質のみが残されただけのものではないのか、という推論が可能であると思うのです。その場合には、アテーナー女神の前身としてエジプトのアトゥム神(そこから更に変化したアテン神も含まれるかもしれませんが)あたりが有力であると個人的には思います。何故なら、アトゥム神が頂点に立つヘリオポリス神話は、混沌世界の臍である丘から世界と神々が生まれたというものですが、一方「イルカ」の名を冠するデルポイには「世界の中心」であり「臍」とみなされていた遺物が存在し、その点で両者は共通しているからです。
おそらく古代の地中海には、「太陽神であるイルカ神」に対する信仰があり、そこにエジプトの太陽信仰が習合して、更にギリシャで神が女性形に変更されたものが、アテーナーの前身の一つであり、後にメソポタミア系の太陽神アポローンが優位を占めるようになったために、太陽神としての地位を失ってしまったものであるのではないかと思われるのです。アテーナーが処女神と考えられたのは、古代の人々にとって「イルカ」が単性であるのかないのかの区別がつかなかったからだと推察されます。
更に、アテーナー女神が太陽神であったと仮定すると、そこから派生した女神であるソフィアもそうだとみなした場合に、「ハウルの動く城」のソフィーは「もののけ姫」のサンと同様、天照大神の投影ともみなせるわけで、そうすると意地悪なハウルは須佐之男命、影が薄いけれども確かに存在しているカブは月読命に比定することができるわけです。「ハウル」において、彼らが再生する鍵はただ「愛」であるとしか描かれない。日本神話においては、奇稲田姫は天照大神と切り離されて本来の姿に再生する必要性すら与えられない。
しかし、古代シュメールの神話では、「再生するために身代わりを立てなければならない」と明確に言われる。
確かに神々の再生のために「愛」と「信頼」は必須なのかもしれません。しかし、そこに更に「身代わり」も必須であるというのであれば、もし仮に現代社会にニンリル女神が存在するならば、
「例え明日死ぬ運命の人だと分かっていても、自分が再生するために誰かを身代わりにはしたくない。」
と言って泣くであろうと思うのです。こういうことを突きつけられるから、エンリル神話は日本神話のルーツを探るために理解が必要であっても、好きにはなれないのです。