本日の日誌

今日は特に大きな動きはなく。そして、「殉教」ということの真の意味は、未だ良く分からないのですが、特定の状況下において、「死んだ方がマシ」みたいに思い込まされたり、思い込んだりすること、なのかな、と思って。大勢の人にそう思い込ませれば、それが「普遍的な価値観」に変貌してしまって、そういう状況に誰も違和感を感じなくなってしまったりもするわけで。で、自らもそう思い込んでしまえば、自殺願望の強い人とかには、そういう歪んだ欲望を満足させる原因にもなるわけで。そうすると、常日頃、思い通りに操りたい、と思う「集団」がいた場合に、「この状況になったら死ぬべき」という刷り込みを徹底的に行っておけば、そういう状況を作り出すか否かで、その集団の生殺与奪は間接的に思いのまま、ということで。直接手を下さなくても、直接何かを言わなくても、「状況」を作り出す「手段」さえ確保しておけば良い、ということになるわけで。

で、そもそものローマの支配方法が「分割統治」ということで。古代ローマの政治制度は、ギリシャに似ていて、「都市」が中心になっているわけです。だから、都市によって、市民権と自治権をどの程度まで認めるのか、ということが決まっていて、それぞれに一律ではなかったわけです。要するに、身分的な「階級制」を「都市」に対しても適用した、みたいな感じな気がするわけで。そうやって、それぞれの都市の利害が一致しないようにして、各都市が団結してローマに対抗しないようにしていたわけです。だから、逆に支配されている各都市の間には、それぞれの間に常に程度の差があっても緊張感があったとも思うわけで。

で、こういう都市を中心にして政治を考えるというやり方は、中世のヨーロッパ諸国にも受け継がれていて、確か戦争に負けたりして、自分達の住んでいる都市を敵に明け渡す場合には、住民全員が手荷物を持って移住というか、追い出された、というようなことがあった気がするわけで。で、昔の王とかは各都市を巡回して政治とか裁判に関わったりとかっていう風習もあった気がするわけで。王侯貴族は、それぞれに領地を持っているわけですが、「都市」というのは一定の自治権を持った、特別な場所であったような気がするわけです。

で、何が言いたいかというと、都市同士に格差をつける政治をしたら、どこかに不満が溜まる場合があって、例え一部ではあっても「反乱」が起きる可能性があるわけです。「国家」という枠があれば、そういう微妙なバランスを操って、反乱が起きないようにする、ということが政治の役割になるのだと思います。でも、そういう「枠」がなくて、単純に支配的な影響力を行使するだけなら、常にどこかに「敵対分子」というものを作っておく方が、その他の結束を強固にするのに役立つ、という気がするわけで。そういえば、古代のキリスト教というのは、最初からローマ教会が中心であったわけではなくて、各地に伝導を行っては成功したところを拠点にして、また周囲に布教していく、という形で広まっていったわけで。で、各地にさまざまな派ができるわけですが、そのうちにそれを一つに纏めて、教義も統一しよう、ということになり、正統とされなかった派は次第に「異端」として排斥されるようになっていったわけで。で、ヨーロッパではまずそういう派閥の粛正が行われ、内部の敵がほぼ消え失せると十字軍が起き、その次には魔女狩りの嵐、新教の発生へと歴史は移っていく気がするわけですが。常に常に、「教会」には敵がいたわけで。でも、そのほとんどは自らが作り上げたものなのではないの? と思うわけで。結局、人々が教会に対して不平や不満を持つことがあっても、意図的な「敵」の出現のおかげで、「一致団結して敵に立ち向かえ」って言えるから、結束を保っていられる、ということで、って思うわけで。

じゃあ、人種差別とか民族差別というのも、「分割統治」の産物ですねえ、と思うわけで。旧約聖書のノアの項には、ノアとその子供達の逸話が出てくるわけですが、その中にノアの機嫌を損ねたハムの息子のカナンをノアが呪って、「その子孫は他の子供達の子孫の下僕になれ。」と言っているわけです。で、その末裔がカナン人とされているようですので、要するにこれはノアの正統な子孫であるユダヤ人がカナン人を見下して隷属させる「根拠」となるということで、「そうやってありもしないことを書き散らしては、自分達のやっていることを正統化するやり方がギリシャ式」って言われる気がするわけでーー;。で、これはこれだけでは終わらなくて、キリスト教の時代に入ると「カナンの子孫」とは有色人種のことを指す、とされて政治における人種差別の根拠とされるようになったわけです。だから、そのギリシャ・ローマ的な思想は、ローマが滅びた後も西欧諸国が植民地支配を行うことや、そのやり方に大きく影響を与えているわけで。キリスト教というのは、宗教的・精神的な支柱と言うだけで無く、政治的にも大きくヨーロッパを支えていたわけです。

で、戦前の日本というのは「皇国史観」という思想に基づいて歴史教育が行われていたわけで。これは、日本の統合の中心を「万世一系の皇室」に求める思想ということで、そもそもは「天皇あっての日本」みたいな思想だったのではないか、と思うわけで、江戸時代に興った水戸学なんかの影響を引いているのではないかと思います。これが、戦争が始まると「日本は世界に一つの神の国」とされ、暗に「戦争に負けるはずは無い」という意味にまで発展し、天皇を擁している日本人は「特別な民族」みたいな意識になって、占領地における現地の人への差別主義に基づいた政策や教育の根拠となっている、と。

戦争というのは、結局は外交の一手段であって、いろんな状況を考えた上で行っていかなければならないものであることは、常識的には明白である気がするのですが、国民に対しては闇雲に「日本人は特別な民族なんだから戦争に負けるはずがない」と言い、かつ占領地には差別主義の手法を用いると、結局日本人の庶民は「自分達は特別だ」と思い込んでしまいますし、占領地の人達には不公平感しか生じない、ということで。結局、これも、庶民の層は庶民の層で一致団結しないように、「分割統治」してるってことなんだよねえ? と思うわけで。こうやって、いったん「遺恨」を作り出してしまえば、戦争が終わって70年経った現在でも、その「遺恨」部分さえつつけば、いくらでも人々が纏まらずに分断するように操作できるわけで。

で、興味深いことなのですが、東條英機という人は、支那事変(日中戦争)が勃発すると、兵団長として参加し、大きな成果を上げたけれども、彼の兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという、ということで、そもそも部下の命を軽視し、飢えさせることも何とも思わない人物であった、ということで。日本陸軍にも当然いろんな将校がいたことと思うわけですが、結局あらゆる方面で、こういう人格を持つ人材、「天皇」の言葉を出しただけで盲目的にどんな命令も喜んで従う人材、とかそういう人達が意図的に集められて、ある意味「適材適所」に集められていたんだろうな、と思うわけで。で、いざとなればそういう「忠誠心」だけは厚い、歪んだ人格の人達がなんでも責任を被って死んでくれるだろう、ということで。そうやって、人々を互いに憎しみ合わせ、決して纏まらないようにする政治手法こそが、まさに「ギリシャ・ローマ式」ということで。結局、「教育」で教わることというのは、知識以外に社会性とかそういう問題もあるわけですが、この「社会性」の中にはその共同体特有の礼儀作法とかも含まれるわけで、そういう点を上手に操作すれば、特定の思想に洗脳することも「可能」ということで。要するにそういうのを「プロパガンダ」と言うと思うのですが、結局そういう洗脳によく染まるだけではなくて、その結果、最終的な目的に合致した性格傾向とか思考回路を持つ人材を選別して重用すれば、最終的に目的とするようなどんな「政治的成果」でも上げられるモノなんだ? と思うわけで。学校で教わったことは、とりあえずテストの点数の分だけは取れてても、人格的にそういったモノに心の底から迎合しない人は出世させないでおけば、それで世の中の支配は事足りる、ということで。

で、ギリシャ・ローマ式の「プロパガンダ」の1例として、おそらく紀元前1世紀ローマの歴史家であったグナエウス・ポンペイウス・トログスという人が、マケドニアのピリッポス2世(紀元前382年 - 紀元前336年)について書いたことを挙げられる気がするのですが。古代のギリシャ・ローマというのは、歴史とか地理とかの著述家が多いわけで、ギリシャ・ローマ以外のこともいろいろと書き残しているわけです。で、ピリッポス2世というのは、アレクサンドロス3世(いわゆるアレクサンダー大王として有名な人)の父親であって、7人の妻がいた人物で、アレクサンダー大王の母は4番目の妻であった、ということで。このピリッポス2世という人は、46歳で暗殺されて亡くなったわけですが、亡くなる数年前からそういう気配が彼の周囲に流れていたようで、そんな中で亡くなるほんの数年前に家臣の娘でまだ10代の女の子を7番目の妻に迎えていたわけです。で、記述によれば、「この結婚はアレクサンダー大王母子の激しい怒りを買い、ピリッポス2世が亡くなると、母子は7番目の妻とピリッポス2世との間に生まれた子供を惨殺し、7番目の妻を自殺に追いやった。」とされており、アレクサンダー大王母子の苛烈な性格(特に母親の方)を強調する逸話になっているわけです。で、この殺された7番目の妻と子供達は、ピリッポス2世と共に埋葬されているらしくて。それも、古代史のミステリー? っぽい扱いになっているらしいのですが。で、マケドニアというのは騎馬の盛んな所ですし、一応「ギリシャ世界」の一部にはなっていますが、特に古代においては、トラキア・ダキアに近い文化を持っていたのではないか、と推察されるわけで。トラキアには、夫が死んだ場合、「最愛の妻が夫の供をして殉死する」という風習がありましたから、それは「自殺においやられた」のはなくて、「殉死した」のであって、むしろ自分の死を意識するようになったピリッポス2世が、「あの世」まで着いてきてくれる女性を求めて、それに応じて妻になったのは7番目の妻で、最初から当人も承知した上での「殉死用の妻」だったんじゃないの? と思うわけで。そういう習慣そのものも個人的には好ましいとは思いませんけれども、当人達の誰もが「そういうもの」だと思っていて納得しているのなら、外の人達がわざと悪く言う必要もあるの? 特に古代世界ではそういう「人身御供」的なことはあんまり珍しいことでもないし?? と思うわけで。そして、当時のローマの知識人がトラキアのそういう風習を知らないはずがない、ということで。要するに、それはローマ人ではないアレキサンダー大王の家系を意図的に中傷する記述なのですよねえ? と思うわけで。その母親がものすごく、冷酷で残酷な女性だ、と印象づけるために、ということで。何も基礎知識を持たないで、この文章だけを読んだら、そういう印象を持つ人は当然多いわけで、それこそがギリシャ・ローマ式の「プロパガンダ」ということで。で、そういうものにあっという間に巻き込まれてしまって、ギリシャ・ローマこそがすばらしい、とまで思うような人だと好都合。そこまで行かなくても、とりあえず信じてくれる人ならまあまあ。その嘘に気が付くような賢い人だと「邪魔」というか警戒すべき相手、ってランク付けするんだ、それ? って思うわけで。

だいたい、敵の文章ってみんなそういうようなモノなわけですよ。「ナルニア国物語」は、「物語の最後に世界が消滅して、良い人だけ生きたまま天国へ行って、そこは現世よりも良いところ」っていうキリスト教的な世界観に基づいた話だし、「赤毛のアン」シリーズのモンゴメリは、ご当人が現世に強い不満を持っていて、早く来世に生まれ変わりたい、と思っていた人で、そういう思いが彼女の作品の中に強く込められているし(というよりも、彼女は自分の理想の世界を物語にしたので、彼女の作品そのものが「来世」そのものと言われるわけで)、「大草原の小さな家」シリーズのワイルダーは「王の存在しないアメリカでは、(キリスト教の)神そのものがアメリカの神である」ってはっきり書いているでしょう。そういうのは、プロパガンダの目的も兼ねているし、読んだ人がどのくらいその思想に共鳴したり、染まったりするかの指標にもしてるんだ? と思うわけで。結局は「学校の教科書」というもののそういう書物の一つ、ということで。お姉さんは、ナルニアの世界観は嫌いであったし、モンゴメリはそういう価値観の時代に生きた気の毒な人、くらいに思ってたし、ワイルダーもそういう保守的な価値観の持ち主、ということで、全部「個人の価値観」の問題くらいにしか思ってなかったけど、そうじゃなくて、そういうものは政治的かつ宗教的な思想ががっちり組み込まれた「ギリシャ・ローマ式」の書物なんだわ、って言われるわけで。要するに、そういうモノに書かれたキリスト教的なプロパガンダの意図は私はちゃんと読み取っているわけですけれども、別にそれに迎合するわけでもなくて、価値観というのは「人は人、自分は自分」みたいな感じであんまり染まったりもしていないので、その点からいって、敵の目から見るとそもそも「不合格」の部類に入る人材なんだ? って思うわけでーー;。

しかも、問題は他にもあって、だいたい毎年各局で放送されるような、戦争とか、平和とかを題材にしたような番組って、そもそも好きじゃなくて、あんまり見なかったでしょ。でも、それは別に「平和」というものを軽視しているわけではなくて、そういうものの大切さも分かっているけれども、でも、「平和」というものは政治的なモノであって、外交における駆け引きとか、そういうモノで維持できる部分が多いわけで、しかもどうやって手を尽くしても、外敵から攻め込まれるようなことがもしあれば、戦わざるを得ない、という側面もあるから、子供達に戦争の話を伝えていったり、とかそういうことも大切だけれども、ただ歌を唄ったり、お題目みたいに「平和」「平和」って言っていれば「平和」なんて実現できるモノじゃないから、違和感を感じて追悼番組みたいなモノはあまり好きじゃなかったでしょ、って言われるわけで。で、だいたい「どうやったら平和を維持できるか」というのは、むしろ為政者の考えることであって、真の一般庶民というのは、「平和でありますように」って半分人ごとみたいに言わざるを得ない面があるんだけれども、お姉さんは最初からそういう風に考える人ではなかったでしょ、って言われるわけで。そもそも私自身が、政治家でもないのに、政治的な見方をしてる、って言われるわけです。でも、自分では、それを「民主主義の世の中では、誰でも自分の1票分の主権者でもあるのだから、そういう風に考えることは庶民であっても当然のこと。」って思ってたでしょ? って言われるわけで。で、いろんな考察を重ねた結果、現在のところは、私は極端な軍拡主義者でもなく、かと言って軍事力そのものを全く否定するというような極端な平和主義者でもなく、バランスを取ることこそが大事、って考える現実主義者でしょ、ということで。そして、結局一番大事なのは、制度そのものよりも運営の仕方、言い換えれば「プロパガンダのやり方」だって思ってるし、一定の理想は持っていても、いざ戦うとなれば勝つことを最重要視するし、そのための手段として、ギリシャ・ローマ式の手法を用いることには良心の咎めなんか感じるタイプじゃないでしょ、って言われるわけでーー;。それで、纏めると、私の中でギリシャ・ローマ的でない思考回路は、分割統治とか差別主義が大嫌いという点くらいであって、蛙さん達に近い思考もそのくらい、ということで、それで「どうもギリシャの血が濃いねえ」って言われちゃうんだよ、って言われる気がするわけでーー;。

そして、なんとなく昨夜のMステの録画を見ながら日記を書いていたら、SDタモリさんとは関ジャニ∞のお面のコーナーで、「真実に似ているように見えても、真実でないものに注意」ってふいに言われた気がしたわけで。たぶん、現実問題として当面気をつけなければならないのは水道管の種類とか、その程度だと思うわけですが;。プロパガンダっていうのは、怖いね、ということで;。