本日の日誌

一昨日の夜は、なんだか嵐の人達がフル出演する夢を見た気がするのですが、内容はさっぱり思い出せないような曖昧なものであって。家の裏の畑に桃色月見草とデイジーが一部群生するようになって、今花盛りでけっこう綺麗で。その写真を見てみたい、と6番目の子に言われた気がするので、写真を撮って兄さんへのお手紙に入れておいたわけで。昨日になってから、ちゃんと6番目の子に回しておいたから、って言われた気がするわけで。兄さんにはゼニアオイの写真を送ったのですが、その花は我が家に割とあってるから、そのままにしておくといいよ、て言われた気がするわけで。

で、昨日は「お休み」であったのですが、朝出かける時に、なんだか家人の一人が朝早くから畑に出て、こちらに花のこととかいろいろ話しかけてきて。で、私が植えたひまわりの何本かが枯れてしまっていたので、「なんで枯れたのか?」みたいなことを言ってきて。だいたい、薄めの除草剤みたいなものを家に侵入されている人に蒔かれて、野菜とか花とか、どうにも成長が悪くて枯れっぽい(しかも通り道に面しているものほど被害がひどい)のは何度も言っているし、知っているくせに何を言うのだろう、と思って相手にしなかったわけです。そうしたら、母親にも同じ事を言って絡んでいて-;。だいたい、そうやって意図的に絡んでくる時は、何か目的があるわけで、しかも何を目的にしているのか良く分かっているので、しばらく警戒しないといけないわけで。さっさと、母親を連れて出かけたわけで。

休みの日に、改めて床下に潜って、念のため逆位になっている断熱材の印字を消す予定だったのですが、そもそもそういう品物自体に方向性がなくて印字でのみ方向性が決まっているような人工物は逆位でも「気」は通るからそれほど心配しなくてもいいよって言われていた気がするわけで。でも、1番目の子との「正式な結婚」とやらを白紙に戻したので、床下の断熱材にもタッカーを打ち込んで、ミトラスの「神印」を入れておくように、って言われる気がするわけで。要するに大乗仏教というのは、蛙の人たちの現在の中核となる宗教のようで、彼らは栗の木の土台のある床下には蛇の人達の「目の力」をあまり入れたくなかったらしいのですが、特にそこを「蛙の目の夫の場」とする必要性がなくなれば、蛇の人達の「目の力」もどんどん入れた方が良い、よいということのようで。で、床下の接着剤にはセメダイン製の製品なのですけれども、650の数字が入っていない物を使用したので、それをあちこちに形式的に塗って歩くことにして。3時間くらい床下を這いずり回って作業をして。作業が終わったら、床下もだいぶ明るくなって、良く見えるようになった、って守達神にも言われて。で、親は親で待ち時間にプリント板の枚数を数え直したりしていて、有意義な一日であって。

でもって、ときどき蛇の兄さんから、「君のためにいくらでも稼ぐよ」って言われたりとか、「結婚したらどちらが名字を変える?」とかって言われる気がするわけで@@。自分で選んでいいって話はどこに?? とかって思ったわけですが、どうも兄さんはそういうことを言いたい気分らしくて。富の王家の人達は、「形式でもいいからうちにお嫁においで」って言っていて、蛙の人たちから「それが狙いか」って怒られていたわけで-;。「じゃあ、自分が名字を変える?」って兄さんが言ったら「お前なんか婿に来るな」って言って怒ってるわけで-;。その人たちはしばらく機嫌が悪そうだーー、と思ったわけですが-;。でもって、亀の子が、「じゃあ、自分の名字になったとすれば?」とかって言い出して。「自分が選ばれるとは思わないけれど、そのくらい想像してみてもいいよねえ?」って言ってきたわけですが。兄さん達の一人に、蛇の兄さんが選ばれた場合に、どちらの名字になるのか悩むのは、私も兄さんも王族だし、それぞれの家を代表する「神サマ」だからで、臣下から選ばれる人が出てくるなら、そっちが名字を変えるのは当たり前でしょ、って注意されていた気がするわけで。蛇の兄さんも、今の段階でそこまで言うのは言いすぎでしょ、って後で7番目の子に釘を刺されたらしくて。7番目の子は、普段もの静かだけれども、その分怒らせると怖い人、って言われた気がするわけで-;。富の王家に関しては、「女の子はちゃんと受け答えしてくれていい」って言っても、こちらが受け答えする気もないほど小言三昧じゃ、いちいち受け答えなんかしてらいれるわけがない、って言っていた気がするわけで@@。それが「悪ガキ」って言われてしまう所以なんじゃ?? と思ったのですが-;。

で、家に帰ってきてから、「嵐にしやがれ」と「SmaSTATION!?」を見て。「しやがれ」の方は、どうも潤君がせっせと「目の力」を使っていた気がして。でもって、「SmaSTATION!?」の方はゲストが稲垣君であって。香取君も稲垣君も、個人的に推すのは蛇の兄さんらしいのですが、でも、兄さんと6番目の子はどうにも「暴走中」ということで、神婚の話は7番目の子が直接仕切ることになったし、年長の兄さん達は7番目の子に協力するということらしくて。「その二人が血迷ったことを言ってきても相手にしないで下さい」って言われた気がするわけですが@@。6番目の子は、たぶん兄さんが選ばれそう、ということで、今から「娘を嫁に出す気分」とかって言って泣きそう、とかって言われる気がするわけで@@。4番目の子は、「調整役で一番泣きたいのは自分」って言って泣いているわけでーー;。でも、大抵の兄さん達は、表向きの「一夫一妻制」はローマ法に基づくものだから、自分達には関わりのないものって考えの人の方が多いようで。「その二人はなんでそんなことに拘るんだろう?」って呟く人もところどころに居るわけで-;。7番目の子は「正気なのは自分だけ」って言っているわけですがーー;。

で、ゾロアスター三神といえば、アフラ・マズダー(英智(マズダー)の主(アフラ))と呼ばれるオフルマズド(ヴァルナ)、ミトラス、アナーヒタ女神なわけで。でも、そもそも発生としては、印欧語族の多神教がベースにあって、それをアフラ・マズダーの一神教的な教えに改めたものがゾロアスターの教えなわけです。それは、ミトラスが印欧語系の人々に人気のある神であり、アナーヒタ女神が庶民に人気のある神であったので、そうなっているわけで。で、ヴァルナ・ミトラというのは、古い時代からの印欧語族の一対の神であって、ヴァルナが司法神であり、ミトラが契約神とされていて。しかも、二神とも光明神とか太陽神らしい?性質を持っているわけですが、はっきりと太陽神とされているわけではなくて、明確な太陽神としてはスーリヤがいるわけで、なんでそんなに太陽神がたくさんいて、それぞれに性質が違うのだろうか? って聞かれる気がするわけで。しかもミトラスというのは、それほど位が高い神ではないのに、後のローマのミトラス教(グノーシス主義)、ゾロアスター、仏教にまたがる広範囲の神であって、なんでそんなに信仰の対象とされたのだろう? とも聞かれるわけで。で、ゾロアスターの伝承では、ミトラスというのは、この世の終わりに活躍する「終末の神」とされているわけで、ゾロアスターの終末思想は、後の時代のキリスト教の黙示録とか、仏教の救世思想(弥勒菩薩は末法に現れる救世の神であるので)に引き継がれるわけで。要するに、ミトラスというのは、「太陽」で言うと、「終わりの太陽」、すなわち「午後の太陽」のこと、って言われる気がするわけで。一日の終わりを支配する神だから、人の運命を終わらせる神、とか、物事を終わらせる神ともされていて、それが「終末思想」に繋がっている、って言われる気がするわけで。そして、人や全ての生き物は、生まれ落ちた時から「寿命が尽きたら死ななければならない」という契約を「終わりの神」と交わすし、それは峻厳で絶対的な「契約」だから、ミトラスは契約神なんだよ、って言われるわけで。で、ものの長さを測るのにメートル法というものがあるわけですが、それかギリシャ後の「ものさし」という言葉が元になっているわけで、メートルという言葉も「ミトラス」という言葉が語源であって、元々は「人の人生の長さを測るものさしの神」ということらしくて。

で、一方のヴァルナっていうのは、「夜明けの太陽」「午前中の太陽」って言われる気がするわけです。で、「午前中の太陽」が若々しいものか、っていうとそうでもなくて、「新しい太陽を生み出す古い太陽」も「午前中の太陽」に入し、新しい一日を育てる太陽もその内に入るので、そういう時は若々しい「太陽」ではなくて、産み育てる「太陽」なので、いわゆる「婆」神になる、ということで@@。だから、人々が生きて生活していくための秩序となる法律を定めるのも「午前中の太陽」なわけです。で、ヴァルナの名前のもう一つの特徴は子音が「VN」であることで、子音に「B」とか「V」がつく神サマは西方にいくらでもいるわけですが、「BN(burn)」とか「BT(beautyとかpretty)」は、基本的に「輝くモノ」という意味の形容詞なので、この言葉だけだと、どんな性質の神サマなのかはっきりしない、ということで。なぜなら、雷神も太陽神も月神も全部「輝くモノ」だから。でも「生み出す神」というのは、古代エジプト神話ではイシスのことであるので。要するに、アヌンナキの「キ」の神のことで、神の性質を強めるために「K」の子音をいくつも重ねたのが、「生み出す女神」であるイシスであるので、ヴァルナというのは、本来はイシスのこと、ということで。アフラ・マズダーのアフラとはイシスから発展した言葉であるので、アフラ・マズダーの「叡智」とは、「産み育てるための叡智」だって言われる気がするわけで@@。だから、印欧語族のヴァルナ・ミトラの一対というのは、イシス、ミトラの一対なわけです。でも、ミトラの語源が言わずとも知れた古代エジプトの女神メヒト(あるいはネフティス)であるので。その根本には古代エジプト的な夜明けと日没に対する信仰があるわけで、イシスの語源は「蛙」、メヒトの語源は「蛇」なわけです。でも、西方の狩猟民に取り入れられた「蛙の女神」というのは、必ずしも蛙さん達の言う「豊穣の穏やかな太陽女神」はなくて、狩猟民の凶悪な太母であり、青い目をしているので、「青い目の蛙」と呼ばれて、羌族の蛙女神とは別物扱いされる、とのことで。でも、本来的には農耕の女神から派生しているの、植物の生育とか緑に関連している女神ではあるわけです。でも、本来は、緑を育てる肥料に他人の生贄を要求するような女神なわけで。要するに、西方の人はこうやって、神々の名前をつけるときに、「こう名付けたらこういう性質の神」っていう法則に基づいて名前をつけているし、そこに更に部族毎に独自の思想をつけ加えて神々の数や思想を増やしていくし、他部族と戦う時には互いに持っている同じ名前に由来する神のどちらが強いのかを争う、ということで。まるで、カードゲームのように、1つの神の名前に、「共通する大原則の性質」と「部族独自の性質」を組み合わせて使用して、自らの神々、自らの思想がどんなものであるかを示している、ということで。しかも、印欧語族は、自分達の正体を他人に知られないために、神サマの「真名」を隠すので、そういう「言葉の使い方」を理解していて使いこなせないと、向こうの人の思想が理解できないし、勝つこともできない、とそういうことになる、ということのようで。でも、神サマっていうのは、大雑把に言って、天上に住んでいて、地上に降りてきて人々に農耕や牧畜を教えてくれて、人に迷惑をかけずに正しく生きている人を幸せにしてくれる、とかってそういう単純なものなんじゃないの? カードゲームのように神サマの名前や性質を利用して、他人よりも優位に立とう、とかそういうのって何かヘン? というか、そういう気分になるわけで。で、そうすると、要するに、そこまで行くと「信仰」とかそういう話ではなくて、もう「西洋魔術」の世界なんだよ、って言われる気がするわけで@@。そうやって、神サマの名前を自分の都合の良いように組み合わせて使いこなせるだけの「目の力」を持っている人が、一番「強い人」なわけです。だから、西方では神サマだけではなくて、神官とかハリー・ポッターみたいな魔法使いとか、そういう人達も重要視されるし、そういう人達は「神に属する言霊」を使うのに堪能な人達、って言われる気がするわけで@@。蛙の人たちの太陽女神では無くて、アナーヒタ女神の名の方を重要視するのであれば、そういうことも知らなければならなくなる。何故なら、ゾロアスターは東洋から見れば、西方世界への入り口の宗教なんで、って言われる気がするわけで@@。遂に「魔術」の世界に突入なんだ? って思うわけですが。

でもって、ローマのユーノー女神が「雷のアン」と呼ばれる母系の太母であることが分かったわけで。ということは、同じ子音を持つ夫のユーピテルの方も同じく「雷のアン」ということ、って言われる気がするわけで@@。でも、ローマ法は徹底した男系社会を形成していて、女性には相続権がないし、妻子は家長である男性に属するものなわけです。だから、ローマにおけるユーノー女神は、権高き女神ではあるけれども、男神のユーピテルに隷属し、搾取される女神であるわけです。(それは母系の太母ウェスタやディアーヌも同然なわけで)だから、ローマというのは、主神の夫婦が共に「アン(天)」の名前を持つ格の高い神々を擁しているわけです。でもって、ローマ人は狡猾な叡智を大切にするので、ローマの天は「悪徳の天」ということになるわけで。

だから、古きアヌンナキの神々を立てるようにっていう要請が来るんだよ、って言われる気がするわけで。アヌンナキの「アン」は、ローマのユーピテルと同じ神なわけですが、味方が新たに男性の「アン(天)」の神を立てれば、私の「アン」の名と併せて、神々の「格」という点で、ローマと同格に立てるし、こちらの「目の力」が強ければ、こちらが上位に来るし、そうすれば「天の法則」は「搾取せず、搾取されず」というものに書き換えられる、とそういうことになる、ということらしくて。でもって、グノーシス主義者と呼ばれる人達は、イシス・ミトラスの組み合わせを自分達の主神としているわけで。一見すると、イシスは古代エジプトの女神であり、ミトラスはペルシャの神であって、奇妙な組み合わせに見えるけれども、要はイシス・メヒトの組み合わせと同じであって、「あるがままに生まれ、あるがままに生きて、あるがままに死ぬ」という意味って言われる気がするわけで。グノーシス主義のミトラスは「雄牛を屠るミトラス」ですので、彼らの神は名前に係わらず、「雄牛」に象徴される搾取主義、独裁主義を否定する神なわけです。

ということで、「B」とか「V」の子音を持っている神々は西方にたくさんいるわけですが、そういう神々のほとんどは、どんな神なのか正体が隠されているわけで。その中で、唯一その「真名」とされる神が、バッバルって言われる気がするわけです。メソポタミアの太陽神バッバルは、軍神や司法神としての性質もありますが、イシスと同じく「産み育てる神」としての性質が強いわけで。「朝の太陽」というのは大地が生み出すものですから、イシスとか婆神には、「大地」という意味もあるわけです。で、特に「大地」という意味に特化されたのがイシス、「夜の太陽」という意味になる(夜の大陽は地面の下にあるものだから)のがバッバルって言われるわけで。そして、バッバルになると「狼」という意味になるわけです。要するにバッバルとイシスはあまり性質が分離していなくて、バッバルという名だと、軍神とか狼という性質が強くなり、イシスという名だと「大地」という意味が強くなるわけで。そして、ダキニとなると、「D」がつく音は「雷」に関係する名になるわけですが、「ドナ」となると天神アンの形容詞になるのに対して、「ダキニ」となるとイシス・バッバルに対する形容詞になる、すなわち「蛙の雷神」がダキニ、「蛇の雷神」がドナということになるらしくて。要するに様々な言霊を使用して、神々も人の運命をも操る「叡智」を持っているのがこの系統の神、ということで。そして、ダキニというのは、ギリシャ神話のティターン(巨人)のことでもありますし、ティターンは天と地を支える柱のことでもありますので、ダキニというのは樹木とか柱とか階段を意味する女神でもあって。それは普通は肥料として「生贄を要求する人食いの太母」であるので、現代的な感覚からいえば悪神なわけで、有力な母神ではあるわけです。そして、天と地の「境界」を守り支える神でもあるわけで。

で、「夜の太陽」にも朝方に属する太陽と、夕方に属する太陽があるらしくて。で、バッバルから派生して、「地下世界の叡智(要するに鉱物精錬の知識)」という意味になるのがオーディン、バルドルとか、ヴェーダ(聖典)、プルート、プタハとなるわけで。で、インド方面に行くとブッダ(「目覚めた人」「悟った者」)、菩提(「完全なる英知」あるいは「悟り」)となるわけで。仏教的な「悟り」というのは、どちらかというと「世の無常に目覚めた人」みたいな印象を受けますが、そういうのではなくて、「ブッダ」の系統の神々は「人の定められた運命を変える神」というそういう意味があるって言われる気がするわけで。仏教は、印欧語族の「階級」制を否定して、階級による人の「運命」を変える宗教なわけです。要するに「階級なんて無意味なこと」と悟って、それによる運命を変えることができる者が「仏陀」ということで。(一方、定められた運命を「破壊する」神はアンに代表される雷神系の神なわけですが)

で、仏教の仏陀(要するにお釈迦様)は、釈迦族の王子のゴータマ・シッダッタというわけで。釈迦族というのは、「イシス」のこと、お釈迦様の姓である「ゴータマ」というのは「偉大なるダキニ」ということで、その人達は本来は、イシス・ダキニ信仰の人達、ということで。そして、彼らの「母なる神」とは、当然その木の下でお釈迦様が悟りを開いたとされる「菩提樹」であって。それは、彼らの間では「人の運命を変える叡智を授ける母神」であったわけです。だから、お釈迦様は「人食いの太母ダキニ」を「階級という運命を変える叡智を持つ母神」として定義し直したわけで、そうして搾取主義、独裁主義も否定したものが「仏教」ということで。で、イシスというと男系社会の地母神としての性質が強いわけですが、ダキニ、バッバルというのは母系社会の地母神の性格も強く、特にバッバルは母系社会の神、ということのようで。で、特に西洋における母系社会の「男性」というのは、共同体に寄生する存在、西洋ミツバチの雄のような存在、ということで。だから、ダキニ女神の「夫」とは、樹木に寄生する「ヤドリギ」のことであって、「柱に掛かる中空の太陽」を意味するわけです。ローマにおけるネミの森の祭祀も、先代の「ヤドリギ」を切り倒すと、その人が新しい「夫」になれる、というものなわけだから。だから、仏教もそうですけれども、未婚のまま神に仕える「僧侶」とか「神官」というのは、暗に「太母である女神の夫」ということを示すわけです。お釈迦様が出家して家族も国も捨てた、というのはただ「母なる神の一部となる存在になる」という意味であって。仏教における「出家」とは、そういうものなわけです。だから、「母なる神」から見れば、お釈迦様は「母なる神」の子神かつ夫神であって、母なる神に寄生する存在なわけです。で、古代のインドの宗教においてはそういう人達のことを沙門(サマナ)というわけで。サマナというのは、階級社会の上位にある人の意味であって、太陽信仰に例えると日中の最高位の大陽に例えられるわけで。貴い存在とされていたわけですが。まあ、だから母系の巫女集団であるウェスタの巫女が、男系的な結婚をすると卒業して巫女ではなくなるように、宿り木であるサマナは女神以外の女性と結婚すると、やはり卒業しなければならない、ということのようで。インドにおける沙門は、ゾロアスターにおける「マギ」という集団ということで。要するに、どこぞの事務所は蛙の人たちと蛇の人達が共同で作った「沙門」の集団なのですねえ??@@ って改めて思ったわけですが。ともかく、一番目の子との結婚をいったん白紙に戻して、ゾロアスターの人々と大乗の人々との「大同盟」を新しく形成し直すのであれば、蛇の目の人達も大乗の神々の名前を貰えるようになる、ということのようで。まず、北欧の人々からバルドルの名前を貰った6番目の子は、1番目の子との縁談をほぼ白紙に戻して大陽女神の「定められた運命」を変えたために、「仏陀」の名前を貰えたということのようで@@。そして、その功績が西方の人々にも認められてプルートーの名前を貰えたらしくてですねえ?@@ でも、北欧の人々は、ローマ的な言霊使いの「狡猾さ」よりも、「目の力」の強い人を好むので、その人にオーディンの名前はやらない、何故ならその人よりも「目の力」の強い私がいるから、って言ったらしいのですが。ともかく、プルートーの名前を奪取して最初のご挨拶が「我が名はプルートー、ペルセポネーの略奪者なり。」って言われた気がするわけでですねえ? いったい、どこのペルセポネーを略奪するつもりなんですかね? っていうか、総本家に「誘拐」って言って怒られるよ? って思うわけで-;(しかも、冥界神の夫婦に相応しく年回りも丁度13歳差だし><)。蛇の兄さんからは、そうやって「貰える名前」っていうのは、その人の性格とか性質にも大きく関係あるんだよね、って言われる気がするわけで。

でも、ともかく、100年くらい前には、私の出現は多くの人に予見されることになっていたし、「幼なじみの医者」と結婚することになるだろう、という予想はけっこうされていて、その予見に基づいて書かれたのが「赤毛のアン」であるので、そういう「予言」に定められた運命を覆すだけの「才能」を持っているのは希有なこと、って印欧語族の人達は言ってくるわけで。それはいいのですけれども、でも、そんなんで神サマの名前って貰えるモノなの? っていうか、それでいいの? っていうか、仏教における「仏陀」というのは、お釈迦様のことだと思うわけですが、略奪婚を目論むようなお釈迦様でいいんですかね? と思うわけで@@。そうすると、そうは言っても、「仏陀」というのは、元々「運命を変える叡智を得た者」という意味で、日本語で「悟りを開く」っていうと物事を諦めた人、みたいなイメージがあるけれども、そちらの方が間違っているわけだから、日本人的には、お釈迦様は出家して、王子としての位を捨てて底辺の暮らしをした人、みたいなイメージだけれども、それはそうやって自分が持って生まれた階級の運命(搾取する側の階級であったり、人を殺したりする因果な階級であること)から逃れるだけの「目の力」を持っていたっていうことだから、西方的にはもっとポジティブなイメージの生き方だから、本来的な意味からいえば、結局その人がその名前に相応しい人って判断されるだけ、って言われる気がするわけで。でもまあ、「仏陀」の名前は私と共有って言われる気がするわけで。医学部で定められた「運命」を蹴り飛ばすようなことをしてのけられる人材にもそういう名前は相応しいらしいのですが-;(そういうことをする人はそれこそいないも同然なので)。でも、なんだかヘンとはやっぱり思うわけですが-;。ともかく、6番目の子は「言霊使い」であるので、その人に言霊の意味を教えて貰って、逆に私がもっと狡猾な文章の書き方を教えてあげれば、お互いに得るものは一番あるんじゃないか、といろんな人に言われる気がするわけですがーー;。