本日の日誌

で、「天理教」のことを少し調べてみたわけですが、天理教とは「天理王命」を主祭神とする一神教であることくらいは元々知っていました。で、彼らはこの神様のことを世界創造の神として「親神」とか「月日親神」と言っている。「月日親神」とは何ですか? 月の神様なのですか? それとも、太陽の神様なのですか? と問うと、「それは外宮の豊受大神と同じ思想だから。」と言われる@@。「どういうこと?」と思うわけです。

丹後半島を中心にしている豊受信仰は、民間伝承的には「天女」が空から舞い降りてきて、人々に農耕や養蚕を教えてくれた、というものです。だから、彼女が月の女神であるのか、太陽女神であるのかははっきりしていません。でも、羌族の神話を見れば、そういうことを教えてくれたのは太陽女神である、とされています。で、丹後半島には、浦島太郎伝説が残されているとおり、そこに古くから住んでいる人達は、太平洋の島々に点在している海洋民族の一派でした。そもそも、古代日本の「縄文系の人々」というのは、大きく分けて2種類あって、主に東国から北海道にかけて住んでいたのはアイヌの人々に象徴されるような熊神信仰の人たちです。彼らはシベリアや北欧に住む人々と共通の信仰基盤を持っています。彼らの「熊神」も天空での所属ははっきりしません。それは部族によって、太陽神であったり月神であったり、大熊座に代表される星座であったりします。それは何故かというと、熊が「現実の食料源」として何よりも重要であったからで、天空での地位は人々にとって二の次であったからです。だから、部族によって「何が天空で一番の存在であるのか」という考えが違うので、それによって最上位の熊神の地位も変わる。弥生時代に入って、水稲耕作と太陽女神信仰が入ってくると、東国では太陽女神と熊神(要するに「山姥」のこと)は習合して「同じもの」と見なされるようになりました。

一方、西国の縄文系の人々は、太平洋中心の海洋民族が主でした。海の潮の満ち引きとか、海洋生物の産卵には「月の満ち欠け」が大きく関係しますので、海洋民族の「母神」とは、明確に「月の女神」となります。そこに農耕文化が入ってくると、穀物や芋類は「月の女神」の体の一部である、といういわゆる「ハイヌウェレ型神話」が形成されます。今でも西国では山陰地方を中心に、神様に捧げる稲の種籾を三日月の形に蒔いて、苗を育てる「月の輪田」の風習が残されているところがあり、穀物の豊穣が月の神によってもたらされる、という思想がかつて強かったことが覗えます。でも、水稲耕作を持ち込んできた人達の神様は太陽女神であったので、政策の一環として、折衷的な「天の女神」が意図的に作られたのです。それが豊受大神だから、この女神は海洋系の先住民からみれば「月の女神」と解釈できるし、弥生系の人々からみれば「太陽女神」と解釈できるのです。要するに、「月の女神と太陽女神は異なるものだと心得ているけれども、同盟の証として同じ神として祀っている」ということで、そこが東国における古代の信仰と異なるのです。西国では月の女神に対する信仰が強固であったので、太陽女神に対する信仰を、そのままの形で広めることができなかったのです。だから、豊受大神は月の女神でもあるし、太陽女神でもあるけれども、そのどちらでもない、ということになる。天理教も西国の宗教なので、その思想を受け継いでいる。と、そのように言われる。

太陽女神は東国生まれの東国育ちなので、西国的な「習合主義」の神様は一見すると理解しにくいかも、と言われるわけです。ウェスタとディアーヌも「太陽」と「月」ということだけれども、一つの時代に敵が勝手に決めた神様ではなくて、真に「神」と呼ばれる人材が2人揃うことは珍しいことなので、どちらかが欠けてもお互いに補えるように、そこの人達は共同して動くことが多い。でも、普通は家族単位の小さい集団で動くことが多くて、大きな組織を公然と作ることは希だ、と言われる。そして、私が便宜的にウェスタの名前を貰っていたとしても、基本的には彼らは「同族外」の人達だから同盟相手だし、普通はよほどのことが無い限り、お互いの内政には干渉しあわないもの、と言われる。

で、結局多くの人々の意見としては、私は「目の力」は強いけれども、自分では見ることも聞くこともろくにできなくて、直接いろんなことの采配を振るうには向かない。そうすると、対外交渉を受け持っていて、筆頭である6番目の子が、事実上、妻神の代理として采配を振るうことになる。つまり、部族外の人達と強力な同盟を結んで、彼らの支持が厚くなればなるほど、6番目の子の権力が増す。そうなると、敵も面白くないけれども、太陽女神の独占を画策する蛙の王家や富の王家も面白くない、とそうなるとのことで-;。だいたい、いつもその辺りで揉めるのかーーー、と思うわけですが-;。

でもって、昨夜は「ニノさん」を見て。「審B眼」とかいうのをやっていたわけですが、バカリズムが「女の人は2つのものがあったら、必ずどちらかかわいいのか言えるし、その理由も言える。」と言っていて。しまいには、黒沢かず子が二宮君の「寝癖風」の髪型を「かわいい」と言っていて、二宮君も「うれしいー」と言っていたのですが。そのネタはどう見ても、妻神に「かわいいと言われたい病」にかかっている6番目の子が仕込んだものでしょ? と思う。安室ちゃんのインタビューを聞いていて、親ですら「『誰にも相談できない』と言うけれども、ああいう人達は周りにいろんな人がいて仕事をしているものでしょ?」と妙に感じることを指摘できる。だいたい、そもそも5年前に引退を考えていたのなら、ライジングからの独立騒動の時に引退してしまっても良かったのに、って誰も突っ込まないけど私はそう思う-;。そして、あーやちゃんの「アウト&デラックス」もそうですけれども、彼女はミッキーマウスと、マイケル・ジャクソンと、デラックス・マツコが好みのタイプ、と言っていて、マツコに「好きなのはフィクションのミッキーと、亡くなった人と、オカマの私」と言って苦笑いされていたわけですが、それは要するに「現実に好きな男性はいない」ということを、トーク番組向けに何とか面白く再編しただけのものな気がする。しかも、ミッキーというのは神話的に意味のあるアイコンであって、それはギリシャ神話の太陽神アポローンのトーテムであるわけです。要するに、ギリシャ神話の雄々しい太陽神アポローンみたいな人が彼女の「理想の男性」だし、彼女は好きな人のことをアポローンのような存在だと考えている、とそういうことなのだと思う。でも、それ以外のマツコネタとかは、とってつけたようなおまけだと思うわけで-;。そういう「とってつけた」ような話を聞く度に、6番目の子の言葉の使い方を思い出すし、誰が考えた文言なのかは一目瞭然、ということで。そういう言葉の一つ一つが、6番目の子から私への恋文のようなものに感じる。

でもって、「ニノさん」では、SNSのアイコンにどういう画像を使うかで、その人の人となりの悪口を言う、というのをやっていたわけですが。中に「ペットの写真を使う」というのがあって、「つまんない女」だけど、バカリズムとかが「僕はそういう人が好き」みたいなことを言っていて。そういうことを、わざわざバカリズムに言わせる? というか、私のdeviantARTのアイコンは、昔飼っていたペットの猫の写真なんだけど、と思うわけで(苦笑)。6番目の子の影はあちこちで感じるわけです。