本日の日誌

昨夜はなんだか夢を見て。なんだか、誰かに家みたいなところに閉じ込められそうになっていたのですが、そこをなんとか逃げ出したわけです。で、外を歩いていたら、駅のようなところで階段があるところで、潤君とたまたま会って。で、まだ本当は外に出られる状態ではないので、お互いに知らんぷりしていなければならないらしいのですが、でもせっかく会ったんだし、役得だ-、と思って、「ファンです。握手して下さい。」って言って、握手して貰って。で、快く握手して貰って、別れて潤君は階段を昇って行ったわけですが、知らんぷりしようとしていても、こちらを意識しすぎていて、階段でコケたりしていて。私はそれを見て、思わず笑ってしまった、という夢で。目が覚めて、またまたヘンな夢を見たぞ、と思ったのですが@@。

で、今日は週刊誌の発売日であったので、週刊誌を買ったら、潤君が新しい紙おむつのCMの撮影をした、という記事が載っていて。わりと、6番目の子がそこから「目の力」を送ってくるので、なんとなくその記事ばかり見てしまって。「お仕事」の方は、職人さんがやっと来たのですが、午後から雨が降る予定だったので、午前中だけ仕事をする予定だったらしくて。コンクリの穴埋めをして、お隣との境界を重機で掘って整えて、そこまでの仕事をゆっくりとやって、それでとっととお帰りになってしまって。こちらはその合間にせっせと石掘りをしていたのですが、だいたい家の中央に当たる土台の下から、かなり大きめの石が出て来て、苦労して掘り出したわけです。そういう石の周りには細かい石がたくさん入っていますし、くさびのように中くらいの石もけっこう入っていて。しかも、粘土のようにねっとりとした田んぼの土が、そこだけまわりにこびりついていて、石を固定するように作用していて、わざとそうやって石を人力で組んで積み上げたことは明白であって。土台の間際はそうやって、総ざらえする必要がある、特に玄関の周辺を中心に、って思ったわけですが。親もやっとその決心をしたらしくて。

家に帰ってきてから、昨日の「夜会」と「Mステ」を見て。夜会の方は、ローラちゃんが船橋で第九(「歓喜の歌」)をトランペットで吹いて、何かパフォーマンスをした、というようなことをやっていて。なんでわざわざ千葉で? と思って。クラシックは、歌詞のある「お歌」とは、ちょっと違うけれども、曲だけで気持ちを表せるものでもあるよなあ、と思って。スタジオでのローラちゃん、翔君、知念君の服装も悪くありませんでしたし、わざわざ第九をやるということにも意味があって、それもローラちゃんの気持ちなのかなあ、と思って見ていたのですが。見ていたら、船橋(下総)の神は誰か? と聞かれた気がして。それは香取の神、と思って。で、テレビの下を見たら、偶然香取君が表紙の雑誌が置いてあって、香取君がこちらを見ている気がして。そっかー、この曲とパフォーマンスは香取の神の気持ちでもあるんだ、ってふいに気が付いて。思わず涙がこぼれたのですが。

でもって、MステはJUMPの兄さん達が今週のゲストと言うことで。兄さん達も負けず嫌いですけれども、筆頭の子も微妙に焼きもち焼きだしなー、と思うわけで-;。で、今回は1996年のランキング特集みたいなことをやっていて。小室が全盛の時代で、小林武史とランキングを争っていた、みたいな内容で。4月には小室の曲がランキングの上位5曲を占めたという「音楽界にとって驚愕の事実があった」みたいに言われていたわけですが。4位がDOSで、3位がglobeで、2位が朋ちゃんの曲であって。朋ちゃんと別れた後結婚したDOSのボーカルのASAMIが小室の2番目の妻、その人とも別れて再婚したglobeのボーカルのKIEKOが3番目の妻なんだから、小室の女癖の悪さに今更ながら驚愕しそうなランキングだ-、と思ったわけでー;。だいたい、当時の小室の映像も出ていましたけれども、いかにもギラギラした野心家、という感じであって、そういう男が好きな女の人からは確かにもてそうな風貌だったかも? と思うわけで。なんで、今更ながら、あんな枯れ果てたじいさんみたいになっちゃんだろう? というか、若い頃に遊びすぎて本当に枯れ果ててしまったんだろうか?? とか、むしろそういう気持ちになってしまうわけでー;。もう一方の小林武史も女癖の悪さでは定評のある人な気がするわけで、世間ではバブルが崩壊した後でしたけれども、音楽界はまだまだバブリーな時代だったかも? と思うわけで。でも、いろんな人達からは「暗い時代の始まった年」って言われるわけで。その年は私が大学を卒業した年なので。今なら分かるけれども、みんな私に早稲田の文学部に行って欲しくて、エジプト考古学の吉村先生、ヒッタイト考古学の大村先生を取りそろえて、私が辿って行きやすいように、準備万端を整えて待っていてくれたんだと思う。でも、現実はそれどころではなくて、そこからどんどん引き離されるばかりで、どんどんそれが実現不可能な方向に行くばかりであって、4年も近くにいた1番目の子と2番目の子も、そういう事態になんの有効な手も打てなかったわけだから、絶望感に打ちひしがれている人達もけっこう多かったのだと思う。音楽界で小室バブルが全盛だった年に、前年までヒット曲を連発していた福山君は、遂に心身ともの疲れ果ててしまって、2年間の休業状態に追い込まれていたわけだし。兄さんは、当時のことは、腸の煮えくりかえる思いで、1番目の子のことも、2番目の子の事も絶対に許さないだろう、と思うわけですが。

で、結局、この年に味方も大きな方向転換を余儀なくされて、早稲田に行かせて、学術的にしっかりと現実を勉強させることは、放棄せざるを得なかった。そして、その代わりに、もっと私に「合ったやり方」を模索することになったわけで、「良いモノ、とか悪いモノ」とか言っていないで、私が得意なもの、例えばコンピューターとかを使って、「答え」に私がたどり着けるようにすること、そして居てはいけないところから、できるだけ速やかに引き出すことが最大の目標になったということで。だいたい、インターネットというものが、ものすごく一般にも普及し出したのはこの年からで、それまではインターネットというものはものすごくマニアックな部類のものだったわけです。パソコン通信みたいなものは、パソコンとか機械とかに詳しい一部のマニアックな人達の趣味の集まりの手段であったり、でなければ学術的な文献を集めて検索する場であったり、会社の内部での連絡網の構築の一部であったり、とかってそういうものであって、一般の普通の個人が気軽に利用するようなものではなかったわけで。「誰でもHPが作れる」とか、そういうことはこの頃に始まったわけです。だから、私が最初に就職した頃は、職場内での連絡手段は、まだ職場内メールとかLANとかそういうものでもなくて、ポケベルであって、コンピューターもあっても、1台ずつ個別に使っているような状態であって。学生時代の連絡網も、電話(しかも当然固定電話)しか手段がなくて。それが、私が卒業して2年後には、みんなPCのメールで連絡を取り合うようになっていたわけだから、その間の変化というものはすごくて。私がインターネットを始めた頃は、接続するのに「夜間だけ定額」というサービスしかなくて、今みたいに「繋ぎ放題」ということもなかったわけです。でも、2年くらいの間に「世の中」はあっという間に変わっていって。

で、もう一方の方は、当時のヒットランキングを見ていて気が付いたわけですが、ミスチルの「花」とか、B’zの「見えない力」とか、朋ちゃんの「save your dream」とか、ともかく「負けないで」とか「諦めないで」という趣旨の歌ばかりで、もうそういう追い詰められて「自殺するしか無い」という状況だったことを、みんなは分かっていて、できるだけのことをしてくれていたんだなあ、と思うと泣けてくるわけで。親は「そのままそこで働き続けろ(すなわち「自殺しろ」)」としか言わなかったのにねえ、と思うわけで。最近も親と話していて、「父親がいなければ、家に引き取りたかった」と言われて、更に文字通り「ぞっ」としたわけです。誰が家に引き取って欲しいって言った? って思って、本当に何を考えているのかが分からない、というか、未だに当時の狂ったとしか思えない思考回路が続いている気がして、本当にどうしようもなく気持ち悪く感じたわけで。あの時に家に引きこもっていたら、丹後半島にも伊勢神宮にも行くこと無く、インターネットも続けさせて貰えていたか分からないのだし、「卒業したらなんでも好きにしていい」って言ったくせに、文学部に行くことだけは執拗に、かつ絶対に阻止しようとしていた人物を頼って、なんで私が実家に帰ってくるって思うんだろう? というか、そこのところがどうしても理解できなくて、気味が悪く、おぞましい感じしか持てないわけで。人の「言っていること」に全く耳を貸していなかったよね? なんで、そんなことができるの? できたの? って今でも思うわけですが。さすがに、今は当時よりはずっとましなわけです。まあ、あれだけ石が詰め込まれているところを見れば、大抵の人はある程度、感じるモノも思うところもあるとは思うのですけれども。ということで、1996年の「お味方」のヒット曲もさることながら、当時の私の中にはB’zの「孤独のRunaway」という曲が流れ続けていた気がするわけで。これは、そのまま、「現状から着の身、着のままで逃げ出せ」という歌だったわけですし。しかも、丁度自殺願望が顕著になり出した頃、たまたま美容院で読んだ週刊誌に「過労によるうつと自殺」の記事が載っていて、そこには、そういう兆候が出たら、「仕事は辞めた方が良い」とあって。そして、「理解ある人のフォローも必要だ」みたいに書いてあって。でも、うちの親は、当時は「私はいくら過労でもノイローゼになったりしない。そういうものは、そういう素質がある人だけがなるもの。」って言い張っていて、はっきり言って、「無知も良いところ」という状態であったので。そんな自分勝手な出鱈目を言い張るばかりで、話にもならないようなところを頼っても、殺されるだけ、って思っていたし、親は今でも言動からして、そういう方向を目論んでいた気がするので-;。とてもではないけれども、実家を頼れるような状態ではなかった、というかさすがに持っていた資格から言って、私自身がそれほど無知でも非常識でもなかったわけで-;。それで着の身、着のままで関東に逃げ出したわけです。出鱈目な職場と、殺人も同然のことばかりを目論む親から逃げ出すために。そこで、敵に翻弄されて多くの時間を費やしたけれども、味方の声にも応じて、丹後半島や伊勢神宮へ、貴重な時間を費やして出かけることができたわけで。それが、大学を辞めた後の、最大の良いことであり、現在に通じる最大の良い収穫であった、と思えるようでないと駄目でしょ、とそう思うだけなわけですが。そんなんだから、1996年は、味方にとっては、「暗い時代の始まった年」と呟かれるわけですが、敵からは「そんなこと言ったって3年後には、そこから逃げ出していたくせに。」って言われるわけで。3年後には私は松本にはいなかったし、福山君は再び活動を再開し出したし。そして、1996年頃からすでに「言いたい放題」だった、ともっぱらの噂の「筆頭」が世に出たのも3年後の1999年ということで。だいたい、誰が1996年の時点で、大きな方向転換を進言して、一つ一つできることから実現させて行ったのか? と問われる気がするわけで。だいたい、その時点で、ものすごく話が長引くかも、ということで、名乗りを上げたい人も含めて大規模に人材を集めた結果、婿の数が20人にもなる勢いで増えた、って言われる気がするわけでですねえ?? 増えた結果、言い出した人が一番焼きもち焼きだった、という20年後になっている気がするわけでー;。その頃から、先のことばっかり管上げる癖がついているのですねえ? と思うわけで。でもって、後はJUJU姐さんが、明菜ちゃんの「DESIRE」をカバーして歌っていて。1986年の曲ということで、30年も昔の歌か-、というか、もはや敵でも味方でもあからさまな「懐メロ」という気がするわけで。当時の明菜ちゃんの映像も流れましたが、まだ声も良い声をしているし、「目の力」はともかくとして、やっぱり歌は上手かったのにな-、と思うわけで。でも、ふっと気がついていたわけですが、30年も前だと、そこに座っているJUMPの兄さん達とか、まだ生まれてもいないのでは?? と思って@@。兄さん達からは、「こういう構成にすること自体が筆頭の嫌がらせ」って言われる気がするわけで@@。なんだか、毎週微妙な修羅場が繰り広げられている気がしてならないわけですがー;。でも、来週のゲストはKinKi-Kidsなので、修羅場の広げようがないかも、と思って-;。今日はなんだか、そんな一日だったわけです。