本日の日誌

本日も「お片付け」ということで現場に出かけて。今まで何のために置いてあるのか分からない道路工事用のカラーコーンとか、そういうものをできるだけ片付けて貰って。で、明日には仮設トイレも片付けて貰う、ということで。お盆前の作業はだいたいそんなところだと思うのですが。今朝は、朝起きて家の外に出たら、空をヘリコプターが飛んで行って。で、お昼頃にも太陽の付近に飛行機雲の×が出て。で、帰り道でホームセンターの駐車場でも、ごく薄い×を見て。なんだろう、何が問題なんだろう? と思ったのですが。でも、どうにも敵はこちらの隙を伺ってはゴミを撒いたり、埋めたりしたがる、ということで-;。誰か工事の人が来る度に、新しいガラスの欠片が蒔かれていたり、その辺りにいなかった虫や蛙なんかが出現するわけで。だから、お盆休みだから家で休んでいる、とか言わないでちゃんと現場に出向くように、とかそういうことなんだろうな、と思って。朝のヘリコプターは、工務店の人のそぶりから見て、「片付けに乗じてゴミを入れられないように」ってことだったんだな、と思って。

で、午後は某所にある布制神社というところに行ってきて。そこは、かつてそこを領地にしていた布施氏が建立した神社であって、主祭神は布施氏や阿部氏の祖先である大彦命ということで。大彦命は、埼玉の稲荷山古墳の被葬者が、「上祖は意富比垝(おほひこ)」と述べており、また記紀神話では崇神天皇の時代に北陸道に派遣されたとされる将軍が大彦命であるので、おそらく百舌古墳群を擁する河内王朝と、飛鳥の地にあった王朝の並立と争乱の結果、4世紀中盤から後半にかけて(時期はもう少し早いのかもしれないけれども)、東国に大規模に移動して定住した出雲系の王族の内の重要な氏族の祖先が「大彦命」であったと思うし、その語源は出雲国意宇(おう)郡に遡るのではないかと思う。すなわち、出雲系の王族の内でも、元々本拠地であった意宇郡の名を持つ人物から出た氏族は、王家の直系に近いところから出ている氏族であると推察される。しかも、西国の伝承によれば、神武天皇と戦った長髄彦の外戚が阿波国(徳島県)の阿部氏であったと言われているので、大彦命の末裔達は、飛鳥の側の王家の近親であり、かつ近臣でもあったと思われる。そのため、王が東国に移動する際に、行動を共にした氏族が多かっただろうと思われるので、布施氏もそのような氏族の内の一つであったと考えられる。だから、北信濃のかつての勢力範囲というのは、犀川西岸は水内神(彦別神と呼ばれる女神)を擁する金刺氏(飛鳥の地にいた大田田井氏の末裔)、犀川東岸は大彦命を祖神とする布施氏(武水別を擁する氏族)、というふうに、同じ諏訪神と八坂刀売を祭神としていても、棲み分けができていたのだと思われる。現在的には、西岸の「水内」と名の付く神社群は、神社そのものが衰退したものが多く、東岸の神社は稲荷山の武水別神社の八幡神とか、布制神社の北野天満宮のように、神社の方は大々的に残っているものの、主祭神として本来の神でないものが入り込んでいる傾向が強いものが多い気がする。でも、ともかく大彦命の末裔は富の王家の譜代の人々、ということでそういう神社に結縁すると、そちらの人々の声が届きやすくなるのですよねえ? と思うわけで。帰りに寄ったガソリンスタンドで、「お母さんもすっかり日に焼けて、ご苦労様です。」って話しかけられて。「あたしの方は部屋の中でゴロゴロしてるので、あんまり焼けてないんですけど><」って返事して。誰が話しかけているんだろう、と思って横を見たら、いつもガソリンを入れに行くと嬉しそうにニコニコしてくれる「阿部」に連なる名前の人であって。「「目の力」を使って話すやり方を、できるだけ練習させるように言われてます。」って言われた気がするわけで。「頑張って下さい。」って言って貰えたわけですが。

あとは、最近、どう見ても名前もよろしくないし、目の方も「よろしくない目」を持った人なのに、妙に親しげな「目の力」を送ってくる人が増えた気がして。どうも、そういう人達はローマ人ではあるけれども、ユーピテルの信徒ではない、って言われる気がするわけで。イタリアも含めて、地中海周辺地域には、世界的に名前の知られていない小さな部族の神々もいくらもいるわけで。ローマが強力であった時には、そういう部族の人々と神々はローマに吸収されて、普段はローマのモノのように扱われるけれども、ユーピテルの「目の力」が弱まると、それぞれが独自に動き出して、自分達だけの「一勢力」を作りたがる。そういう人達は、ローマ人でもあるけれども、完全にローマに支配されて動かされるつもりは持たなくなるし、だからといってこちらの味方になる気もなくて、両方の間を行ったり来たりして、自分達だけの「漁夫の利」を得ようと画策するから、それこそ敵にも協力するし、信用できないけれども、こちら側にもある程度は協力してくれるようになる。その「ある程度」をどこまで積み上げられるかが政治だよ、って言われる気がするわけで@@。敵の力が弱まると、それこそそういうコウモリみたいな人達が増えるよ、って言われる気がするわけで。

でもって、そういう人達からは、そもそも「人身御供」とは何なのか? ローマ人のやり方と、そうでないものとの間の区別がついているのか? と聞かれる気がするわけで。だいたい、西方の「生贄」っていうと、聖書で非難されている幼児供儀なんかが有名なわけです。古代の地中海周辺地域では、初子を神に捧げる、という習慣が割と広く行われていて、しかもそれは儀式の際に、親が悲しんだり、嘆いたりするそぶりをすると、人身御供の効果が減るので、親族はあくまでも喜んで嬉しそうにその儀式を行わなければならなかった、ということのようで。要するに、「自分自身にとってもっとも大切なもの」=「初子」を喜んで神に捧げることが、神の恩寵を得るために必要な「犠牲」である、と考えられていた、ということで。でもって、不思議なのは古代のローマではそういう習慣が盛んではなかったらしくて、ローマ人はそういう習慣を「野蛮な行為」として非難し、嫌っていたわけです。でも、ローマ人も人身御供を全く行わなかったわけではなくて、国家に何かあったりした場合には、ウェスタの巫女がその責任を問われて生き埋めにされたりしたわけで。そのため、巫女には特別に男性と同等の高い社会的地位が与えられていたわけです。そして、それ以外にも庶民レベルでは、何かあれば、余所者を捕まえて生き埋めにしたりしていたわけで。でも、古代ローマは男系社会だから、そもそも女性は男性の持ち物であって、価値というモノはあまりないわけです。だから、ウェスタの巫女とか、余所者を生贄にすることは、「自分自身にとって最も大切なモノ」を神に捧げることになるのか? と問われる気がするわけで。それで、そっかー、ローマ人がそもそも軽蔑しているのは、「神に大切なモノを捧げること」そのものだし、そういうことをせずにおいしい思いをしようと、そういうのがローマの思想なんだ? と思うわけで。だから、出家した人が異性と性的交渉を持たず、子孫も持たない、というのも一種の「自己犠牲」であって、生きていても死んだも同然だから、そういう人は自らを犠牲にした人、ということで尊敬されるという文化もある、って言われる気がするわけで。でも、古代ユダヤ人が目指した「人身御供禁止」は、他人も自分自身も犠牲になることを禁じるものだから、だからそこから発生した文化には、出家者が結婚することを禁止する、ということがない、って言われる気がするわけで@@。だから、西方に住んでいて、「人身御供禁止」の思想を持っている人々は、厳密に言えば仏教の「活仏」という思想も「自己犠牲」の一種とみなして、嫌う傾向がある、って言われる気がするわけで。でも、今のローマのやっていることというのは、異民族にもせっせと「キリスト教」を布教して、「自己犠牲」の精神の美しさを説くし、御布施と称して実際に末端の信徒に「自己犠牲」を求めるわけですが、でも、上の方のローマ人は自分ではそんなことする気は無いし、邪魔なものは、「異教徒は殺せ」式な感じで始末するのが当たり前だと思っているし、二枚舌もいいところ、って言われる気がするわけで-;。まあ、だいたい自己犠牲の精神がそんなに大切で美徳なら、他の神サマを信じている異民族のところに、「元から信じている神サマを捨てて、自分とこの神サマを信じるように」なんて言わないし、言えないでしょ。他人のために自分の神サマも犠牲にできてこその「自己犠牲」なんじゃないの? って思うよね、普通、って思うわけで。

でもって、今日は「VS嵐」を見たわけですが、潤君だけ、けっこうなチェックの服を着ていて。で、冒頭にみんな「夏休みなんてないよね」という話をしていて。番組が終わったあとに、あのチェックの意味はなんなんだろう? と思ったのですが、「夏休みなんてない」って言われる気がするわけで。やっぱり、それかなー、と思ったのですが。もうそろそろ勝負の残りの数も尽きてきているので。いかにそれを乗り切るかだな-、と思ったのですが。