そうえいば今日は7番目の子の視線もけっこう感じていたわけで。割と福山君のプライベート関連のニュースが出回る時には、いろんな人が「女心」に気を使ってくれているのかなあ、という気がするわけで。でも、今日の「コメント」は5行しかないし、芸能人としてはどう見ても福山君の方が格上であるので、そちらに非常に気を使ってるのはミエミエなわけで-;。そんなんでも、某悪口掲示板で、コメントが出たそばから叩かれているわけで。コアなファンというのは怖いね、と思いながら、ついつい見てしまう、というそんな感じなわけですがー;。それに、ネットオークションとかで、福山君のグッズを纏めて大量出品している人がけっこういるとかって、それもニュースになっているわけで-;。まあ、グッズを処分したら、次にやることはファンクラブを抜けることだよねえ? と、そういう流れはなんとなく予想はつくわけで。まあ、一気に激減する、ということはないでしょうし、まあ、大抵は「次のライブを見てから決める」という人が多いんじゃないかと思いますが、それもやっぱりチケットが取れたり、取れなかったりっていう状況らしいですので、騒ぎが沈静化すれば、いろんな動きも沈静化するのではないのかな、と。自分の経験ではそう思うわけですが(苦笑)。でも、そういうリスクを度外視して、代償行為的にいろいろと動いてるよね? とは思うわけで。さすがに、今日のコメントなんかは、むしろそっちでしょ? って思うわけで。(っていうか、でなきゃ反感が来るのを覚悟で、この時期に蒸し返すような蛇足なコメントは出さないでしょ、普通、とそう思うわけで-;。)どうも、どこかあたりからは、「あの女に同情したらぶっ殺す」とかって言う声も聞こえてきそうな気がしますので、もうこういうややこしい話では、「自分自身以外には誰にも同情したくない」という気がするわけですが-;。まあ、福山君のファンクラブの会員番号数は900万を越えるってもっぱらの噂ですので;。途中でやめちゃった人とかで欠番があったとしても、けっこうな人数は残るでしょ、ということで、まあ、あまり誰にも同情はしませんよ、ということで。某悪口掲示板の書き込みも、石井の時のに比べれば数十倍マシだよ、あれでも、と思う私なのですが-;。(しかも、いくら纏めて安く売ってても、私には「そういうものに手を出しちゃならん」というお達しが来てますのでね。まあ、何でも人事ということで-;。)
でもって、西洋の悪魔信仰、要するに「サタン信仰」というのは、麦の豊穣に関する信仰だと思うわけで。麦というのは秋蒔き、春収穫、ということで、春に苗を植えて秋に収穫するお米とは生育サイクルが逆なようなのですが。そもそもローマで行われていた12月のサートゥルナリアというのは、種蒔きが終わった後の祭礼だったようで。暖かい地方だし、暦が今とはちょっとずれてたりしてそうなっていたんだろうな、と思うわけですが、要するに農耕神と言われているローマのサートゥルヌスの12月の祭礼は、「蒔いた種の豊穣」を祈るもので、日本ではむしろ「春祭り」に相当するものだったようで。で、西方の「農耕神」の祭礼というのは、デーメーテール女神とペルセポネーが主催するエレウシスの如く、「犠牲を捧げて芽吹くものの豊穣を得る」というものですから、当然犠牲も捧げられていたと思われるわけで。サートゥルヌスの12月の祭礼は、クリスマスの原型、と言われていますから、そもそもクリスマスというのは、犠牲を捧げて新たに芽吹くものを祝う祭りだったわけです。だから、イエス・キリストがクリスマスに生まれた、というのは当時に再生を始める「太陽」にも準えられているわけですが、この時期に芽吹く「麦の芽」にも準えられているということで。で、麦が「イエス・キリスト」そのものだから、そこから作られたパンは「神(イエス・キリスト)の肉」とされるのだと思うわけで。だいたい、そもそも「プレゼントを誰かにあげる」という行為も一種の「犠牲」でしょ? って言われる気がするわけで。キリスト教における「イエス・キリスト」とは「死して犠牲となる神」でもあり、「穀物などとして復活して人々に食われる定めの神」でもある、ということで。そして、勝手に生き返ったり死んだりして、「生と死の境界の秘密」を知る神、ともされていて。というか、その「秘密」を知るからこそ大地から「豊穣」をもたらすことができる、ということのようで。「神」とは犠牲に捧げられるものであり、穀物として復活するものでもある、わけですが、でも実際に「神」なる者が生きたり死んだりを繰り返す、ということはあり得ないので、その代替として「神に準えられた者が毎年生贄に捧げられる」ということになるわけで。クリスマスというのは、そもそもは古き「神」を殺して、新しい「神」を誕生させるエレウシスみたいな祭礼だったんじゃないのか、と思うわけで。古き「神」とみなされるものは、その年に生まれた子供や、その年に生まれた家畜の子、その年に収穫された穀物の一部、という具合に、前年に再生された「神」の一部に相当するもの、ということで。それらは、サートゥルヌスの一部であり、サートゥルヌス自身でもあり、毎年そのように繰り返し再生される新たなサートゥルヌスこそが、常に新しく、そして「永遠」である、と。そうやって、毎年赤ん坊を犠牲に捧げるのが、「サタン信仰」なんだな、と思うわけで。で、確かインドとかには、生きた人を焼き殺して、種を一緒にその灰を蒔く、とかそういう風習があったところもあったと思うので、「燔祭」にはそういう意味もあるということで、むこうの「農耕神」というのは、たいていそういう性格の神サマらしくて、サタナ女神も元はそういう神、ということで。
封神演義を読んでいると、これは一応中国の古代の物語ですので、中国の神仙とかが一杯出てくるわけですが。何故か、中国の神仙界はそれはそれで閉鎖的?であるらしくて、そこに登録されていないと中国の神仙とは認められないようで。でもって、ときどきそこに登録されていない西方の神仙(夜叉)とかが紛れ込んできて、勝手に暴れた挙げ句に西方に強制送還されたりしているわけで。でも、その中に「西方の夜叉は人肉を好み、男よりは女、女よりは子供、子供よりは赤ん坊の肉を好む」って書いてあったりするわけで。その年に生まれた赤ん坊を「犠牲に捧げる」という慣習がかなり広い範囲で行われていたことを伺わせる記述だなあ、と思うわけで。しかも、処刑の刑罰の中に、人を首まで地面に埋めておいて、鋤で鋤殺すというのがあるとかって書いてあって。それも元はむしろ、刑ではなくてれっきとした「祭祀」であったであろう、と思われるわけで。特に「麦」に関する農耕祭祀は強烈なのが多いぞ、という気がするわけで。
で、エレウシスもそうですけれども、表向きは犠牲の祭祀を禁止して、そういう祭祀を「密議」化して、ごく一部の人だけが行うというのは、「神から得られる恩恵を独占しようとする行為」って言われる気がするわけで。それで、そういうことは現代社会では「一部の権力を握った特権階級だけが許される行為」みたいなイメージを持たれるのですねえ? と思うわけで。
というわけで、今日は「筋交い」のことについて気が付いたわけで。そして、外の世界、特に蛇の兄さんと6番目の子に関わる動きが、自分の動きに合わせているかのようなことも実感できて。誰かさんは「明日は、書かされてる感満載のお手紙が届く気がする。」って呟くわけですが。まだまだ先は長くて、気をつけなければいけないこともたくさんある気がするわけですが。でも、今日は6番目の子を非常に強く近くに感じて。この人はこの人で、蛇の兄さんとは違った情熱を持っている人な気がして。なんというか、兄さんよりも「確固とした」気性を持っている人な気がして。不思議な一日だったのでした。