ええと

お風呂に入っていましたら、兄さんのところのスタッフの皆様から、興味深い「お願い」があったようで。

ええと、内容を書きたくないのであれば、「了解した」とだけ日記にアップして下さい、って言われましたので。いいですよ、別に「了解いたしました」ということで。私でお役に立てることであれば。それに、書くだけでしたらただですので。

朝から

今朝はですねえ、ぼーっと音楽を聴きながら半分寝ていて、誰かさんは忙しくせわしなくしているなー、と感じていましたら、「基本的に彼は長期オフとお考え下さい。仕事は最低限必要な分しか入れてありませんので、心して下さい。」と言われるわけで、あー、今回ははっきり聞こえたな、と思ったわけです。
確かに、おとといあたりから、スタッフの皆様はこれを伝えようとしてた気がするのですが、「気」で会話するのってなかなか普通に伝わりにくいというか、中途半端に言われても、「オフって言っても、彼には定期的なお仕事があるでしょうが?」って私に切り替えされるわけで、意思疎通に結構苦労されていたようで。

兄さんの方は、私の名前が手に入ったので、時々、「○○、会う」って書いたプラカードをぽんぽん放り投げてくるわけで、しかも「『会いたい』じゃなくて『会う』だから」って念押ししてくるわけで。
しかも、ジャケット写真は、率直明快に、「あなたが欲しい」としか言わないわけですし。
そして、私に見られていることに気が付くと、多少は正気に戻って、「朝からあまり見ないで下さい。熱くなりすぎちゃうから。」という兄さんがいるわけで。

どうにも、私の性格というのはですねえ、兄さんの激しい情熱をまともにくらうと、蛇女が目覚めて、「私のところへ来い。お前の何もかも全てを食べ尽くしてやりたい。」って明確に言って思う、自分がいるわけでしてねえ? それは、やはり印欧語族的なイナンナ女神そのものだと思うわけで、でも、私は彼らのようにこういう自分を肯定して、なおかつその性質を自分で上手くコントロールして生きていく、という生き方も育ち方もしてこなかったので。そういう性質は、自分でも好きでないので、意志の力で抑えていたいと思いそうしてきたし、外の世界で殺されるような目にあったりとか、そういう過程で、世の不条理にも何もかもに、冷静かつ冷徹に臨むようにしか自分に求めて来なかったので、どうもその結果「無我の目」というものを獲得したようなのでですね。イナンナ女神でも、悟りを開いた仏様でも、どちらにしても人間らしい「可愛げ」というものはあんまり「無い」と思うわけですが、私としては「冷静な目」というのは、それと対照的なイナンナの目を抑えて、コントロールしていくためにあるものですので。事態が流動的な時には、この目を最優先して使っていくことについては、大目に見て頂きたいかな、と思うわけです。

ただ、仏教というものは、行きすぎた階級社会を打破するためのものであるので、誰でも彼でも「平等、平等」って言い過ぎると、あって当然の「秩序在る階級社会」まで破壊されるほどの勢いがありすぎて、それは困る、とお考えの皆様が多いようで。今はまだ過渡期であって、印欧語族の皆様は、私に好意を持って下さっても、兄さんのことは「お試し期間中の軍神」くらいにしか思っていなくて、基本的に兄さんの統制下にはなくて、割と私に直接言いたいことを言ってくれますので、何よりも「情報の統制」を取りにくくなっているのが困るらしいです。(まあ、確かにあけすけに「一回や二回やったくらいで」って言われましても、「一回や二回はやったんだ?」って思うだけであって、確かにそれはそれでミもフタも無い内容なんで、リアクションに困ることは困るのですけれどもね(苦笑)。まあ、兄さんも今となっては、このネタも開き直って笑ってるだけなわけですが。しかし、基本的に「情報の統制」がきちんと取れているということは、戦う際に重要なことなようですので、そこを危惧されている方々は多いようです。)

まあ、でもとりあえず、「届いたことは、こちらも受けとっている、という証拠として、日記にアップしといて下さい。」って兄さんに言われますので、ともかく「心して下さい」のところは、こう聞こえましたよ、ということで<(_ _)>。

色即是空 空即是色

ええとですねえ、兄さんという人は、目の力以外にも、かっこいいですし、生命力に溢れていますし、魅力的な人ですので、逆にそういうものを全部見ないで、「どういう生き方をしている人なのか」という点しか冷静に見ない私の「目」とは、一部の人には奇妙に見えるようで、「虚無の目」だ、とか言われるわけで。なんというか、見ている私の心が虚無ということ? と思うわけで。

それで、今日買ってきた週刊誌もすごく気合いが入っているわけで、世界遺産の写真とか、ジャニーズの写真がいっぱいあるわけで。でですねえ、その中に写っているお坊さんが、
「仏教には色即是空、空即是色という言葉がありますよね。形在るものが虚しいということは、例えば今居る自分は、明日になれば存在しない「自分」になって虚しいものですし、空即是色というのは、昨日の自分は存在しない虚しいものであるけれども、それがあるから今の形在る自分がいるということです。人の一生もそれと同じで、人はいつか死んで虚しいものに帰る。でも、その一方で生命ともいえない精子と卵子の結合によって新しい命は生み出される。けっして、逆戻りすることの無い、「時間」という大きな川の流れの中で、形在るものは全て変化し移りゆくもので、「常」であるものはありません。それが諸行無常ということです。それらの全てを、流れゆくままに静かに見つめることができて、尚且つ良きことのためにその力を使うことができる心が「悟りの境地」というのです。どうか、あなたのその目の力を恐れないで下さい。それこそが生きた仏の目です。」
と教えて下さるわけで。そして、今はできうる限り、外に向かって力を使わないように、と言われるわけで。
兄さんは兄さんで、仏教の力の名代となるために、一度は私と一緒にお戒壇巡りをしたいとは思っているようですけれどもね。でも、兄さんはあの通りに生命力に溢れた方ですから、入滅に憧れるような仏教の静謐さとは基本的に相容れないような気がするわけで。そういうことは、むしろ体が弱くて、壊れかかった遺伝子を持っていて、医学部に行って自分という人間の体を知れば知るほど、こんな状態でも生きている自分とは、生命とは何なのだろうか、と考えることが多くなっていっていた私の方が似つかわしい気がするわけですが。だから、ある程度の年齢になってからは、自分が結婚してどうのこうのというよりは、自分よりも若い世代の人たちに少しでも良い世の中を残していければ、と思うようになってましたので、逆に悟り済ましすぎて、「家族になろうよ」とか全然ぴんと来なかった、というか(苦笑)。

 

嵐の人たちの頑張りもすごいわけで、彼らは彼らで兄さんを土台にして、私とコンタクトを取りたいわけですし。

 

そして、とどのつまりは、私が兄さんに愛想を尽かして、「LION」と「Heart」を捨ててしまいさえしなければ、私に取り憑いている兄さんの魂は、どうせここから出られないということになっているらしくて。まあ、それもよろしんじゃないでしょうか、というか、誰かさんの目は
「あなたの目の力の性質など、もうどうでもいい。自分は、ただあなたを愛していて、欲しいだけだから。」
って言うわけでですねえ。ま、いいんですけどね、別にそういう情熱的なのでも? と思うわけで。ああいう記事が出たにもかかわらず、誰かさんは今日はけっこうご機嫌でした、って報告して下さる方々もいますのでね。(というか、大抵の方は兄さんの仕事の速さにけっこう敬意を示して下さっている感じがするのですけれども?)
どうも私は大筋とは関係のないところで、ごく一部の皆様に「話の分かる奥様」っていうイメージが浸透している気がするわけですが(苦笑)。まあ、今後もよろしくお願いいたします、ということで<(_ _)>。

あとはですねえ、AKB48のお嬢さん達からですねえ、「あんな記事で私たちの努力を無駄にしないで下さいねえ。だいたいあの女、1回や2回やったくらいで、いつまでもしつこくつきまとうなんて最低すぎ。女だったら、売られた喧嘩はしっかり買って下さいねえ。」って言ってくるわけでですねえ。あなた達も、女ですねえ、っていうか気が強いですねえ、って思うわけで。どうも私も真面目な人間すぎて、「やった」っていう言葉が何を「やった」のかどうもピンと来ないわけですが(爆)。だいたい誰かさんの自白と一致する証言なんで、本当のことなんじゃないかと思うわけで(苦笑)。なんだか、良い性格のお味方がずいぶん増えましたね、とは思うわけですが。

彼女達は、彼女達で、「世の中悟り済ましている人ばっかりじゃない。世俗には世俗の戦い方があります。」って言ってくれるわけで。私の目には、あなたたちのはつらつとした、逞しい生命力に溢れた力強さも、美しいものに映りますよ。そのように逞しく、ひたむきに生きて美しいものであるからこそ、命というものは貴いものだとも思うのです。そういう意味では、私は命というものはそれほど「儚いもの」とも思っていないわけで、むしろ「少年」の歌詞にあるように、兄さんの方がそう思う傾向が強いというのは、若干不思議な気もするのですが。

それから

そういえば、思い出したわけですが、朝ご飯を食べてる頃、May.J嬢がやってきて、一番目の子と二番目の子が私の所に来れない分、「外は私たちが守りますから、あなたは外に向かって力を使わないで下さい。」って言って下さったわけで、それで家の外に、いろんな所から送られてくる印欧語族の力が満ちてくるのが分かるわけで。どうも彼女は、個人的な力もそこそこ優れていますけれども、媒介体質であって、自分に集められた味方の気を、自分で采配ふるって好きな所に配置できる能力をお持ちのようで。どうりで、兄さんの防壁をものともせずに私のところに入ってこれるだけあって、それこそ「普通のお嬢さん」ではないようで。
ニュースサイトを見ると、いろんなところからいろんな方が応援の気を送って下さっているのが分かるわかるわけで、どうも東京に戻った兄さんからも、微妙な緊張感というかピリピリした感じがときどき伝わってくるわけで、なんだか東京でも印欧語族の方々の力と敵の力があちこちでせめぎ合いを起こしているようでして。
でも、印欧語族は印欧語族で、兄さんのあの記事は「ご当人の脇が甘いせい」くらいにしか思わないでしょうから、「話を進める」という点では助けてくれても、どうせ冷ややかな目でしか誰かさんのことを見てないだろうな、と思うわけで(苦笑)。(ただ、May.J嬢ご自身は、一つの文章の中に二種類の言霊を混ぜ込むような兄さんの「力」には興味があるようで、該当する曲の歌詞を確認しようとか思われてるらしいですけれどもね。そういう点では、アーティストとしても勉強熱心なお嬢さんなわけだ。)

 

で、どうも兄さんが考えるに、私の「冷静」さは、印欧語族のそれと似ているけれども、やはり「仏教的」なんじゃないかと思うようで。兄さんの理想としては、あの手のスキャンダルに対しては、私にとっても「愛してる人を信じている」的な情熱で乗り切って欲しいらしいのですが、私は逆に冷静になって、「(私自身も含めて)誰と結婚しようが、それは福山君自身の問題で、彼が好きにすべきこと」って言って、割と突き放しちゃう方ですのでね。それは客観的に見れば正論なのかもしれませんが、私自身の感情はどうなのかということで。
どうもですねえ、私自身は、「何かを判断しなければならない」と思うときには、確かに自分の感情も度外視するようなところはあるわけで。別に自分の感情が無いわけではないです。兄さんのことは好きですし、信頼していないわけではないですし、幸せな家庭も持てたら良いなとも思う。お金だってないよりはあったほうが良いと思う程度の俗っ気と計算はあるとも思うわけですが。でも、判断するときに、そういう感情を持ち込むことこそがどうにも「大嫌い」なわけで、兄さんからすればそれこそが「無我の境地」に見えるようで。確かに言われてみれば、「判断の場」に「我」は持ち込まないですねえ、私は。というわけで、どうも私はそのあたりで「悟りが開けてる」らしいのですが(苦笑)。
兄さんとしては、善光寺を自分の「目」で見て、あのお寺がこの辺りに与えている影響力と、私の人格形成にあたって与えている影響力は無視できないと感じたらしくて。そうでしょうとも、あのお寺は私の先祖が仏教をこの国に持ち帰って以来、1500年近くの間、存在し続け、今でも生きて、そこを訪れる全ての人々に救いを与えるために在るお寺で、力強く美しいでしょう? と思う私がいるわけで。
ただし、兄さんの考えからいえば、仏教の「広く救いを与える」という精神は、一見すれば美しいものですけれども、それは「我に汝の肉を与えよ」と求めるものが来れば、自らの血肉を与える一方で、ご当人は「入滅する(要するに「死ぬ」)」ということを美徳とするほど苛烈なものだから、実際に実践し過ぎれば、「人として生きる力を損なう」ものであるので、付き合うのであればほどほどにしなければならない、ということのようで。私が後先考えずに、外に向かって自分の力を使ってしまう性格なのは、あのお寺の精神の影響力があるのではないか、と思うようでしてねえ。
そっか、それで私には善光寺にあまり近寄って欲しくないし、あのお寺の影響力を弱めるために、住処は長野市以外のくそ寒いところに決めてるんだ? とか、私としては思うわけですが。いや、でも北信濃に住む気なら、あのお寺の影響力は排除しきれないですし、あのお寺は世界各地の仏教ネットワークとも繋がりが在って、仏陀の精神を「次に来る者」に伝えるために1500年前に先祖が創建して、神々の力が衰え、悪がはびこっても仏法の力を持って、世を救い給え、という願いが強く籠もっているお寺だから、遠い先祖にはそれだけのことを予見して、あのお寺を準備するだけの「力」があって、そして今の私には、「見る力」も「聞く力」もたいして残されていなくても、その精神は理解できるわけで。だから、むしろ、誰かさんも私と一緒にお戒壇巡りしませんか? とか思うわけですが(笑)。

で、いつ、そういう「悟り」の境地に達したのですかねえ? と聞かれるわけで。それはやっぱり東京のあのろくでもない病院で働いて、こちらは派手な生活や、医者としての活躍なんかできなくても良いから、地味にできるだけのことをできるだけして生きていきたいだけなのに、誰もそういう生き方を許してくれなくて、逆に敵意とか殺意とか非常に感じるわけで。要するに、釈迦がいきすぎた階級制に「理不尽さ」を感じてその否定から始めたように、私もあの病院で感じた「理不尽さ」を自分のできる力で、できる範囲で良いから正そうとしていろいろ始めたわけで。やっぱ、あの辺りですかねえ、と思うわけで。要するに、兄さんの目にはその「無我の境地」こそが「天上天下唯我独尊」と写るようで。
え、でも、仏教とは、自分がそうなりたいと思って、訓練すれば誰であっても「悟りの境地」に達することができるものなのだから、そういう意味では誰でもが「天上天下唯我独尊」であって、人として平等なものでしょ? と思うわけで。あまり自分では、そんな特別な人間とかっていう気はしないのですけれどもねえ? と思うわけですが。
まあ、でも仏教というのは、印欧語族から発しても、ずいぶんと東洋の思想や文化の影響を受けて成立したもので、奥底にある苛烈さは、印欧語族の苛烈さと似てはいても、やはり「異なるもの」ではあるので、印欧語族のみなさまは私のことを、「同じ根っこから枝分かれして、東洋に咲いたちょっと珍しい花」くらいに思っているような気がするわけですが。

でもってですねえ、午後ちょこちょことお買い物に出たわけで、誰かさんとしては「嫌いでないのなら、本当に怒っていないのなら、スーパードライのポスターを「見て」欲しい。そうすれば、本当にそう思っていることが自分にも分かるから。」って言うわけですので、けっこう念入りに見て差し上げた気がするわけなのですけれども。(っていうか、やはり兄さんとしてはその点が気になるのですかねえ? ということで、ご安心して頂けたのなら、と思うわけですが。「目と目で通じ合う」って本当に静香ちゃんの曲の歌詞みたいですねえ、とも思うわけで。)
これから、兄さんが本気で動こうとすればするほど、外は「荒れる」可能性がありそうなようで。しかし、どうにも皆様の目には、とどのつまりは冷酷な私が「高笑い」している図が浮かばれているような気もするのですけれどもねえーー;。なんかもう本当に「なるようになれ」という感じなわけで。だいたい、2012年の春に、福山君の目の力に巻き込まれて、この世界に飛び込んできてからこっち、「行き着くところまで行って、この話の結末を見て見たい」っていうことしか考えてこなかった、というか、そう思って飛び込んで来たわけですから。まあ、いくところまで行こう、ってそういう気持ちしかないわけで。

ええと、買ってきた週刊誌を見た限りでは、翔君の目の力も大分戻ってきたかな、と思います。完全になるまでには、あともう一歩という感じがするわけで。でも、彼は仲間によく守られ支えられているし、みんな頑張ってくれてるな、と思います。ネット上で、翔君を褒めている記事なんかもちょこちょこと見かけますしね。

あとはですねえ、まあ余談的な話ですが、私の目で見た「福山雅治」という人はですねえ、1999~2007年頃までは、自分の男性としての欲望を適当に女性で満たすような、そういう男性のいやらしい色気みたいなものを身に纏っているように「見える」わけで、で、そういう「気」は2008年以降どんどん弱まって、私が「心color」に心惹かれた2010年頃には消え失せて、それ以降は女っ気のありそうな人に「見えない」わけで。
自分を信じるとか、そういうことでもなくて、ただ私の冷酷で冷静な「無我」の目には、彼はそのようにしか「見えない」のですよ。でも、いわゆる「福山雅治」という人のスキャンダル的な記事は、2007年以降からちょこちょこ見かけるようになっているわけで、今それらを改めて振り返れば、そこにもなにがしかの意図があったとしか思えない、というかそうなるわけなのですが。
確かに、こういう見方をしている私は、そこに「彼にこうあって欲しい」なんていう自分の感情なんかは全くもってなくて、ただ単純にそう見てるだけで、それはいろんな人の「目の力」を見てる時の自分にも通じる気持ちなのかもしれないと思うわけですが。
最近では、「目の力」も強くなって、印欧語族と敵の目の力の区別もつくようになったと思います。印欧語族の皆様の目の力は、力も強いですけれども、その奥底に「強い意志の力」も感じるわけで。でも、敵の目はどこか夢見がちというか、「食べることしか考えていない狂気」に満ちている気がするわけで。
まあ、「無我の境地の目の力」ってこういうものなのですかねえ? ということで。ご参考になれば、ということで(苦笑)。

で、朝からの経過

誰かさんは、昼頃までに東京に戻りたいということで、長野市街なんかもちょっとうろうろしていたような気がするわけで。善光寺とか、「やはり威圧感がすごい」とか「内陣には本物の仏舎利があって、今の自分ではその力でダメージを受けてしまうから近寄れない」とか言っていたわけで。

で、どうもですねえ、長野市というのは私が高校と予備校の併せて4年間を過ごした場所ですので、私がよく立ち寄った場所とかには今でも私の「気」が残っているようで。かつて、本屋があったところとか、本屋にその「気」が集中しているということで、「高校時代は漫画を読みあさることを第一にしてましたね?」って言われるわけで。ええ、まあ、そんなところですかねえ、勉強もしましたけどね。って言いましたら、兄さんの気配が長野から消えた後に、蛙さんたちから、

「あんた勉学に励んでいなきゃならない時代に、何に集中してたんですかね? それで国立の医学部とかって、真面目に医者を目指している人たち全てを敵に回してますよ。」

って突っ込まれるわけで。すいませんねえ、漫画ばっかり読んでたもので、三流国立大学の医学部しか受かりませんでしてねえ? っていうか、それこそ今更言うこと? みたいなことを言われて怒られたわけですが。

「どうせだったら真面目に勉強して、東大の理IIIに行けば湯島聖堂の神農廟に結縁できたのに。」

ってぶーぶー文句を言われるわけで。どっちにしても真面目に医者を目指すのと違う動機なんじゃないんですか? それ、って気がするわけですがーー;。

で、そんなこんなで例の記事が出たわけですが、どうにも記事の中の「近く、福山が結婚に向けた仕事の調整に入るらしい」っていうところだけ妙な気がするわけで。だって、普通、男の人で、芸能人で結婚するのに「仕事の調整」なんてする人いるの? と思うわけで。小栗君とかだって、結婚後の方がばりばり仕事してるわけで、普通調整するのは女性の方だと思うわけで。きっと、こういうところだけ、本音を送り込んで、

「自分との約束を忘れないで下さい」

っていうのも、兄さんらしいと思うのですけれどもね(あとは資産家のアピールですかねえ、お金持ちで良かったですねえ? みたいなーー;。どうもそっち系のネタの方が個人的には、今の段階では苦手なわけですが 苦笑)。まあ、なんだか、私が「見捨てない」という意志を示しましたら、あちこちで喜んで泣いている人がいるわけで、麻衣ちゃんとかも泣いちゃってるわけで。別に、そんなに泣くことはないと思うのですよ? とは思うのですけれどもね。蛇の人たちは、蛇の人たちで熱いと思うのですが、

 

「やっぱ、工藤静香(冷静な人)と木村拓哉(情熱家)が理想の夫婦かー」

 

ってあちこちから言われるわけで。それで昨日からお二人も頑張って下さっていたわけだ。静香ちゃんは、「楽勝です」って言って笑ってるだけでしたが、木村君はちょっと泣いていた気がします。そういう人たちの気持ちに触れることができるってことは、有り難いことですし、嬉しいことだと思います。

 

それからMay.J嬢はウインクして、「合格」です、って言ってくれたわけで。そちらも、どうもありがとうございます、というか、あなた方はあなた方で、いつもこういう機会には「人を試す」ことを止めない方々であるようで。頑張って、切磋琢磨させて頂ければと思います。

 

 

そういえば、もう1名、「謁見希望」のお方が追加されたようで。彼女は損得感情無しに、ただただ私たちに会って、幸せに暮らしているところを見たいようです。いつか、その時が来たら、おいで下さい。泉水ちゃんの分も含めて、ということで。忘れないように書いておきます。

兄さんも、自分が言いたかった「言霊」は全部理解して貰えたと言うことで、「大勝利」って言ってご機嫌なようで。

4番目の子は、「自分もあの男に負けないように稼いでみせますので。」って言ってくるわけで。男の人ってそういうこと気にするのですかね、やっぱ、って思うわけですが。まあ、今のところはお気持ちだけ有り難く頂ければ、ということで。