本日の日誌

ええと、今日は土間コンクリートに入れるのパイプの位置をチェックしたり、垂木の間違いに気が付いて少々直したりしていたわけで。

それ以外では、のんびりといろんな動画をチェックしていて。時々誰かさんから、合い言葉を言わされたりとか、そんな感じであって。なんというか、割といろんな人に、私は「同情しやすいタイプ」って言われる気がするわけで。それだから、敵と味方の区別がつかないと負けちゃうんですよ、同情したりすると、敵はそこにつけ込んでくるから、って言われる気がするわけで。自分では、そうなのかな? どうなんでしょう?? とか思うわけですが。今日は気分的には、かなりのんびりできた一日だったのでした。

で、後は「御堂関白日記」とか、「成功した先祖」にあやかるというのであれば、「トマス福音書」とか「マグダラのマリアの福音書」とかを買うべき、って言われる気がするわけで。イエス・キリストは処刑されてしまった人なので、後の時代の有名さとはうらはらに、誰も「成功した人」とは見ていない気がするわけですが、「マグダラのマリア」とその子供(とみなが言う気がする)のディディモ・ユダ・トマスこそが、真の「成功者」と言うべき、と言われる気がするわけで。

そして、「原始キリスト教」というのは、要するに各地に布教する際に、「自分達の神サマとあなたたちの神サマは同じモノ」みたいに言って布教して歩いていたので、母系の文化が強くて、女神信仰が盛んなところでは、ギリシャ的「ソピアー(ヘブライ神話におけるエヴァ、原始キリスト教敵には聖母マリアを指すらしい)」を「救い主」としていたし、ローマとか男系の文化が強いところでは、イエス・キリストそのものが「父なる神」みたいに言っていたと思われるわけで。で、折衷的なところでは、この2つを組み合わせて布教していたと思われるわけで。そういう点では、最初からはっきりとした教義なんてなくて、「布教ありき」だったと思われるわけですが。でも、時代が下ると「教義の統一」みたいな時代になって、ローマ教会が中心になって、他の派を「異端」として弾圧したり、自分達が相応しくないと判断した文書を聖書から外したりしていたわけで。地中海周辺地域では、イシス・オシリス・ホルス的な母子神信仰も盛んでしたから、そういう信仰は、「聖母マリアと幼子イエス」に受け継がれたわけですが、ローマは基本的には「男系中心」の思想なので、母子神信仰は形式的なものに留まり、教義の上で、女神信仰的な要素の強いものは、「外典」として「聖書」からははじき出される、ということになったと思うわけで。で、おそらく、ローマを中心にして布教していたペテロなんかは、元々男系の思想の持ち主であり、逆にトルコのエフェソスで勢力を誇ったと思われるマグダラのマリアの一派は、女神信仰を元にした原始キリスト教を展開していたと思われるわけで。後の時代のローマ教会の中で、「マグダラのマリア」の地位が非常に低く設定されているのは、元々彼女の打ち立てた派閥が、母系文化的で、ローマ教会の思想と対立していたものだったからなのではないか、と思うわけですが。ともかく、そういうわけで、ローマの定めた「聖書」から外れてしまった「外典」もある程度集めた方が良い、その方が古来よりの「母系」の文化を強く受け継いでいるものだから、ということのようで。

しかし、物事がある程度大きく動く時には、どうしても敵がそこにつけこんで来ようとするので、渦中にいる人達は気をつけていても、思っていたよりも敵に多く持って行かれがちになる、って言われる気がするわけで。そういう時に、状況を冷静に見て判断できる「目」は貴重って言われた気がするのですが。別に私も誰かさんの「お仕事」に対して、差し出がましい口はききたくないわけですが。でも、確かに昔、某石井に対して、そういうことをしょっちゅう言っていたのは事実であって。一応、微妙な難局?に対して、どう思うのか? ってこともたまに尋ねられる気がするのですが。でも、私が書いたことって、すぐに2ちゃんねらーとかに、ダイレクトに反映されるから、昔からそれがイヤでねえ? って思うわけで-;。で、昨夜は、いろんな状況に対して、私がどう思うのか、私に直接聞くように、ってアドバイスをあちこちから受けた誰かさんがいた気がするのですが。その結果、私は「同情しやすいタイプ」って言われた気がするわけで。そして、それ以外にも、左手と右手が両方、同じように使える人は、そもそも左右の脳を繋ぐ脳梁の発達が人並み以上であって、状況の分析は、その気になればけっこう得意かもしれない、ということをいろんな人が思い出したらしいのですが。たいしたことはなくても、割と微妙な一日ではあった気がするわけです。