21年12月8日

 本日も外作業は雨のためお休みでした。小布施・須坂方面へ再び出かけて、山王島神農社、飯田郷元神社、河東王嶌神社、小布施大元神社、白山宮、高梨神社を参拝してきました。近くを回ったせいか、早めに家に帰って来れました。

 お裁縫は、つくろいもの、キュロットはウエストの始末、ジャケットはポケットの作成、ケープコートは裁断です。

 テレビは昼は昨夜の「ブンブブーン」の録画を見ました。

21年12月7日 追加

 昨夜の「News Zero」では、真珠湾の攻撃についてちょっとやっていて、翔ちゃんが「人を殺したことをどう思うか」という質問をしていて、ちょっと引っかかる。で、うちの母親は母親で、「戦争で人を殺せ、と言われて、嫌とは言えない環境だったのだから、今の人の感覚でそういう質問をすることがおかしい。」とか言うわけです。・・・人を殺せって言われたら殺すのが正しくて、殺しちゃだめって言われたら殺してはいけないのが正しくて、そういう思想がどこかで切り替わったら切り替わるのが正しくて、殺したことにも、殺してはいけないことにも、切り替わったことにも、自分自身は良心のとがめを全く感じる必要もないし、自分は常に悪くない、っていう究極の「他力本願思想(悪いのは全部思想を押しつけてる他人のせい)」という、うちの母親の思想もちょっとどうよ? と思うけれども、母親はもう昔からそういう考え方の人である。・・・・どっちかというと、「戦前は「人を殺すことが正しいこと」と教えられて、そう信じていたけれども、戦後の平和教育とか、そういうものであれこれ考えてみた結果、戦争とか人殺しはやはり良くないことだと「自分が」思うに至った。」というのが、戦後の民主主義教育の教科書的な目標だったと思うわけですが、あまり自分が思想的にどうの、というよりは、なんでも他人のせいにしちゃうのがうちの母親な気がするわけで-;。まあ、いいんだけれどもさ。

 それはともかく、真珠湾の生き残りのじいさんは、命のやり取りについては、「それはお互いに同じ状況ですから。」と言っていたわけで、そういう言い方の方が正しいと思う。戦時なのだから、こちらは敵を殺せ、と言われてるし、相手の兵士も上官から同じことを言われているわけだから。殺し合うのは好きとか嫌いとかっていうより、お互い様であるし、じいさんの気持ちの中ではそうやって結論というか、納得ができている気がする。でも、終戦までに多くの戦友が亡くなったことについては、じいさんは「みんな死んでしまった」と言っていたし、「長い間、思い出したくなかった」と言ってた。自分の仲間が殺されてしまったことは悲しいけれども、自分が敵を殺したことは悲しくないのであれば、それはちょっと自分勝手では? となると思う。殺した相手にも友達とか家族とかいたはずじゃん? で、どういう思考回路なんだろう? と考えてみたのですが、そういえばあの年代の「生き残った男性」に共通のトラウマは「自分が生き残ってしまったこと」そのものである、ということをふと思い出す。「捕虜にならずに死ね」と言われるので、生き残ってしまった人は、そのことそのものに良心の呵責を感じる。・・・そういや、うちの母親はそういう心情にもあんまり理解がないかも? と思う。まあ、女子で自分が戦争に行ったわけではないし、終戦時だってまだまだ子供だったし、戦前の兵士の気持ちには疎いのかもしれませんが。真珠湾のじいさんが「戦争のことを長い間忘れていたかった。」と述べ、仲間に対して「みんな死んでしまった」と悲しむのは、仲間が死んでしまったから悲しいのではなく、自分が生き残ってしまったからそれが悲しいのであろう、とふと思う。

 で、思ったけれども、私の身内にだって復員してきた人達はいるはずなのだけれども。「生き残ってしまって悲しい」なんて思ってた人は誰かいたっけ? と思う。自らを恥じてたのは、サイパンから早々に引き上げてきて自殺してしまった人くらいで、その人も確かお嫁さんだから、正確には身内ではない。どうも、うちの「身内」には、世間と感覚のずれてる面の皮の厚い企画外のばかりいる気がする、戦前の全体主義教育なんてどこ吹く風で?  と思う。「敵を殺して終わりにして、ついでに自分も死んで終わりになってしまえ。生きて帰ってくるな。」というのは、究極の「終わり」思想だよねえ? と思う。で、後方に残ってる生き残りだけが、残された財産を手に入れて肥え太るわけだ。なんというかさ、「生きて帰ってくるな」という教育は、戦前の日本のどこでも行われたはずである。だけど、北信濃では、お題目程度に言ってただけで、それ以外の地域では、子供達に骨身に染み込んで死ぬまで忘れられないほどに徹底して教育して叩き込んだ? と今始めて思う。だから、北信濃の人々は、生きて復員してきても「やれやれ」と思う程度だけれども、それ以外の地域の人は死ぬまで、自分が生き残ってしまったことを思い出したくもないわけだ。

 というわけで、「生き残ってしまって悲しい」と思う人達は、「なぜ自分達は戦後80余年が過ぎても、まだ戦争のことで苦しまねばならないのか?」と私に問いかけることになるのだと思う。それは「上」が、あなたたちの財産を搾り取りたくて、殺そうと考えていたから、自分から「死なねばならぬ」と思う方に追い込んだからです、と答えねばならぬ、と思う。もしも私が「上」になれば、そのような「頭」にはなりたくない、と思う。しかし、今の自分の豊かな生活は、80年前の「頭」の行動の結果でもある、ということも私自身が忘れてはならぬ、とも思う。戦前の人口が多く、貧しいままの国で来ていたら、とても今の日本はこんな豊かにはなり得なかったのではないのですかねえ、と思うからである。しかも、戦後の人材不足の時代に、うちの両親が、戦後の高等教育を受けた、という立場でがっつり働いていたことが、今の我が家の経済状況にも大きく関わっているわけだから。

 で、あちこち回って、小菅がミトラスの「頭」で、飯山が胴体であるならば、飯山にある善光寺の「仁王門」の「奥」にあるはずの「善光寺」も胴体なんじゃないの? と思う。そうすると、天狗の住む飯綱・戸隠も「尾」といえるのではないの? と思う。斑尾も「尾」だけど、飯綱・戸隠はそれとはちょっと別の「尾」である。そうしたら、「そうやって尾がいくつもあるものを八岐大蛇というんじゃないの?」と言われる気がするわけで@@。素戔嗚自身が八岐大蛇なんだ? と思う。で、「門前に熊野があるでしょ。そこから飛び地して、熊野も尾の一つ。」と言われる気がするわけで@@。表向きは摩多羅神はイエス・キリストに見せかけたり、諏訪神に見せかけたりしているけれども、その正体は八岐大蛇であるらしい@@。それはヒッタイトの神話でイルルヤンカシュと呼ばれる悪竜のことでしょ? と思う。エジプトのセクメト、メソのティアマトの同類項かと。というか、その「夫」だから、プタハとか、エンキ、クヌムになるわけだー;。どちらかといえば「水神」だよねえ? 中野でも水よけとして飯綱明神を祀っていたし、その本態は蛇かー、と思う。各地にある「尾」と小菅の「頭」を結びつける呪法を行っているのが修験道なの? と思うわけで。岩松寺でガイドさんが「京都のお寺とかでは、天井画に火災よけで竜を描くことがおおいけど、うちは鳳凰」と言っていましたけれども。火防の竜神が摩多羅神、

 で、妙高には「昭徳稲荷神社」という立派な稲荷神社があるらしくて。結界を壊したら、そちらからお客さんが来ています。だいたい、最近は稲荷もそこそここまめに回るので、けっこう多くの「お狐様」が集まってきてるわけですが。大きいものは4匹くらいいます。私の騎馬さんは、金毛2.8尾くらいの立派なお狐様に成長しています。最近は狐というよりは「麒麟」という感じなような。

 それから、今日は城山神社というところにも行きました。「書き忘れたでしょ」と言われましたが、書き忘れてました-;。小布施の皇大神社で、どうも下着がちょっと引っかかって(何枚も着てるから)、変だったのでちょっとずらして直したら、「人前で尻を出すな」と怒られるわけで@@。なんだか毎日説教されている気がする-;。若い兄さん達にも「お尻や胸を見せるのは夫達と、例外的に一人の愛人だけ」と言われる気がするわけでー;。別にお尻を人前で丸出しにしたわけではあるまいしーーーー、と思うわけですが-;。