七夕

昨日から、4番目の子が、織り姫の格好をした蛙の女の子と、彦星の格好をした蛙の男の子の絵をせっせと送ってきて、「君が織り姫で、僕が彦星」って言ってくるので、蛙さん達の星辰信仰というのはそういうものなんだろうな、と思うわけで。日本で有名な七夕のストーリーというと、天から降りてきた天女の羽衣を男が隠してしまって、天女を妻にするのですが、結局羽衣を見つけられてしまって、妻は子供を連れて天に逃げ帰ってしまうということで。妻が忘れられない若者は妻の後を追いかけて天に昇り、親にいろいろと意地悪をされるわけですが、いろいろあった末に、年に一度だけ妻に会うことを許されて、それが7月7日だということで。で、これは地方によってさまざまにアレンジされたバージョンがあるようです。で、一方中国の七夕伝承というのは、織り姫と牽牛を結婚させたら、私生活に夢中になってしまって織り姫としての仕事をしなくなってしまったので、怒った天帝に年に1度しかあうことを許されなくなったもの、なわけで。日本の物語と似ているような、似ていないような話なわけですが。で、織り姫星は琴座のベガ、牽牛は鷲座のアルタイルですから、夏になれば天の川を挟んで見られる有名な星、ということなのですが、なんで年に一度しか会えないのか? ということで。

で、一方西方の星辰信仰で一番有名かつ重要なのが、シリウス信仰ということで。冬の夜空に輝くシリウスは、「冬の星」みたいなイメージがあるのですが、天文学を発達させた古代メソポタミアにおいては、「冬の星」であることが重要なのではなくて、盛夏に太陽が昇る軌道とシリウスが昇る軌道が「一致する」ということが大切なわけで、シリウスと太陽が重なる季節に太陽の力が一番強くなるから、シリウスは「太陽に力を与える星」と考えられているわけです。だから、逆に夜空にシリウスが輝く冬の季節は、シリウスが太陽と遠く離れているということで、太陽の力が一番弱くなると考えられているわけで。で、要するに女神の星であるシリウスと、夫である太陽神が一緒になる季節は「年に一度」だけですよねえ? ベガとアルタイルはいつでも天の川を挟んで一緒にいるはずなのにさ? と思うわけで。そこにも、「ただただ働け」という敵の呪いというかそういうものが入り込んでいて、アーサー王伝説のように敵に都合のよろしい改変が為されていますね? と思うわけで。本来の織り姫・彦星の伝承というのは、星々は全て太陽女神の子供であって、農業に重要な季節の夏に天の川の両端を挟んで輝く織り姫と彦星は、天の水源である天の川を管理する役目を負った夫婦神で有り、兄妹なのだ、というのが本来の神話だと思うわけで。羌族の慣習は「一妻多夫」ですから、白鳥座のデネブと併せて、「夏の大三角形」を形成する星々こそが、蛙さん達の星辰信仰の象徴で、アルタイルとデネブが「夫」に相当する星々であったのかも? とも思うわけですが。ともかく、自分がどこの誰なのか忘れないために、そっちの神話も正しく認識させるように、とその筋からは強力な要請があるということで-;。昨夜は、まだ学生時代で、同じクラスに翔君がいて、で、彼から指輪をプレゼントして貰う、という夢を見たわけで。蛇の兄さんは「あれはあれでけっこうしたたかなタイプ。」って呟くわけですがーー;。

で、クリスマスってあるでしょ? あれは冬至の祭りでしょ? って言われるわけで。キリスト教化される以前から西方では「冬至の祭り」はけっこう盛んであったわけで、それは要するに太陽の力が一番衰えている時期に、太陽の再生を願って行われる祭りな気がするわけですが、それは冬の夜空に輝くシリウスが、無事に若い太陽を生み出して、夫と巡り逢えるようにっていう祭りなんだ? と思うわけで。で、古代エジプトの神話というのは、イシスとオシリスとセトの対立神話なわけで、セトはオシリスとイシスの敵対者とされるわけですが、でもその名は「イシス」から分かれたもので。イシスとオシリスの神話が、女神が夫を喰らって新しい太陽を生む、という古い時代の母系の神話を受け継ぐものだとすると、イシスとセトの神話は、セトがイシスとオシリスを殺し、正統な王権を強者が簒奪しようという男系の神話を受け継いでいるわけで。で、セトというのはローマで言うところのサートゥルヌスのことでしょ? って言われるわけで。それはギリシャ神話のクロノスに相当する神であって、妻子を喰らって自分だけが永遠に絶対的な支配者であろうとする男神のこと、と思うわけで@@。で、そういえばキリスト教化される前のローマでは、冬至の祭りはサートゥルヌスの祭りでしたよねえ? と思うわけで。それは、余所の「太陽の再生」を祈る祭りではなくて、女神が夫の元を一番遠く離れて一人でいる時に、サートゥルヌスに女神を喰ってしまって、永遠の神であれ、っていう祭りなんだ? と思うわけで。冬至に生まれるサートゥルヌスは妻を喰らい、子供を喰らい、自分だけが永遠に生きようとする死神の象徴ということで、そうやって「ローマは永遠たれ」って祀ってるんだ? と思うわけで。だから、それはこの世をサートゥルヌスの国(すなわち「地獄」とか「黄泉の国」)に変えて、自分だけが永遠であれっていう「大量虐殺者の祭り」なんだ、って言われるわけで。サートゥルヌスは、元は女神から分かれた神だから、ローマのサートゥルヌス信者は、「女の格好をした男」なんだよ、って言われるわけで。そもそも、例の地震でお姉さんが言霊の力を使ってねじ伏せた敵のジャーナリストもゲイだったでしょうが。世の中には、本当に心の病で男が好きな男の人もいるかもしれないけれども、たいていはローマの仕込んだ偽物って言われるわけで@@。てことは、キリスト教のクリスマスはサートゥルヌスの祭り、ということで、各地の神々を喰らい尽くして現在に至る気がするわけですが、じゃあ法王はオシリスではなくて、セトなのでは? と思うわけで。でも、ローマの信仰では、セトとオシリスは一体となってサートゥルヌスを形成しているから、「黄泉の国の王オシリス」と「死に神セト」はほぼ同じもの、ということで「神の代理人」はあくまでオシリス、ということで。じゃあ、ローマのセトは? と思いましたら、セトって瀬戸物の神サマのことでしょ? 敵にそそのかされておかしな瀬戸物ばっかり作ってた人がいるでしょ? って言われるわけで@@。だいたい、日本書紀で「金鵄」っていうのは、古事記では「八咫烏」になってるでしょ。八咫烏というのは、賀茂建角身命の化身ということで、男神でかつ賀茂氏の祖神のことです。「鵄」がキリストである神武天皇を保護するトーテムである時は「母親」とか「妻」を意味するけど、「八咫烏」が保護するときは「父親」を意味します。すなわち、キリストの父である「セト」のことなんだけど、キリスト教では父よりも「子」が上位に来るから、サートゥルヌスの方が下位の神になります。って言われるわけで@@。だいたい古事記とか書紀は、女神にヒントを与えるための書物なんだから、古事記の世界のことが現代にまで続いているんじゃなくて、あれは真実を伝えるための書物なんだけど? って言われるわけで。賀茂の神たるサートゥルヌスには、大人しく本来の農業神の姿でもとっておいて貰うのが無難だと思うわけですが。だから、癌になってエストロゲンを摂り始めたら、通常ではあり得ないのに、逆に暴力的になったって言われたでしょ。それは、ローマ式に「女の格好をした男」のツボにはまったから、って言われるわけでーー;。ローマのオシリスに対抗するだけの力を全く持たず、ただただ妻子を食い殺すサートゥルヌスたれ、という呪いに振り回されているだけの神サマですねえ、それ? と思うわけですがーー;。で、オシリスにはアセルとかウシルという別名があるわけで、アセルというのはイシスが変化したもの、ウシルというのはベスが変化したものでしょ? と言われるわけで。そもそもオシリスというのは、イシスとベスの合成神であって「男とも女ともつかない神」だって言われるわけで。セトも同様な神のようで。

で、日本では古来から星辰信仰はあまり盛んではない。しかも、西方の狩人の信仰と似たような信仰を持っていても、縄文系の人々は、母系の文化から男系に移行していないので、強力な「王権保障の神シリウス」にはあんまり興味もなければ、理解もない、ということで。彼らの「大姥様」がシリウス信仰の力を使えることをどう思う? って尋ねたら、「大姥サマは狩人の神サマなんだから、喰えるものは何食べてもいいんじゃないの。」って言われた、って言われるわけで。でも、兄さんは、「お姉さんはアフラ・マズダーを擁するゾロアスターの血を引いているし、マリア・マグダレネの血も引いているから、シリウスの力を使える目を持っていても不思議ではないんだけどねえ。」って言われるわけで。というか、ちょっと待って、って思うわけで。北のイスラエル王国が滅ぼされて、関係者がアッシリア帝国の東の果てに強制移住させられたのが紀元前8世紀、紀元前7世紀にその地方で発生したのがゾロアスター教、そしてゾロアスター教が国教であるアケメネス朝が勃興したのが紀元前6世紀、ということで。全部偶然ではなくて繋がってることなんでしょうねえ? と思うわけですが。そして、羌族の人達は、やはり縄文系の人々と同じく強力な王権思想の源である「六芒星」の力とは無縁で耐性が無いので、それで「六芒星」を擁する人達と同盟を結んで混血して、そうして「六芒星」に耐性の強い力を手に入れようとしたんだよ、って言われるわけですが。耐性どころか、本物の魔女が出て来たよ、って思ってる人が多そうなのですがーー;。シリウス星に思い切って結縁させ、上手く成功させたということで、6番目の子は「魔王(ベルゼブブ)」って噂されているって言われるわけですが。

で、西洋には六芒星の他に、五芒星がありますよねえ? と思うわけで。西方でシリウス信仰がそれほど盛んなら、五芒星もシリウス信仰なんじゃないの? と思うわけですが。そうすると、それはそうなんだけれども、多くの印欧語族は独立心が強くて、部族単位で生活することが多かったから、彼らの五芒星には「支配と搾取」を正統化するような強力な王権の保障性は無いということで。だから、彼らは五芒星の女神は欲するけれども、六芒星の方は「血まみれの赤毛のアン」って言って嫌うそうで。で、キリスト教にはキリスト教以前からの祭祀が多く取り込まれているわけで、西方には五月の五月祭とか、七月の夏至祭が盛んなわけですが、結局五月祭はシリウスと太陽が近づくことと春の到来を結びつけて、太陽の婚姻を祝う祭りであって。で、夏至際も同様であって。そして、次の年の春、3~5月にかけて「復活祭」があるわけで。これは前年の「太陽の婚姻」により、新しい太陽の誕生と復活を祝う祭りだ、って言われるわけで。で、祀っているのが基本的には狩りの神サマですし、元が狩猟民族なので、農耕を開始しても彼らが得た「収穫」というのは基本的には「狩りの獲物」と同じモノなわけです。だから、太陽がうまく結婚したり、再生したりするのに元気をつけて貰うために、生け贄を捧げたりするわけで、「タンムーズの葬式」のように収穫の一部を無理矢理発芽させて、意図的に枯らせてしまうのも、神が健やかで次の収穫をきちんともたらしてくれるようにするためのもの、ということで。(でも、太陽が厳しい暑さをもたらす中東地域では、夏の乾期を「神の怒り」と捉えて、神の怒りを鎮めるために犠牲(夫)を捧げるようになるわけなのですが。)だから、土用の丑の日にうなぎを食べたりしたらダメなわけで。「盛夏に精をつけるために長いモノを食べる、という風習は夏の人喰い太陽女神に長いモノ(すなわち夫)を喰わせて精をつけさせようとした風習の焼き直しだから、危険なもの。」って言われるわけで。そうやって、古い時代の祭祀を自分達の都合の良いように書き換えてしまうのが「敵」と言われるわけで。で、クリスマスも死にゆく古い太陽(すなわちオシリス)と遠く離れている妻であるシリウス(イシス)の祭祀であるはずなのに、それがイエス・キリストの誕生日とされているわけで。古い太陽であるサートゥルヌスの力が一番弱まる時期に、強い力を得てその腹を食い破って生まれるのが、ユーピテルでしょ? ということで。クリスマスというのは、古いサートゥルヌスが犠牲を得て、蛇が脱皮するかのように古き皮を脱ぎ捨て、新たな若いユーピテル・サートゥルヌスとして生まれ変わるというか「若返る」祭り、だって言われるわけで@@。要するに若者の生命を得て、時の流れを逆流させる祭りということで、何もかも「逆」になるからこの祭りの間だけは奴隷も主人のように振る舞うことが許されるし、主人も奴隷のように奉仕したりして楽しむ、と言われるわけで。何もかも「逆向き」にしようとするのがサートゥルヌスの祭祀、ということで。それで理由もないのに、意図的に東側や北側のコンクリートを厚くさせようとしたりするんですよねえ? と思うわけで。ローマのサートゥルヌスに操られて利用されているだけのユダヤのセトがいるわけですな、と思うわけですが。

で、復活祭というのは、本来「新しい太陽」の復活の春祭りのはずが、イエス・キリストは復活祭の3日前に殺されて、その日に復活したから「復活祭」という形に、現在では置き換えられているわけで。で、西洋の復活祭にはイースター・バニーといって、「ウサギ」がつきものなわけですが、これは「月の女神」の象徴ということで。昔の人は、食べられるモノと、食べるモノは同じ素材でできている同じモノみたいな考えを持っていて、ウサギを狩って食べる狼もまたウサギと同じモノ、みたいに思っていましたから、春に多くの子を産む兎の多産は、獲物の豊穣にも繋がるということで、ウサギが本来の意味の「復活祭」の象徴になるわけで。でも、原始キリスト教においては、死したイエス・キリスト(すなわちオシリス)が、そのまま「生き返る」ということになるわけで、使者が生まれ変わる場所は当然「黄泉の国」ですから、この世を黄泉の国にしてイエスを永遠のものとしよう、という思想がそこにある、と言われるわけで。で、Mの子音を持たない複雑怪奇なバラバラ殺神事件の一家であるイシス、オシリス、セト、ホルスの家系ですが、彼らの神話はトルコ側に渡ると、キュベレー・アッティス神話に変化するわけで。キュベレーの名前はソプデト、アッティスの名前はアセトと呼ばれたイシスが変化したもの、ということで、地方によって役割分担も性別も異なって、かつ似たような伝承だけが伝わっているのが彼らの神話であって。で、なんで、そういうことになるかというと、母系社会の太母イシスだけがかつて存在していて、この神が太陽神であり、夏と冬の生命の循環(すなわち生と死の循環)を繰り返して、祭祀で自分と同一のものとなる犠牲を求めるだけであったのですが、結局社会の変化に伴い、男神が登場したり、神々が増えて、それぞれの職能がはっきりしてくると、その名前や役割が更に細分化されて、それぞれの役割分担も明確になり、神々の数が増えてくる、ということで。で、同じ名前の女神を擁する縄文系の人々に尋ねて見れば、彼らは彼らで、神サマは大姥サマしかいないし、モレヤの神も、御射山の神も、全部同じモノで役割分担なんてないし、自分達が一神教なのか多神教なのかもはっきりと言えない混沌とした状態、って言われるわけで。で、大姥サマの夫は? って尋ねると「山爺」は居てもいいし、居なくてもいい、って言われるって言われるわけで@@。要するに母系社会なんで、父親は居ても居なくてもどっちでもいいんだ? って思うわけで。そういう母系の文化から派生した神々は元はみんな「女神」であったので、男神に変化した後も「去勢されたオシリス」のようにヘンな神サマが残っている、とそういうことのようで;;。要するに、とどのつまり、ローマの信仰というのは「生きた死に神」が文字通り、この世の中を「死者の溢れる死に神の国」に再生しようとする信仰、ということで、黙示録なんかもろにその通りの話、って言われるわけですがーー;。で、どこかのサイトでちらっとコプト教会の絵画の写真を見たのですが、そこでは磔にされたイエスの十字架の足下にしがみつくマグダラのマリアの絵が描かれていて。「十字架」というのはそもそもイシス女神の持ち物ですので、その絵は暗にマグダラのマリアがイシスであると暗示しているようにも見えるわけですが。ともかく、偽のイシスが、コプト教徒を誘拐して虐殺するっていう事件が最近あった気がするんだけど? と思うわけで。

で、余談ですが、「ワイルド・スワン」っていう文化大革命を扱った本を読んだことがあったでしょ? 作者の母親は、中国の農村部に下放されたわけですが、子供をたくさん産んだ女性ということで、縁起が良いから田植えを手伝ったっていう話があったでしょ。それは、生殖の豊穣と、稲の収穫の豊穣が重ね合わされている思想がある、っていうヒントを教えるために書かれたんだよ、って言われるわけで。「ワイルド・スワン」は捨てちゃったんですけれどもね。あの作者もお味方であったのですよねえ? 鴻(中国語の「白鳥」)という名前を貰っていた人だったわけだから? と思うわけですが。で、逆に日本では「早乙女」って言って、これから子供をたくさん産みそうな若い娘が田植えをするっていう習慣があるわけで、それも同じ系統の思想なんだよね? って思うわけで。各地の神話は複雑怪奇に絡み合いながらみんな繋がっているんですねえ? ということで。いろいろと忙しい一日だったわけです。