部族神から普遍的な神へ

ええと、狛天白社に一応結縁したということで。「日本ではそもそも星辰信仰があまり発達してないから、あんまり使い道が無い気もするんだけど、神官長家とか、丸太の騎士団とか、広く外国につてがある人達なら、シリウス信仰の人達も知ってるかもしれないし、そういう人達が呼びかけに応じてくれれば、一応あそこから気を送って貰えるようになると思うんだけど。」と言われたわけで。で、それで寝てしまって、特に夢も見ず。夜中に「beautiful life」とかで目が覚めたりしていたわけで。

で、朝になって、ふと郷土史のブログをやっている人のページを見たくなって。見たら、「駒形嶽駒弓神社」というものを発見して。で、なんだか善光寺の「奥の院」ということで、彦別神を祀っているということで、「行かねば」と思ったわけですが。しかも相殿に祀られているのが、大宜都比売(おおげつひめ)ということで、彦別神が女神である八坂刀売であって太陽神・天照大神であるならば、大宜都比売は月神であって、「太陽と月」の組み合わせで、伊勢的な神社だなあ、と思ったわけで。

で、話はちょっと変わりますが、太女神でありながら、かつ「殺される女神」でもあるメソポタミアのイナンナの神話は矛盾に満ちているわけで、彼女が誰よりも強い太母であれば、夫であろうと殺される必要性はないわけです(しかも、最後には夫を地獄に突き落としているわけですし)。で、一方「犠牲にされる女神」というのは、女性が弱い立場である男系社会に見られる神話なものですから、これは蛇の太母を擁する母系社会と、男系社会の人々が衝突・習合・混住を行った結果、一つの女神の中に双方の神話が入り込んでしまって、神話が構成された結果だと思われるわけで。純粋に母系が強い社会だと、イナンナ系の女神は夫を食い殺す太母として君臨するわけで、逆に男系が強い文化だと純粋に「犠牲となる女神」に変化するわけです。で、西方には「輝けるイナンナ」という意味の「ANB」の子音を持つ女神が各地にいるわけですが、これが海路を通って南アジア方面に拡がると、「ハイヌウェレ型神話」の「殺されて作物(主に芋類)を生み出す女神」となるわけです。一方、縄文系の朝鮮由来の縄文系文化では、母系が優先されて、「殺される太母」はどちらかというと「蛙の女神」の役割になってしまっていて、彼らの大姥サマは大姥サマで、鎌で人の腸をかっさばいて食べるようなイナンナ的太母のまま君臨するわけでーー;。日本の古代の文化は、北方系の文化と南方系の文化の衝突と習合なわけですが、西へ行けば行くほどハイヌウェレ型な信仰の形態が増える、東へ行くと太母としてのイナンナ・メヒト的な信仰の形態が増える、ということのようで。で、大宜都比売(おおげつひめ)というのはハイヌウェレ型の女神であって、個人的には名前から見て「月の神」として良いと思うのですが、調べて見たら表向きには「月の神ではない」とされているようで。でも、性質的にもハイヌウェレはイナンナの別名で「月の女神」なんじゃないの? と思うわけなのですが。阿波の国の祖神と言われる大宜都比売(おおげつひめ)は、南方由来の「イナンナ」なわけです。

で、特に西方では、神々は「部族神」という性質が強くて、西洋の多神教というのは、「同盟」とか「征服」とかそういうものの上に立脚しているので、主神を擁する人々が頂点で、その次が妃神を擁する人々、みたいに擁する「神」によって社会的地位が決まってしまうわけで。で、神々にも「職能」というものがきっちり割り振られていて、それがそのまま擁する人々の「階級」に直結するわけで。でも、そういう部族神と多神教を組み合わせた社会の中からゾロアスター教とか仏教という「普遍的」な宗教が生まれてくるわけで。そういう宗教の持つ意味は、神話によって階級が固定化され、神も含めて弱者だけが犠牲になるのではなく、全体が協力して社会を形成していけるようにするためのもの、って言われるわけで。だから、そういう普遍的な宗教の神々は「普遍性」というものが求められるわけで。出雲の神々は、ゾロアスターの神々でもあるので、単なる「部族神」ではなくて「普遍性」を追求する神々でもあると言われるわけで。人身御供を禁止するとか、そういうことは平等を心がけた「普遍性」の追求の結果でもあるわけですが、よろしくない行いを「穢れ」として忌避しすぎると、狩人としての野生の力を失って、より強力なデーヴァが現れると負けてしまう、と言われるわけで。一方、仏教は、神に対しても人に対しても一定の「規範」を儲けて、それを守りさえすれば悟りが開ける、というような宗教なので、本来人喰いの「悪神」であっても、その行いを悔い改めれば善神になれるし、それは人も同じ事、ということで。そして、本来軍神であった釈迦が地を這うような穢れにまみれた生活を行った上で悟りを開いたように、「穢れ」を否定せずに、理性と意志の力で己を律するべき、としたところが仏教の特徴、と言われるわけで。金刺の舎人は、ゾロアスターの神々では敵に勝てないであろうことを見越して、海を越えて敵に対抗できる力を探しに行った、と言われるわけで。それで持ち帰ってきたのが、ヴァルナから変化したヴィシュヌの顕現と言われる釈迦を擁した「仏教」なんだ? と思うわけですが。ともかく、金刺氏の持ち帰った「釈迦如来」は弓を持ち馬に乗って、市中を巡回したという伝承があるということで、それは一般的に語られるお釈迦様の姿とはだいぶ違うぞ? と思うわけで。それはどちらかというと「軍神そのもの」のお釈迦様だという気がするわけで。あのお寺が隠している「神」というのは、そういうものなんだ? と思うわけですが。で、彦別神というのは、朝鮮の例に倣えば、女神のことで、彦神(諏訪神)と対になる神のことだと思うわけですが、男神として語られることが多いわけで。なんで? と思うと、結局「八坂大神と八坂刀売」とかそういうのは、同じ性質を持つと言われる「1対の神」のことを示す「記号」みたいなものであって、出雲神族にとっても「八坂刀売」というのは、羌族の蛙の太陽女神のことですから、本来彼女は「ヴァルナ」という名前を持っていてもそれは形式的なものに過ぎず、軍神としての力は持っていないはずなんだから、その役割は夫神が負うべきものであって、そういう意味もあるから軍神としての彦別神は「男神」ということにされているんだけど、って言われるわけで@@。でも、最近の蛙の女神は、狩人の星・凶星シリウスと結縁して、結果力が増して「駒形嶽駒弓神社」を探し出したわけですから、「あれはどう見ても、シリウスの女神・人喰いイシス」って言われるって言われるわけでーー;。伊勢の星辰信仰は、あくまでも「太陽と月と織り姫星」なんで、敵が太陽女神を食い殺すために持ち込んだ凶星シリウスに結縁して力が増したからといって勘違いしないように、って言っておいてくれ、って麻績部から釘をさされてるんだけど、って兄さんから言われるわけですが@@。食い殺した人の血で髪が真っ赤に染まった「赤毛のアン(イナンナ)」の性質が強くて悪かったですねえ? とは思うわけですが;。それで、6番目の子が「ヘンなものと結縁させすぎる。」と言われて、非難されてる、と言われるわけですがーー;。

で、その一方、今日は「宇達神社」というところに行ったわけで。で、例によってここは、ありがちな諏訪系の神社であって、おそらく本来は「守達神社」と言った
ものが改変されているのだと思うのですが。それ以上に、境内内に「神武天皇」が祀られているのに驚いたわけで、その由来があまりはっきりしていないのも気になって。でも、神武天皇といえば「金鵄」ですので、左目が強調されている「金鵄」が校章の学校が、ここの西側にあることとおそらく無関係ではなかろう、と思うわけで。「金鵄の由来は、『日本書紀』の神武東征伝の一節による。神武天皇が東征の過程で長髄彦(ながすねひこ)との戦いに苦戦を強いられていたさ中、突然天候が悪化して辺りが暗くなると、金色の鵄が飛んできて天皇の弓の弭(はず)(弓の端の弦をかけるところ)に止まった。そのため長髄彦やその兵卒は目が眩んでしまい、天皇は辛くも勝利を手にすることができた。」ということで。これはどうみても、「鵄」の神が、長髄彦ではなくて神武天皇の側に味方するように、っていう呪いがかかっている話だと思うわけですが、どうにも昨今は「金蛙王」の目を持った鵄の神サマがいるということで、「本物の金鵄」が出て来た、って言って、OB会では「金鵄」って聞くと気分が悪くなる人が続出してるって言われるわけですが@@。馬に乗って弓を引くような金鵄健児で悪かったね? というか、本当はそういう神サマが、羌族の太陽女神を守り隠していく、というのが理想のあるべき姿だったんですねえ? と思うわけで;;。蛇の兄さんは「馬に乗って弓を引くのは男神なのか? 女神なのか?」って聞かれる、って言うわけですが。そんなこんなで、母系の蛇女神を信仰してる人達が主に喜んでいるんですねえ? と思うわけですがーー;。凶星シリウスに結縁して力を得る金鵄の女神っていったら、誰がどう見ても古代エジプトのイシスということで、「本当に犠牲にされる女神の卦があんまり出ないよね?」って言われるわけですが。ともかく、善光寺の管轄下にあれば、仏法の精神の方が優先される、ということでハイヌウェレ型女神の大宜都比売の名前も安心して取れる、ということらしくて。

そして、伊勢信仰の傾向が強い駒形嶽駒弓神社は、善光寺と伊勢を繋ぐ正規の直接の道だったんだけれども、地すべりの件で「生き埋め」にされた人々の死で山が穢されてしまって、その道は閉ざされてしまい、今まで誰もその穢れを祓って、道を再開させることができなかったもの、と言われるわけで@@。「あの事件のことを覚えてるでしょ? 崩れると分かっていたのに、老人ホームには非難勧告すら出されなかった。それは、山の気を穢して、伊勢への直接の道を閉ざす目的のためのもの。」って言われたわけで。「だって、あの高校へ行けば、大抵は誰でも大学へ行って、最低でも教職の免許くらいは取るでしょ。太陽女神は「教師」でもあるから、それで女神の資格を得る最低ラインは通過できる。だから、敵は封印の力を強めるために、犠牲を捧げたのであって、ハイヌウェレ型の女神は彼女が象徴する芋の種の如くに生き埋めにされて殺された、ってことは覚えておいた方がいいよ。」って言われるわけで。そして、「結果的に、道の穢れを祓って道を開いてきたわけだから、お姉さんには誰も直接文句は言わないでしょ。宇達神社の神武天皇の目も潰してきたし。」って言われるわけで。型枠も外れたことだし、伊勢への道も再開したということで、「今夜はまた大規模な組み替えを行います」って言われるわけですが。6番目の子は、私の力になると思えば、どんなものとでも結縁させようとするし、それで最終的に私の姿がデーヴァのトカゲの姿になっちゃっても、それで敵とやり合える力さえ得られれば何も言わないでしょ、と思うわけで。彼が最終的に求めるものは、敵の力から味方を守れる「普遍的な神」であって、それは必ずしも蛙さん達の「太陽女神」とは限らないでしょ? とそう思うわけですが。7番目の子は、「女神が自分の力では喰いきれないような穢れにぶち当たったときに、守り支えるのが夫の役目」って言ってくれるわけで。そして、6番目の子からは、「身につけられるだけの力をつけさせられる夫でなければ、医者として何一つまともな仕事をさせて貰えず、挙げ句の果てに泥の中を這いずる回るような苦労を10年近くも女神がしてきた意味がどこにあるのか?」って言うわけで。まあ、ともかく水に放り込まれるのも、火あぶりにされるのも、生き埋めにされるのも、首をつれって言われるのも嫌なんですけどねえ? とは思うわけでーー;。明日は明日でまた「お仕事」があるわけです。(まあ、どちらにしても「穢れに弱くて、宮殿の奥深くで、穢れを避けて生活していた卑弥呼のような生き方は、お姉さんにはできないでしょう。狩りの女神の気質がそれだけ強くて、その分穢れに強いから、外に出ても平気だし。」って言われるわけで。まあ、それはそうでしょうねえ、と思うわけですが。)