ええと、この回から龍馬が2回目の江戸への遊学の話になるわけで、微妙に広末さんと貫地谷さんのダブルヒロインみたいな回なわけですが。で、どうも見る前から、吉備津彦命の気配を感じるわけで、日曜日だからお仕事はお休みなのかな、と思ったわけですが。
で、見て思い出したわけですが、この回は本放送で見たことがあるわけです。当時、なんで見る気になったのかは思い出せないわけですが。で、話の内容は、幕末ですので、土佐藩士も多く上京していて、各藩の攘夷派も動き出していて、そんな中で土佐藩士の一人が商人から時計を奪ったということで、訴えられて切腹させられそうになって、それを龍馬が逃がす、という話であって。その藩士を助けるために、龍馬が訴えた相手の家に時計を返しに行って、「藩士の命を助けるために、訴えを取り下げてくれ。」と言って土下座するという内容で。これはね、今見れば何が言いたいかはすぐに分かるわけで、要するに私に裁判を取り下げさせたかったんですね? と思うわけですが、当時これを見てどう思ったかなんて、自分でもさっぱり思い出せないわけで。今でも、映像を見て、言霊の力だけでは、どうも兄さんが何を言いたいのか完全に私には伝わらないことがあるわけで、要するに、そういうのを「力の差がありすぎる」というのだそうでーー;。
で、ですねえ、ドラマの中でよろしくない目の人たちは、「なんで、あの女は死なないんだろう。なんで、狂わないんだろう。」って不思議がって、言っているわけで。で、兄さんは「生きていてくれれば、正気を保っていてさえくれれば希望はある。」って言っているわけで。要するに、当時の私は裁判をやっていて、ものすごく怒っていたし、その怒りの剣幕は「怒りの余り憤死する」という言葉がありますけれども、普通の人であったら発狂していてもおかしくないような勢いで怒っていたらしくて。でも、そうやって怒っているからと言って、裁判所で暴れたりとか、日常生活でおかしくなったりとかいうこともなかったわけで、そもそも「開いていない目」の奥にあるものは、「ただの蛙の目ではない」ということに、吉備津彦命が最初に気が付いたと貫地谷さんがおっしゃるわけで、で、彼女は兄さんに対して、「あの目を開け」と迫っているわけで。私の目を開かせないために何重にもかけられた呪いや敵の気に取り囲まれて、その奥津城で狂わずに発動している激しい怒りの正体を皆様はとてもお知りになりたいと思ってらっしゃったようで。そして、裁判所に行き続ける限り、呼び出しに応じると言うことで負けが重なるし、しかも敵からの「発狂しろ」とか「絶望しろ」っていう気は浴び続けるわけですから、兄さんはまずそれを止めたかったのだと思います。そして、敵ですら「今のあの男(って兄さんのこと)にはあの女を守る力はないのに、あの女が「ただ一人」で持っている力は何だ?」って言っているわけで。
見終わった後に、なんとなく当時の福山君が唄っていた歌を改めて知りたくなって、いろいろ調べてみたのですが、龍馬伝が始まる前の2009年の年末には紅白で「はつ恋」を唄ってますし、CDTVでは「化身」という曲を唄っていて、で、「はつ恋」も当てつけがましい系の「呪いの歌」なわけですが、「化身」は「化身」で非常に刹那的な歌なわけで。2009年も、その次の2010年も、世の中には不安感を煽るような矛盾に満ちたニュースが溢れ、希望に満ちたような歌もなんだかとても少なかったような気がするわけで。そういう中で、唯一私の心に引っかかってきたのが、2010年の年末に福山君がFNS歌謡祭で唄った「心color」であって、兄さんですら呪いの歌しか歌えないような状況だったんだな、と思うわけで。「化身」のPVを見ますと、背景は青いし、兄さんは紫色の衣装を着てますし、イナンナ女神のような絵が途中に出てくるし、で、要するに当時敵が私に期待していたことは、絶望感に満ちて自滅するか、でなければ死の蛇女神であるイナンナ女神のように激しい怒りを発動して、「身に余る怒りを発動して自滅する」かだったんだな、と思うわけで。
で、兄さんなんかもライブとかで客席から攻撃的な気を浴びると、目の力で防衛すると言うよりは、力で押し返す傾向が強くて、「防衛が甘い」って指摘されたことがありましたけれども、当時の私も「防衛する」なんてことができませんでしたので、その代わりに自分自身の「怒りの気」で、周囲からの攻撃的な気を押し返していたんじゃないのか、と言われるわけで。まあ、裁判所に行くときには、ロビーにも廊下にも、裁判所とは関係なさそうな人が溢れていて、そういう人たちはみな私のことを呪うような気を出してたんだ? と今となれば思うわけですが。当時の自分としては、ともかく裁判長の態度がまともじゃないんで、なんとしても、まずはまともな態度を取らせてやる、そうすれば負けるはずのない裁判なんで、と思って怒っていた気がするわけで。破壊の狂気をもたらす「怒りの気」だけで、攻撃も防衛も兼ねるなんて、通常ではあり得なさすぎて、イナンナと言うよりは、どうみてもカーリーだっておっしゃる方々が多いようでーー;。それを制御することのできる、青い印欧語族の蛙の太母の目の意志の力こそが、印欧語族と仏教徒が焦がれて止まないもの、ということで。
兄さんなんかは、「バッバルの目しか持たなくて、弟子達に食い殺された2000年の前のあなたの先祖が、今のあなたの目を見たら何というか聞いてみたい。」と呟くわけですが。
第9話を見終わった後に、吉備津彦命が開業するっていうことを思い出しましたので、開業するならネット上で彼を探せるかもしれないと思って探してみたわけです。で、首尾良くHPも見つけ出したわけですが、みんな誰もが年をとって老けたな、と思う。でも、こうやって探し出そうという気持ちになって、みつけることができるということが、「無くしたものを見つける」ということなのだと思います。こうして、お味方と結縁できる力はどんどん強まっているのだと思うのです。