21年5月20日

 昼過ぎから雨が降り出したので、外作業は午前中のみ。母は土の埋め戻し、土の清掃、姉は土の清掃等、私は土掘り、土の清掃でした。

 テレビは昨夜は「ブンブブーン」と「いただきハイジャンプ」の録画を見て。今日の昼は「いただきハイジャンプ」と「サンマ御殿」の録画を見ました。まっすーを見るのも久しぶりー、と思う。

 で、結局、「神」というものはチベット系の神々が起原で、「永遠に生きているもの」であって、その役割を人の世界で果たす「現人神」というものが、次々と交代するものであれば、死んだ先祖を偲ぶとか、尊敬する、とかそういうことはあって良くても、先祖を神とかそれに類似したものにしてしまうことが間違ってるわけだ。神が生きている人であるからこそ、食事を差し上げたり、身の周りの世話をすることが必要なのであって、死者にそういう世話は必要ないし、死者に食事を用意してもご当人が実際に食べるわけではない。・・・ということは、死者が神とかそういう類いのものになる、という思想・宗教そのものが間違っているといえる。死者が天国へ行く、とか生まれ変わる、というのは、まあ中庸的な思想といえる。天国へ行く、というのはそこで「死者が永遠に生きる」=神みたいな存在になる、ということだから、それも間違いの第1歩といえる。「生まれ変わる」というのは、生きて生まれ変わって、新たな「現人神」になることでもあるので、それはよいらしいです。

 で、「太陽女神が外に出て人目に触れてはならない」という意味は分かるよね? と言われる気がするわけで。月神が、欠けたり満ちたりするのに合わせて、天と地を行き来するものであるなら、太陽は欠けないまま、常に天にいるものであるので、「地上に降りてはならないもの」だからだと思う。太陽が地上に降りているのは「夜」であるので、「太陽女神が地上にいる」というのは「夜」を意味するので、人目に触れてはいけないのだと思うのです。人目に触れている時は「夜」であって、地上にいない時(隠れてる時)が昼なわけだ。だけど、それではあまりにも現代的でなさ過ぎるので、ある程度は「外」にも出られるように呪術を組みかえて行きましょう、と言われる気がするわけで。・・・それはともかく、独身で、目が見えなくて、常に家の中にいて、汚いままで兄弟に飯を運ばせて、あれこれ自分勝手に命令しているような、そういうのが蛙の王家の「理想的な太陽女神」だということですよねえ? と思う-;。そういうのどっかで見たことあるぞ、と思う-;。私は別に、苛められなければ、外に出て働くのだって個人的には嫌ではないわけですがー;。

 で、昼寝しようと思うと、何か言われる気がするわけで。イエス・キリストは「神とは永遠に生きるものだ」と知っていて、実体を持たない「死んだ神」に対してお布施なんか上げるのは無駄だし、間違っていると思っていた。だから、そんなお金があったら、それはむしろ人々がお互いを助け合うために出し合って役に立てるべきと考えていた。そもそも、お金は俗世のものであって、神のものではないはずだし。そして、イエス・キリストはク・フーリンと同じく、神ではなくて人である。だけど、彼が「現人神」となる資格を持てば、いずれかの神の名前を貰うことになる。そして、イエス・キリストがどんなに人為的に神格化されても、「現人神」となる資格を持つ人はその名前を貰うことができません。何故なら、彼はク・フーリンと同じく「生まれ変わる能力を持つ人」だから、他の人はその名前を取ることができない。自らの名を名乗ることができるのは本人だけである。そして、本来のキリスト教と、その前身のユダヤ教の「一神教」とは、古い印欧語族の「天空神」に近い神を再築して、色んな人為的な神が際限なく増えて、お布施とか犠牲という形で人々の負担が際限なく増えることを抑制することが目的のものでしょ。そもそも一神教の草分けであるアメンホテプ4世のアマルナ改革は、神官達に富や権力が集中するのを防ぐ目的で始められたもの、と言われる気がするわけで@@。

 そして、イエス・キリストは「人」であるけれども、「現人神」となる資格を得た時に、最上位の神でもあり女王でもあるものの名を得れば、その権力を使って、死んだ人を神格化して現人神を立てて、「生きた幽霊」を意図的に作り出してお布施とか犠牲を求めるような無駄なことを止めることができるでしょ。しかも、ク・フーリンもイエス・キリストも「生まれ変わる人」だから、神の存在とは別に彼らも「永遠」の存在である。よって、彼らが「現人神」の資格を得れば、取って替われる人はいなくなる。そうして、廃すべき神・縮小すべき神と、残すべき神々を現実に合わせて整理・整頓しなければいけない、と言われる気がするわけで@@。そして、まずはイエス・キリストと黄帝の2名を「正式な神」の名に加えなければならない。彼らは「死なない人(生まれ変わる人)」なので、神格を与えても「幽霊」にも「生きた幽霊」にもならないから、と言われる気がするわけで@@。イエス・キリストを神に昇格させること、薬師如来と習合させること、そうすれば彼らは「外」を出歩ける神となる。イエス・キリストには各地を旅して、様々な奇跡を起こした、という伝承があるし、伝道のために各地を動き回った人でもある。太陽女神が、外に出ることができないのは、本来であれば、様々な俗世の「穢れ」に触れないためでもあり、死者とか病人がそもそも「触れてはいけない穢れ」に相当するのだけれども、死者や病人を救済する薬師如来の名前を取れば、穢れに触れることが可能になる。

 だから、イエス・キリストを神に昇格させて、薬師如来と太陽女神を習合させれば、ある程度「外」に出られるようになる。イエス・キリストも聖書の中ではほぼ医薬神扱いだし、と言われる気がするわけで@@。だけど、その副作用として、永遠に誰も他の「現人神」としての「太陽女神」に立てなくなる。「現人神」としての人も「太陽女神」も永遠だから、と言われる気がするわけで@@。・・・薬師の方は、どうするんですか? 生まれ変わるたびに、医者の仕事もしないのに免許だけ取れって事??? と思う。そうしたら、「薬師の習合が、必要がなくなれば外してしまえばいいんですよ。それは主に京都の結界に使ってるだけだから。」と言われる気がするわけで@@。・・・太陽女神が盲目でも、汚くても、資格があれば「太陽女神」にはなれる。だけど、それでは薬師の名前は取れない。薬師の名、太陽女神の名が取れる者でないと、あの町の結界に手を出せない、と言われる気がするわけで@@。

 京都の都も、それに関わる家系の運命も、「変えることができる」のは、最初の家長であるイエス・キリストと薬師如来と太陽女神を兼ねる者、と最初からそう計画して都を設計した人がいるらしい@@。だから、蛙の王家ですら、手を出そうとすると大打撃を食らうことになったわけで。千年続くと言われた「黙示録の千年王国」とは何のことですか? と聞かれる気がするわけで@@。・・・それは、「京の都」のこと? と思う。

 で、イエス・キリストは再臨する、と言われてるけれども、再臨する前にどうなる? と聞かれる気がするわけで。その前に、理不尽な裁判に負けて犠牲になる? と思う。だから、理不尽な裁判に負けて、犠牲を支払えば、後は再臨するだけですよ、と言われる気がするわけで@@。「千年王国が終われば、その次は再臨でしょ?」と言われる気がするわけですが@@。・・・そんなことのためだけの裁判? と思う。イエス・キリストも、黄帝も正しく神格化したいと思う人がいれば、してもいいですよ。でも、個人的には「キー」という感じです-;。

21年5月19日

 本日は出かける日だったので、ごみを捨てに行って、買物をして帰ってきました。なんだか、黒い車とか黒い服を着ている人が多くて「何かあったっけかなー?」と思う。そうしたら、家に帰ったら新町病院からカルテ開示についての電話がかかってきて。「これかー」と思ったのでした。新町病院の内科は信大の第一内科出身の医者の巣窟であって。今蚩尤から「一内といえば誰のいたところ?」と聞かれる気がするわけで。「そういえば、昔、本田とかそういう名前の人がいたような気がする。」と思う。「だから、そこでやってたことの裏に誰がいたのかあからさまでしょ。」と言われる気がするわけで。そういえば、今朝、近所のファミマの駐車場に「8888」とかってナンバーの黒い車が止まってた気がする。それって「八幡」ってことだよねえ? と思う-;。「なんで、今までそういうことに気が付かなかったのかね?」と言われる気がするわけで-;。・・・自分でもそう思う、と想う-;。別にカルテを開示させてあら探しをする気はないわけですが。読んでいて勝手にあらが見つかったら、それは私の責任ではない、と想うわけですが-;。

 で、ふと思うことがあって、昔の卒業アルバムとか見て見たわけですが。教授連中の写真を見ていたら、なんだか誰と誰が手を組んだのか知っていて、怯えている気がするわけで@@。今蚩尤にせいぜいこき使われていればいい、とそんな風に思うわけですが-;。まだ生きているならね。

 ということで、外作業は午後が中心であって。母は土の埋め戻し、姉は土の清掃等、私は土掘り、土の清掃でした。そして、なんだか毎日子雀の数が1匹ずつ増えていく感じです。昨日あたりからハクセキレイが顔を出すようになったので、ハクセキレイの子育ても始まったのだと思います。

 テレビは、昨夜は「CDTV」の録画を見て。今日の昼は、昨夜の「ブンブブーン」の録画を見ました。なんだか「物真似」についてあれこれやっていたわけですが。物真似をしている人は、どんなに似ていてもご当人ではない。饕餮や蚩尤も「天帝」とか「黄帝」を模倣していても天帝でも黄帝でもない。そういえば「饕餮文」とは、先祖を祀る廟に「飲食用の器」として使用された青銅器にみられたりするらしいです。それは、「太陽女神に食物を捧げていた月の神」の信仰の名残、と言われる気がします。でも、それは「月神」を真似ている饕餮であって、月神ではないのです。
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 風呂基礎北側水道管周囲の玉砂利などを掘ったもの。玉砂利のみならず砕石も含まれていた。

21年5月19日

 本日は出かける予定がなかったので、一日外作業でした。母は土の埋め戻し、土掘り、土の清掃、石片付け等、姐は土の清掃、石の片付け等、私は土掘り、土の清掃でした。夕方は雨っぽかったので、早めに上がりました。

 で。「月神」についてですが。そもそも中国よりも北に住む人たちは、単純に「天の神」「地の神」といった自然信仰しか持っていませんでした。でも、中国の文化の影響、特に祖先信仰と、ハイヌウェレ的な生贄の文化の影響を受けているし、人為的に神話が書き換えられている部分もあるわけです。中国南部の稲作文化の信仰は、チベット系の文化と漁撈民の文化が混血してできたもので、最初は母系でした。太陽女神と月神が唱和して世界を創世し、妻の太陽女神を養うために、夫である月神達は鳥となって天と地を行き来して、食物を運んでいた、という神話があったものと思われます。西王母神話の原形です。で、月が地面に降りている間は天に月は見えません。これが「月の満ち欠け」の説明となっていたと思われます。月は、人々が捧げる生贄を妻の元に運ぶ、と考えられていたと思われます。そして、その見返りに人々に農作物の豊穣をもたらすと考えられていました。こうして、チベット系の日月信仰と、漁撈民のハイヌウェレ神話(人食いの月神信仰)を合わせて、整合性の取れた神話と文化が形成されたわけです。

 北方の印欧語族の先祖は稲作文化の信仰の影響を受けて日月信仰を取り入れて、「日の神」「月の神」は「天の神」の一部として扱われることになりました。信仰を取り入れる、ということは「臣従した」と言えなくもありません。

 でも、主人の方が搾取を好む「よろしくない主人」だったので、謀反が起きました。ようするに「月神」が「太陽女神」に「食事を運ぶ」というのは、「下々を搾取する」ということだったのだと思われます。「太陽女神」はチベット系の生きた「現人神」であって、チベット系の人々は今でもそうだけれども、彼らの「聖なる存在」は生きた人で、特定の条件で交代して受け継がれていくものです。ネパールのクマリは初潮が始まると次の女神と交代するし、ダライ・ラマは先代が亡くなると生まれ変わりを探しに行く。だから、「太陽女神」もおそらく、死とか加齢とかの特定の条件で次の代に交代したと思われます。そして普段は人々の前に姿を現さず、その「夫」が女神に食事を運んで世話をしたり、女神の言葉を人々に伝えていたと思われます。この場合「月神」は「太陽女神」の言葉を人々に伝えるシャーマンでもあります。

 で、謀反の結果、稲作文化の「月神」は殺されて、印欧語族の王が新たな「月神」として婿に入って、悪政が行われないように監督することになりました。でも、その息子は母親の方の味方についたので、印欧語族の王は自分の息子に殺されて、シャーマンの地位は息子が受け継ぎました。

 印欧語族の側から見れば、印欧語族の王は印欧語族の側から見れば、悪政を正してくれた英雄なので、子孫である人も、ない人も、「偉大な英雄」だと思って死後も尊敬して語り継ぎました。でも、稲作文化の子孫に言わせると「そんな先祖のことなんかどうでもいい」ということになって、こっちの子孫は今でもそんなことしか言ってないようです-;。それは自分達が搾取しておいしい思いをしていたのを邪魔にしてた余計な先祖に過ぎません。うちのじいさんや姉が、家族の医療問題で奔走する私を「余計な者」と思ってる程度にしか、「余計な先祖」と思われてないわけだ-;。子孫にとって大事なのは「おいしい思い」をすることを肯定してくれる先祖だけです。肯定して頑張ってくれてたのは「殺された方の月神」ということで、子孫は「殺された方の月神」を神として祀り続けることにしました。でもそうすると、悪政に反対する臣下から非難されるので、表向きは「まともな月の神」を祀るフリをして、実際は「殺された方の月神」、すなわち「饕餮」と「蚩尤」を祀り続けました。そして、「まともな月の神」と「饕餮」と「蚩尤」は「同じ物」であるかのように一緒に祀って、「祖神」と言うことにしたわけだ。だから、心の中で「まともな先祖」を尊敬している人はまともな行いをしようと心がけるし、「自分だけがおいしい思いをすることを肯定する」ことが当たり前だと思ってる人は「饕餮」と「蚩尤」を心の中では「自分の先祖だ」と思って祀ってたわけです。それは表面的な祭祀からは、どちらを神と考えているのかは分かりません。でも、ご当人の行いを見れば、どちらを「先祖として尊敬しているのか」は周囲には丸分かりになるわけです。・・・・だから、あらゆる意味で「一族郎党だけがおいしい思いをするばかりなのはよろしくない」とそう考える大昔のひいじいさんと、一番最新の私は、両方とも7000年の時を超えて、一族郎党からは「おいしい思いをするのを邪魔する余計な者」らしいです。・・・こっちはてめえの腎症の進行を止めようとしてるだけなのに、ふざけるな、って誰か私の代わりに言ってやってって思う(苦笑)。

 で、「まともな月の神」と「搾取好きの太陽女神」から生まれた男子は、自分が一番になって威張りたかったので、父親も殺してしまいましたが、姉妹に権力を譲る気もありませんでした。だから、「自分は月の神の言葉を聞く代理人だ」と言い出して、亡くなった「月神」達を祀り出しました。おそらく、母親はともかく姉妹の太陽女神は殺してしまったのではないかと思います。太陽女神は置くとしても、自分の支配下におけるものしか置かなくなりました。要するにここで、現実世界でのシャーマンと女王の地位が交代したわけで、家庭内の問題ではなく、政治的に文化は母系から男系に交代してしまったわけです。以後、中原では男系が台頭し、中国では女帝は武則天しか歴史上に存在しない、ということになりました。そして人々は「生きた月神」ではなく「死んだ月神」とそのシャーマンである皇帝を敬わなければならなくなったわけだ。そして「死んだ月神」は「「太陽女神」を殺してその財産を奪う月神」、ということになってしまったわけです。太陽女神を殺して、その財産を自分のシャーマンに与えてしまったからです。だから、以後、その家系では「シャーマンの言いなりになる太陽女神」しか立てなくなったわけで、「言いなりにならない太陽女神」は先祖のひいじいさん同様「余計な者」ということになってしまいました。「余計な者」に財産を渡さないために代が変わると、先代の太陽女神は殺してしまう、とかそういうことをしてたのだと思う。だいたい、初期の漢王朝とか、皇后は皇太子が即位する時に、余計な口を出させないために殺してしまう、とかそういう物騒な風習があったはず。

 一方、こういう政治的宗教改革を経たことは、印欧語族の先祖にも影響を与えるわけだ。彼らは元々自然信仰の人々なので、英雄は英雄であって神ではありません。でも、上が英雄を神として祀り始めたので、自分達も英雄を神として祀り始めました。だから、ここでも混乱が生じます。それまで彼らの「月の神」は自然のままのものを拝んでいたから、人間と同じようには生きていたわけでも死んでいたわけでもありません。でも「死んだ月の現人神」をそのまま神として祀り続けるようになると、結局上にならって「死んだ月の神」を祀るようになって、月そのものが「死んだもの」となることになってしまいました。彼らの「太陽神」は元々上の「太陽女神」とはあんまり関連しないので、それほどの影響は受けません。だから、印欧語族の中には、部族によって、よくよく古い形式の「天と地を行ったり来たりする月の神(これは生きた月の神)」に対する信仰と「死んだ月の神」に対する2つの信仰が生まれ、どちらを採用するかで上に対する忠誠心も分かる、ということになりました。上をどの程度見習っているのかは、彼らの習慣を見れば分かる、すなわち「寡婦殉死」を強く採用している部族ほど、忠誠心が厚い、と言われる気がするわけで@@。そして、印欧語族の「月の神」は、元々「天の神」でもあるので、「月の現人神」が衰退するにつれて、もう一つの天の神である「太陽神=雷神」の方が前面に出て来ることになりました。彼らにとって、英雄と神を習合させることは、英雄を「月の神」として扱うのみならず「天の神」とか「太陽神」として扱うことにもなりますので、結局「戦争に強い神」ということで「雷神」ということに落ち着くことになりました。だけど、自然現象とか、元々現人神だったものを「死んだ月の神」とかに変更して無理矢理習合させたおかげで、部族によって政治的思想も解釈も異なるので、印欧語族の間では「似て非為る神話」が大量に生まれることになったわけです。しかも、そこに常の各地の漁撈民との混血習合によって、ハイヌウェレ的思想が大なり小なり神話の中に入ってくることになります。

 そして、古代のヒッタイトでは、「男性形の月の神(生きた月の神)」の神話を残していたことから見ても、女性を差別する社会ではなかったし、皇帝は専制君主ではなく、皇后は夫の死後も一定の権力を認められて維持し続けていました。一方、月を女神に変えてしまったローマでは、寡婦殉死の制度こそ早くに廃れましたが、女性には相続権・参政権がなく、女性差別の激しい社会であったことは明確だったわけで。「女は教会では黙ってろ」といったパウロ主義のキリスト教を採用してることからもその姿勢は明らかである。同じ印欧語族でも、神話を見れば、「自分だけがおいしい思いができればいい」と思ってるかいないかはあからさま、ということらしいです。だけど、黄帝とか饕餮とか蚩尤とか、全部いっしょくたに纏めてわけが分からなくして祀って、女性差別とか、その名前を弱者に対する差別の原動力として悪用している点については、「まともな月の神サマ」の方から大いに異議があると思われますので、その状況は解消していかねば、ということらしいです。堅君の「1995」の歌詞に「嘘みたいな噂が真実をつくる」という言葉があるわけですが、「黄帝と饕餮と蚩尤が同じもの」とか、そういうあからさまな嘘を押し通して7000年もの間「真実だ」と言い張って、世界を自分がおいしい思いをするためだけに利用して食い物にしていた家系がある、ということで。だいたい、どう聞いてもあまらさまな嘘を平気でつくよねえ? その人たちねえ? と思う-;。腎機能がボロボロなのに「もう良くなった」とかさあ??

 というわけで、金曜日は堅君を見て、その後嵐のDVDをひたすら見てたわけですが。今日は「自分達を見て欲しい」と剛君に言われる気がするので、KinKi-KidsのDVDをひたすら見る。まあ、色々な言い分を聞いたわけですが、ともかく古い中国南部の稲作文化では、ひいじいさんが婿に入り込んで来る以前から、母系の家系で太陽女神に対して二人の月の神が夫につく、というのが伝統だ、ということで、ひいじいさんに対して「本来の太陽女神信仰に戻せと言うのであれば、お前が入り込んできて家長面する以前の体制に戻せ」とあからさまに言う人もいるらしい、ということで-;。まあ、それも妥当なご意見だとは思い出すので、そうさせて頂ければ、と思います-;。というか、一部のお偉いさんからは、「英雄も神も何も、その人は元々豚飼いでしょ。印欧語族の先祖は豚を飼いながら東洋から西洋へ移動したんですよ。」と言われるわけですし-;。あたくしは、ひいじいさんが豚飼いのキアンでも「そんな先祖はどうでもいい」とか言うつもりはありませんが。ともかく、誰も彼もの「身分意識」というものには頭を抱える-;。でも、今蚩尤とは、なんだかよくよくウマが合わなくて、ビジネス・フレンド的な関係になりそう、ということで、兄さん達は喜んでいるらしいです-;。言い換えれば、よくよくの呉越同舟ですな-;。

 でも、ものごとを何でも誰でも良いと思う方向に持っていこうとして「余計な者」と言われてつまはじきされて殺されたひいじいさんの苦労は良く分かるようになった気がするわけで-;。気をつけなければ、自分も二の舞いだよー、と思う-;。7000年経ってもそんなサイコパスな家系って、どういう遺伝子なの、と思うのでした-;。

21年5月17日 その2

 本日は父親を市民病院へ連れて行く日だったことと、午後雨が降ったので、私は外作業はお休みしました。母親は土の埋め戻し、姉は土の清掃をしました。それから、今年お初の小雀の姿を見かけました。

 だいたい、「富の王家」を象徴する物品を全て買って欲しい、と言われる気がするので、言われるままにせっせと買って、最低限必要なものが家に届いたのが、先週の金曜日(14日)だったわけです。で、堅君ショックがあって、その後、夜ずっと嵐のDVDを見ていたら、「今蚩尤のことは、「妖精国の騎士」という漫画のディオルト・エンゲリックのようなものだと思うように」と言われる気がするわけで@@。で、この漫画は各方面の好意で最初の5巻だけが古い家に置いてあったわけです。(でも全部で54巻もある・・・。)だから、次に古い家に行ったときには、それを持ってくるように、と言われる気がするわけで。16日の日曜日に小雨模様だったので、古い家に行って持ってきたわけです。他に持って来たのは、卒業アルバムの元になった写真が治められているアルバムと、私が一番最初に手持ちの織機で織った小さな織物である。織り姫の一番最初の作品・・・というか、作品というほどのものでもないけれども、小さな織物である。掃除してたら、たまたま見つかったので。後は「そろそろキリスト教関連の書物も持ってくるように」と言われる気がするので、1冊持って来て。

 で、後は「物語論」である。今蚩尤の方からは「「魔法使いの弟子」と「ウサギ番」が同起原の物語で、東アジアとの中間点にある中央アジアの伝承で「ケサル」という名前であるのなら、子音から見て、それは西欧ではなんという名になると思うのか?」と言われるわけで。・・・それは、「キャメロットのアーサー?」と思う。というか、アーサー王伝説とケサル大王伝が「同起原」と言われれば、それは全くその通りと思う。アーサー王伝説はケルトのク・フーリン伝説と類似していて、どちらも様々な戦いの末に、主人公は唐突に非業の死を遂げる。ケサル大王もある日突然地獄に落ちてしまう。・・・「だいたい、人から指摘されないと、自力でケサル イコール アーサーってたどり着けないところがニブいんだよ。」と言われる気がするわけで@@。一言多い、と思う-;。

 「物語論」からは、「妖精国の騎士」について、「光の騎士ローゼリィー、太陽の騎士アーサー」ってあるでしょ。物語というのは、現実のものを投影させるときには、男女の性別を入れ替えたり、役割や立場を入れ替えたりすることはよく使われる手法です。現実ありのままを書くと、ノンフィクションになってしまって、権力者とかに都合の悪いことを書くと弾圧される恐れがある。男女の性別を入れ替えたら、「現実に存在する人のこととは違う物語です。フィクションです。」って言い訳できるでしょ、と業平さんに言われる気がするわけで。だから、「太陽の騎士ローゼリィー、光の騎士アーサー」って入れ替えたら、誰のことなのか分かるでしょ、と言われる気がするわけで-;。・・・いっそのこと、ナイツ・テイルのアーサイトって言えば? と思う。(アーサイトは光ちゃんの役の人-;)

 だけど、ク・フーリンとかアーサー王っていったら、ペルシャのロスタムと同じ起原の人ですよねえ? ロスタムは「b」の子音から始まる名前だから、アーサーとかケサルという名前からはかけ離れていませんか? と思う。そうしたら、「その人は元々2つの名前を持ってるんですよ。でも、「2つの名前を持っている一人の人物」として名前が残っているのはケルトのク・フーリンだけです。クがアーサーやケサルに相当し、フーリンがロスタムに相当します。印欧語族の伝承では、だいたいどちらか一つの名前しか残していないのです。」と言われる気がするわけで@@。そして、その人の中国での名前は「盤古」だから、そこでも後半の名前だけが残っています。だけど、「盤古の右目は月、左目は太陽」と言われるから、盤古は月でもあり太陽でもあるのです。印欧語族では「ク」を「月」、「フーリン」を「太陽」に割り振ってることが多い。だから、ケサル、アーサー、ヒッタイトの月神カシュクは同じ系統の名前、盤古、ヘーリオス、ハウルは「太陽」ということで別れているのです。と言われる気がするわけで@@。だから、「太陽の騎士アーサーと月の騎士ローラント」は本来、一つの同じものなんですよ。と言われる気がするわけです@@。

 そして、印欧語族とその周辺では、「双子」の片方が死ぬ、という話も多い。ギリシャのカストールとポルックス、ローマのレムスとロームルス、カフカスのエクセルテグとエクセル、メソポタミアではエンキドゥとギルガメシュ。一部例外の名前もありますが、「月」に相当する名前の持主が死に、「太陽」に相当する方が生きることが多い。これはおそらく、「月の満ち欠け」と関係しているのだと思います。だから、双子として表される場合は、「死なないB音(太陽)」と「死ぬA(K)音(月)」に別れる。アーサーとローラント、アーサイトとパラモンのように、と言われる気がするわけで@@。・・・だけど、ナイツ・テイルではアーサイトもパラモンも死なないんじゃないの? と思う。そうしたら、2重の意味で、その必要性は解消できます。一つは、印欧語族が望むように、アーサイトとパラモンをもとの形、一体のもの、すなわち「月神」ではなく「日月神」の形に戻せば「太陽は死なない」ので、死ぬ必要性はなくなります。もう一つは、「太陽と月が夫婦である」というのは、中国南部の非印欧語族である母系文化の神話であるので、そこでは月神が死ぬ、という伝承はない。逆に太陽女神を二人の夫(二つの月神)が支える、となるわけだから。月神を印欧語族の伝承から切り離して、「我は印欧語族の神ではない」と述べれば死ぬ必要性はない。

 印欧語族の方は「家督」とやらを移して、富の王家をこちらに買い取らせたら、まず速攻で月読と火明を任命させることで、「月が死ぬ」という呪いを外してしまった。大名王家の方は最初から「自分達は印欧語族ではない」と宣言してる。大名王家の月神は、新月の期間の間、あるいは太陽が隠れている間隠れているに過ぎないので、死んでいるわけではない。しかも、「二人の月」が「一つの太陽」を支える、という形式はより上位の神話に沿ってる、ということで、体制を整えられる時が来たら、速攻で実行してる業平さんの手腕に、敵も味方もドン引きしてる状態らしいです。ともかく、有能な業平さんは、「女を口説くのに必要なのは「余計な一言」ではなくて「気の利いた一言」だ」と言う気がします。・・・・業平さんは業平さんで「気の利いた一言」が多すぎるお方のような気がするわけですが・・・-;。

21年5月16日 おまけ

 あとは、「天火明命」について一言欲しい、と言われる気がするわけで。「天火明命」については、端的に述べればWikipediaに「天津神系の出雲神を源流としていることが伺える」とあり、名前から男性の太陽神であることは明らかなので。出雲系の大国主神話は印欧語族の「呪的逃走」の形式を良く残しており、グローバル的には印欧語族の「男性形の太陽神」=「雷神」であることが伝統でもあるので。その名前は「火明」を祖神とする人々が良く相談して、誰に割り振るかを決めるように、と思う。

 私は、板橋の小さな諏訪神社にも足繁く通ったけれども、一番最初に神社巡りを始めたのは丹後の籠神社と真名井神社からだった。真名井の宮は「元伊勢」と呼ばれ天照大御神が大和から最初に移った場所とされている。よって、古くから土着の「太陽女神信仰」があった場所と推察される。その起原が中国南部であれば、その夫は月の神とすることが妥当である。実際伊勢でも、外宮の女神とその北にある月読の宮の神は夫婦神のように構造からは扱われている。丹後半島では宇良神社の祭神と真名井の祭神は夫婦である、という伝承があったように思う。それは浦島太郎と乙姫の名前が充てられていたように思うが、元は伊勢の構造と同じく月読と太陽女神の組み合わせだったのだと思う。「男性」という観点からいうと、丹後半島は籠神社の火明(太陽)、宇良神社の月読(月)、すなわち表の太陽、裏の月、という信仰が成立しており、太陽は太陽女神と並立し、月は太陽女神の夫である、という構成になってる、と今では思う。そして、「天の神」がいずれも男性である、というのは古い時代の印欧語族の思想と一致する。というよりも印欧語族の一番古い思想は「天の父神」という形式であるので、彼らの父神は太陽神でもあり、月神でもあり、雷神でもある。

 一方、「太陽が女神である」という思想は中国南部の母系社会が起原である。(ちなみに「月が女神である」という思想は母系の漁撈民の思想だと思う。)「太陽が女神である」という思想から見れば、「夫は月の神でなければならぬ」ということになるので、二つの民族が協調して同じ土地に住む場合には、印欧語族の方が折れて、「天の神」を「月の神」をメインに書き換えて、太陽女神を擁する民族と政略結婚をするのが妥当だったのだろうと思われる。その一方で、祖神として「太陽の神」をメインにした神も作り出したので、「火明」と「月読」は「表と裏」で、元々一体のものだったのだと思う。しかし、その後の人間の歴史の変遷により、「月読」と「丹後半島の太陽女神」が夫婦であった、という伝承は正式な神社の起原からは消し去られてしまい、民間伝承と伊勢の外宮の「構造」にのみ残されることになった。太陽女神と夫の月神は、いったいどのような事情で引き裂かれたのか、その謎を知りたい、と思ったのが私の旅の出発点だった。そして、それに加えて、「その謎を解き明かしたらあなたの願いは叶う」と言われたのが、オカルトな超常現象の出発点である;。

 太陽と月が共に男性形であり、印欧語族の神であるということになれば、元の姿は自然信仰の「天の神」であり、それが男系の台頭と共に「天の父神」へと変遷したものである。すなわち、「火明」と「月読」の原形は、中国の人が「天帝」とか、あるいは「黄帝」と呼ぶ者であると思う。「月読」の方は、元の持ち主に全て還すわけにはいかない事情がある。何故なら、これからディオルト・エンゲリックの住み家に行く、という仕事があるわけですが、それに対応して、新月の月の如く「隠れている」のは、光ちゃんではなくて潤ちゃんだからである。6番目の子に「月」の役割だけを背負わせて名前を与えないのでは公平性に欠ける。「火明」の方は「祖神」であるので、子孫が決めるが妥当であると思う。でも、私がこう言えば結局その名前は7番目の兄さんのところに行くと思う。私に異議はなく、異議がないと言えば、一番最初に私を丹後半島に招いてくれた方々に喜んで貰えると思うわけですが、如何に? となります。それが私の考えです。