本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。深夜過ぎから雨が降って、9時頃まで降り続いていたので、午前中の作業はお休みして、部屋の掃除をする、というか、親にしてもらうー;。自分では、どうにも整理整頓できない性格なのでー;。この半年くらい、作業と、裁判だのなんだののゴタゴタで、身の回りの整理整頓とか全然できていなかったので、部屋がだいぶすっきりする。

そして、神様の話に戻るわけですが、農耕民の思想には、必ず「神が死ぬ」という話がつきまとう、と言われる気がするわけです。それは、肥料というものがない昔は、枯れた植物を肥料にする、とか、生きたものを殺して肥料にする、とか、そうすることで収穫が増えて安定する、ということを昔の人でも経験で知っていたので、ハイヌウェレ型神話のように、祭祀で生きている人を切り刻んで埋めるということになる。殺された人の命は、収穫された植物と一体化されるわけで、収穫されたものは「神からもたらされたもの」とされますから、殺された人が神と同じもの、となります。そして、人々が自分の部族の中だけで生きて生活しているうちは良いのですけれども、異なる部族と接触して、共に暮らすようになると、部族同士の力関係が生じて、だいたい上位の部族の人々が、下位の部族の人々の「神」を、それこそ「死んで人々の役に立て」と言って、犠牲にしてしまう、ということが生じます。要するに、下位の部族の指導者になり得るような優れた人を選択的に殺して、反乱を抑えようとするようになる。そうすると、殺された神は、たいてい神々しい太陽神とか、天空の神、とか言われる代わりに、「冥界神」として、祟り神とか、穢れた神という扱いを受けるようになります。そして、死んだ神に対して、同じ部族のものから、更に「神と同一のものとなれ」という理屈で犠牲が立てられることになる。そうすると、下位の部族はますます弱体化が進むことになります。

古代中国の殷は、最初は多くの部族の寄り合い国家でしたが、後に一つの家系が台頭し、家長が専制君主となって君臨しました。中国には、ゲイ神話という神話があり、これはある日、天空に10の太陽が現れたので、地上は暑すぎて困ってしまった。そこで、ゲイという弓の名手が9つの太陽を射落として、地上に平安を取り戻した、という神話です。この神話は、それぞれに太陽神を頂く複数の部族が、国家の主導権を争った結果、特定の一つの部族が勝ち残ったことを示唆する神話だし、殷の歴史と相関関係があると思われます。そして、殷の王は黄帝(太陽神)の子孫である祭祀者として、祭祀も行っていました。多くの中国の人々は、黄帝を祖神と考えていましたから、彼らの頂点に君臨する皇帝とは、「生きた黄帝」であり、その祭祀者でもある、といえます。それは、日本の天皇が天照大神の子孫であり、かつ天照大神の祭祀者であるのと相関関係にあります。要するに、太陽神の子孫が、先祖の太陽神を祀る、という思想は古代中国からもたらされた、といえます。

ライバルの部族の太陽神を蹴落として、唯一絶対の黄帝の子孫となった殷の王家は、時代が下ると鬼神信仰が盛んになり、祭祀の際に大量の人間の生け贄を捧げるようになりました。特に羌族から多くの生け贄が立てられたのです。それにしても、「鬼神」とは何なのでしょう? ということになります。「鬼」とは「死者」のことですので、「死んだ神」とは、例えば太陽神をそれぞれにあがめる部族が10あったとしたら、殺されて負けてしまった残りの「9つの死んだ太陽」のこと、となります。そうすると、皇帝は敗北した部族の神の祭祀権までもを奪い、かつ、「死んだ神」を冥界神として、「自分たちの神の元へ行け」と述べて、敗北した部族をどんどん生け贄にしたわけです。それが、殷の末期の姿でした。しかし、「死んだ神」も元は太陽神なわけですから、支配し、祭祀権を奪うためには、本来の名前を奪い「黄帝と同じもの」として習合させてしまうわけです。そうすると、「黄帝は生と死を司る神」とされて、医薬神としての性質も持つことになる。でも、死者に関わることは「穢れ」ですから、「太陽神に習合させた多くの死んだ神」の性質の方に引きずられて、黄帝はしまいには、本来の太陽神としての性質をほとんど失ってしまうことになりました。黄帝のこのような性質は、日本の天照大神の性質に大きく投影されている、といえます。複合的な太陽女神である天照大神は、天上世界にあるときは唯一絶対の太陽女神ですが、姿と名前を変えると、時に焼け死ぬイザナミ、斬り殺されるカグツチ、同じく斬り殺される保食神、そして斬り殺される早乙女(鹿の神)となります。多くの殺される女神群は、蛙の王家が実際に征服し支配してきた部族の神々であり、それを古代中国式に蛙の王家の太陽女神と習合させたものを、また飛鳥から奈良時代の国史編纂に併せて、再分離したもの、といえます。だから、今でもこの思想の日本における震源地である場所では、殺される「鹿の太陽女神」と「神々しい天照大神」を一緒にして祀っている、といえます。それが「近戸皇大神社」といえます。その祭り方は、神様を祀るのではなくて、鬼神を祀るやり方といえるのではないか、と思います。だいたい、出入り口を「死者の巣窟」であるお寺が封印しているわけですし。古代の殷では、王は神界(冥界)と人界を行き来できる存在、と考えられていました。あの山奥の神社が「冥界」であるとすると、そこを祀っている張本人も、人界と冥界を行き来する人々、ということになるのかもしれませんが、だいたい日本の国の神話では、死んだ神が下された穀物を死んだ神が育てて、それをみんなで食べて死者のままでいる、ということになっていますから、そこを祀っている人々も「死者」なわけです。王様は、「生者」なので、死者の祭りには参加しません。そこが、古代殷とは、違うところなわけです。王様は「死者」に神様を祀らせて、管理させている。その「死者」がこの国では、ローマ式原始キリスト教と、と言えるわけです。どうも、今のところ、死者の祟りを追い払うには、「訴えてやる」と脅すのが現代流の「お祓い」らしいですー;。まあ、向こうからアクションを起こせば、いくらでもお相手するんだけどさあ? ということでー;。

一方、西欧の神々はどうかと言いますと、農業系の神々の変遷は古代中国と似通っていました。古代エジプトの蛙の女神であるヘケトは、太陽女神の姿を失い、「生と死を司る魔術の女神」とされました。ヘケトのギリシャ寄りの女神であるヘカテーは、蛙の女神としてのトーテムを失い、冥界の女神とされています。ただし、西欧の女神達は、古い時代にはニンフルサグのように「生と死の境界の神」とされたり、時代が新しくなると「デーメーテールとペルセポネー」のように、対になって生と死を繰り返すことで、農耕に必要な季節のサイクルを表現する意味を強く持つようになりました。中にはメドゥーサのように「殺されて利用される女神」も出てきますが、多くの女神は主神としての地位を失う代わりに、主神の家族の地位を占めて、完全に「黄泉の国」のもの、とされたものは少なかったように思います。なぜかといえば、古代中国では、農耕民同士が覇権を競った結果、どの部族の「太陽神」が一番強いのか、ということになったのですが、西欧では遊牧民(狩猟民)が支配者として、農耕民を征服することが多かったため、双方が共存する上で、それぞれの「太陽神」が習合する際に、「殺される神」の性質の方向に神々が引きずれらなかった、ということがあったと思います。遊牧民(狩猟民)の神は、猛獣であり、北方では熊が多く、南の方では獅子や豹のようなネコ科の動物がトーテムとされました。農耕民は生け贄を捧げて、それを肥料として使用するわけですから、結局はその結果実った穀物を食べてしまうわけです。要するに、結局死者の化身を食べてしまうことになります。一方、狩猟民にとっては、熊と言った猛獣は食料でもありますが、他の動物を襲って食べて生きる逞しさや獰猛さが、生命力、活力の象徴ともされて尊ばれたわけです。特に狩猟民の軍事化が進むと、「神のように勇猛になりたい」という思想が生まれる。そして、生きた動物はどんな猛獣であっても、いずれは老いて衰え、他の動物に食べられたりすることになりますから、神の化身である王は「老いてはならない」「いつまでも若く猛々しく人々を導く存在でなければならない」という思想が生まれて、王は尊重されるけれども、老いると殺されてしまう、という思想が生まれました。古く老いた王は死なねばならず、そうして新しく活気にあふれた王が即位しなければならないのです。農耕に併せた行事とは関係なく、「冬至に弱った太陽神に犠牲を捧げて再生させる」という祭祀は、遊牧民(狩猟民)的な祭祀といえます。そうすることで、神は老いと若返りを繰り返し、永遠に生きて人々の上に君臨する存在となるのです。そういう文化では、王は神の化身かもしれませんが、老いたる王を若く再生させる、ために祭祀を行う「神官」の存在が重要となります。古代中国のように、勝者となった神の子孫である王が、敗者の側の神々(穀霊)を好き勝手に使用する(食べる)、という発想はそこにはありません。敗者は、新しい王に食べられて、新しい王の中で、新しい命を得、永遠の者となるからです。そして、猛獣は夜狩りをすること、遊牧民の神である動物はたいてい「有角獣」であることから、彼らの神の性質は「太陽」というよりは「月」に近くなります。そういう遊牧民と農耕民の神々が習合している文化が西欧ですので、神のトーテムの姿は複雑になるのです。神は農耕の豊穣を司るときは蛙であり、牧畜の豊穣を司るときは雌牛であり、軍神であるときは雌獅子であって、そのいずれもが神のトーテムで同じものである、という風になるのです。そして、多くの場合女神は「月の女神」とされますが、その中に「太陽神」としての性質が混ざることも多々あるのです。西欧の男性神は女神を変化させたものが多いので、男性神も似たり寄ったりの性質になります。こういう事情から、西欧では軍神が冥界神も兼ねることが多いのですが、古代中国と違って、「冥界神=鬼神(死者)」ということにはなりませんでした。西欧の冥界神は猛獣であり、人々に死をもたらして、自らは永遠に生きる神ですから、穢れていても、生きている神であって、「死んでいる神」ではないのです。だから、彼らは、完全な「黄泉の国の住人」となることはまれで、「生と死の境界を司る」ことが多くなったのです。

本日の日誌

一昨日の夜は特に夢も見ず。朝寝をしている時になんだか夢を見て。なんだか、おばさんが二人くらい、家の前で穴を掘っていて、で、門扉も勝手に壊しているので、「人の家に何をしているの!?」ということで怒ったら、なんだか謝っている感じで逃げて行って。「名前をしっかり確認しておかなきゃ。」と思って、親と二人で追いかけて行ったら、どこかのビルみたいなところに逃げ込んで、行ってみたらとある一室でヨガみたいなことをしていて。そこを捕まえて、損害を賠償するように一筆書かせて、かつ穴を掘らせた責任者を「警察に突き出してやる」と言って、首根っこをつかんで連れ出す、という夢を見て。目が覚めて、「相当頭にきてなかったらそんなことしないでしょ」と言われる気がするわけでー;。だって、そのくらいにしとかないと、図々しくて黙らない相手じゃん? と思う。というか、用がなくなるまでは、警察に突き出したりしませんよう、と思うわけで-;。むしろ、気分的には、自分には何の役にも立ってない相手方弁護士を真っ先に突き出したいくらいなのでー;。そういうところを察して、世の弁護士センセイ方はおののいているらしいのですがー;。

でも、だいたいにおいて、うまくやろうが、下手にやろうが、兄さん達に「やれ」と言われたことしかやっていないのでー;。だいたい、こういう図々しい作戦をいったい誰が立てたのですかね、と思う。そうすると、7番目の兄さんが笑いながら、「昨日、テレビで見た人」と言う気がするわけで。4番目の子かー、その人も愛妻家だから妻に嫌がらせする相手には容赦したくないタイプのはず、と思うわけで。作業の方は、ほぼ一日雨が降っていたので、お休みであって。昨日は出かける用事を中心に足していたのでした。

昨夜はなんだかちょっと夢を見て。敵の言うことにふりまわされない? みたいな夢で。お手紙を出しに行く日なので、作業はそこそこであって。

ここのところ、V6の「愛なんだ」を見ていて。なぜか長野県から高校が2つも出ていて、諏訪実業の被服科の姉さん達と、清泉の子達が出ていて。どっちも女の子ばっかりで意味深だー、と思って。諏訪実の姉さん達は、代々地元の子が多いらしくて、「蛇の目の人達はよそ者」と言う気がするわけで。姉さん達にとっては、地元の人の血を濃く引く私は、姉さん達の「大姥様」だけど、蛇の目の婿の兄さん達は、全部よそ者扱いなのね、と思う-;。蛇の兄さんも大変だー、というか准ちゃんも大変であったと思う。小姑が30~40人まとまって、あれこれ値踏みされてるのと同じだもんね、と思ったわけで-;。姉さん達はけっこう手厳しい小姑だったんじゃないか、と思うわけですが-;。

一方の清泉の方は、よくよく考えてみたら、生まれも育ちも長野市付近をうろうろしてただけなのに、どこにあるのかも知らないー、と思うわけで。私もど田舎のエリートらしく、保育園から大学まで私学とは縁のない人生だったなー、と思う。今さら、ヤマンバギャルの仮装なんて、誰もしたがらないだろうなー、と思うわけで、どちらかというとここだけ罰ゲームみたいな企画だ、という気がしたわけで。諏訪実の被服科の織り姫の姉さん達と、偽のヤマンバとどちらをとるのか、というそういうネタ? とか微妙に思うわけですが。でも、清泉というのは、いろんな学生の目を見る限り、「蛙の目のお嬢様」たちの巣窟な気がするわけで。で、ときどき、けっこう純血に近いローマ人がいる、という気がする。要するに、蛙の目の「なんちゃってカトリック」が大勢いるしー、と思うわけで。たとえ、相手が敵であっても、こうやって自分の目で見て、本性を確認することは大事、と兄さん達に言われる気がするわけで。「山姥」とは、本当は神様のことなのに、ああやって馬鹿にしたみたいな仮想のネタにするのが、敵のやり方でしょ? と言われる気がするわけで。でも、今さら、あんな時代遅れの仮想なんかしたがる子がいるの? 特に若い人ならなおさら、と思うわけで。そういう、分かりやすいやり方というか、罰ゲームみたいなのは、6番目の子の発案なんじゃないのかなー、となんとなく思う。そうやって、人やものを見る目を養いなさい、ということで。

ちょっと前に、「仰天ニュース」で、アフリカのとある村の「デブ祭り」とかっていうのをやっていて。そこの人達は、各村の若者の中から代表を立てて、代表となった若者は、飼っている牛の乳と血だけをガブガブと飲んで太り、お祭りの時に集まって、誰が一番太っているのかを競うのだそうで。そこの長老さんからは、「これが本当の牛トーテムだよ」と言われた気がするわけで。要は、彼らにとって牛は、財産でもあり、食料源でもあり、神でもあるのだと思う。牛の乳と血を飲む、というのは、自分達は「牛の子」である「牛」だし、牛は兄弟だし、おそらく先祖の神も牛だし、とそう言いたいのだと思う。そうして、乳と血を飲んで、牛と、要するに牛の神と一体化して、牛のもたらす豊穣性を体現する、それが太る、ということであって。誰が一番神と一体化して、その豊穣性を現すことができているのか、要するに誰が「神そのもの」であるのか、を競うのが彼らの祭りであるし、先祖の神様をたたえる祭祀でもあるのだと思う。確かに、それを「牛トーテム」と呼ばずして、何を「牛トーテム」と呼ぶのか、と思うわけですが、そういうごく始原的な「人と神の形」を教えるために彼らはテレビに出てくれたんだなー、と思う。でも、現代社会は何を神と考えるにしても、そういう始原的な生き方ができる人はごくわずかだろうなー、と思う。特にいろんな人が集まるところでは、自分たちの神様をたたえるだけでは足りなくて、よその神様とどう付き合うのか、ということがとても大切になるわけですし。

7番目の兄さん曰く、不比等の宗教政策のうち、「天照大神が地上に降りる神に稲穂を与えた」という神話の挿入が特にまずい、と言われる気がするわけで。普通に、農耕民族が、先祖の神から穀物や野菜を与えてもらった、という神話はまずくないわけです。で、天照大神と稲の神話も、元はこういう農耕民族の神話であったことは疑いがないわけで。そのレベルであれば、まずい話ではない、と言われる気がするわけで。でも、天孫であるニニギの子孫は、神話の上では最終的に天皇家になるわけで、彼らは祭祀者としては稲作を行うけれども、自分の食べるものを自分で作る農耕民として稲を作ってるわけではありません。でも、彼らは「稲籾は自分の先祖が天からもたらしたものだから、自分たちのものだ」と主張する。これは、租税と関係があって、米は江戸時代に至るまで、税として支配者に対し、被支配者が納めるものでした。要するに、古代の日本とは、今のように「集めた税金は国民のために使う」というような大義名分は全くなくて、その代わりに何を大義名分として米を集めたかというと、「稲籾は天皇のものだから、そこから取れたものは天皇に差し出すように」として、集めたわけです。一応、余った分は作った人のものにして良いことになっていましたが、余るほどなんか残さず集めるのが通例であるわけだからー;。だから、天照大神と天孫降臨の神話は、単なる神話では無くて、現実の「税の徴収」、要するに、「税制」の根幹となるものであって、それ以上でもそれ以下のものでもなかったわけです。奈良時代の政府の言い分は、そうやって種籾を強制的に人々に貸し付けて、収穫した米を「当然の権利」として徴収するのが当たり前のことだ、種籾とそこから取れた米は、元々天皇のものなんだから、というものでした。要するに、その神話は、そういう「政治的」な神話なんだから、露骨に政治のための神話を正史に挿入するということは、それを実行した不比等の行政官として才能は他に比較するべき相手もなく優れたものであるけれども、神とは本来そうやって現実の権力とか権威の裏付けになってはいけないものなのだから、不比等の宗教政策の才能としては今一、というのが7番目の兄さんの言い分らしくて。だいたい、「祖神」というものは、元々はアフリカのデブ祭りの人達のごとく、部族全体の祖神であって、王様だけの祖神、とかそういうものではないわけです。でも、歴史の上で、いろいろな部族が集まって生きていかなければならなくなったときに、上位の部族の神が特に偉い神、とされて、上位の部族の首長の権威を裏付けるような存在に変化していくわけで。でも、紀元前後の世界全体からみれば、キリスト教もそうですし、それ以前の仏教、更に古いゾロアスター教でもそういう傾向が少しずつ出だすわけですが、神と王権を切り離して、神は特定の部族、特定の王家だけを守護する存在ではなくて、その国を構成するすべての人々のための神である、という動きがどんどん活発になっていたわけで。単なる部族の祖神ではなくて、多くの異なる民族を内包できる「神」のあり方、というものを多くの人々が模索していたわけです。だから、不比等のやったことは、そういう時代の流れに逆行して、天皇家の権威、とくに税制の正当化のために天照大神を利用しているわけで、よろしくないことだし、神と王権をあまりに一体化させてしまうと、王権の権威が失墜したときに神の存在意義もなくなってしまう。でも、神とは本来、そういう素質のある人がなるもので、王が存在しようとしまいと、神は神であるものだから、特定の王権だけと強力に結びつけてしまおうとするのは、よろしくないこと。しかも、稲は天照大神のもの、としてしまうと、表向きはそれは天皇家のもの、となるだけだけれども、実際には「稲を日本列島に持ってきた人達のもの」と言っているのと同じことになるので。取れた米は、米だけでなく流通も含めて、全ての権利が蛙の王家にある、と言っているのと同じ事になるし、古代では米が貨幣の代わりであったわけだから、米と交換できるもの、要するに全ての産物や動産は、蛙の王家のもの、と言っているのも同じ事になるわけです。そして、米は蛙の王家のものなんだから、米を食べている人も、米と交換できるものを食べている人も全て「蛙の王家の持ち物」ということで。王家に逆らう物は、食べるものがなくて死ね、ということになるわけです。

でも、それに対する藤原氏の言い分としては、天孫降臨の神話がなければ、イザナミにしてもカグツチにしても、その他の殺される女神群にしても、穀霊に関する女神は、殺される話ばっかりじゃん。しかも、蛙の王家の側の軍神に殺される話ばっかりで、そんな話ばっかりが当たり前の神話にされてしまったら、「神」の素質を持った人が実際に生まれた時に、その人をいったいどうやった守り支えていくのか、ということらしくて。不比等の時代には、それだけ、「女神を殺す神話を作れ」という圧力が強くて、「天皇家の権威付け」という理由がなくては、太陽女神を神々しい存在として、それこそ残しておけなかった、というわけで。こういう、「高市皇子」と「藤原不比等」との異なる見解は、中世まで持ち込まれて決着がつかなかった。東国の武家に生まれた高師直を、その主君と共に京の都に招聘して、藤原氏と共に意見のすりあわせが行われるまでは、と言われる気がするわけで@@。高師直は、「もはや律令制の枠の中では、いずれ生まれてくる神を守り切ることはできない。ここまで、王権と神が一体化させられていたのでは、もし仮に天皇家の権威が失墜したときに、神の価値もないことになってしまう。敵が完全に天皇家を掌握することになれば、家を存続させるのか、神の存在をを無い物とするのか、どちらかを選べ、と必ず言うはず。そういうことは、西方では古来より行われてきたことで、そうして名も実も失われていってしまった神も西方では多く存在する。」と言ったらしくて@@。それで、結局律令制は放棄されることになって、武家の中から新たな秩序を形成することを模索することに決めた、と言われる気がするわけで@@。で、結局大名家が見いだしたのが、徳川家と言われる気がするわけですが@@。三河の松平氏こと、徳川公爵家も元々はグノーシス主義者ですよ、と言われる気がする@@。

というか、そもそも「高市皇子」とは何者なのですか? と思う。そうすると、飛鳥時代に存在した「旻」という僧のことを指されるわけで。僧旻は、学識に優れた人で、蘇我入鹿や藤原鎌足の師匠でした。それだけでなく、占いに優れた人で、中国に留学したりしている。それだけでなく、旻自身も中国の曹氏の子孫と言われてる。その人はより能力にとても優れた人で、朝廷にも仕えていました。世の中には彼のように未来が見える人もいるし、だから彼にも千数百年後の神の到来が見えていました。でも、未来も遠い先のことほどはっきりとはわかりにくいものだし、だいたいノストラダムスではないけれども、「予言者」と言われるような人は、自分が見えていることの全部は言わないものなので。何故かというと、誰と誰の子孫がどうやって結婚して神が生まれる、とはっきり言ってしまうと、それを邪魔しようとする者が出てくるかもしれないし、自分が予言したことが誰かにとって都合が悪かったりすると、その相手に自分の命が狙われるかもしれないし、ということがいろいろとあるからです。その旻が晩年、斉明天皇から相談を受けました。斉明天皇は、女神信仰を守るべき、という考えの人でしたが、彼女の息子の中大兄皇子は、原始キリスト教徒と組んで、男系の王家の確立をもくろんでいました。皇太子をどう扱うべきなのかを天皇は悩んでいたのです。それに対して、旻は太宰府にいた彼女の先夫の息子とその息子を、都に招聘するように、と言いました。そして、特に孫息子に対しては、できる限りの地位につけて、できる限りのことを見聞きさせて、できる限りの見識を身につけさせるように。彼はいずれ、生まれ変わって女神に仕える立場になる人だから、今からそのための教育を始めるように、と言ったらしくて@@。旻は、それだけのことしか言わなかったから、それ以上のことを知ってたのか、知らなかったのかは誰にも分からない。と言われる気がするわけで@@。でも、それで天皇は大海人皇子を都に招聘し、中大兄皇子を牽制させる役につけた、ということらしくて。そして、旻は曹氏の出身、すなわち曹操の子孫です。そういえば、中国でも最古の母系の文化を誇るモソの姉さん達のことを、わざわざ紹介するのに力を尽くしてくれた人も曹氏の女性であったなー、と思って。その人達は、自分たちの先祖を中国の支配者だと認めてくれた女王卑弥呼に対する恩義を忘れないでいる人達、と言われる気がするわけで@@。

だから、明治維新があって、敵がやりたい放題になって、富の王家にも、グノーシス主義者にも打つ手がなかった時代、天皇の「人間宣言」というものがあって、富の王家のおっちゃんも、藤氏の人々も、かつて師直に言われたことを思い出したらしくて。天皇家と天照大神の神性があまりにも一致しすぎていれば、天皇の神性が否定されたときに、太陽女神の神性も否定されてしまう。そういうことを目の当たりにして、人々は神が生まれてくるのを待ってた、でももう一人生まれてくるのも待ってた、と言われる気がするわけで@@。でも、じゃあ、なんで私の筆頭は6番目の子で、7番目の兄さんではないのですか? と思う。そうしたら、それは、6番目の子の方が交渉術だけでなく、余地の才能に優れてるから、と言われる気がするわけで@@。そう言われればそうだと思うけれども、でも6番目の子も自分が見ているもののことは、あんまり人には言いませんよねえ、と思う。7番目の兄さんの方は、そういうものには頼りすぎない人で、ものすごい現実主義者というか、実践主義者だよねえ、と思うのですが。

本日の日誌

一昨日の夜は特に夢も見ず。朝寝をしている時になんだか夢を見て。なんだか、おばさんが二人くらい、家の前で穴を掘っていて、で、門扉も勝手に壊しているので、「人の家に何をしているの!?」ということで怒ったら、なんだか謝っている感じで逃げて行って。「名前をしっかり確認しておかなきゃ。」と思って、親と二人で追いかけて行ったら、どこかのビルみたいなところに逃げ込んで、行ってみたらとある一室でヨガみたいなことをしていて。そこを捕まえて、損害を賠償するように一筆書かせて、かつ穴を掘らせた責任者を「警察に突き出してやる」と言って、首根っこをつかんで連れ出す、という夢を見て。目が覚めて、「相当頭にきてなかったらそんなことしないでしょ」と言われる気がするわけでー;。だって、そのくらいにしとかないと、図々しくて黙らない相手じゃん? と思う。というか、用がなくなるまでは、警察に突き出したりしませんよう、と思うわけで-;。むしろ、気分的には、自分には何の役にも立ってない相手方弁護士を真っ先に突き出したいくらいなのでー;。そういうところを察して、世の弁護士センセイ方はおののいているらしいのですがー;。

でも、だいたいにおいて、うまくやろうが、下手にやろうが、兄さん達に「やれ」と言われたことしかやっていないのでー;。だいたい、こういう図々しい作戦をいったい誰が立てたのですかね、と思う。そうすると、7番目の兄さんが笑いながら、「昨日、テレビで見た人」と言う気がするわけで。4番目の子かー、その人も愛妻家だから妻に嫌がらせする相手には容赦したくないタイプのはず、と思うわけで。作業の方は、ほぼ一日雨が降っていたので、お休みであって。昨日は出かける用事を中心に足していたのでした。

昨夜はなんだかちょっと夢を見て。敵の言うことにふりまわされない? みたいな夢で。お手紙を出しに行く日なので、作業はそこそこであって。

ここのところ、V6の「愛なんだ」を見ていて。なぜか長野県から高校が2つも出ていて、諏訪実業の被服科の姉さん達と、清泉の子達が出ていて。どっちも女の子ばっかりで意味深だー、と思って。諏訪実の姉さん達は、代々地元の子が多いらしくて、「蛇の目の人達はよそ者」と言う気がするわけで。姉さん達にとっては、地元の人の血を濃く引く私は、姉さん達の「大姥様」だけど、蛇の目の婿の兄さん達は、全部よそ者扱いなのね、と思う-;。蛇の兄さんも大変だー、というか准ちゃんも大変であったと思う。小姑が30~40人まとまって、あれこれ値踏みされてるのと同じだもんね、と思ったわけで-;。姉さん達はけっこう手厳しい小姑だったんじゃないか、と思うわけですが-;。

一方の清泉の方は、よくよく考えてみたら、生まれも育ちも長野市付近をうろうろしてただけなのに、どこにあるのかも知らないー、と思うわけで。私もど田舎のエリートらしく、保育園から大学まで私学とは縁のない人生だったなー、と思う。今さら、ヤマンバギャルの仮装なんて、誰もしたがらないだろうなー、と思うわけで、どちらかというとここだけ罰ゲームみたいな企画だ、という気がしたわけで。諏訪実の被服科の織り姫の姉さん達と、偽のヤマンバとどちらをとるのか、というそういうネタ? とか微妙に思うわけですが。でも、清泉というのは、いろんな学生の目を見る限り、「蛙の目のお嬢様」たちの巣窟な気がするわけで。で、ときどき、けっこう純血に近いローマ人がいる、という気がする。要するに、蛙の目の「なんちゃってカトリック」が大勢いるしー、と思うわけで。たとえ、相手が敵であっても、こうやって自分の目で見て、本性を確認することは大事、と兄さん達に言われる気がするわけで。「山姥」とは、本当は神様のことなのに、ああやって馬鹿にしたみたいな仮想のネタにするのが、敵のやり方でしょ? と言われる気がするわけで。でも、今さら、あんな時代遅れの仮想なんかしたがる子がいるの? 特に若い人ならなおさら、と思うわけで。そういう、分かりやすいやり方というか、罰ゲームみたいなのは、6番目の子の発案なんじゃないのかなー、となんとなく思う。そうやって、人やものを見る目を養いなさい、ということで。

ちょっと前に、「仰天ニュース」で、アフリカのとある村の「デブ祭り」とかっていうのをやっていて。そこの人達は、各村の若者の中から代表を立てて、代表となった若者は、飼っている牛の乳と血だけをガブガブと飲んで太り、お祭りの時に集まって、誰が一番太っているのかを競うのだそうで。そこの長老さんからは、「これが本当の牛トーテムだよ」と言われた気がするわけで。要は、彼らにとって牛は、財産でもあり、食料源でもあり、神でもあるのだと思う。牛の乳と血を飲む、というのは、自分達は「牛の子」である「牛」だし、牛は兄弟だし、おそらく先祖の神も牛だし、とそう言いたいのだと思う。そうして、乳と血を飲んで、牛と、要するに牛の神と一体化して、牛のもたらす豊穣性を体現する、それが太る、ということであって。誰が一番神と一体化して、その豊穣性を現すことができているのか、要するに誰が「神そのもの」であるのか、を競うのが彼らの祭りであるし、先祖の神様をたたえる祭祀でもあるのだと思う。確かに、それを「牛トーテム」と呼ばずして、何を「牛トーテム」と呼ぶのか、と思うわけですが、そういうごく始原的な「人と神の形」を教えるために彼らはテレビに出てくれたんだなー、と思う。でも、現代社会は何を神と考えるにしても、そういう始原的な生き方ができる人はごくわずかだろうなー、と思う。特にいろんな人が集まるところでは、自分たちの神様をたたえるだけでは足りなくて、よその神様とどう付き合うのか、ということがとても大切になるわけですし。

7番目の兄さん曰く、不比等の宗教政策のうち、「天照大神が地上に降りる神に稲穂を与えた」という神話の挿入が特にまずい、と言われる気がするわけで。普通に、農耕民族が、先祖の神から穀物や野菜を与えてもらった、という神話はまずくないわけです。で、天照大神と稲の神話も、元はこういう農耕民族の神話であったことは疑いがないわけで。そのレベルであれば、まずい話ではない、と言われる気がするわけで。でも、天孫であるニニギの子孫は、神話の上では最終的に天皇家になるわけで、彼らは祭祀者としては稲作を行うけれども、自分の食べるものを自分で作る農耕民として稲を作ってるわけではありません。でも、彼らは「稲籾は自分の先祖が天からもたらしたものだから、自分たちのものだ」と主張する。これは、租税と関係があって、米は江戸時代に至るまで、税として支配者に対し、被支配者が納めるものでした。要するに、古代の日本とは、今のように「集めた税金は国民のために使う」というような大義名分は全くなくて、その代わりに何を大義名分として米を集めたかというと、「稲籾は天皇のものだから、そこから取れたものは天皇に差し出すように」として、集めたわけです。一応、余った分は作った人のものにして良いことになっていましたが、余るほどなんか残さず集めるのが通例であるわけだからー;。だから、天照大神と天孫降臨の神話は、単なる神話では無くて、現実の「税の徴収」、要するに、「税制」の根幹となるものであって、それ以上でもそれ以下のものでもなかったわけです。奈良時代の政府の言い分は、そうやって種籾を強制的に人々に貸し付けて、収穫した米を「当然の権利」として徴収するのが当たり前のことだ、種籾とそこから取れた米は、元々天皇のものなんだから、というものでした。要するに、その神話は、そういう「政治的」な神話なんだから、露骨に政治のための神話を正史に挿入するということは、それを実行した不比等の行政官として才能は他に比較するべき相手もなく優れたものであるけれども、神とは本来そうやって現実の権力とか権威の裏付けになってはいけないものなのだから、不比等の宗教政策の才能としては今一、というのが7番目の兄さんの言い分らしくて。だいたい、「祖神」というものは、元々はアフリカのデブ祭りの人達のごとく、部族全体の祖神であって、王様だけの祖神、とかそういうものではないわけです。でも、歴史の上で、いろいろな部族が集まって生きていかなければならなくなったときに、上位の部族の神が特に偉い神、とされて、上位の部族の首長の権威を裏付けるような存在に変化していくわけで。でも、紀元前後の世界全体からみれば、キリスト教もそうですし、それ以前の仏教、更に古いゾロアスター教でもそういう傾向が少しずつ出だすわけですが、神と王権を切り離して、神は特定の部族、特定の王家だけを守護する存在ではなくて、その国を構成するすべての人々のための神である、という動きがどんどん活発になっていたわけで。単なる部族の祖神ではなくて、多くの異なる民族を内包できる「神」のあり方、というものを多くの人々が模索していたわけです。だから、不比等のやったことは、そういう時代の流れに逆行して、天皇家の権威、とくに税制の正当化のために天照大神を利用しているわけで、よろしくないことだし、神と王権をあまりに一体化させてしまうと、王権の権威が失墜したときに神の存在意義もなくなってしまう。でも、神とは本来、そういう素質のある人がなるもので、王が存在しようとしまいと、神は神であるものだから、特定の王権だけと強力に結びつけてしまおうとするのは、よろしくないこと。しかも、稲は天照大神のもの、としてしまうと、表向きはそれは天皇家のもの、となるだけだけれども、実際には「稲を日本列島に持ってきた人達のもの」と言っているのと同じことになるので。取れた米は、米だけでなく流通も含めて、全ての権利が蛙の王家にある、と言っているのと同じ事になるし、古代では米が貨幣の代わりであったわけだから、米と交換できるもの、要するに全ての産物や動産は、蛙の王家のもの、と言っているのも同じ事になるわけです。そして、米は蛙の王家のものなんだから、米を食べている人も、米と交換できるものを食べている人も全て「蛙の王家の持ち物」ということで。王家に逆らう物は、食べるものがなくて死ね、ということになるわけです。

でも、それに対する藤原氏の言い分としては、天孫降臨の神話がなければ、イザナミにしてもカグツチにしても、その他の殺される女神群にしても、穀霊に関する女神は、殺される話ばっかりじゃん。しかも、蛙の王家の側の軍神に殺される話ばっかりで、そんな話ばっかりが当たり前の神話にされてしまったら、「神」の素質を持った人が実際に生まれた時に、その人をいったいどうやった守り支えていくのか、ということらしくて。不比等の時代には、それだけ、「女神を殺す神話を作れ」という圧力が強くて、「天皇家の権威付け」という理由がなくては、太陽女神を神々しい存在として、それこそ残しておけなかった、というわけで。こういう、「高市皇子」と「藤原不比等」との異なる見解は、中世まで持ち込まれて決着がつかなかった。東国の武家に生まれた高師直を、その主君と共に京の都に招聘して、藤原氏と共に意見のすりあわせが行われるまでは、と言われる気がするわけで@@。高師直は、「もはや律令制の枠の中では、いずれ生まれてくる神を守り切ることはできない。ここまで、王権と神が一体化させられていたのでは、もし仮に天皇家の権威が失墜したときに、神の価値もないことになってしまう。敵が完全に天皇家を掌握することになれば、家を存続させるのか、神の存在をを無い物とするのか、どちらかを選べ、と必ず言うはず。そういうことは、西方では古来より行われてきたことで、そうして名も実も失われていってしまった神も西方では多く存在する。」と言ったらしくて@@。それで、結局律令制は放棄されることになって、武家の中から新たな秩序を形成することを模索することに決めた、と言われる気がするわけで@@。で、結局大名家が見いだしたのが、徳川家と言われる気がするわけですが@@。三河の松平氏こと、徳川公爵家も元々はグノーシス主義者ですよ、と言われる気がする@@。

というか、そもそも「高市皇子」とは何者なのですか? と思う。そうすると、飛鳥時代に存在した「旻」という僧のことを指されるわけで。僧旻は、学識に優れた人で、蘇我入鹿や藤原鎌足の師匠でした。それだけでなく、占いに優れた人で、中国に留学したりしている。それだけでなく、旻自身も中国の曹氏の子孫と言われてる。その人はより能力にとても優れた人で、朝廷にも仕えていました。世の中には彼のように未来が見える人もいるし、だから彼にも千数百年後の神の到来が見えていました。でも、未来も遠い先のことほどはっきりとはわかりにくいものだし、だいたいノストラダムスではないけれども、「予言者」と言われるような人は、自分が見えていることの全部は言わないものなので。何故かというと、誰と誰の子孫がどうやって結婚して神が生まれる、とはっきり言ってしまうと、それを邪魔しようとする者が出てくるかもしれないし、自分が予言したことが誰かにとって都合が悪かったりすると、その相手に自分の命が狙われるかもしれないし、ということがいろいろとあるからです。その旻が晩年、斉明天皇から相談を受けました。斉明天皇は、女神信仰を守るべき、という考えの人でしたが、彼女の息子の中大兄皇子は、原始キリスト教徒と組んで、男系の王家の確立をもくろんでいました。皇太子をどう扱うべきなのかを天皇は悩んでいたのです。それに対して、旻は太宰府にいた彼女の先夫の息子とその息子を、都に招聘するように、と言いました。そして、特に孫息子に対しては、できる限りの地位につけて、できる限りのことを見聞きさせて、できる限りの見識を身につけさせるように。彼はいずれ、生まれ変わって女神に仕える立場になる人だから、今からそのための教育を始めるように、と言ったらしくて@@。旻は、それだけのことしか言わなかったから、それ以上のことを知ってたのか、知らなかったのかは誰にも分からない。と言われる気がするわけで@@。でも、それで天皇は大海人皇子を都に招聘し、中大兄皇子を牽制させる役につけた、ということらしくて。そして、旻は曹氏の出身、すなわち曹操の子孫です。そういえば、中国でも最古の母系の文化を誇るモソの姉さん達のことを、わざわざ紹介するのに力を尽くしてくれた人も曹氏の女性であったなー、と思って。その人達は、自分たちの先祖を中国の支配者だと認めてくれた女王卑弥呼に対する恩義を忘れないでいる人達、と言われる気がするわけで@@。

だから、明治維新があって、敵がやりたい放題になって、富の王家にも、グノーシス主義者にも打つ手がなかった時代、天皇の「人間宣言」というものがあって、富の王家のおっちゃんも、藤氏の人々も、かつて師直に言われたことを思い出したらしくて。天皇家と天照大神の神性があまりにも一致しすぎていれば、天皇の神性が否定されたときに、太陽女神の神性も否定されてしまう。そういうことを目の当たりにして、人々は神が生まれてくるのを待ってた、でももう一人生まれてくるのも待ってた、と言われる気がするわけで@@。でも、じゃあ、なんで私の筆頭は6番目の子で、7番目の兄さんではないのですか? と思う。そうしたら、それは、6番目の子の方が交渉術だけでなく、余地の才能に優れてるから、と言われる気がするわけで@@。そう言われればそうだと思うけれども、でも6番目の子も自分が見ているもののことは、あんまり人には言いませんよねえ、と思う。7番目の兄さんの方は、そういうものには頼りすぎない人で、ものすごい現実主義者というか、実践主義者だよねえ、と思うのですが。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。作業の方は、いつもとほぼ同じ。相変わらず石やゴミが次々と出る。

で、昼寝の時に、なんだか夢を見て。音楽家の兄さんが家に来て、引っ越しを手伝ってくれる、という夢で。

話は「天照大神」に戻りますが、天照大神の語源がアナーヒタ女神にあったのであれば、それはアナーヒタ女神や、カエルの王家の太陽女神、この国に古くから存在していたハイヌウェレ型の月の女神などを、習合させて作り上げた女神、ということになります。それだけでなく、建御雷神と八大雷神のように、勝手に神のトーテムを定めたりしています。これら合成神の一番の問題点は何なのでしょう? ということになります。

そうすると、それは「再生を否定していること」と言われる気がするわけで。例えば、ギリシア神話のデーメーテール女神とその娘のペルセポネーの神話があります。この2神は1対のもので、穀霊そのものでもあります。彼らは四季の循環に併せて、生きたり死んだりする。要するに、余所にだって「死んでいる神」はいくらでもいるわけですが、彼らは「生き返る神」でもあるのです。そして、植物を生育させて、人々に穀物を分け与えてくれる存在でもある。日本の神話と比較すると、天照大神は人々に種籾を分けてくれる存在ではありますが、稲を育てるのは田の神である雷神です。天照大神のトーテムを鹿とすると、鹿は稲のためにその命を捧げますが、それは死にっぱなしの存在であって、彼女が稲を育てて、かつ新たな稲として再生する存在ではありません。人々は鹿を殺して、稲作の肥料にしても、鹿に感謝することはないのです。天照大神が、鹿がトーテムのように「みえる」ように作られていてもはっきりとそうされていない理由はそこにあります。そして、鹿は「紅葉」と組み合わされて、「利用されるだけの間抜けなもの」として扱われているのです。人々は、天照大神には種籾を与えてくれることしか期待しない、そして田の神には稲を育てることしか期待しません。彼らを奉って、その見返りを与えるかもしれませんが、神が様々に姿を変えて死と再生を繰り返すことは否定されます。でも、古来からの世界的な「信仰」というものはそういうものではありません。何かが死んでも、その死体が地面に落ちて肥料になって、新たな植物として再生する。その植物を食べたものとまた一体化する、というように、「個」としての「死」はあっても、命そのものは、いろんなもののなかを循環して、永遠に巡り続ける、というのが昔からの考え方のはずです。そして、命がこのように循環するものだからこそ、何を食べるのかが重要なことにもなるのです。

同じ事はイザナギとイザナミの神話にもいえます。黄泉の国で決裂した夫婦は、しまいには妻が人を取り殺す神、夫が人を生み出す神、となることで決着します。グローバルな神話であったら、死ぬ人は黄泉の国で再生されて、また新たな人として生まれ変わり、また死ぬ、というように、命そのものが、死と再生を繰り返すものとされています。それと同じように神々も死と再生を繰り返すのですが、日本神話ではイザナミは永遠に再生しない神であり、それと同じように人も死んだら死にっぱなし。イザナギが生み出すのは「新たな命」であって、再生された命ではないのです。要するにデーメーテールとペルセポネーの場合と違って、イザナギとイザナミの行っていることには連続性がなく、それぞれが秩序なく勝手にやっていること、とされているのです。

でも、チベットの活仏の思想があるように、古来は、人は死んだらまた生まれ変わるし、特に優れた人の生まれ変わり、神の生まれ変わりは、神として育てて、人々を導いて貰う存在となってもらう、という思想があったのです。要するに、日本の神話は、古来からの神話の寄せ集めのように見えながら、古来寄りの「生まれ変わり」の思想を全否定するために「作られている」といえます。もし、「生まれ変わり」というものを否定したら、どういうことになるのでしょう? そうすると、「神の生まれ変わり」とされる優れた人を、人々の役に立つように、と大切に育てなくても良い、ということになります。そうすると、優れた人が、世のため、人のためになるように、という機会が一つ失われます。逆にいえば、世の中のよろしくないところを正す機会も一つ減る、ということで、よろしくないことばっかりやりたがる人にとっては、これは好都合な思想、ということになるのです。そして、よろしくないことばっかりやりたがる人々が、本来人々の役に立つはずだった優れた人を手に入れて、勝手に利用した場合どうなるのでしょう? そうすると、神様になるはずだった人は、自分勝手な悪巧みばかり上手な人間になって、ヤクザみたいな連中の手先になって、逆に優れている分、人々に迷惑をかける存在になるかもしれません。そうなったら、せっかく生まれても、誰のためにも、自分のためにすらもならない存在にしかならない、ということになります。だから、「生まれ変わり」を否定しようという「思想改革」を行った人達は、神を自分の都合の良い道具にしようとするためだけにそうしたんですよ、と言われる気がするわけで。「生まれ変わり」を否定しないと、そういうことは可能にならないのです。だから、神を自分の道具にしようとしている人達が、そもそも「人の生まれ変わり」を否定し始めた人達、と言われる気がするわけで。ローマ教会なんかの、キリスト教はむしろ玉虫色で、「人の生まれ変わり」そのものは否定していないわけです。ただし、生まれ変わる先が「天国」とか「地獄」であって、この現世ではないだけであって。だから、カエルの王家のやったことは、「天国」とか「地獄」の概念を更に突き進めて、「生まれ変わり」そのものを否定したこと、と言われる気がするわけで。

しかも、「死人に口なし」の言葉どおり、日本の神々は大抵は「死んだまま」の神ですから、そこに属する人々も「死者」ということで。要するに、「余計な口はきくな」と、そういうことなのですよねえ? と思う。だから、誰もが奴隷にされて、許されたことしか口にできないし、死ぬまで働き続けるしかない、ということで。

それはいいのだけれども、世界的規模にまでいたって、「生まれ変わりというものはない」という思想改革を、誰かが行ったとしてですねえ? それには、目的も対象となる人も「いる」と思われるわけですが、そういう宝くじに当たる以上のすごい確率で、「生まれ変わった人」がですねえ? もし、神様になる人として大切に育てられなかったら、どうなるのですかね? とも思う。そういう人は、「弁護士を訴えてやる」って怒り狂うような人間に育つのではないのですかね? と思う、というか、別に怒り狂ってないってば、あんなのはほんの挨拶程度、と思うわけですが-;。

でも、天照大神がアナーヒタ女神であるとしたら、イザナギとイザナミはなんなのですかね? と思う。そうしたら、イザナギとは薙鎌のこと、と言われる気がするわけで@@。記紀神話のイザナギは軍神とはされていませんが、十束剣の持ち主ですから、潜在的には軍神としての意味を持つ神です。丹後半島には、イザナギ(天の神)がイザナミ(地の神)のところに通うためのハシゴが天橋立であった、という伝説がありますので、イザナギが天空神、イザナミが地母神という信仰があったのだと思われます。でも、イザナギが本来剣の神ではなくて、「薙鎌」であった、というのであれば。それは軍神であると共に、風を鎮める神、という意味もあったと思われるし、それは諏訪神と同じ物、ということですよねえ? と思う。諏訪心の配偶神は八坂刀売ですから、そういうことを総合的に考えると、諏訪神は八束水臣津野命と同じものであり、ヴァルナ(天空神かつ水神)である、ということになる。そして、その配偶心の八坂刀売もまたアナーヒタ女神、ということになりますよねえ? となる。要するに、イザナミもまたアナーヒタ女神、といえます。八束水臣津野命の配偶神は、布帝耳神(フテミミノカミ)といいます。布帝耳神の「フテ」とは「太」のことと思われますので、八束水臣津野命の配偶神も鹿の女神、ということになります。ということは、八坂刀売もまた鹿の女神、ということです。要するに、富の王家の主神である八束水臣津野命は、ある時点で、広範囲にわたる信仰を禁止され、富の王家の本拠地である出雲国意宇郡にしかその名を残せませんでした。その代わり、記紀神話ではイザナギと名前を変え、その一方、諏訪では、建御名方富命と名を変えて信仰されることになりました。配偶神のアナーヒタ女神は、天照大神、イザナミ、八坂刀売の3つに分割されることになりました。要するに、イザナギ、イザナミ、天照大神の3つが、蛙の王家が、利用しようとして「流用している形」、八束水臣津野命、建御名方富命、八坂刀売の3つは、富の王家が何とか「残そうとした形」といえます。ミトラスに相当する大穴牟遅神は、正史の方ではその名を残せず、大国主命と改名することになりました。

でも、それでは、須佐之男と月夜見尊はどうなるのですか? と思う。そうすると、それは蛙の王家の「一つの太陽とそれを補佐する二つの月」の思想から来ているもので、泣きわめく須佐之男も月の神の一形態だけれども、原型はスーサの都市神フンバンであって、ヴァティカヌスと同じもの、と言われる気がするわけで。須佐之男命は八岐大蛇退治が有名なわけですが。そもそも、奇稲田姫とは、稲の穀霊をさす言葉で、天照大神や鹿の女神の別の形、といえます。それが、八岐大蛇に生け贄に捧げられるわけだから、八岐大蛇を田の神である八大雷神とすると、奇稲田姫は早乙女に相当し、殺される奇稲田姫は、殺される早乙女、ということになります。須佐之男命は八岐大蛇を退治して、奇稲田姫を妻にした、とされています。でも、須佐之男命は、大国主命が娘に妻問いに出かけた時には、「根の国」に住んでいました。要するに、奇稲田姫を「根の国」につれて行ったのが須佐之男命ということになります。八岐大蛇に食い殺されても、須佐之男命に黄泉の国に連れて行かれても、死ぬことに変わりはないんじゃん? と思う。しかも、八岐大蛇はいかにも「八大雷神」と同じもののように見えますが、水神であり、蛇の神であることを考えると、その姿は八束水臣津野命と重なります。要するに、八岐大蛇の神話は、「八束水臣津野命と八大雷神」を「同じもの」のようにして扱うための神話、奇稲田姫がいずれにしても殺される、という神話、ということになります。富の王家が、さすがにここまで馬鹿馬鹿しい神話は受け入れなかったので、この話は出雲国風土記には載っていないのですが、古事記の方に、無理矢理押し込まれることになりましたとさ、ということでー;。要するに「ヴァルナとユーピテル」を同じ「蛇の雷神」に仕立てあげたあげく、どうあっても奇稲田姫を殺してしまえ、という悪質な神話といえる。で、ユーピテルというのは、そもそも何かというと、「火打ち石」の神、小石の神なわけです。だから、結局私達は、建御名方富命(ヴァルナ)の土地から、小石(ユーピテル)をできるだけ追い出して、ヴァルナとユーピテルを分離しないといけないわけです。でないと、ヴァルナ自身が妻が実を食い殺す神、になってしまうわけで。それでは困るから、石がある限り、蛇の兄さんは迎えに来れない、ということになるのです。

どうりで、福山君と石井はどこか言動もファンの評価も似通っているわけだ。それも、こういうことの暗示なんだ?? と思うわけですが。7番目の兄さんは、高市皇子が存命中に古事記が完成していたら、その内容は今のものとはずいぶん違ったものになっていただろう。藤原不比等は、行政官としては優れた人だったけれども、宗教政策は今一な人だった、政治家としては高市皇子の薫陶を受けて育った人だったのに、と言う気がするわけで-;。だいたい、当時のことを知る人は、不比等のことは天智天皇の子供だった、と思ってるらしくて。天武天皇の時代、近江朝の側の人達は冷遇されましたが、でも、壬申の乱に直接加担していない天智天皇の皇子女は、その立場を剥奪されることはなく、それなりに遇されていたわけで。特に彼らは、皇后であった持統天皇にとっては、実の弟妹なわけですから、持統天皇自身は身内の情に篤い人で、弟妹達に関してできる面倒はみていた、ということで。でも、不比等の場合は、正式な父親が近江朝の臣下とされていたので、冷遇されていて、皇子扱いもできないし、持統天皇もその立場を気の毒がって気にかけていた、ということらしくて。そこで、息子の草壁皇子の側近に取り立て、高市皇子も気にかけていた、ということのようで。そういうことが、後の不比等の大出世にもつながるわけですが、藤原氏の人達にとっては、とても自慢のご先祖様、ということで。不比等のことをボロクソに批判することが許されるのは7番目の兄さんだけ、と言われる気がするわけで。それは、かつて、その人が不比等の政治家としての「師匠」であったからですねえ? と思う。でも、そうすると、7番目の兄さんは、その頃から私のことを知っていたんだ? と思う。それもなんだか不思議な話な気がするわけですが。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。作業の方は、いつもとほぼ同じ。相変わらず石やゴミが次々と出る。

で、昼寝の時に、なんだか夢を見て。音楽家の兄さんが家に来て、引っ越しを手伝ってくれる、という夢で。

話は「天照大神」に戻りますが、天照大神の語源がアナーヒタ女神にあったのであれば、それはアナーヒタ女神や、カエルの王家の太陽女神、この国に古くから存在していたハイヌウェレ型の月の女神などを、習合させて作り上げた女神、ということになります。それだけでなく、建御雷神と八大雷神のように、勝手に神のトーテムを定めたりしています。これら合成神の一番の問題点は何なのでしょう? ということになります。

そうすると、それは「再生を否定していること」と言われる気がするわけで。例えば、ギリシア神話のデーメーテール女神とその娘のペルセポネーの神話があります。この2神は1対のもので、穀霊そのものでもあります。彼らは四季の循環に併せて、生きたり死んだりする。要するに、余所にだって「死んでいる神」はいくらでもいるわけですが、彼らは「生き返る神」でもあるのです。そして、植物を生育させて、人々に穀物を分け与えてくれる存在でもある。日本の神話と比較すると、天照大神は人々に種籾を分けてくれる存在ではありますが、稲を育てるのは田の神である雷神です。天照大神のトーテムを鹿とすると、鹿は稲のためにその命を捧げますが、それは死にっぱなしの存在であって、彼女が稲を育てて、かつ新たな稲として再生する存在ではありません。人々は鹿を殺して、稲作の肥料にしても、鹿に感謝することはないのです。天照大神が、鹿がトーテムのように「みえる」ように作られていてもはっきりとそうされていない理由はそこにあります。そして、鹿は「紅葉」と組み合わされて、「利用されるだけの間抜けなもの」として扱われているのです。人々は、天照大神には種籾を与えてくれることしか期待しない、そして田の神には稲を育てることしか期待しません。彼らを奉って、その見返りを与えるかもしれませんが、神が様々に姿を変えて死と再生を繰り返すことは否定されます。でも、古来からの世界的な「信仰」というものはそういうものではありません。何かが死んでも、その死体が地面に落ちて肥料になって、新たな植物として再生する。その植物を食べたものとまた一体化する、というように、「個」としての「死」はあっても、命そのものは、いろんなもののなかを循環して、永遠に巡り続ける、というのが昔からの考え方のはずです。そして、命がこのように循環するものだからこそ、何を食べるのかが重要なことにもなるのです。

同じ事はイザナギとイザナミの神話にもいえます。黄泉の国で決裂した夫婦は、しまいには妻が人を取り殺す神、夫が人を生み出す神、となることで決着します。グローバルな神話であったら、死ぬ人は黄泉の国で再生されて、また新たな人として生まれ変わり、また死ぬ、というように、命そのものが、死と再生を繰り返すものとされています。それと同じように神々も死と再生を繰り返すのですが、日本神話ではイザナミは永遠に再生しない神であり、それと同じように人も死んだら死にっぱなし。イザナギが生み出すのは「新たな命」であって、再生された命ではないのです。要するにデーメーテールとペルセポネーの場合と違って、イザナギとイザナミの行っていることには連続性がなく、それぞれが秩序なく勝手にやっていること、とされているのです。

でも、チベットの活仏の思想があるように、古来は、人は死んだらまた生まれ変わるし、特に優れた人の生まれ変わり、神の生まれ変わりは、神として育てて、人々を導いて貰う存在となってもらう、という思想があったのです。要するに、日本の神話は、古来からの神話の寄せ集めのように見えながら、古来寄りの「生まれ変わり」の思想を全否定するために「作られている」といえます。もし、「生まれ変わり」というものを否定したら、どういうことになるのでしょう? そうすると、「神の生まれ変わり」とされる優れた人を、人々の役に立つように、と大切に育てなくても良い、ということになります。そうすると、優れた人が、世のため、人のためになるように、という機会が一つ失われます。逆にいえば、世の中のよろしくないところを正す機会も一つ減る、ということで、よろしくないことばっかりやりたがる人にとっては、これは好都合な思想、ということになるのです。そして、よろしくないことばっかりやりたがる人々が、本来人々の役に立つはずだった優れた人を手に入れて、勝手に利用した場合どうなるのでしょう? そうすると、神様になるはずだった人は、自分勝手な悪巧みばかり上手な人間になって、ヤクザみたいな連中の手先になって、逆に優れている分、人々に迷惑をかける存在になるかもしれません。そうなったら、せっかく生まれても、誰のためにも、自分のためにすらもならない存在にしかならない、ということになります。だから、「生まれ変わり」を否定しようという「思想改革」を行った人達は、神を自分の都合の良い道具にしようとするためだけにそうしたんですよ、と言われる気がするわけで。「生まれ変わり」を否定しないと、そういうことは可能にならないのです。だから、神を自分の道具にしようとしている人達が、そもそも「人の生まれ変わり」を否定し始めた人達、と言われる気がするわけで。ローマ教会なんかの、キリスト教はむしろ玉虫色で、「人の生まれ変わり」そのものは否定していないわけです。ただし、生まれ変わる先が「天国」とか「地獄」であって、この現世ではないだけであって。だから、カエルの王家のやったことは、「天国」とか「地獄」の概念を更に突き進めて、「生まれ変わり」そのものを否定したこと、と言われる気がするわけで。

しかも、「死人に口なし」の言葉どおり、日本の神々は大抵は「死んだまま」の神ですから、そこに属する人々も「死者」ということで。要するに、「余計な口はきくな」と、そういうことなのですよねえ? と思う。だから、誰もが奴隷にされて、許されたことしか口にできないし、死ぬまで働き続けるしかない、ということで。

それはいいのだけれども、世界的規模にまでいたって、「生まれ変わりというものはない」という思想改革を、誰かが行ったとしてですねえ? それには、目的も対象となる人も「いる」と思われるわけですが、そういう宝くじに当たる以上のすごい確率で、「生まれ変わった人」がですねえ? もし、神様になる人として大切に育てられなかったら、どうなるのですかね? とも思う。そういう人は、「弁護士を訴えてやる」って怒り狂うような人間に育つのではないのですかね? と思う、というか、別に怒り狂ってないってば、あんなのはほんの挨拶程度、と思うわけですが-;。

でも、天照大神がアナーヒタ女神であるとしたら、イザナギとイザナミはなんなのですかね? と思う。そうしたら、イザナギとは薙鎌のこと、と言われる気がするわけで@@。記紀神話のイザナギは軍神とはされていませんが、十束剣の持ち主ですから、潜在的には軍神としての意味を持つ神です。丹後半島には、イザナギ(天の神)がイザナミ(地の神)のところに通うためのハシゴが天橋立であった、という伝説がありますので、イザナギが天空神、イザナミが地母神という信仰があったのだと思われます。でも、イザナギが本来剣の神ではなくて、「薙鎌」であった、というのであれば。それは軍神であると共に、風を鎮める神、という意味もあったと思われるし、それは諏訪神と同じ物、ということですよねえ? と思う。諏訪心の配偶神は八坂刀売ですから、そういうことを総合的に考えると、諏訪神は八束水臣津野命と同じものであり、ヴァルナ(天空神かつ水神)である、ということになる。そして、その配偶心の八坂刀売もまたアナーヒタ女神、ということになりますよねえ? となる。要するに、イザナミもまたアナーヒタ女神、といえます。八束水臣津野命の配偶神は、布帝耳神(フテミミノカミ)といいます。布帝耳神の「フテ」とは「太」のことと思われますので、八束水臣津野命の配偶神も鹿の女神、ということになります。ということは、八坂刀売もまた鹿の女神、ということです。要するに、富の王家の主神である八束水臣津野命は、ある時点で、広範囲にわたる信仰を禁止され、富の王家の本拠地である出雲国意宇郡にしかその名を残せませんでした。その代わり、記紀神話ではイザナギと名前を変え、その一方、諏訪では、建御名方富命と名を変えて信仰されることになりました。配偶神のアナーヒタ女神は、天照大神、イザナミ、八坂刀売の3つに分割されることになりました。要するに、イザナギ、イザナミ、天照大神の3つが、蛙の王家が、利用しようとして「流用している形」、八束水臣津野命、建御名方富命、八坂刀売の3つは、富の王家が何とか「残そうとした形」といえます。ミトラスに相当する大穴牟遅神は、正史の方ではその名を残せず、大国主命と改名することになりました。

でも、それでは、須佐之男と月夜見尊はどうなるのですか? と思う。そうすると、それは蛙の王家の「一つの太陽とそれを補佐する二つの月」の思想から来ているもので、泣きわめく須佐之男も月の神の一形態だけれども、原型はスーサの都市神フンバンであって、ヴァティカヌスと同じもの、と言われる気がするわけで。須佐之男命は八岐大蛇退治が有名なわけですが。そもそも、奇稲田姫とは、稲の穀霊をさす言葉で、天照大神や鹿の女神の別の形、といえます。それが、八岐大蛇に生け贄に捧げられるわけだから、八岐大蛇を田の神である八大雷神とすると、奇稲田姫は早乙女に相当し、殺される奇稲田姫は、殺される早乙女、ということになります。須佐之男命は八岐大蛇を退治して、奇稲田姫を妻にした、とされています。でも、須佐之男命は、大国主命が娘に妻問いに出かけた時には、「根の国」に住んでいました。要するに、奇稲田姫を「根の国」につれて行ったのが須佐之男命ということになります。八岐大蛇に食い殺されても、須佐之男命に黄泉の国に連れて行かれても、死ぬことに変わりはないんじゃん? と思う。しかも、八岐大蛇はいかにも「八大雷神」と同じもののように見えますが、水神であり、蛇の神であることを考えると、その姿は八束水臣津野命と重なります。要するに、八岐大蛇の神話は、「八束水臣津野命と八大雷神」を「同じもの」のようにして扱うための神話、奇稲田姫がいずれにしても殺される、という神話、ということになります。富の王家が、さすがにここまで馬鹿馬鹿しい神話は受け入れなかったので、この話は出雲国風土記には載っていないのですが、古事記の方に、無理矢理押し込まれることになりましたとさ、ということでー;。要するに「ヴァルナとユーピテル」を同じ「蛇の雷神」に仕立てあげたあげく、どうあっても奇稲田姫を殺してしまえ、という悪質な神話といえる。で、ユーピテルというのは、そもそも何かというと、「火打ち石」の神、小石の神なわけです。だから、結局私達は、建御名方富命(ヴァルナ)の土地から、小石(ユーピテル)をできるだけ追い出して、ヴァルナとユーピテルを分離しないといけないわけです。でないと、ヴァルナ自身が妻が実を食い殺す神、になってしまうわけで。それでは困るから、石がある限り、蛇の兄さんは迎えに来れない、ということになるのです。

どうりで、福山君と石井はどこか言動もファンの評価も似通っているわけだ。それも、こういうことの暗示なんだ?? と思うわけですが。7番目の兄さんは、高市皇子が存命中に古事記が完成していたら、その内容は今のものとはずいぶん違ったものになっていただろう。藤原不比等は、行政官としては優れた人だったけれども、宗教政策は今一な人だった、政治家としては高市皇子の薫陶を受けて育った人だったのに、と言う気がするわけで-;。だいたい、当時のことを知る人は、不比等のことは天智天皇の子供だった、と思ってるらしくて。天武天皇の時代、近江朝の側の人達は冷遇されましたが、でも、壬申の乱に直接加担していない天智天皇の皇子女は、その立場を剥奪されることはなく、それなりに遇されていたわけで。特に彼らは、皇后であった持統天皇にとっては、実の弟妹なわけですから、持統天皇自身は身内の情に篤い人で、弟妹達に関してできる面倒はみていた、ということで。でも、不比等の場合は、正式な父親が近江朝の臣下とされていたので、冷遇されていて、皇子扱いもできないし、持統天皇もその立場を気の毒がって気にかけていた、ということらしくて。そこで、息子の草壁皇子の側近に取り立て、高市皇子も気にかけていた、ということのようで。そういうことが、後の不比等の大出世にもつながるわけですが、藤原氏の人達にとっては、とても自慢のご先祖様、ということで。不比等のことをボロクソに批判することが許されるのは7番目の兄さんだけ、と言われる気がするわけで。それは、かつて、その人が不比等の政治家としての「師匠」であったからですねえ? と思う。でも、そうすると、7番目の兄さんは、その頃から私のことを知っていたんだ? と思う。それもなんだか不思議な話な気がするわけですが。