本日の日誌

一昨日の夜は特に夢も見ず。朝寝をしている時になんだか夢を見て。なんだか、おばさんが二人くらい、家の前で穴を掘っていて、で、門扉も勝手に壊しているので、「人の家に何をしているの!?」ということで怒ったら、なんだか謝っている感じで逃げて行って。「名前をしっかり確認しておかなきゃ。」と思って、親と二人で追いかけて行ったら、どこかのビルみたいなところに逃げ込んで、行ってみたらとある一室でヨガみたいなことをしていて。そこを捕まえて、損害を賠償するように一筆書かせて、かつ穴を掘らせた責任者を「警察に突き出してやる」と言って、首根っこをつかんで連れ出す、という夢を見て。目が覚めて、「相当頭にきてなかったらそんなことしないでしょ」と言われる気がするわけでー;。だって、そのくらいにしとかないと、図々しくて黙らない相手じゃん? と思う。というか、用がなくなるまでは、警察に突き出したりしませんよう、と思うわけで-;。むしろ、気分的には、自分には何の役にも立ってない相手方弁護士を真っ先に突き出したいくらいなのでー;。そういうところを察して、世の弁護士センセイ方はおののいているらしいのですがー;。

でも、だいたいにおいて、うまくやろうが、下手にやろうが、兄さん達に「やれ」と言われたことしかやっていないのでー;。だいたい、こういう図々しい作戦をいったい誰が立てたのですかね、と思う。そうすると、7番目の兄さんが笑いながら、「昨日、テレビで見た人」と言う気がするわけで。4番目の子かー、その人も愛妻家だから妻に嫌がらせする相手には容赦したくないタイプのはず、と思うわけで。作業の方は、ほぼ一日雨が降っていたので、お休みであって。昨日は出かける用事を中心に足していたのでした。

昨夜はなんだかちょっと夢を見て。敵の言うことにふりまわされない? みたいな夢で。お手紙を出しに行く日なので、作業はそこそこであって。

ここのところ、V6の「愛なんだ」を見ていて。なぜか長野県から高校が2つも出ていて、諏訪実業の被服科の姉さん達と、清泉の子達が出ていて。どっちも女の子ばっかりで意味深だー、と思って。諏訪実の姉さん達は、代々地元の子が多いらしくて、「蛇の目の人達はよそ者」と言う気がするわけで。姉さん達にとっては、地元の人の血を濃く引く私は、姉さん達の「大姥様」だけど、蛇の目の婿の兄さん達は、全部よそ者扱いなのね、と思う-;。蛇の兄さんも大変だー、というか准ちゃんも大変であったと思う。小姑が30~40人まとまって、あれこれ値踏みされてるのと同じだもんね、と思ったわけで-;。姉さん達はけっこう手厳しい小姑だったんじゃないか、と思うわけですが-;。

一方の清泉の方は、よくよく考えてみたら、生まれも育ちも長野市付近をうろうろしてただけなのに、どこにあるのかも知らないー、と思うわけで。私もど田舎のエリートらしく、保育園から大学まで私学とは縁のない人生だったなー、と思う。今さら、ヤマンバギャルの仮装なんて、誰もしたがらないだろうなー、と思うわけで、どちらかというとここだけ罰ゲームみたいな企画だ、という気がしたわけで。諏訪実の被服科の織り姫の姉さん達と、偽のヤマンバとどちらをとるのか、というそういうネタ? とか微妙に思うわけですが。でも、清泉というのは、いろんな学生の目を見る限り、「蛙の目のお嬢様」たちの巣窟な気がするわけで。で、ときどき、けっこう純血に近いローマ人がいる、という気がする。要するに、蛙の目の「なんちゃってカトリック」が大勢いるしー、と思うわけで。たとえ、相手が敵であっても、こうやって自分の目で見て、本性を確認することは大事、と兄さん達に言われる気がするわけで。「山姥」とは、本当は神様のことなのに、ああやって馬鹿にしたみたいな仮想のネタにするのが、敵のやり方でしょ? と言われる気がするわけで。でも、今さら、あんな時代遅れの仮想なんかしたがる子がいるの? 特に若い人ならなおさら、と思うわけで。そういう、分かりやすいやり方というか、罰ゲームみたいなのは、6番目の子の発案なんじゃないのかなー、となんとなく思う。そうやって、人やものを見る目を養いなさい、ということで。

ちょっと前に、「仰天ニュース」で、アフリカのとある村の「デブ祭り」とかっていうのをやっていて。そこの人達は、各村の若者の中から代表を立てて、代表となった若者は、飼っている牛の乳と血だけをガブガブと飲んで太り、お祭りの時に集まって、誰が一番太っているのかを競うのだそうで。そこの長老さんからは、「これが本当の牛トーテムだよ」と言われた気がするわけで。要は、彼らにとって牛は、財産でもあり、食料源でもあり、神でもあるのだと思う。牛の乳と血を飲む、というのは、自分達は「牛の子」である「牛」だし、牛は兄弟だし、おそらく先祖の神も牛だし、とそう言いたいのだと思う。そうして、乳と血を飲んで、牛と、要するに牛の神と一体化して、牛のもたらす豊穣性を体現する、それが太る、ということであって。誰が一番神と一体化して、その豊穣性を現すことができているのか、要するに誰が「神そのもの」であるのか、を競うのが彼らの祭りであるし、先祖の神様をたたえる祭祀でもあるのだと思う。確かに、それを「牛トーテム」と呼ばずして、何を「牛トーテム」と呼ぶのか、と思うわけですが、そういうごく始原的な「人と神の形」を教えるために彼らはテレビに出てくれたんだなー、と思う。でも、現代社会は何を神と考えるにしても、そういう始原的な生き方ができる人はごくわずかだろうなー、と思う。特にいろんな人が集まるところでは、自分たちの神様をたたえるだけでは足りなくて、よその神様とどう付き合うのか、ということがとても大切になるわけですし。

7番目の兄さん曰く、不比等の宗教政策のうち、「天照大神が地上に降りる神に稲穂を与えた」という神話の挿入が特にまずい、と言われる気がするわけで。普通に、農耕民族が、先祖の神から穀物や野菜を与えてもらった、という神話はまずくないわけです。で、天照大神と稲の神話も、元はこういう農耕民族の神話であったことは疑いがないわけで。そのレベルであれば、まずい話ではない、と言われる気がするわけで。でも、天孫であるニニギの子孫は、神話の上では最終的に天皇家になるわけで、彼らは祭祀者としては稲作を行うけれども、自分の食べるものを自分で作る農耕民として稲を作ってるわけではありません。でも、彼らは「稲籾は自分の先祖が天からもたらしたものだから、自分たちのものだ」と主張する。これは、租税と関係があって、米は江戸時代に至るまで、税として支配者に対し、被支配者が納めるものでした。要するに、古代の日本とは、今のように「集めた税金は国民のために使う」というような大義名分は全くなくて、その代わりに何を大義名分として米を集めたかというと、「稲籾は天皇のものだから、そこから取れたものは天皇に差し出すように」として、集めたわけです。一応、余った分は作った人のものにして良いことになっていましたが、余るほどなんか残さず集めるのが通例であるわけだからー;。だから、天照大神と天孫降臨の神話は、単なる神話では無くて、現実の「税の徴収」、要するに、「税制」の根幹となるものであって、それ以上でもそれ以下のものでもなかったわけです。奈良時代の政府の言い分は、そうやって種籾を強制的に人々に貸し付けて、収穫した米を「当然の権利」として徴収するのが当たり前のことだ、種籾とそこから取れた米は、元々天皇のものなんだから、というものでした。要するに、その神話は、そういう「政治的」な神話なんだから、露骨に政治のための神話を正史に挿入するということは、それを実行した不比等の行政官として才能は他に比較するべき相手もなく優れたものであるけれども、神とは本来そうやって現実の権力とか権威の裏付けになってはいけないものなのだから、不比等の宗教政策の才能としては今一、というのが7番目の兄さんの言い分らしくて。だいたい、「祖神」というものは、元々はアフリカのデブ祭りの人達のごとく、部族全体の祖神であって、王様だけの祖神、とかそういうものではないわけです。でも、歴史の上で、いろいろな部族が集まって生きていかなければならなくなったときに、上位の部族の神が特に偉い神、とされて、上位の部族の首長の権威を裏付けるような存在に変化していくわけで。でも、紀元前後の世界全体からみれば、キリスト教もそうですし、それ以前の仏教、更に古いゾロアスター教でもそういう傾向が少しずつ出だすわけですが、神と王権を切り離して、神は特定の部族、特定の王家だけを守護する存在ではなくて、その国を構成するすべての人々のための神である、という動きがどんどん活発になっていたわけで。単なる部族の祖神ではなくて、多くの異なる民族を内包できる「神」のあり方、というものを多くの人々が模索していたわけです。だから、不比等のやったことは、そういう時代の流れに逆行して、天皇家の権威、とくに税制の正当化のために天照大神を利用しているわけで、よろしくないことだし、神と王権をあまりに一体化させてしまうと、王権の権威が失墜したときに神の存在意義もなくなってしまう。でも、神とは本来、そういう素質のある人がなるもので、王が存在しようとしまいと、神は神であるものだから、特定の王権だけと強力に結びつけてしまおうとするのは、よろしくないこと。しかも、稲は天照大神のもの、としてしまうと、表向きはそれは天皇家のもの、となるだけだけれども、実際には「稲を日本列島に持ってきた人達のもの」と言っているのと同じことになるので。取れた米は、米だけでなく流通も含めて、全ての権利が蛙の王家にある、と言っているのと同じ事になるし、古代では米が貨幣の代わりであったわけだから、米と交換できるもの、要するに全ての産物や動産は、蛙の王家のもの、と言っているのも同じ事になるわけです。そして、米は蛙の王家のものなんだから、米を食べている人も、米と交換できるものを食べている人も全て「蛙の王家の持ち物」ということで。王家に逆らう物は、食べるものがなくて死ね、ということになるわけです。

でも、それに対する藤原氏の言い分としては、天孫降臨の神話がなければ、イザナミにしてもカグツチにしても、その他の殺される女神群にしても、穀霊に関する女神は、殺される話ばっかりじゃん。しかも、蛙の王家の側の軍神に殺される話ばっかりで、そんな話ばっかりが当たり前の神話にされてしまったら、「神」の素質を持った人が実際に生まれた時に、その人をいったいどうやった守り支えていくのか、ということらしくて。不比等の時代には、それだけ、「女神を殺す神話を作れ」という圧力が強くて、「天皇家の権威付け」という理由がなくては、太陽女神を神々しい存在として、それこそ残しておけなかった、というわけで。こういう、「高市皇子」と「藤原不比等」との異なる見解は、中世まで持ち込まれて決着がつかなかった。東国の武家に生まれた高師直を、その主君と共に京の都に招聘して、藤原氏と共に意見のすりあわせが行われるまでは、と言われる気がするわけで@@。高師直は、「もはや律令制の枠の中では、いずれ生まれてくる神を守り切ることはできない。ここまで、王権と神が一体化させられていたのでは、もし仮に天皇家の権威が失墜したときに、神の価値もないことになってしまう。敵が完全に天皇家を掌握することになれば、家を存続させるのか、神の存在をを無い物とするのか、どちらかを選べ、と必ず言うはず。そういうことは、西方では古来より行われてきたことで、そうして名も実も失われていってしまった神も西方では多く存在する。」と言ったらしくて@@。それで、結局律令制は放棄されることになって、武家の中から新たな秩序を形成することを模索することに決めた、と言われる気がするわけで@@。で、結局大名家が見いだしたのが、徳川家と言われる気がするわけですが@@。三河の松平氏こと、徳川公爵家も元々はグノーシス主義者ですよ、と言われる気がする@@。

というか、そもそも「高市皇子」とは何者なのですか? と思う。そうすると、飛鳥時代に存在した「旻」という僧のことを指されるわけで。僧旻は、学識に優れた人で、蘇我入鹿や藤原鎌足の師匠でした。それだけでなく、占いに優れた人で、中国に留学したりしている。それだけでなく、旻自身も中国の曹氏の子孫と言われてる。その人はより能力にとても優れた人で、朝廷にも仕えていました。世の中には彼のように未来が見える人もいるし、だから彼にも千数百年後の神の到来が見えていました。でも、未来も遠い先のことほどはっきりとはわかりにくいものだし、だいたいノストラダムスではないけれども、「予言者」と言われるような人は、自分が見えていることの全部は言わないものなので。何故かというと、誰と誰の子孫がどうやって結婚して神が生まれる、とはっきり言ってしまうと、それを邪魔しようとする者が出てくるかもしれないし、自分が予言したことが誰かにとって都合が悪かったりすると、その相手に自分の命が狙われるかもしれないし、ということがいろいろとあるからです。その旻が晩年、斉明天皇から相談を受けました。斉明天皇は、女神信仰を守るべき、という考えの人でしたが、彼女の息子の中大兄皇子は、原始キリスト教徒と組んで、男系の王家の確立をもくろんでいました。皇太子をどう扱うべきなのかを天皇は悩んでいたのです。それに対して、旻は太宰府にいた彼女の先夫の息子とその息子を、都に招聘するように、と言いました。そして、特に孫息子に対しては、できる限りの地位につけて、できる限りのことを見聞きさせて、できる限りの見識を身につけさせるように。彼はいずれ、生まれ変わって女神に仕える立場になる人だから、今からそのための教育を始めるように、と言ったらしくて@@。旻は、それだけのことしか言わなかったから、それ以上のことを知ってたのか、知らなかったのかは誰にも分からない。と言われる気がするわけで@@。でも、それで天皇は大海人皇子を都に招聘し、中大兄皇子を牽制させる役につけた、ということらしくて。そして、旻は曹氏の出身、すなわち曹操の子孫です。そういえば、中国でも最古の母系の文化を誇るモソの姉さん達のことを、わざわざ紹介するのに力を尽くしてくれた人も曹氏の女性であったなー、と思って。その人達は、自分たちの先祖を中国の支配者だと認めてくれた女王卑弥呼に対する恩義を忘れないでいる人達、と言われる気がするわけで@@。

だから、明治維新があって、敵がやりたい放題になって、富の王家にも、グノーシス主義者にも打つ手がなかった時代、天皇の「人間宣言」というものがあって、富の王家のおっちゃんも、藤氏の人々も、かつて師直に言われたことを思い出したらしくて。天皇家と天照大神の神性があまりにも一致しすぎていれば、天皇の神性が否定されたときに、太陽女神の神性も否定されてしまう。そういうことを目の当たりにして、人々は神が生まれてくるのを待ってた、でももう一人生まれてくるのも待ってた、と言われる気がするわけで@@。でも、じゃあ、なんで私の筆頭は6番目の子で、7番目の兄さんではないのですか? と思う。そうしたら、それは、6番目の子の方が交渉術だけでなく、余地の才能に優れてるから、と言われる気がするわけで@@。そう言われればそうだと思うけれども、でも6番目の子も自分が見ているもののことは、あんまり人には言いませんよねえ、と思う。7番目の兄さんの方は、そういうものには頼りすぎない人で、ものすごい現実主義者というか、実践主義者だよねえ、と思うのですが。

本日の日誌

一昨日の夜は特に夢も見ず。朝寝をしている時になんだか夢を見て。なんだか、おばさんが二人くらい、家の前で穴を掘っていて、で、門扉も勝手に壊しているので、「人の家に何をしているの!?」ということで怒ったら、なんだか謝っている感じで逃げて行って。「名前をしっかり確認しておかなきゃ。」と思って、親と二人で追いかけて行ったら、どこかのビルみたいなところに逃げ込んで、行ってみたらとある一室でヨガみたいなことをしていて。そこを捕まえて、損害を賠償するように一筆書かせて、かつ穴を掘らせた責任者を「警察に突き出してやる」と言って、首根っこをつかんで連れ出す、という夢を見て。目が覚めて、「相当頭にきてなかったらそんなことしないでしょ」と言われる気がするわけでー;。だって、そのくらいにしとかないと、図々しくて黙らない相手じゃん? と思う。というか、用がなくなるまでは、警察に突き出したりしませんよう、と思うわけで-;。むしろ、気分的には、自分には何の役にも立ってない相手方弁護士を真っ先に突き出したいくらいなのでー;。そういうところを察して、世の弁護士センセイ方はおののいているらしいのですがー;。

でも、だいたいにおいて、うまくやろうが、下手にやろうが、兄さん達に「やれ」と言われたことしかやっていないのでー;。だいたい、こういう図々しい作戦をいったい誰が立てたのですかね、と思う。そうすると、7番目の兄さんが笑いながら、「昨日、テレビで見た人」と言う気がするわけで。4番目の子かー、その人も愛妻家だから妻に嫌がらせする相手には容赦したくないタイプのはず、と思うわけで。作業の方は、ほぼ一日雨が降っていたので、お休みであって。昨日は出かける用事を中心に足していたのでした。

昨夜はなんだかちょっと夢を見て。敵の言うことにふりまわされない? みたいな夢で。お手紙を出しに行く日なので、作業はそこそこであって。

ここのところ、V6の「愛なんだ」を見ていて。なぜか長野県から高校が2つも出ていて、諏訪実業の被服科の姉さん達と、清泉の子達が出ていて。どっちも女の子ばっかりで意味深だー、と思って。諏訪実の姉さん達は、代々地元の子が多いらしくて、「蛇の目の人達はよそ者」と言う気がするわけで。姉さん達にとっては、地元の人の血を濃く引く私は、姉さん達の「大姥様」だけど、蛇の目の婿の兄さん達は、全部よそ者扱いなのね、と思う-;。蛇の兄さんも大変だー、というか准ちゃんも大変であったと思う。小姑が30~40人まとまって、あれこれ値踏みされてるのと同じだもんね、と思ったわけで-;。姉さん達はけっこう手厳しい小姑だったんじゃないか、と思うわけですが-;。

一方の清泉の方は、よくよく考えてみたら、生まれも育ちも長野市付近をうろうろしてただけなのに、どこにあるのかも知らないー、と思うわけで。私もど田舎のエリートらしく、保育園から大学まで私学とは縁のない人生だったなー、と思う。今さら、ヤマンバギャルの仮装なんて、誰もしたがらないだろうなー、と思うわけで、どちらかというとここだけ罰ゲームみたいな企画だ、という気がしたわけで。諏訪実の被服科の織り姫の姉さん達と、偽のヤマンバとどちらをとるのか、というそういうネタ? とか微妙に思うわけですが。でも、清泉というのは、いろんな学生の目を見る限り、「蛙の目のお嬢様」たちの巣窟な気がするわけで。で、ときどき、けっこう純血に近いローマ人がいる、という気がする。要するに、蛙の目の「なんちゃってカトリック」が大勢いるしー、と思うわけで。たとえ、相手が敵であっても、こうやって自分の目で見て、本性を確認することは大事、と兄さん達に言われる気がするわけで。「山姥」とは、本当は神様のことなのに、ああやって馬鹿にしたみたいな仮想のネタにするのが、敵のやり方でしょ? と言われる気がするわけで。でも、今さら、あんな時代遅れの仮想なんかしたがる子がいるの? 特に若い人ならなおさら、と思うわけで。そういう、分かりやすいやり方というか、罰ゲームみたいなのは、6番目の子の発案なんじゃないのかなー、となんとなく思う。そうやって、人やものを見る目を養いなさい、ということで。

ちょっと前に、「仰天ニュース」で、アフリカのとある村の「デブ祭り」とかっていうのをやっていて。そこの人達は、各村の若者の中から代表を立てて、代表となった若者は、飼っている牛の乳と血だけをガブガブと飲んで太り、お祭りの時に集まって、誰が一番太っているのかを競うのだそうで。そこの長老さんからは、「これが本当の牛トーテムだよ」と言われた気がするわけで。要は、彼らにとって牛は、財産でもあり、食料源でもあり、神でもあるのだと思う。牛の乳と血を飲む、というのは、自分達は「牛の子」である「牛」だし、牛は兄弟だし、おそらく先祖の神も牛だし、とそう言いたいのだと思う。そうして、乳と血を飲んで、牛と、要するに牛の神と一体化して、牛のもたらす豊穣性を体現する、それが太る、ということであって。誰が一番神と一体化して、その豊穣性を現すことができているのか、要するに誰が「神そのもの」であるのか、を競うのが彼らの祭りであるし、先祖の神様をたたえる祭祀でもあるのだと思う。確かに、それを「牛トーテム」と呼ばずして、何を「牛トーテム」と呼ぶのか、と思うわけですが、そういうごく始原的な「人と神の形」を教えるために彼らはテレビに出てくれたんだなー、と思う。でも、現代社会は何を神と考えるにしても、そういう始原的な生き方ができる人はごくわずかだろうなー、と思う。特にいろんな人が集まるところでは、自分たちの神様をたたえるだけでは足りなくて、よその神様とどう付き合うのか、ということがとても大切になるわけですし。

7番目の兄さん曰く、不比等の宗教政策のうち、「天照大神が地上に降りる神に稲穂を与えた」という神話の挿入が特にまずい、と言われる気がするわけで。普通に、農耕民族が、先祖の神から穀物や野菜を与えてもらった、という神話はまずくないわけです。で、天照大神と稲の神話も、元はこういう農耕民族の神話であったことは疑いがないわけで。そのレベルであれば、まずい話ではない、と言われる気がするわけで。でも、天孫であるニニギの子孫は、神話の上では最終的に天皇家になるわけで、彼らは祭祀者としては稲作を行うけれども、自分の食べるものを自分で作る農耕民として稲を作ってるわけではありません。でも、彼らは「稲籾は自分の先祖が天からもたらしたものだから、自分たちのものだ」と主張する。これは、租税と関係があって、米は江戸時代に至るまで、税として支配者に対し、被支配者が納めるものでした。要するに、古代の日本とは、今のように「集めた税金は国民のために使う」というような大義名分は全くなくて、その代わりに何を大義名分として米を集めたかというと、「稲籾は天皇のものだから、そこから取れたものは天皇に差し出すように」として、集めたわけです。一応、余った分は作った人のものにして良いことになっていましたが、余るほどなんか残さず集めるのが通例であるわけだからー;。だから、天照大神と天孫降臨の神話は、単なる神話では無くて、現実の「税の徴収」、要するに、「税制」の根幹となるものであって、それ以上でもそれ以下のものでもなかったわけです。奈良時代の政府の言い分は、そうやって種籾を強制的に人々に貸し付けて、収穫した米を「当然の権利」として徴収するのが当たり前のことだ、種籾とそこから取れた米は、元々天皇のものなんだから、というものでした。要するに、その神話は、そういう「政治的」な神話なんだから、露骨に政治のための神話を正史に挿入するということは、それを実行した不比等の行政官として才能は他に比較するべき相手もなく優れたものであるけれども、神とは本来そうやって現実の権力とか権威の裏付けになってはいけないものなのだから、不比等の宗教政策の才能としては今一、というのが7番目の兄さんの言い分らしくて。だいたい、「祖神」というものは、元々はアフリカのデブ祭りの人達のごとく、部族全体の祖神であって、王様だけの祖神、とかそういうものではないわけです。でも、歴史の上で、いろいろな部族が集まって生きていかなければならなくなったときに、上位の部族の神が特に偉い神、とされて、上位の部族の首長の権威を裏付けるような存在に変化していくわけで。でも、紀元前後の世界全体からみれば、キリスト教もそうですし、それ以前の仏教、更に古いゾロアスター教でもそういう傾向が少しずつ出だすわけですが、神と王権を切り離して、神は特定の部族、特定の王家だけを守護する存在ではなくて、その国を構成するすべての人々のための神である、という動きがどんどん活発になっていたわけで。単なる部族の祖神ではなくて、多くの異なる民族を内包できる「神」のあり方、というものを多くの人々が模索していたわけです。だから、不比等のやったことは、そういう時代の流れに逆行して、天皇家の権威、とくに税制の正当化のために天照大神を利用しているわけで、よろしくないことだし、神と王権をあまりに一体化させてしまうと、王権の権威が失墜したときに神の存在意義もなくなってしまう。でも、神とは本来、そういう素質のある人がなるもので、王が存在しようとしまいと、神は神であるものだから、特定の王権だけと強力に結びつけてしまおうとするのは、よろしくないこと。しかも、稲は天照大神のもの、としてしまうと、表向きはそれは天皇家のもの、となるだけだけれども、実際には「稲を日本列島に持ってきた人達のもの」と言っているのと同じことになるので。取れた米は、米だけでなく流通も含めて、全ての権利が蛙の王家にある、と言っているのと同じ事になるし、古代では米が貨幣の代わりであったわけだから、米と交換できるもの、要するに全ての産物や動産は、蛙の王家のもの、と言っているのも同じ事になるわけです。そして、米は蛙の王家のものなんだから、米を食べている人も、米と交換できるものを食べている人も全て「蛙の王家の持ち物」ということで。王家に逆らう物は、食べるものがなくて死ね、ということになるわけです。

でも、それに対する藤原氏の言い分としては、天孫降臨の神話がなければ、イザナミにしてもカグツチにしても、その他の殺される女神群にしても、穀霊に関する女神は、殺される話ばっかりじゃん。しかも、蛙の王家の側の軍神に殺される話ばっかりで、そんな話ばっかりが当たり前の神話にされてしまったら、「神」の素質を持った人が実際に生まれた時に、その人をいったいどうやった守り支えていくのか、ということらしくて。不比等の時代には、それだけ、「女神を殺す神話を作れ」という圧力が強くて、「天皇家の権威付け」という理由がなくては、太陽女神を神々しい存在として、それこそ残しておけなかった、というわけで。こういう、「高市皇子」と「藤原不比等」との異なる見解は、中世まで持ち込まれて決着がつかなかった。東国の武家に生まれた高師直を、その主君と共に京の都に招聘して、藤原氏と共に意見のすりあわせが行われるまでは、と言われる気がするわけで@@。高師直は、「もはや律令制の枠の中では、いずれ生まれてくる神を守り切ることはできない。ここまで、王権と神が一体化させられていたのでは、もし仮に天皇家の権威が失墜したときに、神の価値もないことになってしまう。敵が完全に天皇家を掌握することになれば、家を存続させるのか、神の存在をを無い物とするのか、どちらかを選べ、と必ず言うはず。そういうことは、西方では古来より行われてきたことで、そうして名も実も失われていってしまった神も西方では多く存在する。」と言ったらしくて@@。それで、結局律令制は放棄されることになって、武家の中から新たな秩序を形成することを模索することに決めた、と言われる気がするわけで@@。で、結局大名家が見いだしたのが、徳川家と言われる気がするわけですが@@。三河の松平氏こと、徳川公爵家も元々はグノーシス主義者ですよ、と言われる気がする@@。

というか、そもそも「高市皇子」とは何者なのですか? と思う。そうすると、飛鳥時代に存在した「旻」という僧のことを指されるわけで。僧旻は、学識に優れた人で、蘇我入鹿や藤原鎌足の師匠でした。それだけでなく、占いに優れた人で、中国に留学したりしている。それだけでなく、旻自身も中国の曹氏の子孫と言われてる。その人はより能力にとても優れた人で、朝廷にも仕えていました。世の中には彼のように未来が見える人もいるし、だから彼にも千数百年後の神の到来が見えていました。でも、未来も遠い先のことほどはっきりとはわかりにくいものだし、だいたいノストラダムスではないけれども、「予言者」と言われるような人は、自分が見えていることの全部は言わないものなので。何故かというと、誰と誰の子孫がどうやって結婚して神が生まれる、とはっきり言ってしまうと、それを邪魔しようとする者が出てくるかもしれないし、自分が予言したことが誰かにとって都合が悪かったりすると、その相手に自分の命が狙われるかもしれないし、ということがいろいろとあるからです。その旻が晩年、斉明天皇から相談を受けました。斉明天皇は、女神信仰を守るべき、という考えの人でしたが、彼女の息子の中大兄皇子は、原始キリスト教徒と組んで、男系の王家の確立をもくろんでいました。皇太子をどう扱うべきなのかを天皇は悩んでいたのです。それに対して、旻は太宰府にいた彼女の先夫の息子とその息子を、都に招聘するように、と言いました。そして、特に孫息子に対しては、できる限りの地位につけて、できる限りのことを見聞きさせて、できる限りの見識を身につけさせるように。彼はいずれ、生まれ変わって女神に仕える立場になる人だから、今からそのための教育を始めるように、と言ったらしくて@@。旻は、それだけのことしか言わなかったから、それ以上のことを知ってたのか、知らなかったのかは誰にも分からない。と言われる気がするわけで@@。でも、それで天皇は大海人皇子を都に招聘し、中大兄皇子を牽制させる役につけた、ということらしくて。そして、旻は曹氏の出身、すなわち曹操の子孫です。そういえば、中国でも最古の母系の文化を誇るモソの姉さん達のことを、わざわざ紹介するのに力を尽くしてくれた人も曹氏の女性であったなー、と思って。その人達は、自分たちの先祖を中国の支配者だと認めてくれた女王卑弥呼に対する恩義を忘れないでいる人達、と言われる気がするわけで@@。

だから、明治維新があって、敵がやりたい放題になって、富の王家にも、グノーシス主義者にも打つ手がなかった時代、天皇の「人間宣言」というものがあって、富の王家のおっちゃんも、藤氏の人々も、かつて師直に言われたことを思い出したらしくて。天皇家と天照大神の神性があまりにも一致しすぎていれば、天皇の神性が否定されたときに、太陽女神の神性も否定されてしまう。そういうことを目の当たりにして、人々は神が生まれてくるのを待ってた、でももう一人生まれてくるのも待ってた、と言われる気がするわけで@@。でも、じゃあ、なんで私の筆頭は6番目の子で、7番目の兄さんではないのですか? と思う。そうしたら、それは、6番目の子の方が交渉術だけでなく、余地の才能に優れてるから、と言われる気がするわけで@@。そう言われればそうだと思うけれども、でも6番目の子も自分が見ているもののことは、あんまり人には言いませんよねえ、と思う。7番目の兄さんの方は、そういうものには頼りすぎない人で、ものすごい現実主義者というか、実践主義者だよねえ、と思うのですが。