本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。作業の方は、いつもとほぼ同じ。相変わらず石やゴミが次々と出る。

で、昼寝の時に、なんだか夢を見て。音楽家の兄さんが家に来て、引っ越しを手伝ってくれる、という夢で。

話は「天照大神」に戻りますが、天照大神の語源がアナーヒタ女神にあったのであれば、それはアナーヒタ女神や、カエルの王家の太陽女神、この国に古くから存在していたハイヌウェレ型の月の女神などを、習合させて作り上げた女神、ということになります。それだけでなく、建御雷神と八大雷神のように、勝手に神のトーテムを定めたりしています。これら合成神の一番の問題点は何なのでしょう? ということになります。

そうすると、それは「再生を否定していること」と言われる気がするわけで。例えば、ギリシア神話のデーメーテール女神とその娘のペルセポネーの神話があります。この2神は1対のもので、穀霊そのものでもあります。彼らは四季の循環に併せて、生きたり死んだりする。要するに、余所にだって「死んでいる神」はいくらでもいるわけですが、彼らは「生き返る神」でもあるのです。そして、植物を生育させて、人々に穀物を分け与えてくれる存在でもある。日本の神話と比較すると、天照大神は人々に種籾を分けてくれる存在ではありますが、稲を育てるのは田の神である雷神です。天照大神のトーテムを鹿とすると、鹿は稲のためにその命を捧げますが、それは死にっぱなしの存在であって、彼女が稲を育てて、かつ新たな稲として再生する存在ではありません。人々は鹿を殺して、稲作の肥料にしても、鹿に感謝することはないのです。天照大神が、鹿がトーテムのように「みえる」ように作られていてもはっきりとそうされていない理由はそこにあります。そして、鹿は「紅葉」と組み合わされて、「利用されるだけの間抜けなもの」として扱われているのです。人々は、天照大神には種籾を与えてくれることしか期待しない、そして田の神には稲を育てることしか期待しません。彼らを奉って、その見返りを与えるかもしれませんが、神が様々に姿を変えて死と再生を繰り返すことは否定されます。でも、古来からの世界的な「信仰」というものはそういうものではありません。何かが死んでも、その死体が地面に落ちて肥料になって、新たな植物として再生する。その植物を食べたものとまた一体化する、というように、「個」としての「死」はあっても、命そのものは、いろんなもののなかを循環して、永遠に巡り続ける、というのが昔からの考え方のはずです。そして、命がこのように循環するものだからこそ、何を食べるのかが重要なことにもなるのです。

同じ事はイザナギとイザナミの神話にもいえます。黄泉の国で決裂した夫婦は、しまいには妻が人を取り殺す神、夫が人を生み出す神、となることで決着します。グローバルな神話であったら、死ぬ人は黄泉の国で再生されて、また新たな人として生まれ変わり、また死ぬ、というように、命そのものが、死と再生を繰り返すものとされています。それと同じように神々も死と再生を繰り返すのですが、日本神話ではイザナミは永遠に再生しない神であり、それと同じように人も死んだら死にっぱなし。イザナギが生み出すのは「新たな命」であって、再生された命ではないのです。要するにデーメーテールとペルセポネーの場合と違って、イザナギとイザナミの行っていることには連続性がなく、それぞれが秩序なく勝手にやっていること、とされているのです。

でも、チベットの活仏の思想があるように、古来は、人は死んだらまた生まれ変わるし、特に優れた人の生まれ変わり、神の生まれ変わりは、神として育てて、人々を導いて貰う存在となってもらう、という思想があったのです。要するに、日本の神話は、古来からの神話の寄せ集めのように見えながら、古来寄りの「生まれ変わり」の思想を全否定するために「作られている」といえます。もし、「生まれ変わり」というものを否定したら、どういうことになるのでしょう? そうすると、「神の生まれ変わり」とされる優れた人を、人々の役に立つように、と大切に育てなくても良い、ということになります。そうすると、優れた人が、世のため、人のためになるように、という機会が一つ失われます。逆にいえば、世の中のよろしくないところを正す機会も一つ減る、ということで、よろしくないことばっかりやりたがる人にとっては、これは好都合な思想、ということになるのです。そして、よろしくないことばっかりやりたがる人々が、本来人々の役に立つはずだった優れた人を手に入れて、勝手に利用した場合どうなるのでしょう? そうすると、神様になるはずだった人は、自分勝手な悪巧みばかり上手な人間になって、ヤクザみたいな連中の手先になって、逆に優れている分、人々に迷惑をかける存在になるかもしれません。そうなったら、せっかく生まれても、誰のためにも、自分のためにすらもならない存在にしかならない、ということになります。だから、「生まれ変わり」を否定しようという「思想改革」を行った人達は、神を自分の都合の良い道具にしようとするためだけにそうしたんですよ、と言われる気がするわけで。「生まれ変わり」を否定しないと、そういうことは可能にならないのです。だから、神を自分の道具にしようとしている人達が、そもそも「人の生まれ変わり」を否定し始めた人達、と言われる気がするわけで。ローマ教会なんかの、キリスト教はむしろ玉虫色で、「人の生まれ変わり」そのものは否定していないわけです。ただし、生まれ変わる先が「天国」とか「地獄」であって、この現世ではないだけであって。だから、カエルの王家のやったことは、「天国」とか「地獄」の概念を更に突き進めて、「生まれ変わり」そのものを否定したこと、と言われる気がするわけで。

しかも、「死人に口なし」の言葉どおり、日本の神々は大抵は「死んだまま」の神ですから、そこに属する人々も「死者」ということで。要するに、「余計な口はきくな」と、そういうことなのですよねえ? と思う。だから、誰もが奴隷にされて、許されたことしか口にできないし、死ぬまで働き続けるしかない、ということで。

それはいいのだけれども、世界的規模にまでいたって、「生まれ変わりというものはない」という思想改革を、誰かが行ったとしてですねえ? それには、目的も対象となる人も「いる」と思われるわけですが、そういう宝くじに当たる以上のすごい確率で、「生まれ変わった人」がですねえ? もし、神様になる人として大切に育てられなかったら、どうなるのですかね? とも思う。そういう人は、「弁護士を訴えてやる」って怒り狂うような人間に育つのではないのですかね? と思う、というか、別に怒り狂ってないってば、あんなのはほんの挨拶程度、と思うわけですが-;。

でも、天照大神がアナーヒタ女神であるとしたら、イザナギとイザナミはなんなのですかね? と思う。そうしたら、イザナギとは薙鎌のこと、と言われる気がするわけで@@。記紀神話のイザナギは軍神とはされていませんが、十束剣の持ち主ですから、潜在的には軍神としての意味を持つ神です。丹後半島には、イザナギ(天の神)がイザナミ(地の神)のところに通うためのハシゴが天橋立であった、という伝説がありますので、イザナギが天空神、イザナミが地母神という信仰があったのだと思われます。でも、イザナギが本来剣の神ではなくて、「薙鎌」であった、というのであれば。それは軍神であると共に、風を鎮める神、という意味もあったと思われるし、それは諏訪神と同じ物、ということですよねえ? と思う。諏訪心の配偶神は八坂刀売ですから、そういうことを総合的に考えると、諏訪神は八束水臣津野命と同じものであり、ヴァルナ(天空神かつ水神)である、ということになる。そして、その配偶心の八坂刀売もまたアナーヒタ女神、ということになりますよねえ? となる。要するに、イザナミもまたアナーヒタ女神、といえます。八束水臣津野命の配偶神は、布帝耳神(フテミミノカミ)といいます。布帝耳神の「フテ」とは「太」のことと思われますので、八束水臣津野命の配偶神も鹿の女神、ということになります。ということは、八坂刀売もまた鹿の女神、ということです。要するに、富の王家の主神である八束水臣津野命は、ある時点で、広範囲にわたる信仰を禁止され、富の王家の本拠地である出雲国意宇郡にしかその名を残せませんでした。その代わり、記紀神話ではイザナギと名前を変え、その一方、諏訪では、建御名方富命と名を変えて信仰されることになりました。配偶神のアナーヒタ女神は、天照大神、イザナミ、八坂刀売の3つに分割されることになりました。要するに、イザナギ、イザナミ、天照大神の3つが、蛙の王家が、利用しようとして「流用している形」、八束水臣津野命、建御名方富命、八坂刀売の3つは、富の王家が何とか「残そうとした形」といえます。ミトラスに相当する大穴牟遅神は、正史の方ではその名を残せず、大国主命と改名することになりました。

でも、それでは、須佐之男と月夜見尊はどうなるのですか? と思う。そうすると、それは蛙の王家の「一つの太陽とそれを補佐する二つの月」の思想から来ているもので、泣きわめく須佐之男も月の神の一形態だけれども、原型はスーサの都市神フンバンであって、ヴァティカヌスと同じもの、と言われる気がするわけで。須佐之男命は八岐大蛇退治が有名なわけですが。そもそも、奇稲田姫とは、稲の穀霊をさす言葉で、天照大神や鹿の女神の別の形、といえます。それが、八岐大蛇に生け贄に捧げられるわけだから、八岐大蛇を田の神である八大雷神とすると、奇稲田姫は早乙女に相当し、殺される奇稲田姫は、殺される早乙女、ということになります。須佐之男命は八岐大蛇を退治して、奇稲田姫を妻にした、とされています。でも、須佐之男命は、大国主命が娘に妻問いに出かけた時には、「根の国」に住んでいました。要するに、奇稲田姫を「根の国」につれて行ったのが須佐之男命ということになります。八岐大蛇に食い殺されても、須佐之男命に黄泉の国に連れて行かれても、死ぬことに変わりはないんじゃん? と思う。しかも、八岐大蛇はいかにも「八大雷神」と同じもののように見えますが、水神であり、蛇の神であることを考えると、その姿は八束水臣津野命と重なります。要するに、八岐大蛇の神話は、「八束水臣津野命と八大雷神」を「同じもの」のようにして扱うための神話、奇稲田姫がいずれにしても殺される、という神話、ということになります。富の王家が、さすがにここまで馬鹿馬鹿しい神話は受け入れなかったので、この話は出雲国風土記には載っていないのですが、古事記の方に、無理矢理押し込まれることになりましたとさ、ということでー;。要するに「ヴァルナとユーピテル」を同じ「蛇の雷神」に仕立てあげたあげく、どうあっても奇稲田姫を殺してしまえ、という悪質な神話といえる。で、ユーピテルというのは、そもそも何かというと、「火打ち石」の神、小石の神なわけです。だから、結局私達は、建御名方富命(ヴァルナ)の土地から、小石(ユーピテル)をできるだけ追い出して、ヴァルナとユーピテルを分離しないといけないわけです。でないと、ヴァルナ自身が妻が実を食い殺す神、になってしまうわけで。それでは困るから、石がある限り、蛇の兄さんは迎えに来れない、ということになるのです。

どうりで、福山君と石井はどこか言動もファンの評価も似通っているわけだ。それも、こういうことの暗示なんだ?? と思うわけですが。7番目の兄さんは、高市皇子が存命中に古事記が完成していたら、その内容は今のものとはずいぶん違ったものになっていただろう。藤原不比等は、行政官としては優れた人だったけれども、宗教政策は今一な人だった、政治家としては高市皇子の薫陶を受けて育った人だったのに、と言う気がするわけで-;。だいたい、当時のことを知る人は、不比等のことは天智天皇の子供だった、と思ってるらしくて。天武天皇の時代、近江朝の側の人達は冷遇されましたが、でも、壬申の乱に直接加担していない天智天皇の皇子女は、その立場を剥奪されることはなく、それなりに遇されていたわけで。特に彼らは、皇后であった持統天皇にとっては、実の弟妹なわけですから、持統天皇自身は身内の情に篤い人で、弟妹達に関してできる面倒はみていた、ということで。でも、不比等の場合は、正式な父親が近江朝の臣下とされていたので、冷遇されていて、皇子扱いもできないし、持統天皇もその立場を気の毒がって気にかけていた、ということらしくて。そこで、息子の草壁皇子の側近に取り立て、高市皇子も気にかけていた、ということのようで。そういうことが、後の不比等の大出世にもつながるわけですが、藤原氏の人達にとっては、とても自慢のご先祖様、ということで。不比等のことをボロクソに批判することが許されるのは7番目の兄さんだけ、と言われる気がするわけで。それは、かつて、その人が不比等の政治家としての「師匠」であったからですねえ? と思う。でも、そうすると、7番目の兄さんは、その頃から私のことを知っていたんだ? と思う。それもなんだか不思議な話な気がするわけですが。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。作業の方は、いつもとほぼ同じ。相変わらず石やゴミが次々と出る。

で、昼寝の時に、なんだか夢を見て。音楽家の兄さんが家に来て、引っ越しを手伝ってくれる、という夢で。

話は「天照大神」に戻りますが、天照大神の語源がアナーヒタ女神にあったのであれば、それはアナーヒタ女神や、カエルの王家の太陽女神、この国に古くから存在していたハイヌウェレ型の月の女神などを、習合させて作り上げた女神、ということになります。それだけでなく、建御雷神と八大雷神のように、勝手に神のトーテムを定めたりしています。これら合成神の一番の問題点は何なのでしょう? ということになります。

そうすると、それは「再生を否定していること」と言われる気がするわけで。例えば、ギリシア神話のデーメーテール女神とその娘のペルセポネーの神話があります。この2神は1対のもので、穀霊そのものでもあります。彼らは四季の循環に併せて、生きたり死んだりする。要するに、余所にだって「死んでいる神」はいくらでもいるわけですが、彼らは「生き返る神」でもあるのです。そして、植物を生育させて、人々に穀物を分け与えてくれる存在でもある。日本の神話と比較すると、天照大神は人々に種籾を分けてくれる存在ではありますが、稲を育てるのは田の神である雷神です。天照大神のトーテムを鹿とすると、鹿は稲のためにその命を捧げますが、それは死にっぱなしの存在であって、彼女が稲を育てて、かつ新たな稲として再生する存在ではありません。人々は鹿を殺して、稲作の肥料にしても、鹿に感謝することはないのです。天照大神が、鹿がトーテムのように「みえる」ように作られていてもはっきりとそうされていない理由はそこにあります。そして、鹿は「紅葉」と組み合わされて、「利用されるだけの間抜けなもの」として扱われているのです。人々は、天照大神には種籾を与えてくれることしか期待しない、そして田の神には稲を育てることしか期待しません。彼らを奉って、その見返りを与えるかもしれませんが、神が様々に姿を変えて死と再生を繰り返すことは否定されます。でも、古来からの世界的な「信仰」というものはそういうものではありません。何かが死んでも、その死体が地面に落ちて肥料になって、新たな植物として再生する。その植物を食べたものとまた一体化する、というように、「個」としての「死」はあっても、命そのものは、いろんなもののなかを循環して、永遠に巡り続ける、というのが昔からの考え方のはずです。そして、命がこのように循環するものだからこそ、何を食べるのかが重要なことにもなるのです。

同じ事はイザナギとイザナミの神話にもいえます。黄泉の国で決裂した夫婦は、しまいには妻が人を取り殺す神、夫が人を生み出す神、となることで決着します。グローバルな神話であったら、死ぬ人は黄泉の国で再生されて、また新たな人として生まれ変わり、また死ぬ、というように、命そのものが、死と再生を繰り返すものとされています。それと同じように神々も死と再生を繰り返すのですが、日本神話ではイザナミは永遠に再生しない神であり、それと同じように人も死んだら死にっぱなし。イザナギが生み出すのは「新たな命」であって、再生された命ではないのです。要するにデーメーテールとペルセポネーの場合と違って、イザナギとイザナミの行っていることには連続性がなく、それぞれが秩序なく勝手にやっていること、とされているのです。

でも、チベットの活仏の思想があるように、古来は、人は死んだらまた生まれ変わるし、特に優れた人の生まれ変わり、神の生まれ変わりは、神として育てて、人々を導いて貰う存在となってもらう、という思想があったのです。要するに、日本の神話は、古来からの神話の寄せ集めのように見えながら、古来寄りの「生まれ変わり」の思想を全否定するために「作られている」といえます。もし、「生まれ変わり」というものを否定したら、どういうことになるのでしょう? そうすると、「神の生まれ変わり」とされる優れた人を、人々の役に立つように、と大切に育てなくても良い、ということになります。そうすると、優れた人が、世のため、人のためになるように、という機会が一つ失われます。逆にいえば、世の中のよろしくないところを正す機会も一つ減る、ということで、よろしくないことばっかりやりたがる人にとっては、これは好都合な思想、ということになるのです。そして、よろしくないことばっかりやりたがる人々が、本来人々の役に立つはずだった優れた人を手に入れて、勝手に利用した場合どうなるのでしょう? そうすると、神様になるはずだった人は、自分勝手な悪巧みばかり上手な人間になって、ヤクザみたいな連中の手先になって、逆に優れている分、人々に迷惑をかける存在になるかもしれません。そうなったら、せっかく生まれても、誰のためにも、自分のためにすらもならない存在にしかならない、ということになります。だから、「生まれ変わり」を否定しようという「思想改革」を行った人達は、神を自分の都合の良い道具にしようとするためだけにそうしたんですよ、と言われる気がするわけで。「生まれ変わり」を否定しないと、そういうことは可能にならないのです。だから、神を自分の道具にしようとしている人達が、そもそも「人の生まれ変わり」を否定し始めた人達、と言われる気がするわけで。ローマ教会なんかの、キリスト教はむしろ玉虫色で、「人の生まれ変わり」そのものは否定していないわけです。ただし、生まれ変わる先が「天国」とか「地獄」であって、この現世ではないだけであって。だから、カエルの王家のやったことは、「天国」とか「地獄」の概念を更に突き進めて、「生まれ変わり」そのものを否定したこと、と言われる気がするわけで。

しかも、「死人に口なし」の言葉どおり、日本の神々は大抵は「死んだまま」の神ですから、そこに属する人々も「死者」ということで。要するに、「余計な口はきくな」と、そういうことなのですよねえ? と思う。だから、誰もが奴隷にされて、許されたことしか口にできないし、死ぬまで働き続けるしかない、ということで。

それはいいのだけれども、世界的規模にまでいたって、「生まれ変わりというものはない」という思想改革を、誰かが行ったとしてですねえ? それには、目的も対象となる人も「いる」と思われるわけですが、そういう宝くじに当たる以上のすごい確率で、「生まれ変わった人」がですねえ? もし、神様になる人として大切に育てられなかったら、どうなるのですかね? とも思う。そういう人は、「弁護士を訴えてやる」って怒り狂うような人間に育つのではないのですかね? と思う、というか、別に怒り狂ってないってば、あんなのはほんの挨拶程度、と思うわけですが-;。

でも、天照大神がアナーヒタ女神であるとしたら、イザナギとイザナミはなんなのですかね? と思う。そうしたら、イザナギとは薙鎌のこと、と言われる気がするわけで@@。記紀神話のイザナギは軍神とはされていませんが、十束剣の持ち主ですから、潜在的には軍神としての意味を持つ神です。丹後半島には、イザナギ(天の神)がイザナミ(地の神)のところに通うためのハシゴが天橋立であった、という伝説がありますので、イザナギが天空神、イザナミが地母神という信仰があったのだと思われます。でも、イザナギが本来剣の神ではなくて、「薙鎌」であった、というのであれば。それは軍神であると共に、風を鎮める神、という意味もあったと思われるし、それは諏訪神と同じ物、ということですよねえ? と思う。諏訪心の配偶神は八坂刀売ですから、そういうことを総合的に考えると、諏訪神は八束水臣津野命と同じものであり、ヴァルナ(天空神かつ水神)である、ということになる。そして、その配偶心の八坂刀売もまたアナーヒタ女神、ということになりますよねえ? となる。要するに、イザナミもまたアナーヒタ女神、といえます。八束水臣津野命の配偶神は、布帝耳神(フテミミノカミ)といいます。布帝耳神の「フテ」とは「太」のことと思われますので、八束水臣津野命の配偶神も鹿の女神、ということになります。ということは、八坂刀売もまた鹿の女神、ということです。要するに、富の王家の主神である八束水臣津野命は、ある時点で、広範囲にわたる信仰を禁止され、富の王家の本拠地である出雲国意宇郡にしかその名を残せませんでした。その代わり、記紀神話ではイザナギと名前を変え、その一方、諏訪では、建御名方富命と名を変えて信仰されることになりました。配偶神のアナーヒタ女神は、天照大神、イザナミ、八坂刀売の3つに分割されることになりました。要するに、イザナギ、イザナミ、天照大神の3つが、蛙の王家が、利用しようとして「流用している形」、八束水臣津野命、建御名方富命、八坂刀売の3つは、富の王家が何とか「残そうとした形」といえます。ミトラスに相当する大穴牟遅神は、正史の方ではその名を残せず、大国主命と改名することになりました。

でも、それでは、須佐之男と月夜見尊はどうなるのですか? と思う。そうすると、それは蛙の王家の「一つの太陽とそれを補佐する二つの月」の思想から来ているもので、泣きわめく須佐之男も月の神の一形態だけれども、原型はスーサの都市神フンバンであって、ヴァティカヌスと同じもの、と言われる気がするわけで。須佐之男命は八岐大蛇退治が有名なわけですが。そもそも、奇稲田姫とは、稲の穀霊をさす言葉で、天照大神や鹿の女神の別の形、といえます。それが、八岐大蛇に生け贄に捧げられるわけだから、八岐大蛇を田の神である八大雷神とすると、奇稲田姫は早乙女に相当し、殺される奇稲田姫は、殺される早乙女、ということになります。須佐之男命は八岐大蛇を退治して、奇稲田姫を妻にした、とされています。でも、須佐之男命は、大国主命が娘に妻問いに出かけた時には、「根の国」に住んでいました。要するに、奇稲田姫を「根の国」につれて行ったのが須佐之男命ということになります。八岐大蛇に食い殺されても、須佐之男命に黄泉の国に連れて行かれても、死ぬことに変わりはないんじゃん? と思う。しかも、八岐大蛇はいかにも「八大雷神」と同じもののように見えますが、水神であり、蛇の神であることを考えると、その姿は八束水臣津野命と重なります。要するに、八岐大蛇の神話は、「八束水臣津野命と八大雷神」を「同じもの」のようにして扱うための神話、奇稲田姫がいずれにしても殺される、という神話、ということになります。富の王家が、さすがにここまで馬鹿馬鹿しい神話は受け入れなかったので、この話は出雲国風土記には載っていないのですが、古事記の方に、無理矢理押し込まれることになりましたとさ、ということでー;。要するに「ヴァルナとユーピテル」を同じ「蛇の雷神」に仕立てあげたあげく、どうあっても奇稲田姫を殺してしまえ、という悪質な神話といえる。で、ユーピテルというのは、そもそも何かというと、「火打ち石」の神、小石の神なわけです。だから、結局私達は、建御名方富命(ヴァルナ)の土地から、小石(ユーピテル)をできるだけ追い出して、ヴァルナとユーピテルを分離しないといけないわけです。でないと、ヴァルナ自身が妻が実を食い殺す神、になってしまうわけで。それでは困るから、石がある限り、蛇の兄さんは迎えに来れない、ということになるのです。

どうりで、福山君と石井はどこか言動もファンの評価も似通っているわけだ。それも、こういうことの暗示なんだ?? と思うわけですが。7番目の兄さんは、高市皇子が存命中に古事記が完成していたら、その内容は今のものとはずいぶん違ったものになっていただろう。藤原不比等は、行政官としては優れた人だったけれども、宗教政策は今一な人だった、政治家としては高市皇子の薫陶を受けて育った人だったのに、と言う気がするわけで-;。だいたい、当時のことを知る人は、不比等のことは天智天皇の子供だった、と思ってるらしくて。天武天皇の時代、近江朝の側の人達は冷遇されましたが、でも、壬申の乱に直接加担していない天智天皇の皇子女は、その立場を剥奪されることはなく、それなりに遇されていたわけで。特に彼らは、皇后であった持統天皇にとっては、実の弟妹なわけですから、持統天皇自身は身内の情に篤い人で、弟妹達に関してできる面倒はみていた、ということで。でも、不比等の場合は、正式な父親が近江朝の臣下とされていたので、冷遇されていて、皇子扱いもできないし、持統天皇もその立場を気の毒がって気にかけていた、ということらしくて。そこで、息子の草壁皇子の側近に取り立て、高市皇子も気にかけていた、ということのようで。そういうことが、後の不比等の大出世にもつながるわけですが、藤原氏の人達にとっては、とても自慢のご先祖様、ということで。不比等のことをボロクソに批判することが許されるのは7番目の兄さんだけ、と言われる気がするわけで。それは、かつて、その人が不比等の政治家としての「師匠」であったからですねえ? と思う。でも、そうすると、7番目の兄さんは、その頃から私のことを知っていたんだ? と思う。それもなんだか不思議な話な気がするわけですが。