本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。その代わりに善光寺のことをいろいろと調べていて疲れていて。古代における信濃国造であった金刺氏の拠点は、伊那とか、更級郡とか、水内郡にあったらしくて。そして、もちろん諏訪の下社もその一つであって。で、伊那とか更級郡の「麻績」と呼ばれる地名は、伊勢神宮に奉納するための麻布を作るところであって、そこを管轄していた人達が「若麻績」を名乗っていたらしいです。で、善光寺を作った本田善光というのは、それは法名であって、本当の名前は若麻績東人と言うらしくて。若麻績氏の活動範囲は、金刺氏の拠点と一致しますので、若麻績氏という人達は金刺氏の直系に近い同族であって、一族の中では責任の重い仕事を任されていた人達であると思う。要するに、今風に言えば、総本家にとっての某酒屋さんみたいな存在であったのだと思う。東人は、国造の供をして都に出かけた時に、難波の堀江で善光寺如来を広い、それを背負って信濃国の伊那にまず帰ってきた、とされている。大阪にも飛鳥にも「難波の堀江」と呼ばれるところがあるし、大阪には「小山善光寺」と言って、善光が泊まったとされるところにお寺があるそうで。で、伊那に戻って、如来を最初に祀ったところが、今の「元善光寺」であって、皇極天皇の時代にお告げで如来様が「自分を水内郡に移せ」と言われたことにして、移した場所が今の善光寺、ということらしくて。でも、その移設先には元々、彦神別神を祀る「水内大社」があったと言われている。「別神」というのが、八坂刀売のことであれば、それは元は下社が管轄していた神社、ということになるわけですが、伝承でも移設にあたって、下社の大祝金刺氏や、武井祝が力を貸した、とあるので、水内大社の上に善光寺を新たに作ることについては、金刺氏の有力者達の間での合意された出来事であったのだと思うし、彼らの中心寺社である善光寺が水内郡に移った、ということは金刺氏の主力部隊も水内軍に移った、ということなのだろうな、と思う。というわけで伊那には元善光寺と麻績神社が残されたわけですが、麻績神社にも八幡神は祀られている。金刺氏の拠点の一つであった更級郡にも武水別神社の名前を持つ大きな「八幡神」の神社が存在する、というか、だいたいその辺りが設計士の又従兄弟の拠点なんじゃん? と思う。そして、善光寺が阿弥陀如来に名を借りた八幡神を祀る寺院であれば、その人達はかなり古くから「八幡神」というものを祀って、かつ関わっていた人達、ということになる。そして、「八幡神」とは、元々宇佐八幡宮の祖神であって、応神天皇と習合しだしたのは、奈良時代から平安時代にかけてであろう、と言われています。それまでは、「中国からやってきた神様」とか、そういう扱いであったらしくて。金刺氏は、そういう「八幡神」にかなり古い時代から目をつけていたし、だいたい応神天皇と習合させる過程にももしかして関わっているのかも、と思う。そして、応神天皇と習合したことで、八幡神は「武勇に優れた勇猛な神」とされるようになったわけです。でも、本来の「八幡神」が原始キリスト教の神であったとすれば、それはイエス・キリストそのもの、ということになり、非業の死を遂げているのだから、「非業の死を遂げた悪霊」ということになる。要するに、金刺氏は、イエス・キリストのことを「非業の死を遂げて悪霊化した人」ととらえているわけで、それは本来の「死んで人類を救う」みたいな原始キリスト教などの西欧文化に特有の「自己犠牲を元にした救世神話」とも全然違う解釈なわけですが、ともかく金刺氏は東洋的な怨霊思想を元にしてイエス・キリストを解釈し、キョンシーみたいな扱いをして勝手に使役しているらしくてー;。そういう意味では、金刺氏の配下にある「原始キリスト教徒」は、それはそれで偽物の原始キリスト教徒なんだね? と思う-;。でも、なんだかんだ言って、ローマ人だって死せるイエスやペトロを好き勝手に使ってローマ教会を構成しているわけだから、「自分たちは自分たちで好き勝手に解釈して死したるイエスを利用して使役して何が悪い」って、うちの総本家の人達ならそういう図々しいこと言いそうである。それは、どっちにしても自分たちには関係のない余所の人達の神様だ、とかそういうこと思わないと思う。自分たちの管轄にのこのこと「布教」に入ってきたのなら、利用するのも自分たちの自由、ってきっと言うだろうなあ、というか私だったらそう言って平然としてる性格であると、自分でもそう思う-;。

ところで、諏訪とか松本には「千鹿頭神社」というものがあって、「ちかとじんじゃ」と読むわけです。この神は、一応諏訪神の子神ということになっていて、諏訪では狩りの獲物の鹿を、この神社の境内でさばく、みたいなそういう狩猟の神、みたいな扱いらしいです。そして、古来より諏訪の狩猟に関する神事では、神に鹿を奉納することも多かったわけで。でも、「死体の肉をさばく」という作業は、「穢れた仕事」に入るよねえ? と思う。母系社会のモソ族の人達の習俗でも、動物の死体を解体して肉にする作業は「穢れた仕事」ということで、男の人の仕事であって、女の人はやらないのです。でも、肉に仕上がったものを料理するのは女の人の役目だから、できあがった肉を料理することは「穢れていない仕事」なんだろうな、と思う。本来、神社の境内は神域ですから、いくら狩りの神様でも、そこで「穢れた仕事」をするのは少し変な話だと思うのです。神様には、できあがった「穢れていない肉」を差し上げればいいんじゃないの? と思う。そうすると、それは「対抗呪術」の一種だから、と言われる気がするわけで@@。鹿頭の神とは、日本の国では建御雷神のことを指すのだと思う。だから、わざわざ「千鹿頭神」という名前にして、一番穢れた仕事、すなわち「一番身分の低い人がやる仕事」をさせることで、「お前なんか一番身分の低い奴隷になっちゃえ」ってそういう呪いをかけてるんだけど、と言われる気がするわけで@@。確かに、日本の国では鹿は鹿島の神のお使いであって、建御雷神の化身も同然である。でも、建御雷神がローマのユーピテルと同じモノなら、本当はトーテムは牛のはずなのに、なんで鹿になってしまっているのだろう? と思う。で、そもそもなんで、鹿が建御雷神のお使い、なのかというと、鹿島神宮には「建御雷神が白鹿に乗って現れた」という伝承があるらしい。それで、鹿が神様のお使い、ということになったわけで。それで、飯縄山の「狐に乗った天狗」を思い出したわけですが、そもそも狐と天狗は同じモノじゃない、それと同じで、建御雷神と鹿も、みんな同じモノみたいに思っているけれども、「同じモノ」ではない。じゃあ、鹿はいったいなに? と思ったら、「それはケルヌンノスでしょ。」と言われる気がするわけで@@。それは、かつては中部から北部ヨーロッパにかけて広く「主神扱い」で信仰されていた鹿角の神である。でもローマが各地を征服してあるくと、次第に「ユーピテルと同じモノ」とみなされるようになって、まずユーピテルと習合してその姿と名前は次第に形骸化していく。そして、キリスト教がはびこってくると「異教の神」ということで、駆逐されてしまうので、今ではヨーロッパでも元はどんな神様だったのか、よく分からない神にされてしまっているのである。でも、「鹿角」ということは「三日月ではない狂った月」の象徴であって、ヨーロッパに古くから存在する「月の男」のことでしょう、と言われる気がするわけで。ヨーロッパでは、月の表面は人の男の顔で、それを「月の男」と見る思想が古くからあって。その「月の男」は人々に狂気をもたらす、とされている。しかも、昔のヨーロッパは、月の裏側に「黄泉の国」があると信じられていたので、その「月の男」は死神も兼ねているのだと思う。ケルヌンノスは名前的には、非常に古い神で、クヌムとかエンキと同じ系統の神なのだけれども、「鹿の角」を持ってるところが大きな特徴で、それ故に他の神々とは異なる「狂気の月の男」なのである。でも、そのケルヌンノスはかなり早い段階でユーピテルと習合して姿を消していくことになるので、東洋にやってくる頃には、「ユーピテル=鹿の神」みたいな図式ができあがっていたので、みんな「白鹿に乗った建御雷神」をユーピテルとして扱って、対抗呪術に使ったり、神としてあがめたりしているけれども、それは本来は、「ユーピテルとケルヌンノス」と言うべき物、と言われる気がするわけで。

で、全米オープンのグランドスラムの女子で、日本人のなおみちゃんが優勝した、ということで。彼女は、お母さんが日本人で、お父さんがハイチ出身のアメリカ人ということで、二重国籍の人らしい。でも、テニスプレイヤーとしては「日本人」として活動している、ということで、日本の選手、ということになっているらしい。我が家はあんまりスポーツとかには興味を持たないので、彼女を始めて知ったのは今週の「ZERO」なわけですが、「頑張ったから褒めて!」と言われたので、「あー、お味方の人だし、声が私に届く人だー」と思って。スポーツにはあんまり興味がないけど、自分のできることを一生懸命真面目にやる人は偉い人ーー、と思う。ともかく、アフリカ系で、お味方になりたい人達の悩みは私に声が届きにくいことであるらしくて。私は私で、割と露骨に「白い人達」の声が届きやすい人であって、それは生まれつきのものだから仕方がない、と言われる気がするわけですが、届かないのは困ってしまうので。それで、混血の彼女に白羽の矢が立って、声が届くことが期待されていたんだなー、と思う。彼女からは、表彰台での「I’m sorry.」についてどう思う? と聞かれる気がするわけで。お客さんがみんな感動してたからいいんじゃないの、と基本的には思うわけですが、彼女の行動はどちらかというとやはり「日本人的」なのかな、と思う。日本人は、何かあったら、「自分が悪いか、悪くないか」はとりあえず関係なくて、「自分が謝れば全てが円滑に進む」と思えば、気軽に「ごめんなさい」って言ってしまう国民性、というか傾向というか癖みたいなものがあると思う。逆に言えば、謝ったからって、本当に「悪かった」って思ってるの? ということもいくらでもあるわけですが、そういうところの「ごめんなさい」の意味がものすごく曖昧なのが日本の文化だと思う。でも、欧米では「I’m sorry.」というのはものすごく理論的な言葉であって、謝ると言うことは、謝った内容について、責任があると積極的に自ら認めたこと、とみなされるから、むしろ責任を過分に追及されかねない言葉、として人々はそう言わなきゃいけない場面でも、なかなかそう言いたがらない傾向がある。自分が悪いと認めたことは、それだけでもう負けたこと、みたいな思想もあると思う。でも、あの場面では誰が見ても悪いのはなおみちゃんじゃないし、フェアなプレイをした優勝者にブーイングを浴びせる観客の方が失礼で、謝るべきってみんな思うと思うので、そんな中で観客の気持ちを思いやって「I’m sorry.」と言ったなおみちゃんのことは、誰も非難しないし、不当に非難している相手の気持ちを思いやることができる優しい子であることに、みんな感動したのだと思う。だから、あれはあの場では立派な発言で、誇りにすべきだと思います。でも、欧米の人であったら、ああいう言葉はそれこそ素直になかなか出てくる言葉ではないと思うので、自然にそういう言葉が出てくるところがやっぱり日本人的だなあ、と思ったのでした。セレーナも良い人であったし、良かったな、と思う。でも、より純血に近いアフリカ系のセレーナに比べると、なおみちゃんの「目」はやっぱり日本人に近い目であると思います。まあ、だから私に声が届きやすいのかもしれませんが。なおみちゃんも感情的にならずに「我慢、我慢」と言ってるし、おばちゃんも言わなくてもいいことまでガミガミ言わないように我慢して頑張るよ、と思うのでした<(_ _)>。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。その代わりに善光寺のことをいろいろと調べていて疲れていて。古代における信濃国造であった金刺氏の拠点は、伊那とか、更級郡とか、水内郡にあったらしくて。そして、もちろん諏訪の下社もその一つであって。で、伊那とか更級郡の「麻績」と呼ばれる地名は、伊勢神宮に奉納するための麻布を作るところであって、そこを管轄していた人達が「若麻績」を名乗っていたらしいです。で、善光寺を作った本田善光というのは、それは法名であって、本当の名前は若麻績東人と言うらしくて。若麻績氏の活動範囲は、金刺氏の拠点と一致しますので、若麻績氏という人達は金刺氏の直系に近い同族であって、一族の中では責任の重い仕事を任されていた人達であると思う。要するに、今風に言えば、総本家にとっての某酒屋さんみたいな存在であったのだと思う。東人は、国造の供をして都に出かけた時に、難波の堀江で善光寺如来を広い、それを背負って信濃国の伊那にまず帰ってきた、とされている。大阪にも飛鳥にも「難波の堀江」と呼ばれるところがあるし、大阪には「小山善光寺」と言って、善光が泊まったとされるところにお寺があるそうで。で、伊那に戻って、如来を最初に祀ったところが、今の「元善光寺」であって、皇極天皇の時代にお告げで如来様が「自分を水内郡に移せ」と言われたことにして、移した場所が今の善光寺、ということらしくて。でも、その移設先には元々、彦神別神を祀る「水内大社」があったと言われている。「別神」というのが、八坂刀売のことであれば、それは元は下社が管轄していた神社、ということになるわけですが、伝承でも移設にあたって、下社の大祝金刺氏や、武井祝が力を貸した、とあるので、水内大社の上に善光寺を新たに作ることについては、金刺氏の有力者達の間での合意された出来事であったのだと思うし、彼らの中心寺社である善光寺が水内郡に移った、ということは金刺氏の主力部隊も水内軍に移った、ということなのだろうな、と思う。というわけで伊那には元善光寺と麻績神社が残されたわけですが、麻績神社にも八幡神は祀られている。金刺氏の拠点の一つであった更級郡にも武水別神社の名前を持つ大きな「八幡神」の神社が存在する、というか、だいたいその辺りが設計士の又従兄弟の拠点なんじゃん? と思う。そして、善光寺が阿弥陀如来に名を借りた八幡神を祀る寺院であれば、その人達はかなり古くから「八幡神」というものを祀って、かつ関わっていた人達、ということになる。そして、「八幡神」とは、元々宇佐八幡宮の祖神であって、応神天皇と習合しだしたのは、奈良時代から平安時代にかけてであろう、と言われています。それまでは、「中国からやってきた神様」とか、そういう扱いであったらしくて。金刺氏は、そういう「八幡神」にかなり古い時代から目をつけていたし、だいたい応神天皇と習合させる過程にももしかして関わっているのかも、と思う。そして、応神天皇と習合したことで、八幡神は「武勇に優れた勇猛な神」とされるようになったわけです。でも、本来の「八幡神」が原始キリスト教の神であったとすれば、それはイエス・キリストそのもの、ということになり、非業の死を遂げているのだから、「非業の死を遂げた悪霊」ということになる。要するに、金刺氏は、イエス・キリストのことを「非業の死を遂げて悪霊化した人」ととらえているわけで、それは本来の「死んで人類を救う」みたいな原始キリスト教などの西欧文化に特有の「自己犠牲を元にした救世神話」とも全然違う解釈なわけですが、ともかく金刺氏は東洋的な怨霊思想を元にしてイエス・キリストを解釈し、キョンシーみたいな扱いをして勝手に使役しているらしくてー;。そういう意味では、金刺氏の配下にある「原始キリスト教徒」は、それはそれで偽物の原始キリスト教徒なんだね? と思う-;。でも、なんだかんだ言って、ローマ人だって死せるイエスやペトロを好き勝手に使ってローマ教会を構成しているわけだから、「自分たちは自分たちで好き勝手に解釈して死したるイエスを利用して使役して何が悪い」って、うちの総本家の人達ならそういう図々しいこと言いそうである。それは、どっちにしても自分たちには関係のない余所の人達の神様だ、とかそういうこと思わないと思う。自分たちの管轄にのこのこと「布教」に入ってきたのなら、利用するのも自分たちの自由、ってきっと言うだろうなあ、というか私だったらそう言って平然としてる性格であると、自分でもそう思う-;。

ところで、諏訪とか松本には「千鹿頭神社」というものがあって、「ちかとじんじゃ」と読むわけです。この神は、一応諏訪神の子神ということになっていて、諏訪では狩りの獲物の鹿を、この神社の境内でさばく、みたいなそういう狩猟の神、みたいな扱いらしいです。そして、古来より諏訪の狩猟に関する神事では、神に鹿を奉納することも多かったわけで。でも、「死体の肉をさばく」という作業は、「穢れた仕事」に入るよねえ? と思う。母系社会のモソ族の人達の習俗でも、動物の死体を解体して肉にする作業は「穢れた仕事」ということで、男の人の仕事であって、女の人はやらないのです。でも、肉に仕上がったものを料理するのは女の人の役目だから、できあがった肉を料理することは「穢れていない仕事」なんだろうな、と思う。本来、神社の境内は神域ですから、いくら狩りの神様でも、そこで「穢れた仕事」をするのは少し変な話だと思うのです。神様には、できあがった「穢れていない肉」を差し上げればいいんじゃないの? と思う。そうすると、それは「対抗呪術」の一種だから、と言われる気がするわけで@@。鹿頭の神とは、日本の国では建御雷神のことを指すのだと思う。だから、わざわざ「千鹿頭神」という名前にして、一番穢れた仕事、すなわち「一番身分の低い人がやる仕事」をさせることで、「お前なんか一番身分の低い奴隷になっちゃえ」ってそういう呪いをかけてるんだけど、と言われる気がするわけで@@。確かに、日本の国では鹿は鹿島の神のお使いであって、建御雷神の化身も同然である。でも、建御雷神がローマのユーピテルと同じモノなら、本当はトーテムは牛のはずなのに、なんで鹿になってしまっているのだろう? と思う。で、そもそもなんで、鹿が建御雷神のお使い、なのかというと、鹿島神宮には「建御雷神が白鹿に乗って現れた」という伝承があるらしい。それで、鹿が神様のお使い、ということになったわけで。それで、飯縄山の「狐に乗った天狗」を思い出したわけですが、そもそも狐と天狗は同じモノじゃない、それと同じで、建御雷神と鹿も、みんな同じモノみたいに思っているけれども、「同じモノ」ではない。じゃあ、鹿はいったいなに? と思ったら、「それはケルヌンノスでしょ。」と言われる気がするわけで@@。それは、かつては中部から北部ヨーロッパにかけて広く「主神扱い」で信仰されていた鹿角の神である。でもローマが各地を征服してあるくと、次第に「ユーピテルと同じモノ」とみなされるようになって、まずユーピテルと習合してその姿と名前は次第に形骸化していく。そして、キリスト教がはびこってくると「異教の神」ということで、駆逐されてしまうので、今ではヨーロッパでも元はどんな神様だったのか、よく分からない神にされてしまっているのである。でも、「鹿角」ということは「三日月ではない狂った月」の象徴であって、ヨーロッパに古くから存在する「月の男」のことでしょう、と言われる気がするわけで。ヨーロッパでは、月の表面は人の男の顔で、それを「月の男」と見る思想が古くからあって。その「月の男」は人々に狂気をもたらす、とされている。しかも、昔のヨーロッパは、月の裏側に「黄泉の国」があると信じられていたので、その「月の男」は死神も兼ねているのだと思う。ケルヌンノスは名前的には、非常に古い神で、クヌムとかエンキと同じ系統の神なのだけれども、「鹿の角」を持ってるところが大きな特徴で、それ故に他の神々とは異なる「狂気の月の男」なのである。でも、そのケルヌンノスはかなり早い段階でユーピテルと習合して姿を消していくことになるので、東洋にやってくる頃には、「ユーピテル=鹿の神」みたいな図式ができあがっていたので、みんな「白鹿に乗った建御雷神」をユーピテルとして扱って、対抗呪術に使ったり、神としてあがめたりしているけれども、それは本来は、「ユーピテルとケルヌンノス」と言うべき物、と言われる気がするわけで。

で、全米オープンのグランドスラムの女子で、日本人のなおみちゃんが優勝した、ということで。彼女は、お母さんが日本人で、お父さんがハイチ出身のアメリカ人ということで、二重国籍の人らしい。でも、テニスプレイヤーとしては「日本人」として活動している、ということで、日本の選手、ということになっているらしい。我が家はあんまりスポーツとかには興味を持たないので、彼女を始めて知ったのは今週の「ZERO」なわけですが、「頑張ったから褒めて!」と言われたので、「あー、お味方の人だし、声が私に届く人だー」と思って。スポーツにはあんまり興味がないけど、自分のできることを一生懸命真面目にやる人は偉い人ーー、と思う。ともかく、アフリカ系で、お味方になりたい人達の悩みは私に声が届きにくいことであるらしくて。私は私で、割と露骨に「白い人達」の声が届きやすい人であって、それは生まれつきのものだから仕方がない、と言われる気がするわけですが、届かないのは困ってしまうので。それで、混血の彼女に白羽の矢が立って、声が届くことが期待されていたんだなー、と思う。彼女からは、表彰台での「I’m sorry.」についてどう思う? と聞かれる気がするわけで。お客さんがみんな感動してたからいいんじゃないの、と基本的には思うわけですが、彼女の行動はどちらかというとやはり「日本人的」なのかな、と思う。日本人は、何かあったら、「自分が悪いか、悪くないか」はとりあえず関係なくて、「自分が謝れば全てが円滑に進む」と思えば、気軽に「ごめんなさい」って言ってしまう国民性、というか傾向というか癖みたいなものがあると思う。逆に言えば、謝ったからって、本当に「悪かった」って思ってるの? ということもいくらでもあるわけですが、そういうところの「ごめんなさい」の意味がものすごく曖昧なのが日本の文化だと思う。でも、欧米では「I’m sorry.」というのはものすごく理論的な言葉であって、謝ると言うことは、謝った内容について、責任があると積極的に自ら認めたこと、とみなされるから、むしろ責任を過分に追及されかねない言葉、として人々はそう言わなきゃいけない場面でも、なかなかそう言いたがらない傾向がある。自分が悪いと認めたことは、それだけでもう負けたこと、みたいな思想もあると思う。でも、あの場面では誰が見ても悪いのはなおみちゃんじゃないし、フェアなプレイをした優勝者にブーイングを浴びせる観客の方が失礼で、謝るべきってみんな思うと思うので、そんな中で観客の気持ちを思いやって「I’m sorry.」と言ったなおみちゃんのことは、誰も非難しないし、不当に非難している相手の気持ちを思いやることができる優しい子であることに、みんな感動したのだと思う。だから、あれはあの場では立派な発言で、誇りにすべきだと思います。でも、欧米の人であったら、ああいう言葉はそれこそ素直になかなか出てくる言葉ではないと思うので、自然にそういう言葉が出てくるところがやっぱり日本人的だなあ、と思ったのでした。セレーナも良い人であったし、良かったな、と思う。でも、より純血に近いアフリカ系のセレーナに比べると、なおみちゃんの「目」はやっぱり日本人に近い目であると思います。まあ、だから私に声が届きやすいのかもしれませんが。なおみちゃんも感情的にならずに「我慢、我慢」と言ってるし、おばちゃんも言わなくてもいいことまでガミガミ言わないように我慢して頑張るよ、と思うのでした<(_ _)>。