「ハックルベリー・フィンの冒険」

神話のこととかいろいろと勉強していますが、私個人は、「黙示を受けてそのままを文章に書く」ようなタイプでは全くなくて、むしろ
「ニュースを読んでは思ったことを好き勝手に書く」
タイプといえます。で、某ニュースサイトにこの小説のネタがありましたので、まずはこちらを書きたいと思うわけです。
この小説を実は昔に読んだことがあります。でも、内容は
さっぱり
面白くなかったとみえて、全然覚えていないわけですーー;。どうやら内容は、ハックルベリー・フィンという奴隷制が残っている頃のアメリカの男の子が、黒人奴隷が逃亡するのを助けようとするのですが、「奴隷制」が公然とある社会では、
そんなことしちゃいけない
という規定も当然あるわけで、しかも奴隷性をキリスト教が容認しているので、ハックは神の意志に逆らうことに怯えるけれども、しまいにそんなカミサマを信じるのが苦痛になって、
「彼(助けようとしている人)を救うためなら、地獄に堕ちても構わない。」
と決意して、それが崇高な人間性の発露、みたいな? そういう小説であるらしいです。おそらく、若い頃の私に理解できなかったのは
* なんで、カミサマの罰がそんなに怖いのか?
ということが理解できない点と、
* 「地獄に堕ちても構わない」 と言っている点で、そのカミサマが言っている 「地獄」 とやらが存在することを 「肯定」 してるじゃん。すなわち、それは逆説的にカミサマの存在を肯定してるってことなんじゃん?
>崇高な人間性を否定する神を何故わざわざ肯定すんのか理解できない。
と、そのあたりで、さっぱり共感がもてなかったものと思われますーー;。
実のところ、私にとってマーク・トウェインの作品で、一番印象に残った本は、「不思議な余所者」なわけです。これはこれで結構コワイ本なわけですが。


「不思議な余所者」は、要するに「全ては虚無である」という虚無感に満ちた思想の上に、現実の様々な矛盾(冤罪とか)を嘲るかのような作品なわけで、どこに強い印象を受けるかというと
「全ては虚無である」
というラストに衝撃を受けるわけです。
「色即是空 空即是色」
という言葉にあるように、現実に虚無性を見いだすのは、東洋とか仏教の思想だと思っていると、実はそうではないわけで、この思想は神話的に複雑怪奇な世界観を構成しているわけです。
要するに、この思想は印欧語族に広く共通する思想であって、東洋において、仏教に入ると
「自己の修行を通して、様々な執着を絶ち、悟りを開く」
みたいな思想に繋がると思うのですが、これが発生源の西洋世界にいくと、
* 現実の身分は神が定めたものであるから絶対である
* 死後、良い世界に行けるかどうかは現世の行いによってのみ決まる
* だから、現実なんて虚無も同然である
という、三段論法に変化するわけです。というよりも、これが本来の形であるのだと思います。それで、現実に
戦士の階級
に生まれた人々は、死後、良い世界に行くため(要はもっと上のクラスに行くか、少なくとも今の身分に釣り合うクラスに生まれ変わるために)
死を恐れず戦わなければならない
と。要は、
この世は虚無だから、どんどん 殺さないといけない と。(仏陀が仏教を開いたのは、このようなクシャトリヤ階級の横暴を抑えるためと、言われているわけですが)
だから、何が実のところ「虚無」かというと、
どんどん殺す方
よりも、ちょっとしたことや、意味のないことで
殺される方
がよっぽど虚無感に満ちていて当然な気がするのですが、殺す方もまた
虚無感に満ちていて、もっと上に生まれ変わることのみを夢見る
のが、印欧語族の本来の文化なわけです。(で、こういう勇ましいことなんかできそうもないクラスの人々は、上に生まれ変わる機会も貰えないから、それこそ未来永劫低いクラスで虚無感に満ちて暮らす・・・のかというと、どうもそうなのではないかという気がとてもするわけなのですが。)
だから、ギリシア神話とかヨーロッパの神話では、いわゆる「英雄譚」が非常に好まれるわけですが、それは彼らが
上のクラス
要は西洋においては「天国」、東洋においては「上の階級」
に生まれ変わる資格を得たから、うらやましいし、あやかりたい、とそこから来ているわけです。そう考えると、「不思議な余所者」は、不条理な虚無感に満ちている作品かもしれないけれども、古い時代の
印欧語族
の精神文化を強く投影しているともいえると思うのです。要は、現世がどんなに矛盾に満ちていようが、全ては虚無なんだから
それで良い
わけです。一方、「ハックルベリー・フィンの冒険」は、社会の最下層に位置するハックが世の常識に反して「英雄的行為」をする物語ですので、読者はそれを読んで、
「ハックは社会の中で最下層の人間だけれども、その行いによって彼の魂のクラスは高くなった。」
とみなすわけです。要はこちらも、印欧語族神話的物語以外の何物でもないわけ。
で、「神話的」な問題としては、この
殺せ殺せ
が大好きな印欧語族神話(ハックの物語はいわゆる「神殺し」ということになるわけです。神の教えを殺しているからです。でも、彼は神は否定しません。全能の神であった神は、呪われるべきネルガル的神の地位へとハックの心の中で落とされるだけで、存在そのものは否定されない。だが、印欧語族の神話においては、どんなに恐ろしい「冥界の神」であっても、「神」です。ただそれが「信じられない神」なだけで、「神」であることに変わりがないのが、印欧語族の文化の特徴なわけで、結局ハックは「全能の神」からは逃げ出すことができたかもしれませんが、更に恐ろしくすさまじい「印欧語族神話」からは逃げ出していないわけです。そこが、「ハックルベリー・フィンの冒険」の最大の問題点であるわけ。「(優しくて立派で公平な)神なんて存在しない」という虚無感は、その虚無感こそが、印欧語族が「現実」とみなすものなわけです。現実を「虚無」とみなすことが、彼らにとって神と来世と現世における殺戮を肯定する根源的思想なわけ。)
で、キリスト教徒にとって、印欧語族の古神話なんて、もう過去のものでしょう? というと、それは
とんでもない話
なわけです。なぜなら、印欧語族になる以前の、「前印欧語族」の状態である時から、彼らはメソポタミアの文化と強くて深い交流を持っており、時代が下るほどに、エンリルやネルガルが、穏やかな魚神から、不吉な破壊の神へと変化する過程において
印欧語族の神話
が影響を与えていないわけがない。エンリルやネルガルがいかにおそろしい破壊の神であったとしても、それでも文明の先進地域であったメソポタミアの人々は洗練されていたわけで、例えば生きた生贄の内臓を使って占いをするような時でも、彼らは
動物の内臓
しか使わなかったと思われるわけです。(特に古くは)
でも、起源前100年頃のヨーロッパ北部に住む人たちは、
戦争の捕虜の内臓を使って占いをしていた
し、
捕まえた捕虜をどんどん神への犠牲に捧げていた
わけで。で、そういう印欧語族の不吉な破壊の神々は、バビロニアにおいて、
ネルガルと7柱の僕
となり、それがペルシャ方面に行くと、
この世の最後の戦いにおける破壊と再生の神話
というゾロアスター教神話にとりこまれ、最後にバビロニアの文化とゾロアスター教とギリシア神話と融合して
キリスト教
に取り込まれた上に、「布教」という形で、ヨーロッパに里帰りして、その結果、
紀元1000年頃の十字軍の騎士達は、聖地で、敵を鍋に放り込んで煮て喰った、とーー;。
いったい、誰がここまでに育った恐るべき精神文化に対して、
責任が取れるのか
っていっても、球状アンフォラ文化を形成した人々も、メソポタミア文化を形成した人々も、多くの英雄譚を形成した人々も
すでにみんな亡くなってしまっているわけで、
生きて残っているのは
新約聖書とそれをありがたがっているミナサマ
ということになるわけですな。要するに、マーク・トウェインの作品なんて、印欧語族の古い神話に対する賛歌であって、結局はそこから生まれた最大の子孫であるところの
「ハックの恐れる神」
の賛歌でしかないのではないか、とそう思ってしまうシニカリストなあたくしがいるわけです。