21年1月17日

 今日は割と寒かったですが、晴れていたので外の作業を少しやりました。風呂の給排水管周辺の土をバケツ1/2杯くらいで、1杯はできませんでした。

 それ以外では、部屋の整理が一段落したので、空いている時間にあれこれ書類の整理とか、ソフトのバージョンアップの整理とかしていました。14日に貰ってきた「仮地図」もスキャンして、デジタルデータ化してPCの中に保存しておきました。

20年1月16日

 今日は雨が降ったので外での作業はできず。部屋の整理をずっとやっていました。その結果、部屋がだいぶ綺麗になりました。

21年1月15日

 今日は晴れて暖かかったので、外作業をしました。洗濯機の西側の水道管周囲の土を、一昨日の続きと併せて2杯できました。ちょっとした場所の違いで、土の中の石の量がかなり違ってむらが激しいです。後は、軽自動車が12ヶ月点検の時期になったので、近所のGSまで点検の予約を入れに行ってきました。

 昨日は12月15日に立ち会った測量の成果(仮地図)が、出来上がってきて、現地も見て話もしたい、と西武土木事務所の宮尾氏より言われて、信州新町の田舎の方へ行ってきました。で、西側の国有地との境界もかなり地図を動かすことになって問題だけれども、北東のお墓周囲も地図の上だと、うちが里道(赤線)の方へかなりはみ出す感じになっていて、きちんと直すことにすると、道も修正しなければならないし、その北側の土地も・・・・となって、けっこう大変な作業になる、との話をされました。で、「年内には作業は完了しないかも知れない」みたいなことを正月早々から言われて-;。だいたい、国土調査の時に、杭も打たずに大きな修正が後で必要になるような線を、いったいどこの測量士が引いたのか? と思うわけですが、それは余り追求されたくないようで、宮尾氏に「謝罪します」とかって言われたので、とりあえず矛先は納めておきました。そして、色々と話を総合すると、田舎のそこそこ適当な山の土地なのだけれども、昔存在していた水道関連の土地がかなり国有地化していて、しかも、その水道関連の施設も40年くらい前に使われなくなっているので、結局「名ばかり国有地」がかなりあるのだけれども、それが機能がないため、市長村にも譲渡されずに放置されているので、事実上正式に管理する人もいずにほっとかれている状態らしいです。

 で、私の想像ですが、その歴史は70年くらい前まで遡る気がするわけで。問題になっている古い水道用地は戦中か戦後すぐに買収(というか国がほぼ強制的に収容)という感じで国有地になっていて。山の上に、水源地を作る、ということで水源地まで行く道の用地と、そこから水道管を下ろしてくる道筋が国有地になったようなのです。で、そういう諸々の工事が戦後すぐにあって、水源地まで行く正式な道もなかったし、重機とかも全然ないような時代だったので、麓から細い道を開拓して、人力で資材を山の上まで運んで工事をした、とのことです。だから、資材などを運ぶのに広い道が必要だったらしくて、完成予定の道路よりも広い幅で土地が買収されてるわけ。で、工事が終わりました。おそらく70年くらい前に。で、国というか、当時の信州新町役場が、元々の地権者に何と説明したのか、あるいはしなかったのかも今では良く分からないわけですが、ともかく、水源地に行く道路は必要だけれども、「工事のために買収した土地」は用済みになりました。国がもう使わなくなった土地なんだから、元の地権者は、「また昔のように自分が土地を使って良い」と勝手に思ったのか、あるいはそういう旨の説明があったのか? と思うわけですが、今となってはみんなそんな風に使っているようにしか見えないし、長年の間に山が押してきて地形もちょっと変わってるので、「道路」があることは現地で見れば分かるわけですが、その北側にあるはずの国有地と民地との境界なんてさっぱり分からない状態なわけ。親が土地を買った50年前には、もうみんなそんな区別なく土地を使ってたって、親も言ってるわけですしー;。だから、土地の整理をきちんとやるとすると、水道用道路、その北の国有地、その北の民地と、境界を整理していかないといけなくなるわけですが、民地の地権者は今更「うちのお墓の半分が国有地ってどういうこと?」とかってなりそうな状況なので。とてもではないけれども、所有権界と筆界を一致させて整理するなんて至難の業、みたいに思えるわけです。でなきゃ地権者が死んで50年以上も経ってるので、土地はあっても「いらない」っていう子孫ばっかり、とかそんな感じになりそうなので。私の言うとおり、「筆」だけ整理して、所有権には触らないのが、一番で、その旨文書にでもしておくのが上等、と思うわけです。だいたい墓地なんて、面積が多少変であろうが無税なんじゃん? と思う。・・・・そもそもこういうことの整理を国土調査の際にやるのが「地積調査」なので。出鱈目なことをやっておいて、今更個人レベルに尻拭いさせるのは違う、地籍調査の際に勝手な線を引いた測量士は誰なのか、ってそういうことになるわけです。本来だったら、責任を追及するのが上等で、仕事を発注するなんてあり得ないでしょ、官民癒着してて結構ですこと、とかって内心、そういう台詞しか出てこないわけですー;。で、なんだかしまいには「山林は地積簿図と実際が違うことが多い」とかって宮尾・石田氏が言い出すわけで。「そうですね、そういうところは地籍調査をやってない所が多いですからね。」って言ってやれば良かったかも、と思う。別に所有権の境界だって妥協して動かしたっていいわけです。でも、フェンスを動かす、とかそういうことになれば、その費用を市にもってもらいたいと思う。それこそ「損害賠償」ということで。そして、なんだか当てこするみたいに「法務局が何ていうか聞いてみないと」みたいなことは言われなくなりました。法務局が何も言ってないことがあからさまになってしまったからです。その代わりに「本庁の上の方に相談したら、お客様のご意向に沿うように対応するよう言われた」みたいなことを宮尾氏からはいわれるようになりました。まあ、その点が前進といえば、いえるかと思います。
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 1杯目。洗濯機西側水道管周囲。1/2が石分。
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 2杯目。洗濯機西側水道管周囲。1/4程度が石分。

21年1月13日

 今日はお出かけする日だったので、買い物などに出掛けました。年末からこっち、あまりにも寒すぎて外仕事ができなかったので、石分もたまらず、石を捨てに行く必要がなかったので、近間を回っただけで。早めに家に帰って来れて、かつ今日は陽気がゆるんで暖かかったので、少し外で作業をしました。だいたいバケツ2/3杯くらい。1杯はできませんでした。

21年1月12日その2

 さて、どうも西武土木事務所が「所有権界」について、権限もないのにしのごの言ってくる件について、情報公開をさせましたら、資料が4枚出て来ました。もっとつつこうと思えばつつけるのだけれども、4枚で分かることもかなりある。というか、読んで「違和感」を感じる点がいくつかあるわけで。7番目の兄さんには、「違和感を観じる部分が、おかしなことを企んでる部分でしょ。よく読みこんで、相手の意図を理解するように。」と言われる気がします。

 おかしなところ、

その1
891-1と891-3の土地の西側の地図の境界が現況との乖離が著しくておかしい、と書いてあるのに、修正については891-3しか書いてない。891-1にも当然修正は必要なのに。

その2
土地の立会いを「業者に委託する」と書いてあるけど、「山本測量士」に委託する、とは書いてない。ぼかして書いてあるだけ。「違法な委託」を隠蔽する目的か? しかも「地積更正」について記載があるから、「違法な委託」を追求されたら、「公金の無駄遣い」は追求できる気がするわけですが?? 監査請求とか??

その3
法務局への相談には、地図修正のことしか書いてない。しかも、東側の墓との境界のことなんか、全然書いてもない。「法務局が所有権界に口を出して来た」っていう説明は嘘だったんですか? 宮尾さん?? みたいな感じである。私を侮辱する目的で意図的にやった?? と思う。

その4
法務局の回答も、「筆界」についてのこととか、明確にされておらず、混乱を招く書き方であると思う。筆界特定についての記載もないし。登記官もぐるなんだろうな、と思う。

 ともかく、故意だと思うけど、過失としても、誰かがまともに世話を焼かないと話が進みそうもない様相ではある。具体性がなくて、ぼかして書いてあるところは要注意だと思う。全部わざとやってるんだろうなー、と思う。

 で、後は、今日は2つの弥栄神社にも初詣をしてくる。一つは善光寺の南西にあって、頼朝が創建したと伝えられる有名な弥栄神社である。ここの祇園祭は長野市でも有名なお祭である。弥栄の須佐之男(午頭天皇)は疫神であるわけですが。ここの南東には「角薬師」というお堂があって、そこには九頭竜が現れる石があると言う。弥栄神社の西側には「薬王院」があって、そこは善光寺が建立された時に、一番最初に阿弥陀堂が建てられた場所であると言われてる。要は、大勧進の南は、善光寺でも一番古い「震源地」とも言える場所であって、かつ「医薬」の匂いがぷんぷんする場所なんである。それは、元はあの辺りは「薬師の神(九頭竜)」の本地であったものを、後から善光寺が乗っ取ったからそういう構図になったんだと思うけど、頼朝は頼朝で、なんでそこに弥栄神社を勧進したの? と思う。(守田廼神社も頼朝が創建したものなんだよね。あそこは元は鶴ヶ岡から勧進した八幡宮である。)善光寺界隈は、古くから多くの寺社が配置されていわゆる「呪界」みたいなものが張り巡らされているわけですが。中世の始めに頼朝が乗り込んで来て、彼は彼で色々な「呪法」を善光寺平に残して行った気がする。いつか「薬師の神」が探しに来ると思ってた? と思う。というわけで、そこはかとなく残る頼朝の足跡をあちこちで辿るわけで。

 で、いつも車を停めている「神社の駐車場」と思しきところが一杯だったわけ。で、その向かいにある大勧進の駐車場がガラガラだったので、「ほんの数分だしなー」と思って大勧進の駐車場をちょこっとお借りすることにしてー;。道行く見知らぬ叔母さんが、それを見て慌てふためいた顔をして「止めなきゃ、でもどうやって?」って感じでわたわたしていて。「なんだろー? 怒られちゃうかな?」と思ったわけですが、怒られもせず。弥栄神社をお参りして、大勧進のお堂の方に、「駐車場代だ-」と思って弥栄神社の方の10倍のお賽銭を上げておいたわけで-;。一応お参りしたから、大勧進にも用があった、とあえばあったことになって。ふと額を見上げたら、「歓喜天」って書いてあった。「歓喜天」って何? と思って調べたら頭が象で、単体のものと、男女が合体したものがあるってあった。頭が象、というのはガネーシャだと思うけど、男女が合体って?? と思う。性的な力を特別なパワーとみなす、という考えは密教にあるけれども、その呪法はけっこういかがわしくて「邪法」として弾圧された歴史があるので、具体的にどういう内容のものだったのか、ということは資料が散逸されて、現在では良く分からないことになってます。でも、「歓喜天」ってそっち系の神様だよねえ? 善光寺ってけっこういかがわしいものだったのか?? 元は?? と思う-;。で、帰る時に「大勧進の一角が食われた」と言われる気がするわけで-;。

 それにしても、薬王菩薩というのは阿弥陀如来の弟子?みたいなものであるらしい。阿弥陀如来が八幡神ということは、八幡の弟子とか部下みたいなものなのかなあ、と思う-;。そういえば、例えばですよ? 一般的な話として、電解質の検査をわざとやらない、とかっていうようなのは、何? と思ったら、「それが薬王菩薩でしょ」と言われる気がするわけで@@。でも、頼朝が望んだのは、「薬師の神」と「八幡神」が習合することだよねえ? と思う。あるいは、「薬」系の神様がゴタゴタしている界隈で、「九頭竜」が一番上になることだったのではないか、と思うわけですが。

 で、もう一つ「弥栄神社」というのが吉田にあって。名前からすれば、須佐之男(午頭天王)を祀ってるはず、と思う。でも、何故かそこには御柱があるので、諏訪神も祀られているはず。で、今日言って額を見たら「天穂日」がどうのって書いてあったー;。いったい、どういう由来の神社なのさーー、と行く度に思うわけですが、資料が乏しくて良く分からないのです。不思議です。