21年7月28日

 本日の外作業は、母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の正装でした。

 今日はお出かけする日だったので出かけて。松岡神社と川合墾田神社をお参りして来ました。松岡神社は境内にオナガの死骸が転がっていて。しかも、新しいものだったので、誰かが嫌がらせか何かでわざとおいて行ったのかと思いました。罰当たり、というか神サマに失礼だと思いました。

 で、あちこち回っている内に、犀川流域を開拓した安曇族の神社と、千曲川流域を開拓した信濃国造系の神社がなんとなく区別つくようになった気がするわけで。善光寺平らの平坦で良いところはやはり千曲系の人々で占められているのではないか、と思います。で、信州新町は犀川流域なので、普通に考えれば安曇系の神社がありそうな気がするわけですが、千曲系の神社があれば、信濃国造系の人々が入り込んでいた証拠といえないだろうか、と言われる気がします。町史を持ってるし、色々と調べてみようと思います。

 で、昨日は雅治君のDVDと嵐のDVDが届いたので、昨日は雅治君のDVDを見て、今日は嵐のDVDを見ています。久々にリーダーを見ると、やっぱりちょっと感無量です。

21年7月27日

本日の外作業は、母親は土の埋め戻し、土の清掃等、私は土堀り等でした。台風が来て雨っぽかったので作業は一時的で、近場の神社巡りなどをしてきました。

今日は芹田上・中・下神社に行ってきました。祭神は順に蓼科命(諏訪神の子神、八ヶ岳の神格化)、出(伊豆)早雄命、南方刀美命です。この三社はおまつりを一緒にやっていた、との口伝があるようで、おそらく同時期に祀られた神社なのだと思います。出早雄命は千曲川流域にまま見られますし、千曲川の源流の一つである八ヶ岳を祀っていることから、千曲川流域を上流から開拓してきた人達が入植して作った神社なのだと思います。千曲系の人々が「南方刀美命」という名前で諏訪神を祀っているのなら高田の芋井神社も千曲系の人々が作ったのか、と思います。安曇族(犀川系)の人々が作ったと思われる川合神社とは、やはりちょっと趣が違うかな、と思います。地域密着型の地区の産土神社も大好きです。

で、稲作と麻について。中国では稲作は紀元前1万年、あるいはもっと古く1万4000年くらいまで遡るかも、と言われています。稲作を始めたのは狩猟と漁労をしていた人達で、彼らは家畜を飼わず、タンパク源は狩猟でまかなっていたとのことです。中国では炎帝神農という神が農業と医薬の神とされ、農業を始め、薬草の効用を発見した、と言われています。稲作が一番古い農業であるならば、炎帝神農は稲作が始まった長江流域の神ではないか、と思われます。で、この神サマは大麻の効用も発見したし、ケシを食べて死んだ、と言われていますから、アヘンの摂取過剰で死んだ? ジャンキー?? という感じなわけで、実在性はともかくとして、古代中国でも麻薬の探求と効用の確認は、農業の歴史と同じくらい古いと考えられます。ということは、大麻の使用も長江流域から稲作とともに始められた、といえないでしょうか??

考古学的には、長江流域で麻織物が確認されるのは良渚文化からであって、BC3300年~BC2000年頃の文化ですので、これは5000年ほど前、といえます。その一方、こういう薬物は祭祀と密接な関係がありますから、祭祀の歴史も見てみたいと思います。長江中流域の彭頭山文化(BC7500年~BC6000年)では祭祀を行った、と思われる遺構が発見されています。ほぼ同時期の近隣の城背渓文化からは「太陽神石刻」という、石に太陽神の姿を刻んだと思われる神の姿が発見されていますから、太陽神に対する祭祀が存在した、と思われます。同時期、黄河流域で長江文明の影響を受けて稲作を行っていた賈湖遺跡からは「賈湖渓谷文字」という文字様の文様が出土し、太陽を重要視していたことや戦闘があったことが示唆されています。賈湖遺跡を含む裴李崗文化(BC7000年~BC4900年)からは麻の繊維が出土しているようですので、麻織物は黄河文明の方が先に発達したように思いますが、BC7000年頃には稲作に伴う太陽信仰に伴う祭祀が行われ、祭祀が盛んになる、ということはそれに伴う大麻等の薬物の使用も盛んになったのではないか、と推察します。少なくとも、祭祀が盛んになった時期に、古代中国の人々はもう麻の存在を知っていたのです。これがおおよそ9000年くらい前の話なのです。

古代中国には炎帝神農の他に伏羲という、八卦(占い)を確立したとされる神もいますが、城背渓文化の後継といえる大渓文化(紀元前5000年頃 – 紀元前3000年頃)からは「太極」らしき文様が発見されており、「占い」の歴史もそこまで古いことが示唆されます。そして、伏羲も炎帝神農と同じく長江文明の神であると示唆されます。「大渓文化の遺骨からモン・ミエン語族に関連するY染色体ハプログループO-M7が高頻度で発見されており、モン・ミエン系民族が担い手であったと考えられる。(wikipedia)」そうです。モン・ミエン語族の一派であるミャオ族には、雷神との争いや、伏羲の洪水神話(子供がひょうたんに乗って洪水を逃れる)の類話が伝わっていますから、これらは長江文明の精神文化と共通の文化といえます。

ということで、人と雷神との争いの神話、洪水と人類の始祖神話は、稲作と大麻を扱う祭祀とともに各地に伝播した、と思われます。でも、麻の使用が最初に盛んになったのは黄河文明側でした。そして、人を生贄に捧げる習慣が生じて常態化していくのも黄河文明側です。そして、若い娘を生贄に捧げる習慣が生じたのも黄河文明側です。麻薬を祭祀に使用すると、人々は理性を失い、仲間を殺すことを何とも思わなくなる。黄河文明の側はそのようにして、しまいには殷のように大量の生贄を捧げるような国家を作り上げていくことになります。

一方、長江文明の側では、良渚文化の時代になるまで麻織物の使用は顕著でなかったようですし、祭祀に人の生贄を用いたこともよくよく少なかったと思われます。すなわち、長江文明の側の人々は、大麻の効果を知っていても、それを自分たちでは使用せず、よその人達に売りつけて、かつ麻薬の力で良心や理性を失わせて、よその人達が祭祀にかこつけて仲間同士で殺し合うように仕向けてたのではないのか、と思うのです。そうすれば、自分たちが襲われる心配が減るからです。それは太陽神の祭祀が盛んになった彭頭山文化(BC7500年~BC6000年)の頃に始められ、大渓文化(紀元前5000年頃 – 紀元前3000年頃)の頃には確率したのではないか、と思われます。占いは祭祀の重要な側面であり、伏羲による占いの確立が大渓文化(紀元前5000年頃 – 紀元前3000年頃)の頃にはもうあったと思われるからです。

でも、仲間がジャンキーにされて、人としてどうしようもない状態にされれば、その原因を突き止めてなんとかしよう、と思う人もいるはずです。すなわち、それが黄帝と蚩尤の戦いであったのではないか、と思うわけです。黄河文明と長江文明の衝突です。良渚の王権の鉞には首だけの「饕餮」が現れますので、この戦いは良渚文化よりも古い時代にあった、と思われます。大渓文化にも人面を掘った斧が発見されているようですし、大渓文化に属する城頭山遺跡では城塞がみられるようですから、戦いの準備の萌芽がみられます。おそらく大渓文化の古い時代、紀元前5000年頃(あるいはもっと早く)に衝突があったのだと思われます。それはたぶん長江文明の側が負けてしまったのでしょうが、その後も彼らは懲りることなく大麻を作り続け、シャーマンの象徴である「マサカリ」に殺された神の首を掘って、大麻布教教のシャーマンは「自分は殺された神のお告げを告げる者である」と言い続けたのだと思います。こうして、人類の間で、果てしのない「麻薬戦争」が始まったのだと思われます。

ということで、大麻布教教の人々は稲作の人々ですので稲作と麻作を持って、そして本隊は正体を隠しつつ布教を続けたのだと思われます。正体を隠すのは、本隊が攻撃されたら困るからで、分家を出しては攻撃の矛先が分家の方に向くように、としながら生き残ってきたのだと思われます。で、木手は人類を薬中にすることなので、「宗教」とか「祭祀」の内容は何でも良かったのではないでしょうか。というか、以前からのものと同じ神サマを扱っていると怪しまれるので、新しい神サマをどんどん作る、以前からの神サマもどんどん作り替える、ということをやったのではないか、と思われます。だから、大麻布教教の人々は米と麻と新興宗教を作る人々になってしまった、のだと思うわけですが-;。

で、稲作ってどこに伝播したんだっけ? と思う。というか、麻のバイヤーで繁栄してきたのは誰? とも思う-;。火雷神が饕餮で、天香語山が蚩尤だったら、賀茂建角身命(金鵄)が伏羲ですか? 誰が勝つのかを決める存在だから? と思う。しかも賀茂建角身命は天活玉命(生魂命)の子孫とされていますから、その子孫は天活玉命(生魂命)を祀ってる可能性があります。生島足島とかー;。

賀茂建角身命(金鵄)が伏羲で、建五百建命であるなら、それは役小角とも同じモノと申し上げて良いかと思います。役小角は修験道の開祖とも言われる伝説的な人物ですが、修験道では麻の葉とか焚いて加持祈祷をするんじゃん? と思う-;。鬼無里は麻の産地ですが、中世においては麻は善光寺門前の桜枝町というところに集められた、とも言われているようです。桜枝町は中世は遊女が住んでいたところ、と言われています。中世における「遊女」というのは近現代とはちょっと意味が違って、彼らは「本地を持たない巫女」といえます。教養もそれなりにあって、旅をする貴人を泊めたり、交流したりする役目も負っていました。確か十六夜日記かなんかに、旅する尼さんが地方の遊女宿に泊まって、遊女と文化的に交流する記述があったはず。現代の感覚からいえば、尼さんが遊女宿に泊まるってどういうこと? となりそうですが、中世の「定住遊女」はむしろ、宗教的に旅人をもてなすのが役目であって、夜のお相手もその一部だったといえます。だから、お客の要望に応じて、加持祈祷のまねごととか、巫女舞の披露とかもしていたと思われます。まあ、そういうところで使われるのはきっと「マリファナ」ということで-;。桜枝町とか遊女とか修験道の行者とかは、マリファナの使用、運搬、拡散に非常に貢献したのではないのか、と思われるわけですが。

それで、結局御嶽山を思い出すわけです。御嶽信仰が一般に広く普及したおかげで、木曽の住人は経済的に潤ったと思います。それと同じで、葉っぱと善光寺信仰が広く普及すれば門前町は確かに潤って豊かになったと思う。だけどもさ、

善男善女をマリファナで極楽浄土に送って

それで、自分たちだけ豊かになったらそれでいいの? そーゆーもの? と思う。というか、これが大麻を発見してから、1万年の間、人類に突きつけられてきた問題といえるのだと思うわけです(呆)。