21年7月19日

 本日の外作業は、母親は土の埋め戻し、土の清掃等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃でした。

 本日はお出かけする日だったので、「保科」というところに行ってみました。ともかく、川の合流地点を整えよう、ということで。で、行ったのは清水寺(せいすいじ)、高井穂神社、長田神社の3カ所で。清水寺の観音堂の参道を駆け上り、長田神社の参道をてくてくと歩き、「なんでこんな歩くんだろう?」と思った日でしたー;。「今日は腹ごしらえをちゃんとしていった方がいいよ」と言われた気がしてたので、しっかり食べて行きました。で、とある場所では「こそ泥ネズミが来た」、とある場所では「神様万歳」、とある場所では「お祭りでもないのに入り口から入ってきた」と言われた気がするわけで-;。で、行った感想。保科には、坂上田村麻呂伝説があるようですが、いくら昔でも京都から東北に行くのに長野は通らないのでは? と思うわけで。東山道(でなきゃ東海道)から大宮を通ったんじゃないの? とか普通に思うわけですが。高井穂神社は薙鎌があるそうですから、諏訪系の古社です。おそらく諏訪系の開墾神話が田村麻呂伝説に意図的に置き換えられているのではないか、と思います。(まあ、下界ではネズミとネコとかふざけた「置き換え」もあるようなので、田村麻呂なら品格としてはまだマシな方かと-;。)

 清水寺では千手観音が最大のご本尊で、その次が本堂にある薬師如来と阿弥陀如来、ということで。だいたい平安末期作の仏像が多いようなので、平安末期でこの三位一体って言ったら、浄土信仰+熊野でしょ、と思う。伊勢神宮の神領である長田御厨が設置されたのも平安末期の頃のようなので、どちらも同時期に設置されて、「保科地区(の水源)を黄泉の国の水にしちゃえ」という呪法なのかと思ったわけですが。善光寺の側に熊野神社があって、川の対岸に「熊野寺」ともいえる清水寺があるわけですから、「川の合流地点は全部黄泉の国」な呪法で対になっていて、お似合いな気がします。でも、元々の呪術としては、川の北側に水源(女神(現観音堂))、対岸に男神(高井穂)で男女対の神様が保科川と保科地区の鎮守、というのが諏訪式の本来の構図ではなかったのか、と想像します。観音堂はきれいで立派でしたけれども、祈祷所とか大日堂とか三重塔の再建もして、全山を神々しくすればいいのに。そして、私が行ったときに、人がいていろいろと拝観できたら良かったのに、と思いました(笑)。お金持ちの北野建設さんとか、寄進してくれればいいのに、とか他力本願なことを思った私でした。そこで一句

真言の 祈祷所をもっと 小綺麗に

 ・・・「そこにためといたばっちいものを全部持ってかれた」とかってなんか聞こえた気がしたけれども、気のせいだと思います。祈祷所って初めて見たので珍しかったです。なので、一応お賽銭は上げさせていただいて、外から触れぬように拝ませていただいたわけですが。きれいな観音堂とはよくよく対照的でした-;。

 あとは、長田神社はフィギュアスケートの羽生君も参拝したこともあるとか。家に帰ってきてきた知ったのですが、ちょっとミーハーなネタでした。

 で、どうも、帰ってきてから木曽義仲のことが気になるので、長野市内とか近場のゆかりの地を巡った方が良いかもしれない、と思って調べてみました。

 そうしたら、篠ノ井の「久保田さん」という一族は義仲の子孫だ、ってありました。・・・そういう知り合いが昔いたような? と思う。

 義仲と巴御前ですが、巴御前とは実在性がはっきりしない女性なわけです。でも、伝承はあちこちに残っているわけですから、ある程度、統一した組織的な「伝承ばらまき」があった、と推察されます。で、彼らの年齢順に一番古いものは、木曽にあって、巴御前というのは

木曽川の巴が淵というところに住む龍神の化身

であって、義仲を守護していたんだそうな。だいたい、この設定ですでにキレそう、とか思うわけで。上信越の川の龍蛇女神はどこへ行っても全部「九頭竜」と言っても過言ではありませんので、要は

「義仲は九頭竜女神の守護を受けた特別な存在だ」

と言いたいわけです。そのための「巴御前」の創作なわけです。中信から北信にかけては泉小太郎と母の犀竜の開拓神話がありますから、それを木曽的にぱくって拡張した伝承といえると思います。木曽の神権を握ってたのは・・・信濃国造家の関係者でしたっけね? と思う-;。

 で、義仲の死後ずっと経って、室町時代の初期に篠ノ井で「大塔合戦」という合戦がありました。信濃国人が守護の小笠原氏を京都に追い返した合戦です。この時、諏訪大社上社神氏は国人側につきましたが、下社金刺氏は守護よりだったようです。で、以後、金刺氏は小笠原氏よりの政治姿勢を取るようになり、上社とは対立していくようになるわけですが、守護の小笠原氏とは仲良くしていて、小笠原氏の本拠地である松本の神権にかなり大きな影響を持ったのではないか、と推察されます。義仲の崇敬社とされている岡田神社、沙田神社、阿禮神社(木曽三社)は松本・塩尻にあって、松本を取り囲むようにあり、小笠原氏の保護を受け、下社が保存と保護に力を入れたのでは? と想像します。少なくとも沙田神社はそんな感じです。諏訪系の岡宮神社も松本城の鬼門にあって代々の城主から敬われていました。だから、義仲というと「木曽」を一番に思い浮かべますが、松本・塩尻もかなり義仲・諏訪大社下社と縁の地なのです。そして、松本という町そのものが義仲と下社に封印された町、という印象を受けます。中世の下社は上社と対立し、守護の小笠原氏と手を組んでも、松本を義仲で封印する町にしたかったわけだ。

 で、あたくしは学生時代、松本に住んでいたときに、気の迷いで甲斐性のない男と付き合っていたわけですが、その人が新潟の「久保田」というお酒を好きだったわけです。二人でよく酒屋さんに買いに行ったりしていました。で、篠ノ井の「久保田」さんは義仲の子孫って知って「ん?」と思うわけです。それでお酒の方を調べてみました。お酒は長岡市朝日の朝日酒造さんというところの製品なわけです。長岡市朝日には義仲が亡くなった後に、巴御前がそこに移り住んで「醫王山 朝日寺」というお寺を建立した、という伝承があるそうです。で、そのお寺があるから、その地を「朝日村」といい、そこの酒屋さんだから「朝日酒造」さんというらしくて。全部「朝日将軍義仲」にちなむ名前の巴御前と義仲関連らしくて。朝日寺は今は曹洞宗のお寺ですが、本尊は十一面観音で、寺宝は「熊野権現」だそうで。熊野の十一面観音って天照大神ですよねえ? 九頭竜が太陽女神でもあるのなら、巴御前自身が九頭竜でもあり、天照大神でもあり、十一面観音でもある、ということになります。そういう「いわれ」のあるお酒をわざわざ飲んでた? と思う。義仲をあくまでも、九頭竜であり、天照大神であるものと関連付けようとする伝承を下社が作ってるし、そういう寺社を作ってる? と思う。朝日酒造さんは朝日神社というところの水でお酒を仕込んでおられるそうですが、そこは諏訪系の神(日本武尊、諏訪神)と熊野の神々を祀っているわけで。諏訪系の神々と熊野を一体化しちゃってるところは善光寺的と思う。やはり、諏訪大社下社とその上位にある信濃国造家の介在が感じられる気がしてならないわけですが。

 というわけで、これが呪いだー、千年も前から「義仲の生まれ変わり」と「九頭竜女神」をくっつけようとして画策してた? で、しかもみんな殺そうとしてた? そのための熊野、そのための義仲と巴伝説? と思う。熊野の改変まで入れたら、千五百年も前から画策してた?? と思うわけで@@。久保田の「万寿」はおいしいお酒だとは思いますけれども、私はアルコールそのものがだめなので、どんな酒もはまるわけがない。でも、相手がそうやって思う方向にはまらないと、酒の神サマは怒って相手を殺すの? と思う。初期のキリスト教の概念は単純なので、そういうのは「デュオニューソス主義」という、と言われる気がするわけです。

 ・・・そういえば、阿波(徳島)の多祁御奈刀弥神社(タケミナカタトミ神社)の神紋は「梶の葉」ではなく、「丸に違い鎌」という鎌の×十字ですよねえ? それに薙鎌ってありますよねえ? それは何故? と思う。そうしたら「薙鎌は境界に打つ鎌だから、それはヘルメースの鎌でしょう。それは「ヘルメース主義」の象徴ですよ。」と言われる気がするわけで@@。そういえば、初期のキリスト教徒達にとってイエスはヘルメースになぞらえて信仰されていた、ってどこかで読んだ記憶があるかも・・・、と思う。

 ・・・要は「ヘルメース主義」の上社と頼朝君、「デュオニューソス主義」の下社と義仲、ってそういう感じ? と思う。そのために義仲を若くして殺した? と思う。千年も前の怨霊的思想を学ばないと、自分にかけられている「呪い」が分からない、とそういうことになっているようです-;。