21年7月10日

 本日はずっと家にいて外作業をしていました。なんだか、近所がうるさかったうえに、我が家と向かいの家の共同の私道に勝手に車を停めている人たちがいて、わざとやっているのだろう、と思うのですが、嫌がらせだし、非常に失礼だと思いました。外作業は、午後は夕立のようなけっこう激しい雨が降ったので、午前中のみ。母親は土の埋め戻し、土の清掃等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃、土掘りでした。風呂の北東は、コンクリ塊と錆びた金属が固まったようなものは掘り出せましたが、そのすぐ東側からトタンを折り重ねたものが錆びたようなものが出てきました。まだその全貌はよくわかっていません。1m四方くらいかも。

 昨日の追加ですが、長野市の槻井泉神社は「生井神の児女が教えるまま社地に生えている槻の大木の根本を掘ると、きれいな冷水が突然わき出した」ともあり、生井神をイザナギとすれば、児女とはアマテラス(=九頭竜)のことが示唆されます。日照りに効用のある神社、という点は樋知大神社との共通点でもあり、九頭竜女神と水源を祀る神社であることも示唆されます。また、葛井神社の例からも、諏訪信仰は必ずしも水源の神としての九頭竜信仰を否定しないことも明らかだと思います。

 そして、対する松本の槻井泉神社も興味深い神社です。こちらの祭神は美津波廼女命(みずはのめのみこと)、御井神(みいのかみ)、鳴雷神(なるいかづちのかみ)と言われているようです。ところが、神社の立て札には鳴雷神ではなく「諏訪御子神」とあり、説がいろいろとあるのではないか、と思います。「諏訪御子神」を素直に解釈すれば、地理的にはこれは出早雄命か武水別命が想像されます。しかし、それはともかく「鳴雷神」といったらあからさまに「黄泉の国」であって、黄泉の国の「御井神」といったら、イザナミですよねえ? となります。要は長野市の槻井泉神社が生井神という「生きた井戸の神」であり、イザナギの神社であるなら、松本の槻井泉神社は御井神という「黄泉の井戸の神」を祀っていて、なんだか陰陽の「対」になっているように感じるわけです。で、松本の槻井泉神社の隣には「御嶽神社(みたけじんじゃ、蔵王権現のこと)」の石碑が山ほど建っていて、どう見ても蔵王信仰と関係してることは明らかなわけで-;。これで槻井泉神社は塩尻にもあって、そこは八幡神を祀っていますので、3つ併せて

イザナギ(父) ー イザナミ(母) ー 八幡神(子)

というローマ式三位一体が成立して、蔵王権現の

釈迦 ー 千手観音(イザナミ) ー 弥勒

に対応していると思うわけです。3つ併せて、「延喜式外の槻井泉神社」だと思うわけですが、今ではそれぞれのつながりは意図的に? 失われています。そして、現在では長野市の方は蔵王権現とのつながりがとても希薄になって、諏訪と高野山的呪法が強くなっている気がします。

 で、松本の槻井泉神社には更に平安末期以降に加わった要素があって。この神社から湧き出る泉の水にちなんで、付近は「清水」という地名なのですが、このあたりには、義仲の死後、義高と巴御前が住んだという伝承がある、ということで。義高は槻井泉神社の湧き水を産湯に使ったので、「清水冠者」というらしくて。歴史的には、義仲が死んだ時点で、義高は人質で鎌倉におり、頼朝の長女大姫と婚約中でした。で、清水で生まれた、という伝承がある、ということは、このあたりに義仲の住まいがあって、義高はそこで生まれた、とする方が妥当だと思うわけです。巴御前はいったんは鎌倉方の捕虜になりますが、その後故郷に戻ることを許されて、再び松本に住んだのかもしれないと思います。で、義仲を支援したのは諏訪大社下社の方ですから、清水辺りが、諏訪大社と関連するとすれば、下社と関連しているのだろう、と思われます。松本城の北東からは、義高の菩提を弔ったと思われる地蔵菩薩が出土しているそうで、同じものが鎌倉で「大姫の守護仏」として出土しているそうなので、あの辺りに、義高・巴御前に関連する人々の館があたことは事実だったと思われます。でも、伝承的には槻井泉神社と義高が関連づけられていることが重要だと思うのです。義高は義仲の死後、若くして処刑されましたから、「非業の死」を遂げた人物といえます。だから、通常なら「若宮」とか「御霊」として祀るべきでは、特に湧き水と関連する場合には柳田式には「御霊」がふさわしくないのか、と思うわけですが、伝承で関連付けされているだけで、槻井泉神社に祀られているわけでもないのです。でも、「黄泉の国の水」を産湯に使って、非業の死を遂げた若者ですから、不吉なことは限りないわけで、「御霊」として祀られてなければ、それは「怨霊」というしかない気がするわけで。

御井神(イザナミ) ー 鳴雷神

の組み合わせに

巴御前 ー 義高

が重ねられて、諏訪下社関連の血を引く義高が諏訪御子神でもあり、鳴雷神でもある、とすると矛盾しない、と思うわけです。しかも、槻井泉神社のケヤキの木のうろに「大日如来」と書かれた箱が置いてあって。黄泉の国の太陽ですか? 根来寺??? ととっさに思ってしまうわけでー;。こっちはこっちで、「陽」の長野市の槻井泉神社とは対照的に、どっぷり「陰」の側の怨霊の神社??? と思ってしまうわけです。槻井泉神社の蔵王権現の呪法とは、

釈迦 ー 千手観音(イザナミ) ー 弥勒

義仲 ー 巴御前 ー 義高

を「御霊」にしないで重ねたもの、という気がするわけで。「御霊」でないものは「怨霊」というしかないよね? カテゴリーとしてはねえ? と思ってしまうわけですー;。ということは、松本の「清水地区」そのものが、例によって「黄泉の国」? と思うわけで。学生時代に、その辺りに住んでいたことがあるわけですよー。今さらながらに、ちょっとうれしくないわけで-;。槻井泉神社のすぐそばに住んでいたわけですが、行ったこともなければ、知りもしなかったわけで。槻井泉神社の入り口には境界神である道祖神がいるし、橋もかかってるわけなので。そこは「黄泉の国」としてはけっこう「深い層」と言われる気がするわけですがー;。「金枝」を持ってればそういうところにも入り込める、ってことだよねえ? 義高ならぬザグレウス・デュオニューソスの神話ではそういうことになっているはず、と思う-;。でも、槻井泉神社関聯の呪法には更にひねりが入っていて、義仲の怨霊は長野の槻井泉神社にはいないわけです。どこにいる? というか、どこにいた? となる。まあ、そのあたりにも行ったことがある気がするわけで。しかも、義高が「諏訪御子神」とすれば、義仲が「諏訪神」であるっていうのが下社の呪法だよねえ? と思う。義仲一家の「怨霊」を使って「黄泉の国」の呪いを強化している人々がいれば、それを祓おうとする人々もいる、ということで。彼らの「怨霊」はもう「いない」らしいです。なぜなら、一家を再開させて、「金枝」の力で浄化してしまったシャーマンがいるから、と言われる気がするわけで@@。木曽義仲って信濃国にとりついていた最大の「怨霊」だったんですかね? と思う。まあ、私が義仲なら、下社の関係者に言いたいことは山ほどあるだろう、とは思うわけですが-;。

 しかし、ともかく、人の世界(中つ国)は陰陽揃っていてこそ「通常」であるので、どちらかに偏っているだけの場所は好ましくない、と言われる気がするわけで。長野の槻井泉神社から、境界を越えて、松本の槻井泉神社へ行って、また境界を越えて長野の槻井泉神社に戻り、どちらも「陰陽」の揃った「人の世界の神社」にして、水系を整えるようにと言われた気がするわけで。だいたい、そういう「天啓」を受けると、時々出歩くわけですが。

 で、今日はシーマオ遺跡と、その後に出現した殷のことを調べていて。シーマオと殷の違いは、シーマオでは若い女性を生け贄に求める傾向が強く、殷では性差は無作為であって、特定の民族集団を求めていたこと。シーマオでは、生け贄の目的は主に都市の基礎であったようだけれども、殷では占いの結果いろんなことで生け贄を捧げていたこと、であると思う。また、良渚文化では祭祀を行った者が死ぬと祭壇に埋めて、死者に対して祭祀を行っていたそうで。まさに、シャーマンは死ぬと「神と一体化」する存在であったらしくて。私が思うに、シーマオで祭祀を行っていた人々は、良渚文化の末裔であり、おそらく殷の王家に「これが正しい祭祀のやり方だ」と言って、祭祀のやり方を教える、とともに、「占いの結果」と称して、「羌族を生け贄として捧げるように」とそそのかしたのではないか、と思う。殷の王家の一つがそれに乗っかって祭祀を行い、他の王家を武力や策略で圧迫して、独裁制をしいたのではないか、と思う。

 ということで、シーマオ人の思惑の通りに、羌族は殺戮されたの、だと思う。何故? 現在の羌族の生活を見るに、彼らは多神教(精霊信仰)であり、上帝(太陽神)を一番に崇拝し、シャーマンは神々や悪魔と交通する、すなわち「境界を越える」ことができる存在である。シャーマンは占いをするし、医者でもある。死者を冥界に送るのに「通行券」を発行することができる。五徳を踏んではならず、「赤い旗」は境界を意味している。要は、羌族は古い多神教(精霊信仰)の形式を知っており、それがシーマオ人の祭祀と共通する部分があり、起源でもあったのだと思う。(ということは、先祖的には近いってことだと思うけど。)シーマオ人は、「自分たちこそは正しい祭祀の仕方をしっている」と言って、殷の王家に売り込んだけど、五徳と饕餮を習合させたり、赤旗と蚩尤を習合させたり、しまいには、そういうものが上帝と同じものって言ったり、「おかしなことやり過ぎなんじゃないの?」って言われるのが嫌だから、「おかしなのはあいつら(羌族)だ」って言って殺させたのではないのですかねえ。彼らを消してしまえば、「あんたたちの祭祀は変」って指摘できる人々はいなくなるからである。というわけで、シーマオ人の子孫からは、たまにはまともな人も出たかもしれないけれども、多くは邪魔者と思ったものを、他の人に殺させる、ということが板につく人々が輩出されたのではないのか、と危惧するわけで。饕餮には器であり、五徳であり、火でもある、という意味があると思う。神々に食料を供給する神である。・・・出雲の熊野大社の祭神も食べ物の神で素戔嗚でなかったっけ? と思う。この場合は

饕餮 ー 素戔嗚 ー 伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(出雲熊野大社の祭神)

の三位一体となると思う。饕餮に「かまどの火」という意味まで含まれるなら、素戔嗚はカグツチと同じもの、ともいえるし、熊野では、火起こしの方法は素戔嗚が伝えた、とされていて、素戔嗚とカグツチが一体のものであることが示唆される。都市の基礎の犠牲になって殺された若い娘たちがいる。都市や国家の安寧のため、饕餮の口の中に若い娘を放りこむ(生き埋めにする)という祭祀もどっかにあったなー、と思う。ローマ式とは、けっこうシーマオに親和性の高い文化なのではないか、と思う。それはともかく、熊野のスサノオがカグツチと同じものとすれば、熊野大社の主祭神はカグツチなのではないか? とも思う。八咫烏を配下に使うカグツチ(饕餮)である。饕餮は太陽神の部下に過ぎなかったのに、熊野では太陽を配下に使うようになってるらしい。太陽女神の化身ともいえる若い娘を殺すのは、4300年前にはあったわけだから、饕餮(スサノオ・カグツチ)の上帝(太陽神)に対するクーデターはその頃には始まっていたわけで。羌族の人々にそれを指摘されたくなかったわけだ。そうして、シーマオ人は、邪魔者を他人に追い詰めさせては黙らせるやり方を獲得していったのだと思うわけです。