あらま

というか、あれま、というか、そういうタイトルしか思いつかない昨今なわけですが。

 

とあるところのブログに追加がされてましたので、よくよく見ましたら、例のお祭りの神社は、高仁神社(祭神は建御名方富命&八坂刀賣命)という名前で、古くは諏訪大明神と呼ばれていたそうです。北信濃の古社はたいていそんな構成ですので、古い時代に諏訪一族の第一陣が入植した際に建立した神社なのでしょう。社殿の写真を見る限りでは、例によって御柱もあるようです。かつて、黄河&遼河文明において、人の生首を頂上にくくりつけた祭祀に由来する「例の柱」です。西洋的には、端的に述べれば「サバジオスのプラカード」と述べるべきものともいえます。
要するに祭祀において柱を建てる諏訪神は、少なくとも現在では、西洋のサバジオス、コロン、ユーピテル、ゼウス等々に相当する神といえます。日本神話で最も近縁性の高い神は、イザナギといえる。
一方、諏訪神の妻の八坂刀賣命ですが、「八」という言葉は「八幡」という言葉にも使われるように、古代においては「偉大な」とか「大きい」という意味を持ち、日本神話においては、原始キリスト教的神の「キーワード」ともいえるような名を持つ神となっています。日本神話においては死せる太母イザナミ、西洋の神話ではおそらくメヒト・セクメト辺りが彼女に相当する神だと思います。ネコ科の特に「獅子」や「猫」を冠する動物は、この死せる死神太母の典型的なトーテムといえます。

 

というわけで、その追加分については、私の能力に合わせて、だいぶ分かりやすくして頂いたと、そう思うわけですが、だいたいおおまかな意味としては「尻尾の獅子神」に「あの夏の日」を「もう一度」と、そんな感じなのでしょうか。だいたい、福山君に夢の中で、1度拒絶したのに、
「ほんとうにあいつのことを愛しているのか?」
と食い下がられた時と同じで、どうも私はそういう点で誰かに食い下がられた経験が、乏しいものですから、そんな目にあっただけで、目が点になって呆然としてしまうわけですが(苦笑)。

 

どうも、私の記憶にある「あの夏の日」とやらは「プールから上がった人妻と云々」とか、そういう記憶が超強烈なわけですが、あの時の「人妻」とはいったい「誰」のことなのですか。八坂刀賣命なのですか? それとも豊穣のニンフルサグのことなのですか? と、今となってはそれが知りたいわけです。どちらと「もう一度」なのかは、メソポタミア的に言えば、ニンフルサグから分かれた軍神ニヌルタに聞かねばならない、とそれだけのことです。

 

そして、私に「もう一度」というのであれば、それは諏訪神と八坂刀賣の名においてではなく、伊勢の外宮的に、雷神と月読の名において尋ねるのか、ゆずの「よろこびの歌」的に尋ねるのか、最低でも氷川の神・須佐之男あるいは大国主命と恵比寿・事代主の名において尋ねて欲しい、とそう思うだけです。
諏訪神の力、死神の力はとても強烈で、その力を持たざる者がハウルのように惹かれて止まないのも仕方のないことかもしれないと思います。でも、その魔に魅入られずに、あなたはあなたの言葉と名前で、私の目を見て、正面から話して欲しい、とそう思うのみです。それで、力が足りなくて、ハウルのように一人で行くのが怖い場所があるのでれば、ソフィーみたいに私がついていって上げるから、と言うしかない。どうにも鈍感ソフィーちゃんは表だった魔力はあまり持ってなくても、潜在的に持ってる力はカルシファーよりも強いので、たいていのことがあってもLady Justice以外の者には、変貌しようが無いから、と、そんな気がするわけですがーー;。
(だいたい、人妻ソフィーの夫と、あなたとは、どうも「一人で行きたくないところ」って同じ場所なんじゃないかという気がしてならないわけですが。ええと、例えば学会とか、大学とか? 別にどっちにも私が付き添っていってあげてもいいですよ? たぶん、今の私には大学の教授程度では勝てないと思われるから、とかそんな感じなわけですが(苦笑)。)

まあ、ともかくまずは3人でお会いして、例の「プールから上がった人妻」というのが、「誰の人妻」なのかを、それぞれに私の目を見て、正直にお話して頂けたらと思います。でなければ、私にはその「もう一度」がどういう意味の「もう一度」なのかが分かりますまい。あなたには、自らの心臓を自らの力で取り戻して欲しいとそう思っていますし、きっとみんなもそう願っているし、それができる人であると、ソフィーがハウルのことを信じていたように、私も信じているのです。

 

ひまわりの種を次々に収穫しております。本当はまだ収穫するにはちと早いのですが、うかうかしているとヤマガラ&スズメに食べ尽くされてしまうことが分かったので、せめて来年蒔く分だけでも確保しようと、まだ実が若そうな内から収穫することにしました。写真の大きな二つのひまわりは、左が「リング・オブ・ファイアー」的な木の子の種で、右が普通に黄色い花の種となっております。「リング・オブ・ファイアー」の方は花も小柄で、脇芽が多いのですが、種まで小粒で真っ黒になっています。実はこの左の子と、右の子は、同じ親から生まれた兄弟ということで、
「親が同じなのに、子供はこんなに違うんだ?」
と自分でも驚いているのですが、右の子は右の子で、親にはあんまり似ていなくて、一番最初の年に買ってきたヒマワリと似たような種をつけているのです。で、種が抜け落ちているところは、既に喰われてしまったところ、とーー;。

 

2012年に、いろんな騒ぎが始まった時に、その前から私の中では、「双子の男の子」という主題がどうも何くれとなく沸いていたように思うのですが、似ているのに全く異なる「双子の兄弟」とは私にとってどういう存在なのだろう、といつも考えていました。きっと彼らはこのヒマワリ達に似て、片方は先祖代々の黄色いヒマワリのままなのに、何故かもう片方は真っ黒な種をつける真っ黒な子なのだと思うわけです。でも、どちらも我が家で生まれたら「我が家の子」なので、伝統の黄色いひまわりを大切にしつつ、きっと来年は黒い子の種もいくつか蒔くのだろうと思います。
まあ、でも元気の良い子と、大人しい子であった場合には、大人しい方により気をつけてあげないと、元気の良い子に振り回されて不公平な親になってしまいそうですのでね。お母さんには、恐るべきイナンナでもなく、みんなが望んでくれるヘバトでもなく、ただただ家にいて、おっとりと縫い物でもしている小さな織り姫でいて欲しいと、「あの夏の日」の頃からそれしか望んでいなかったであろう優しい子のことも私はけっして忘れることはありますまい。

 

<追記>そういえば、ホタルのネタがありましね。まあ、そういうのは3人で、見に行けたらいいですね。行っても良いのならね。って、そういうことになるのだと思われるわけですが。

そして本題

子供の成長に「本」というものが与える影響について考えてみて、で、自分のことを考えてみたわけです。私が通ったのは田舎の普通の公立中学ですから、成績は大事といえば、大事ですけれども、友達の成績なんか誰も気にしない、というか、私も勉強ができた子だったとは思うわけですが、それが原因でちやほやされたりとか、逆にいじめられたりとか、そういうことは無かったと思います。
んでもって、私は学校の図書館に入り浸っているような子でした。ナルニア国物語、ゲド戦記、赤毛のアン・シリーズ、パール・バックの「大地」、マーク・トゥエインの「不思議な余所者」、「オデュッセイア」と「イーリアス」っていろんな本をガツガツ読んでいたわけです。(だけど、今から考えると、子供向けに書き直されていない(散文化はされていましたが)「オデュッセイア」と「イーリアス」って中学生が読むモノ? という気がしないでもないわけですが。)

で、忘れてはならないのは「ぎょうせい」の「世界の民話」シリーズと、筑摩書房の「世界の神話」シリーズ、「隠された十字架」かな、と。「オデュッセイア」や「イーリアス」が、中学生が読むに相応しいものだとは、どうも大人になってからは思えない私なわけですが(苦笑)、「隠された十字架」は、あの時のあの学校のあの状況で、
「私以外のいった誰が読んだのですかね、だいたいそれ、大人の読む本で中学生あたりが理解できる本じゃないでしょ。」
と思うわけです。だいたい「法隆寺の隠された十字架」たって、聖徳太子の側近の秦氏の平安時代までも家紋がそもそも「十字」なわけで、その子孫の島津氏は鎌倉時代から「丸に十字」を家紋にしてるわけで、
「別に誰も十字架を隠してるわけじゃないのよ、メーソンが「キリスト教の神の印」を、「非キリスト強的思想の象徴」と言い張って使ってるのと同じ事で、「原始キリスト教の思想」を「仏教」って言い張ってるだけだから。」
と今の私ならそう一蹴するわけですが、当時は私にも何が書いてあるのか、正直良く分からない本でした。しかし、今なら更に
「聖徳太子と上宮王家を皆殺しにした上で、「キリストのような殉教者かつ聖人」に仕立て上げた立役者が秦氏である。そうやって、意図的に人を殺した上で、聖人に仕立て上げるのが原始キリスト教と、原始のついていないキリスト教なんじゃん?」
と付け加えるところなわけですが。聖徳太子と上宮王家に仏教を紹介して、側近であったはずの秦氏は、上宮王家が滅びた後は、ちゃっかり桓武天皇の側近とかになって平安京遷都の陰の立て役者となり、更に時代が下ると、摂関家の側近から、時代の寵児・源頼朝の側近へと変遷して、島津家の基礎を築くわけで、主家がいくつ滅びようが、自らは生き残るそのしたたかさだけは立派なわけで。
ま、それはともかくとして、私の人生を強く決定づけたのが「ぎょうせい」の「世界の民話」シリーズと、筑摩書房の「世界の神話」シリーズといえます。各地にはさまざまな民話があっても、それには「一定の共通したパターン」があって、類型で分類できること、民話とは神話の一般伝承化したものであること等々、神話や民話を基盤とした比較文化人類学の基礎を私に教えてくれたのがこれらの本でした。(実際やさしく書き直されているとはいえ、メソポタミアの神話とかをきちんとまとめて書いている本で、一般の人でもそれなりにお求めになりやすい本といえば、筑摩書房の「世界の神話」シリーズはどうにも外せない立派な成書だと今でも思うわけですが。(私は持っていませんがーー;))この、2つのシリーズで、民話や神話にがっつりはまった結果、高校になると更に各地の神話や民話、指輪物語、イエーツ、コブナントシリーズとかをマニアックに読むようになっていくわけで、その延長線上の挙げ句の果てに「今の自分」がいると言っても過言ではないからです。だから、子供時代を振り返ると、子供がどんな本をガツガツと読み込もうと、そこで「はまった本」というのは、けっこう一生に渡って大きな影響を与える大切なものなのだな、と大人になって改めて思うわけです。

 

で、それはともかく、昨日、2回目の日記をアップしましたら、
「それで分からないなんてニブい。」
とか、そういう考えが何故か浮かんできたのですが、それだけ浮かんでもどうしようもないものはないので、
「分からなくっても、ニブくても、それがありのままの私。」
ということで、いつものように、音楽を聴きながら寝ちゃったわけです。そうしましたら、夜中に目が覚めまして、何だか音量をちょっと上げて聴かなければいけないような気がしたので、ちょっと上げてウトウトしていましたら、3曲目くらいに石井竜也の「君をのせて」がかかりまして、
「昭和に戻ってというのは、最初に戻って、ということなのではないのかねえ」
と気が付いて、はっと目が覚めまして、そういえばTOKIOの誰か(たぶんリーダー?)が「最初(のスタジオで)もう一度」って囁いていたかも、と気が付いたわけです。「君をのせて」はラピュタの主題歌で、宮崎監督が作詞したもので、石井が作詞したバージョンの方の「君をつれて」では何度も「もう一度」って連呼しているわけですし、だいたい「最初」に会ったのはまだ時代が昭和だったわけで、その時にはまだカブもマルクルも影も形も無かったわけですから。
当時既に世に出ていたのは、ナウシカくらいで、今でしたらアスベルは「蛙のバアル(要するにテシュブ)」、テトは、まあ、なんというべき?ーー; みたいには言える私ですが、それだけではさすがにねえ、ということで、元からニブい私ですから、そんな感じになってしまうわけです。(ナウシカは「今のシカ(鹿)」、すなわち日本人にとっては「今の太陽」という意味であると思う。宮崎監督のネーミングセンスからいって。老練な戦士ミトは、これもなんというべき? みたいな気がするわけで。名前から見た限りでは、プラカードの人が喜びそうな名な気がするわけですが、私としてはどっちかというと「カルシファー」のイメージの方が強いんですけども、みたいな(苦笑)。ま、どちらにしても、こっちの存在を知るのも、平成に入ってからになるわけで、昭和から知っている人は、それこそ一人しかいませんので。)
それで、最後の水の写真は、「全て水に流して、最初に戻ってもう一度」ってこと? って、やっとそこまでたどり着きましたら、ラピュタの曲の次にかかったのが、「家族になろうよ」と「Beautiful Life」だったものですから、まあ、こうやっていろんな人に助けて貰わないと、よく分からない私、というか、「やっとてっぺいちゃんも何かの役に立ったよ。」と思ったというか、そんな感じだったわけです。(朝、目が覚めたら「TOKIOも関ジャニ程度(「企画モノ」程度)で済みません」って、浮かんだような、浮かばないようなーー;。悪いのは私なのですよう、ということで、仕方のないことなのですが<(_ _)>。)

 

それはともかく、宮崎作品を語る上で、私にとって最大のものは、今は手元にない「ハウル」なのですが、そもそも主人公のソフィーというのは、ギリシア語のソフィア(叡智)から来ている言葉なわけで、グノーシス主義の台頭と共に神格化された、みたいに言われているようですが、そもそもそれが真っ赤な大嘘なわけで、この言葉の子音構成は、Sophia、すなわち「(K)S-(b)phi-(k)a」となる「KB」系の神に由来し、一番近いものはウガリット神話の叡智の太陽女神シャプシュ(Shapash)なわけですから、ソフィア(叡智)という一般名詞こそが、ウガリットの太陽女神に由来するもので、元は女神の名であり、西洋世界では現在でも女の子の名として使われているわけです。ウガリットの太陽女神シャプシュは、ヒッタイトにおけるヘバト・イナンナ系の太陽女神達と同列・同格ですので、「ソフィー」という名そのものが、「太陽女神」を暗示する名なわけです。
で、ハウルは確か、ウェールズ語の「太陽」ですので、男性形の太陽神(すなわち天候神)といえる。
かつて力があって、「若い男の心臓好き」な「荒れ地の魔女」とは、ヒッタイト以前の、メソポタミア時代のイナンナ女神を彷彿とさせます。ヒッタイトの神話・信仰にもこの恐るべきイナンナ女神に対する信仰は、実のところ神話よりも現実の祭祀に多く残されていたのではないかと思います。愛人を黄泉の国に囲って離さないイナラとか、春に毎年新しい王と結婚する(民間的祭祀の上での)ハンナハンナとかは、その名残であるようにも思えます。でも、全体として、ヒッタイト時代にはイナンナはヘバトと習合して、「同じ神」とされるようになりますので、悪魔としての力を失った「荒れ地の魔女」とは、ヘバトと習合したイナンナのことで、ソフィーと「荒れ地の魔女」とは「同じもの」でもあると思うのです。
で、ソフィーが好きなのに、手も足も出ない「かかしのカブ」はまだ「M」や「D」といった子音に取り憑かれる前の夫婦双神であった頃の「KB」の神の男性神側の象徴であるのだと思います。
そして、ハウルの弟子のマルクルは、MKな子音ですので、クヌムかあるいはエンキということで、お魚嫌いなマルクル自身が、お魚であった、と、そういうことになるのだな、とやっと気が付いたわけです。
(お魚を食べるのはともかく、金魚姫な好きな草介クンも、マルクル系かと。)
だから、ソフィーと「荒れ地の魔女」が同じものであるように、カブとマルクルもほぼ「同じもの」といえます。ただ、魔力(悪魔的な力)はMの子音が名前についているだけあって、カブよりもマルクルの方が強いのでしょう。
中で唯一異質であって、注意すべきは、心臓を共有して恐ろしい力を発揮しているカルシファーとハウルであって、心臓をハウルに戻して二人を分離してしまえば、恐ろしい力を持っているのはカルシファーの方であるわけで、ソフィーにとってもよく懐いている「火の悪魔」とは、まさに死と悪魔の天候神である「ゼウス・サバジオス・コロン・ユーピテル・ミトラス・ムト・プタハ」と、その名はいくらでも続けられるわけで、それはただ東洋では、東海竜王と呼ばれ、黒竜江省に名を残す「黒竜」と呼ばれるものなのだと思うのです。そこから枝分かれした、テシュブ・バアルは、ウガリットやヒッタイトの時代に平和と共存を求める人々の間で生まれたものであって、神々の中ではとても若い神ですし、全体的な神話の流れからみれば、本来の「悪魔の天候神」ともきちんと分離することは難しいのだと思います。
でも、それを分けて欲しい、別れた姿を見抜いて欲しい、と言われるのであれば、それはできるようになったかな、と思うわけですが。ま、それはともかく、ソフィーが次にハウルと会うときには、マルクルとも一緒に会いたいし、会うべきだと、とそういうことなのだと思うのです。
マルクルがソフィーに「僕ら家族?」と訪ねて、ソフィーが「家族よ。」と答えた、そのことに含まれた意味と願いも今なら分かると思うから。
だから、厳密にいえば「水に流す」ことはできますけれども、「最初に戻ってもう一度」は却下かな、と思う。会いたいのは二人で、ではなくて、三人で、なわけで、だいたいそもそも、卒業写真とかに踊る「3」という数字とか、昔言われた「3」というネタについて、いろいろとそれはどういう「3」なのかを問い詰めるためにもソフィーにとっては、ハウルとマルクルの二人に会うことは必要不可欠なことのように思われるわけですが(苦笑)。国立の医学部に合格するような無駄に記憶力の良い脳ミソは「3P」の「3」と「P」ってどういう意味? STAR WARSに出てくるロボットのことぢゃないよね? とか、そういうことはよくよく覚えているわけで、どうにもそういうことの意味は当事者達に直接聞いてみたくてたまらないので、よろしくお願いいたします、とそういうことになるわけなのですが<(_ _)>。

 

だいたいどちらにしても、「昔に戻る」ことなどできようはずもなく、人とはただ前に進むしかないものだから、「逆戻り」のお誘いには乗れない。それは今までもさんざん見てきた通り、「悪魔」の誘惑だから、とそう述べるしかない。自分自身の本当に個人的な、プライベートなことは、私もあまり日記には書きたくないわけですが、今回の日記は、「書くべき」って面白がっている野次馬がいっぱいいそうなので、今まで助けて頂いた感謝の気持ちということで、書かせて頂いております<(_ _)>。

 

(まったくもって、いったい誰が「戦い方を教える師匠」なんだかーー;。本当に意味のあることしかやらない、というかおいしいとこしかもってかないというか、そういう人は世の中にいるものなのだな、とそう思うわけで(苦笑)。こっちはこっちで毎日、それこそ右往左往しながら必死だといいますのにーー;。)

 

 

<追記>

どうもナウシカの師匠は、ミトではなくて、ユパ様の方であるので、その点だけ訂正ということで。ユパっていうと、子音的には(D)Y-(b)pとなるわけで、「ディヤウス」まっしぐらな名前な気がするわけですが。(個人的には、勝手に頭文字をとってデータベース(DB)と内心呼んでいるわけで、ダースベーダーじゃないですよ? ヴェーダがダース単位でいたら、それこそタイヘンなヘンタイ、とかになっちゃうわけで、という感じなわけですがーー;。)それは、古代エジプト的にはタウエレト(Taweret)という神の名に通じるわけで、ミノア・クレーター以降から、ギリシア・ローマ時代にはまさに凶悪なタウロス(牡牛)信仰として現れてくる神なわけですが。師匠がミーノータウロスなナウシカですか、そうですか、っていうか、なんかどうにもこういう点で、どうにも泣きそうな気分になるわけですが(苦笑)。まあ、お前がタウエレトで、って言われるよりはマシ? みたいなーー;。)

本日も

いろいろと書かなければならないと思うわけですが、まずは例の佐世保の事件から。

昨日の時点で、一番違和感を感じたのは、

「中学の時に解剖書を読んで、小動物の解剖をして、人間でもやってみたくなった。」]

と子供が供述していることで、
「だいたい、そもそも、中学生が『解剖書』なんて、どこで手に入れたんだろう?」
とそう思うわけです。こういう点では、子供の成長に「周囲の環境」とやらは確かに重要だと思うわけで、この子の家庭は父親・弁護士&母親・放送メディア系のOLということで、お兄ちゃんもまだ普通の学生ですから、解剖書ってどの程度の「解剖書」なのかも良く分からないわけですが、家にそんなものがあったら、まずそこが不自然なわけで、なんで子供の目につくところにそんなものがあったのだろう、と思う。
医者時代にはせっせと解剖してた私が、子供時代を振り返ってみると、我が家は母親が大昔に医療系の仕事をしてましたから、もしかしたら家にそっち系の本もあったかもしれないと思うわけですが、子供時代にはそんなものに興味を持たなかったし、だいたいうちの大学が解剖の実習&講義はけっこう緩かったんで、医学生時代にも、まともに解剖書なんて読んでないでしょ、あなた、って突っ込まれたら返す言葉も無いような私なわけでーー;。だから、まず、子供の目につくところに、そんなものがあったという「環境」に、ものすごく違和感を感じるわけです。普通の人にも、それこそ何人でも聞いてみたいと思うようなことですが、「子供時代にそんなに解剖書って身近なものだった?」と思うわけで。普通は、子供向けの漫画本とか、そういうものの方がより身近に一般的にあったりするものなんじゃないの? と思うのです。
たぶん、この子が、今落ち着いて取り調べに応じているのは、「誰かに構って貰っている」という実感があるからで、そこで半無意識的に「相手の気を引くようなこと」を敢えて言っている可能性も無きにしもあらずかと思います。なぜならそうした方が、「構ってもらえる」からで、それは赤ん坊が、お腹も空いていないし、うんちやおしっこでも困っていないのに、母親に構って欲しくてギャンギャン泣くのと似た心理であるのではないかな、という気がします。普通は大きくなると、そういう感情は「状況を見て、上手に甘える」というような「甘え上手な大人」みたいな方向に向かうと思うのですが、父親譲りの直情的な性格とか、あまり「甘え上手」になる必要性をきっと感じなかったのであろう生育環境とか、いろんなものが影響して、知能も理性もあるのに、その点だけが非常に未熟なままで大きくなってしまっているような気がするのです。
社会環境的にはそれこそ「親の七光り」的に恵まれてますし、高校生ならまだ仕事で揉まれるというような経験も乏しいので、そういう点では「いかに他人の中で角を立てずに自分の意思を通していくのか」という能力があまり育っていないと思うのです。普通の人だったら、あまり良くない言い方かもしれませんが、相手の顔色をうかがったりとか(よく言えば「空気を読む」というのかもしれませんが)、状況を見て総合的にどう行動すべきか判断できるようになっていくところが、人格的に成長できていないように感じます。

だから、供述していることは、当人にとっては、「本当のこと」と思っていることかもしれないけれども、無意識下では、「誰かの気を引きたいだけの子供が泣いている」のと同じ事、ととらえて接することも多少は必要なのかな、という気もします。確かに、そういう点では、子供っぽい子であるな、と言う気はします。まあ、たかが16歳といえば、それまでですけれども、されど16歳、というわけで微妙でアンバランスなお年頃ではあるわけですから。
そして、彼女の生育環境で何が重要であったのかといえば、それは、
「いったい、誰がどのようにして、子供の身近に解剖書を置くような真似をしたのか。」
ということに尽きると思うのです。性格的に残虐傾向のありそうな子供に、そのような本を与えて、どのような反応を示すかで、その子の気性を計るというようなことももしかしたらあり得たかもしれないし。そして、それが明らかになった時に、それを適切に抑えて、真っ当な社会生活を送れるようにしようという努力があまりにも乏しかったし、それを教えるべき母親の死があまりにも早すぎたのだ、とそれは言わざるを得ないと思うのです。(父親はその点での能力がありそうに見えませんしね。この父親は、今後20年くらいは、毎日辻仁成クンの爪の垢でも煎じて飲む刑、とかがあればそれが相応しい感じかと。多少性格が中性的でエキセントリックになっちゃっても、「母親を失った子供の父親」としては仁成クンの方がよっぽどマシに見えるわけですが(苦笑)。)