そして本題

子供の成長に「本」というものが与える影響について考えてみて、で、自分のことを考えてみたわけです。私が通ったのは田舎の普通の公立中学ですから、成績は大事といえば、大事ですけれども、友達の成績なんか誰も気にしない、というか、私も勉強ができた子だったとは思うわけですが、それが原因でちやほやされたりとか、逆にいじめられたりとか、そういうことは無かったと思います。
んでもって、私は学校の図書館に入り浸っているような子でした。ナルニア国物語、ゲド戦記、赤毛のアン・シリーズ、パール・バックの「大地」、マーク・トゥエインの「不思議な余所者」、「オデュッセイア」と「イーリアス」っていろんな本をガツガツ読んでいたわけです。(だけど、今から考えると、子供向けに書き直されていない(散文化はされていましたが)「オデュッセイア」と「イーリアス」って中学生が読むモノ? という気がしないでもないわけですが。)

で、忘れてはならないのは「ぎょうせい」の「世界の民話」シリーズと、筑摩書房の「世界の神話」シリーズ、「隠された十字架」かな、と。「オデュッセイア」や「イーリアス」が、中学生が読むに相応しいものだとは、どうも大人になってからは思えない私なわけですが(苦笑)、「隠された十字架」は、あの時のあの学校のあの状況で、
「私以外のいった誰が読んだのですかね、だいたいそれ、大人の読む本で中学生あたりが理解できる本じゃないでしょ。」
と思うわけです。だいたい「法隆寺の隠された十字架」たって、聖徳太子の側近の秦氏の平安時代までも家紋がそもそも「十字」なわけで、その子孫の島津氏は鎌倉時代から「丸に十字」を家紋にしてるわけで、
「別に誰も十字架を隠してるわけじゃないのよ、メーソンが「キリスト教の神の印」を、「非キリスト強的思想の象徴」と言い張って使ってるのと同じ事で、「原始キリスト教の思想」を「仏教」って言い張ってるだけだから。」
と今の私ならそう一蹴するわけですが、当時は私にも何が書いてあるのか、正直良く分からない本でした。しかし、今なら更に
「聖徳太子と上宮王家を皆殺しにした上で、「キリストのような殉教者かつ聖人」に仕立て上げた立役者が秦氏である。そうやって、意図的に人を殺した上で、聖人に仕立て上げるのが原始キリスト教と、原始のついていないキリスト教なんじゃん?」
と付け加えるところなわけですが。聖徳太子と上宮王家に仏教を紹介して、側近であったはずの秦氏は、上宮王家が滅びた後は、ちゃっかり桓武天皇の側近とかになって平安京遷都の陰の立て役者となり、更に時代が下ると、摂関家の側近から、時代の寵児・源頼朝の側近へと変遷して、島津家の基礎を築くわけで、主家がいくつ滅びようが、自らは生き残るそのしたたかさだけは立派なわけで。
ま、それはともかくとして、私の人生を強く決定づけたのが「ぎょうせい」の「世界の民話」シリーズと、筑摩書房の「世界の神話」シリーズといえます。各地にはさまざまな民話があっても、それには「一定の共通したパターン」があって、類型で分類できること、民話とは神話の一般伝承化したものであること等々、神話や民話を基盤とした比較文化人類学の基礎を私に教えてくれたのがこれらの本でした。(実際やさしく書き直されているとはいえ、メソポタミアの神話とかをきちんとまとめて書いている本で、一般の人でもそれなりにお求めになりやすい本といえば、筑摩書房の「世界の神話」シリーズはどうにも外せない立派な成書だと今でも思うわけですが。(私は持っていませんがーー;))この、2つのシリーズで、民話や神話にがっつりはまった結果、高校になると更に各地の神話や民話、指輪物語、イエーツ、コブナントシリーズとかをマニアックに読むようになっていくわけで、その延長線上の挙げ句の果てに「今の自分」がいると言っても過言ではないからです。だから、子供時代を振り返ると、子供がどんな本をガツガツと読み込もうと、そこで「はまった本」というのは、けっこう一生に渡って大きな影響を与える大切なものなのだな、と大人になって改めて思うわけです。

 

で、それはともかく、昨日、2回目の日記をアップしましたら、
「それで分からないなんてニブい。」
とか、そういう考えが何故か浮かんできたのですが、それだけ浮かんでもどうしようもないものはないので、
「分からなくっても、ニブくても、それがありのままの私。」
ということで、いつものように、音楽を聴きながら寝ちゃったわけです。そうしましたら、夜中に目が覚めまして、何だか音量をちょっと上げて聴かなければいけないような気がしたので、ちょっと上げてウトウトしていましたら、3曲目くらいに石井竜也の「君をのせて」がかかりまして、
「昭和に戻ってというのは、最初に戻って、ということなのではないのかねえ」
と気が付いて、はっと目が覚めまして、そういえばTOKIOの誰か(たぶんリーダー?)が「最初(のスタジオで)もう一度」って囁いていたかも、と気が付いたわけです。「君をのせて」はラピュタの主題歌で、宮崎監督が作詞したもので、石井が作詞したバージョンの方の「君をつれて」では何度も「もう一度」って連呼しているわけですし、だいたい「最初」に会ったのはまだ時代が昭和だったわけで、その時にはまだカブもマルクルも影も形も無かったわけですから。
当時既に世に出ていたのは、ナウシカくらいで、今でしたらアスベルは「蛙のバアル(要するにテシュブ)」、テトは、まあ、なんというべき?ーー; みたいには言える私ですが、それだけではさすがにねえ、ということで、元からニブい私ですから、そんな感じになってしまうわけです。(ナウシカは「今のシカ(鹿)」、すなわち日本人にとっては「今の太陽」という意味であると思う。宮崎監督のネーミングセンスからいって。老練な戦士ミトは、これもなんというべき? みたいな気がするわけで。名前から見た限りでは、プラカードの人が喜びそうな名な気がするわけですが、私としてはどっちかというと「カルシファー」のイメージの方が強いんですけども、みたいな(苦笑)。ま、どちらにしても、こっちの存在を知るのも、平成に入ってからになるわけで、昭和から知っている人は、それこそ一人しかいませんので。)
それで、最後の水の写真は、「全て水に流して、最初に戻ってもう一度」ってこと? って、やっとそこまでたどり着きましたら、ラピュタの曲の次にかかったのが、「家族になろうよ」と「Beautiful Life」だったものですから、まあ、こうやっていろんな人に助けて貰わないと、よく分からない私、というか、「やっとてっぺいちゃんも何かの役に立ったよ。」と思ったというか、そんな感じだったわけです。(朝、目が覚めたら「TOKIOも関ジャニ程度(「企画モノ」程度)で済みません」って、浮かんだような、浮かばないようなーー;。悪いのは私なのですよう、ということで、仕方のないことなのですが<(_ _)>。)

 

それはともかく、宮崎作品を語る上で、私にとって最大のものは、今は手元にない「ハウル」なのですが、そもそも主人公のソフィーというのは、ギリシア語のソフィア(叡智)から来ている言葉なわけで、グノーシス主義の台頭と共に神格化された、みたいに言われているようですが、そもそもそれが真っ赤な大嘘なわけで、この言葉の子音構成は、Sophia、すなわち「(K)S-(b)phi-(k)a」となる「KB」系の神に由来し、一番近いものはウガリット神話の叡智の太陽女神シャプシュ(Shapash)なわけですから、ソフィア(叡智)という一般名詞こそが、ウガリットの太陽女神に由来するもので、元は女神の名であり、西洋世界では現在でも女の子の名として使われているわけです。ウガリットの太陽女神シャプシュは、ヒッタイトにおけるヘバト・イナンナ系の太陽女神達と同列・同格ですので、「ソフィー」という名そのものが、「太陽女神」を暗示する名なわけです。
で、ハウルは確か、ウェールズ語の「太陽」ですので、男性形の太陽神(すなわち天候神)といえる。
かつて力があって、「若い男の心臓好き」な「荒れ地の魔女」とは、ヒッタイト以前の、メソポタミア時代のイナンナ女神を彷彿とさせます。ヒッタイトの神話・信仰にもこの恐るべきイナンナ女神に対する信仰は、実のところ神話よりも現実の祭祀に多く残されていたのではないかと思います。愛人を黄泉の国に囲って離さないイナラとか、春に毎年新しい王と結婚する(民間的祭祀の上での)ハンナハンナとかは、その名残であるようにも思えます。でも、全体として、ヒッタイト時代にはイナンナはヘバトと習合して、「同じ神」とされるようになりますので、悪魔としての力を失った「荒れ地の魔女」とは、ヘバトと習合したイナンナのことで、ソフィーと「荒れ地の魔女」とは「同じもの」でもあると思うのです。
で、ソフィーが好きなのに、手も足も出ない「かかしのカブ」はまだ「M」や「D」といった子音に取り憑かれる前の夫婦双神であった頃の「KB」の神の男性神側の象徴であるのだと思います。
そして、ハウルの弟子のマルクルは、MKな子音ですので、クヌムかあるいはエンキということで、お魚嫌いなマルクル自身が、お魚であった、と、そういうことになるのだな、とやっと気が付いたわけです。
(お魚を食べるのはともかく、金魚姫な好きな草介クンも、マルクル系かと。)
だから、ソフィーと「荒れ地の魔女」が同じものであるように、カブとマルクルもほぼ「同じもの」といえます。ただ、魔力(悪魔的な力)はMの子音が名前についているだけあって、カブよりもマルクルの方が強いのでしょう。
中で唯一異質であって、注意すべきは、心臓を共有して恐ろしい力を発揮しているカルシファーとハウルであって、心臓をハウルに戻して二人を分離してしまえば、恐ろしい力を持っているのはカルシファーの方であるわけで、ソフィーにとってもよく懐いている「火の悪魔」とは、まさに死と悪魔の天候神である「ゼウス・サバジオス・コロン・ユーピテル・ミトラス・ムト・プタハ」と、その名はいくらでも続けられるわけで、それはただ東洋では、東海竜王と呼ばれ、黒竜江省に名を残す「黒竜」と呼ばれるものなのだと思うのです。そこから枝分かれした、テシュブ・バアルは、ウガリットやヒッタイトの時代に平和と共存を求める人々の間で生まれたものであって、神々の中ではとても若い神ですし、全体的な神話の流れからみれば、本来の「悪魔の天候神」ともきちんと分離することは難しいのだと思います。
でも、それを分けて欲しい、別れた姿を見抜いて欲しい、と言われるのであれば、それはできるようになったかな、と思うわけですが。ま、それはともかく、ソフィーが次にハウルと会うときには、マルクルとも一緒に会いたいし、会うべきだと、とそういうことなのだと思うのです。
マルクルがソフィーに「僕ら家族?」と訪ねて、ソフィーが「家族よ。」と答えた、そのことに含まれた意味と願いも今なら分かると思うから。
だから、厳密にいえば「水に流す」ことはできますけれども、「最初に戻ってもう一度」は却下かな、と思う。会いたいのは二人で、ではなくて、三人で、なわけで、だいたいそもそも、卒業写真とかに踊る「3」という数字とか、昔言われた「3」というネタについて、いろいろとそれはどういう「3」なのかを問い詰めるためにもソフィーにとっては、ハウルとマルクルの二人に会うことは必要不可欠なことのように思われるわけですが(苦笑)。国立の医学部に合格するような無駄に記憶力の良い脳ミソは「3P」の「3」と「P」ってどういう意味? STAR WARSに出てくるロボットのことぢゃないよね? とか、そういうことはよくよく覚えているわけで、どうにもそういうことの意味は当事者達に直接聞いてみたくてたまらないので、よろしくお願いいたします、とそういうことになるわけなのですが<(_ _)>。

 

だいたいどちらにしても、「昔に戻る」ことなどできようはずもなく、人とはただ前に進むしかないものだから、「逆戻り」のお誘いには乗れない。それは今までもさんざん見てきた通り、「悪魔」の誘惑だから、とそう述べるしかない。自分自身の本当に個人的な、プライベートなことは、私もあまり日記には書きたくないわけですが、今回の日記は、「書くべき」って面白がっている野次馬がいっぱいいそうなので、今まで助けて頂いた感謝の気持ちということで、書かせて頂いております<(_ _)>。

 

(まったくもって、いったい誰が「戦い方を教える師匠」なんだかーー;。本当に意味のあることしかやらない、というかおいしいとこしかもってかないというか、そういう人は世の中にいるものなのだな、とそう思うわけで(苦笑)。こっちはこっちで毎日、それこそ右往左往しながら必死だといいますのにーー;。)

 

 

<追記>

どうもナウシカの師匠は、ミトではなくて、ユパ様の方であるので、その点だけ訂正ということで。ユパっていうと、子音的には(D)Y-(b)pとなるわけで、「ディヤウス」まっしぐらな名前な気がするわけですが。(個人的には、勝手に頭文字をとってデータベース(DB)と内心呼んでいるわけで、ダースベーダーじゃないですよ? ヴェーダがダース単位でいたら、それこそタイヘンなヘンタイ、とかになっちゃうわけで、という感じなわけですがーー;。)それは、古代エジプト的にはタウエレト(Taweret)という神の名に通じるわけで、ミノア・クレーター以降から、ギリシア・ローマ時代にはまさに凶悪なタウロス(牡牛)信仰として現れてくる神なわけですが。師匠がミーノータウロスなナウシカですか、そうですか、っていうか、なんかどうにもこういう点で、どうにも泣きそうな気分になるわけですが(苦笑)。まあ、お前がタウエレトで、って言われるよりはマシ? みたいなーー;。)