本日も

いろいろと書かなければならないと思うわけですが、まずは例の佐世保の事件から。

昨日の時点で、一番違和感を感じたのは、

「中学の時に解剖書を読んで、小動物の解剖をして、人間でもやってみたくなった。」]

と子供が供述していることで、
「だいたい、そもそも、中学生が『解剖書』なんて、どこで手に入れたんだろう?」
とそう思うわけです。こういう点では、子供の成長に「周囲の環境」とやらは確かに重要だと思うわけで、この子の家庭は父親・弁護士&母親・放送メディア系のOLということで、お兄ちゃんもまだ普通の学生ですから、解剖書ってどの程度の「解剖書」なのかも良く分からないわけですが、家にそんなものがあったら、まずそこが不自然なわけで、なんで子供の目につくところにそんなものがあったのだろう、と思う。
医者時代にはせっせと解剖してた私が、子供時代を振り返ってみると、我が家は母親が大昔に医療系の仕事をしてましたから、もしかしたら家にそっち系の本もあったかもしれないと思うわけですが、子供時代にはそんなものに興味を持たなかったし、だいたいうちの大学が解剖の実習&講義はけっこう緩かったんで、医学生時代にも、まともに解剖書なんて読んでないでしょ、あなた、って突っ込まれたら返す言葉も無いような私なわけでーー;。だから、まず、子供の目につくところに、そんなものがあったという「環境」に、ものすごく違和感を感じるわけです。普通の人にも、それこそ何人でも聞いてみたいと思うようなことですが、「子供時代にそんなに解剖書って身近なものだった?」と思うわけで。普通は、子供向けの漫画本とか、そういうものの方がより身近に一般的にあったりするものなんじゃないの? と思うのです。
たぶん、この子が、今落ち着いて取り調べに応じているのは、「誰かに構って貰っている」という実感があるからで、そこで半無意識的に「相手の気を引くようなこと」を敢えて言っている可能性も無きにしもあらずかと思います。なぜならそうした方が、「構ってもらえる」からで、それは赤ん坊が、お腹も空いていないし、うんちやおしっこでも困っていないのに、母親に構って欲しくてギャンギャン泣くのと似た心理であるのではないかな、という気がします。普通は大きくなると、そういう感情は「状況を見て、上手に甘える」というような「甘え上手な大人」みたいな方向に向かうと思うのですが、父親譲りの直情的な性格とか、あまり「甘え上手」になる必要性をきっと感じなかったのであろう生育環境とか、いろんなものが影響して、知能も理性もあるのに、その点だけが非常に未熟なままで大きくなってしまっているような気がするのです。
社会環境的にはそれこそ「親の七光り」的に恵まれてますし、高校生ならまだ仕事で揉まれるというような経験も乏しいので、そういう点では「いかに他人の中で角を立てずに自分の意思を通していくのか」という能力があまり育っていないと思うのです。普通の人だったら、あまり良くない言い方かもしれませんが、相手の顔色をうかがったりとか(よく言えば「空気を読む」というのかもしれませんが)、状況を見て総合的にどう行動すべきか判断できるようになっていくところが、人格的に成長できていないように感じます。

だから、供述していることは、当人にとっては、「本当のこと」と思っていることかもしれないけれども、無意識下では、「誰かの気を引きたいだけの子供が泣いている」のと同じ事、ととらえて接することも多少は必要なのかな、という気もします。確かに、そういう点では、子供っぽい子であるな、と言う気はします。まあ、たかが16歳といえば、それまでですけれども、されど16歳、というわけで微妙でアンバランスなお年頃ではあるわけですから。
そして、彼女の生育環境で何が重要であったのかといえば、それは、
「いったい、誰がどのようにして、子供の身近に解剖書を置くような真似をしたのか。」
ということに尽きると思うのです。性格的に残虐傾向のありそうな子供に、そのような本を与えて、どのような反応を示すかで、その子の気性を計るというようなことももしかしたらあり得たかもしれないし。そして、それが明らかになった時に、それを適切に抑えて、真っ当な社会生活を送れるようにしようという努力があまりにも乏しかったし、それを教えるべき母親の死があまりにも早すぎたのだ、とそれは言わざるを得ないと思うのです。(父親はその点での能力がありそうに見えませんしね。この父親は、今後20年くらいは、毎日辻仁成クンの爪の垢でも煎じて飲む刑、とかがあればそれが相応しい感じかと。多少性格が中性的でエキセントリックになっちゃっても、「母親を失った子供の父親」としては仁成クンの方がよっぽどマシに見えるわけですが(苦笑)。)