22年1月24日

 本日も家にいる日でしたが、寒かったので外作業はしませんでした。その代わり買い物に出かけました。

 で、暇な時はあちこちの神社の動画を見て、各地の神サマとの結縁に余念がないわけですが。伊勢の椿大神社の動画を見ました。主祭神は猿田彦です。猿田彦は日本書紀のみに出てくる神で、ニニギが天から降りてきた時に道案内した神、と言われています。だから、「道案内の神」とされています。天狗の面を被った大男の神であるらしい。伊勢が故郷で、海岸で貝に手を挟まれて海に引っ張り込まれ、溺れ死んだ、と言われています。だから、椿大神社には猿田彦の墓があります。で、結局、猿田彦ってどういう神なのだろう? と思う。あまり他に性質の似た神が思いつかないので。そうしたら、なんだか昔良く見ていたサイトを見てみたくなって。検索して見てみたら、蛇王ザッハークとニンギジッタの記事が載っていて。蛇王ザッハークは古代ペルシャ(現在のイラン)の悪い王で、肩から2本の蛇が生えていて人身御供の若者を食べた王である。ニンギジッタはメソポタミア(現在のイラク)の冥界神の一柱らしい。こちらも肩から蛇が生えているので、ニンギジッタがザッハークの原型であるらしい。ありそうなことは、人食いの蛇の神は悪い神であるので、誰か英雄に倒されて、死んだ後、冥界の神になった、という話が共通にあって、そこからイランの伝承と、メソポタミアの神話に枝分かれしたのだと思う。でも、ニンギジッタはメソポタミアの神々としてはさほどメジャーではない気がする(冥界神といえばエレシュキガルとネルガルなので)し、神が誰かに殺される、というのは神話としては世界を変えるような重要な話のはずなので、ニンギジッタの地位が低下するにつれて、殺される神話が欠落してしまった(あるいは意図的に削除されたか?)のではないか、と思うわけですが。メソポタミアで重要な「神の死」の神話といえば、イナンナあるいはタンムーズの黄泉下り、か、神々のティアマト殺しである。「悪い蛇神退治」はむしろ、ティアマト殺しに集約されていく気がする。で、「蛇王ザッハークと猿田彦は同じものだから」と言われる気がするわけで@@。猿と蛇がなんで同じ? となる。そうしたら、「ラーマヤーナを調べるように」、と言われる気がするわけで。

 「ラーマヤーナ」は古代インドの叙事詩です。インドの神話には、これとは別に「悪蛇退治の神話」があって、インドラという雷神が、ヴリトラという「干ばつをもたらす」蛇を退治します。一方、「ラーマヤーナ」の主人公ラーマ王子はラーヴァナという頭を10個持っていた羅刹(悪魔のようなもの)を倒します。ラーヴァナは神に等しい力を得るために、自分の首を一つずつ切り落として燃やす、という修行をします。そして、最後に1個だけ頭が残って、強力な力を得る。「頭を燃やす」というのは太陽神を連想させます。そして、最後に1個だけ残る、というのは中国のゲイ神話を連想させます。弓の名手であるゲイが干ばつをもたらす10の太陽を射落として、太陽は1個だけになる、という神話です。ラーヴァナもラーマ王子に倒されます。

 神の頭が複数あって、しかも蛇神とすると、それは分かりやすく川の神格化といえます。川は頭(あるいは尾という名の支流)がたくさんあって、蛇のように長いからです。でも、それは世界的には「干ばつをもたらす神」とみなされていることが分かります。干ばつをもたらすのは、どちらかといえば「強い日差し」ですので、頭が多数ある「川の神」と頭が一つしかない「太陽神」は同じもので、それを倒す神話や伝承がゲイ神話であり、ラーマヤーナである、ということが分かります。で、雷神とは、普通雨ももたらすものですから、雨が多すぎると水害が起きます。「ノアの箱舟」のような「大洪水」の神話も世界各地にあります。ということは、雷神・太陽神・川の蛇神は一体のものであって、人々から見れば、彼らのバランスの良い時に豊穣がもたらされるわけです。バランスが悪いと水害か干ばつが起きます。古代のシャーマンの役割とは、神々と交流して自然のバランスが丁度良いように御願いするものだったともいえます。例えば、古代中国の伏羲は「雷神の子供」のようにも言われますし、雷神の命を助けたことで大洪水を免れた、とも言われています。伏羲が雷神と交流できるシャーマンだったから、大洪水を逃れることができたし、人々は伏羲の子孫のシャーマンにお願いすれば雷神の怒りを静めてバランスが取れる、と考えました。この場合の雷神とは、太陽神でもあり、川の蛇神(竜神)でもあるのです。普段は穏やかな太陽の相でも、太陽のまま祟って干ばつを起こしたり、雷の相になったり、水神の相になったりします。

 だから、インドラとヴリトラの戦いのように、本当は元は「同じ物」が戦うということは奇妙な神話であって、本来は荒れる神々の相のいずれかがあったのなら、「正しい祭祀」をして荒ぶる相を鎮めれば良い、という話だったのだと思います。でも、特に農耕が始まって人口が爆発的に増えるようになったからかもしれませんが(とはいえ、人は狩猟採取時代から共食いをする猿だったのですけれども)、人身御供を求めるようになって、川の蛇神に人身御供を捧げるようになりました。元から当たり前のように他人を狩って食べていたから、その延長上の思想で、神に人の餌を食べさせて鎮めようとしたのかもしれません。元々神は虎の神だから。狩る方はそれで良くても、狩られる方はたまったものではないので、戦いが起きて、人の餌を求めて川に食べさせる神の代理人(言い換えれば現人神)は殺されました。殺されるはずのない太陽神が殺されてしまって、世界は2度と元に戻らず、5000年以上の間、悲しみの喪に服している、と原理主義者は言うわけだ@@。殺されたのは、人食いの虎の太陽女神と、それを支えて人身御供を次々と殺していた夫であるシャーマンだと思われます。「神を殺した者」は新たに、「人身御供を求めない女神」を立てて、自らが新たな神兼シャーマンに立とうとした、そうして、人身御供の求められない平等な社会を求めようとしたけれども、元は中国の母系社会の「婿大嫌い」の文化が災いして、失敗したわけです。でも、下手に「男性が神として主導を取る政治」を作り上げてしまったので、子孫は男性が神兼シャーマンとして「死んだ先祖の神」の権威を縦にとって人身御供を要求するようになり、男系の文化を打ち立てるようになった、とそういうことで。子孫は母方の先祖の人食いの思想と、父方の先祖の「男が神になる」という成り上がりの思想の「悪いところばっかりとって」世界を征服するに至る、と-;。なので、各地に英雄が神を倒したり、神々が戦ったり、殺されるのが女神であったり、父なる神であったり、人身御供も若い娘だったり、若者だったり、という混沌とした神話や民話が乱立するようになりました。でも、その話の内容で、その土地の人々が母系の思想を大事にするのか、父系の思想を大事にするのかは分かるわけです。「ラーマヤーナ」のように、最後に結局妻のシータを殺してしまうのは、男系のよろしくない思想、女神と男神と力を合わせて悪い竜の悪い部分だけを倒すヒッタイトの神話は中庸のよろしい思想、とそうなります。変形的ですが、女神が女神を殺す話も男系のよろしくない思想です。これはどちらかといえば、テセウス神話の変形版といえます。男が絡む話が多いからです。

 で、「男神が殺される神話」は、一つはオシリスとかアッティスのように神が植物の生育に関して殺されるものがあって、これは「人身御供」としての死、といえます。一方ヴリトラやザッハークの死は、彼らは人身御供を求める悪神であったから殺されたのであって、「悪いシャーマンの死」から発生したものといえます。では、「猿田彦の死」はどっちなのか、ということになります。猿田彦は太陽神のようにも考えられる神ですので、明確にいずれかの英雄に殺された、との神話はありませんが、「悪いシャーマンの死」といえます。というか、泣いたり騒いだりする祟り神の「スサノオの死(高天原追放)」も「悪いシャーマンの死」です。ということは、「猿田彦」というのは、「スサノオ」の別名、地上に降りたスサノオの「天狗相」に過ぎないのではないのか、ということになります。そして、「道」を定める神でもあるので、占いの達人・伏羲の別の姿でもあるのです。要は伏羲と饕餮は「男系の悪いシャーマン」で「同じもの」といえます。雷神の子と言われ、雷神を操る力を持つ、と考えられ、自ら雷神のようにもふるまいます。そして、彼らが死したる「悪しき雷神」「悪しき太陽神」「悪しき川の蛇神」である、というのであれば猿田彦はザッハークでもあり、ニンギジッタでもある、といえるわけだ。

 というわけで、どのような神が殺されようが、現人神であって人である限り、殺されることだってあるのは事故でも故意でも仕方のないことで、5000年も喪に服するのは長すぎる。せいぜい5日も服せばそれで良い。「太陽女神」は太陽は1個しかないものだから一柱で良いのは別として、有能な人はあらゆる分野で世界中に大勢いるのだから、神がただ一柱である必要性は全くなく、多くの神々がいて、助け合うことこそが正しいと私は思う。そして、他人の「前世の行状」でいちいち苦情を申し立てるのをやめるように、と思う-;。人は何回生まれ変わっても変わらないものだとしても、行状について責任が問われるのは「今生」のことだけで十分でしょ、とも思う-;。

 で、潤ちゃんの新しいドラマも、ようやく時間を見つけてちょっと見る。全部まだ見ていないわけですが、隣の家の親父が娘を水風呂につけて虐待する親父らしい? というところまで見て-;。怪しい隣人を演じる小澤征悦氏の叔父の小澤俊夫という人は「世界の民話」という本を編集したドイツ語学者で、「世界の民話」の最初の12巻、あたくしがまだ中学生の頃に読んだこの12巻があたくしの民俗学の出発点であり、原点である。で、「父なる神である者が、若い娘を冷たい水に放り込んで人身御供として虐待するのが饕餮でありスサノオでしょ。」と言われる気がするわけで@@。どーゆードラマなの、それ? と思う。・・・というか、優柔不断なチカラ君は、なんか首は突っ込んでみるけど、どうして良いのか分からない感じというか・・・。それって誰かを馬鹿にしてたりとかしないよね? 例えば、我が家のひいじいさんとか、ひいじいさんとか、ひいじいさんとか? 首を突っ込んでみたものの、結局世界はこんな感じ、ということで-;、と思わず3連呼してしまうわけで-;。・・・言っとくけど、ひいじいさんの不名誉は子孫であるあたくしの不名誉でもある、ということくらいはリベラルなあたくしでもそのくらいのことは言う-;。

 で、話は「もののけ姫」に戻るわけですが、結局、古き神々であるモロと乙事主一族の死は、狩猟民であった人々の「太陽女神とそのシャーマンの死」を現しているのだと思う。でも、乙事近辺の人々に「私のことをどう見ますか? 烏帽子ですか? それともサンですか?」と聞いたら、「あんたはモロでしょ。今ではあんたが山犬(狼)の家の家長でしょ?」と言われる気がするわけで。・・・そんな話もありましたっけねえ? と思う-;。むやみと他人を食べる人食い虎になりたいとは思わないけれども、私にも餌は必要である。孔子の言葉にあまり頼りたくはありませんが「中庸の徳」といって、バランスを大切にするのは、あらゆる点で大切なことかと思います<(_ _)>。

 お裁縫はセーターのつくろい、ジャケットは袖作りが完了して前身頃と後身頃を縫い合わせています。ケープコートは前身頃作り、小物は針刺しを追加で1個作りました。親も使いやすい針刺しで良い、と言ってくれます。針の錆びにくいシリコン入りの綿、という針刺し専用の綿を買って詰めてみたわけですが、なんだか針が抵抗なく刺さって気持ち良いです。

 テレビは、昼は「食宝ゲットゥーン」の録画を見ました。昨夜は「ニノさん」の録画の続きと、相葉君の動物番組の録画をちょこっと見ました。亀ちゃんがコロナに感染したそうです。どうか、お大事に<(_ _)>。オミクロン株? とか、感染力が高いというだけあって、あちこちで患者さんが出ていそうです。長野県も蔓延防止措置の対象になるそうですし。私もそんな中、けっこう外出はしているわけですが、あんまり人のいなさそうなところばかりうろついているので-;。今のところは元気です。

 昨夜もなんだか夢を見て。家に翔ちゃんがいて、そこに母方の従姉妹が遊びに来て。従姉妹はインコの雛を連れてきたのですが、それが雛であどけない顔をしているのに、鶏くらい大きくて。で、3人で話をしていたら、翔ちゃんに「敵のうまい話に気をつけるように」と言われる、という夢で。「何かあるのかなー?」と思っていたら、何故か郵便受けによその回覧板が入っていて。うちは自治会に入っていないので、関係ないので、親が関係ありそうな家の郵便ポストに入れたのですが。なんだか「自分から自治会に入りたい、と言え」みたな圧力みたいなものを感じます。猿田彦が悪い方の道へ引っ張ろうとしている、というかそんな印象を受けます。そんな気は全くないのですが。