「王妃マルゴ」

昨日に引き続き、大デュマについて書きます。「王妃マルゴ」は、16世紀のフランスが舞台で、カトリックであるヴァロア王家の王女マルグリット・ド・ヴァロワとプロテスタントであるブルボン家のアンリ4世が、両者の和解のために政略結婚するわけです。で、その結婚式のためにパリにプロテスタントの貴族も、カトリックの貴族も集まってくるわけですが、そこでカトリックの王妃カトリーヌ・ド・メディシス(マルグリットの母親)が策略を巡らし、プロテスタントの貴族を大虐殺する「サン・バルテルミの虐殺」が起き、アンリ4世は王宮に拘束されることになってしまいます。母后カトリーヌの目的は当然アンリ4世を殺すことですが、夫婦愛というよりは、アンリ4世と政治的に同盟を結ぶことを決心したマルグリットの努力により、夫は何とか生き延びて、しまいに王宮を脱出することができるようになる、とそういう話なわけです。
マルグリットが夫を助ける動機は、結婚してすぐ未亡人になってしまったら、自分の行く末が、政治的影響力もろくに持てずに終わってしまうことが目に見えているから、とかそういう感じであったと思います。今から考えると、これも「キリストの死と再生」に擬えた物語なのだな、と思います。
キリストに擬えられたアンリ4世は、プロテスタントにとって地獄も同然の「カトリックの王宮」に拘束されますが、何とかそこを逃げ出して、物語には書かれませんが、彼は後に王として即位してブルボン王朝を開くわけで、デュマが敬愛していたブルボン王家に対する賛辞的物語といえなくもありません。
ただ、キリスト教神話においては、イエスは死後3日たって蘇って、その後も「いつか戻ってくる?」かのようにされていますが、そこに「王妃マルゴ」のような存在は入り込んでいません。では、デュマの物語における「王妃マルゴ」の存在は、神話的にどのような立ち位置に来るのかというと、それは
黄泉の国
にいて、夫(あるいは息子)の死と再生を司る
地母神女神
を象徴しているのだと思うわけです。彼女が破壊と創造の太母なわけで、ギリシア神話的にはペルセポネーという女神になるわけです。で、それで済めば話は単純なわけですが、ギリシア神話には、ペルセポネーの他にも地母神女神は大勢いるわけで、黄泉の国の属性を非常に強く有している女神に
アルテミス
という月の神がいるわけです。で、この女神がクルミの木として表象される場合には、カリアティードと呼ばれるわけですが、これがまた単純でないことに、この女神は

とも深い関連があるわけです。葦は古代エジプト神話で、「あの世」と「永世」の象徴なのです。要するに、
カリアティードとは 月の女神 であって 葦の女神 であって 黄泉の国の女神 である
と、そうなるわけです。で、カトリックであるマルグリットは、そのような女神に例えられているわけ。で、一方、
ディオニューソス神話
では、この母なる月の太母は、セメレー・ペルセポネーとなるわけで、この女神はディオニューソスの血を呑む大地の象徴でもあるわけです。
で、それがキリスト教において何になるかというと、死に行くキリストの血を受けた「聖杯」というものがあって、これが
カリス
というわけです。ギリシャ神話には、カリスという豊穣相の女神と、カリアティードという冥界相の女神がいて、これらは本来「同じもの」だと思うわけです。そうすると、イエスの血を受けたものは、カリアティード・アルテミスであり、カリスであり、
これがキリスト教神話における 母神 ということになるわけです。で、その象徴が 「王妃マルゴ」 なわけ。
「王妃マルゴ」が何者であるのかを追って欲しい、
そういうデュマの願いはどこかにあったのかもしれないと思います。というか、
カトリック嫌い
であったと思われるデュマって、すごいな、と思う。で、なんで、今日このことを書こうかと思ったかというと、某ニュースサイトで、
宮崎駿監督
の写真を見たからで、見た途端に、「人食い月の神」の話を描いた「シュナの旅」を思い出したからだったりします。キリスト教神話において、イエスの血を呑む「人食い月の女神」とは、まさにカリスのことで、「王妃マルゴ」においては、マルグリット・ド・ヴァロワそのものであるからです。(物語の中ではアンリ4世の身代わりに若い騎士が2人殺されるわけです。(まさに、嫌味な設定なわけだーー;))

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