本日は外出せず、家で作業をしました。母親は土の埋め戻し、土の清掃、石片付け等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土の清掃、土掘りでした。
お裁縫は、セーターのつくろい、ジャケットはポケットのフラップを縫い付けて、糸等の始末、ケープコートは裏地の端の始末です。
で、朝、YouTubeの動画を見ていたら、たまたま上賀茂神社の動画があったので、それを見ながら、追加で行った方が良い神社の打合せをする。「千と千尋」の宮崎駿監督は、調べたところ富士見町に別荘があったそうで。縄文時代の井戸尻遺跡等に興味があられたらしい。井戸尻とは「縄文農耕論」といって、縄文時代から農耕があった、という説の発祥の地なわけです。祭祀用の土器には仰韶文化の思想を思わせる文様があるそうで。・・・首を狩って柱の上に据える「御柱」の思想の起源もそのあたりにあるのではないの? 半坡ではすでに首を狩って、家の守護とする風習があったはず。(ただし、首は床下に埋めていたそうですが。)そして、黄河文明の思想が入り込んでいるなら、すでに農業も始まっていたはず、と思うわけです。ちなみに「縄文のヴィーナス」で有名な尖石遺跡もけっこう近くにあって。考古学的にではなく「民俗学的」に、「縄文のヴィーナス」を見たら、「芋の女神を祀ってるんだから、農耕は始まっていたはず」と言えるくらいに、日本の民俗学も発展してくれたらいいのになあ、と思いました。宮崎監督にも、そのくらいのことはすぐに分かったはずと思います。民俗学についての造詣がとても深い方だから。
神々の系譜を紐解くと
出雲では、 八束水臣津野命 と 布帝耳神(ふてみみ)(衣服に関する女神)
という夫婦神がいるわけです。で、その子神に
赤衾伊努意保須美比古佐倭気命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと) と 天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)
という夫婦神がいます。これは伊農郷の伝承です。おそらく、赤衾伊努意保須美比古佐倭気命というのは、伊農郷の神でもあるし、八束水臣津野命の別名でもあるのだと思います。布帝耳神(ふてみみ)と天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)は、織り姫も兼ねる太陽女神である天照大神の出雲的な原型で、職能によって二つに分けたものと思われます。で、出雲のレベルで楯縫郡にいくと
阿遅須枳高日子根(賀茂別神と同じ神) と 、天御梶日女命(天甕津日女命の別名)
という夫婦神がいるわけです。要するに、出雲風土記の段階で、天甕津日女命という出雲の太陽女神には「二人の夫」がいるわけです。これは母系社会であれば、通う男が何人いても良いので、そういう文化の名残の神話とも思えますが、現代からみれば「いったいどちらが太陽女神の本当の夫なのか」というそういうやや奇怪な構造といえます。で、ここまでが「出雲風土記」の話。
記紀神話では、
阿遅須枳高日子根(賀茂別雷神と同じ神) と 、下照姫
という夫婦神がいます。ということは、下照姫というのは、天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)と同じ女神、といえます。織り姫であり、太陽女神です。下照姫が記紀神話の
天照大神
になると、定まった夫がいなくなります。これを「処女神」とみるか、母系的に「不特定多数の彼氏がいる女神」とみるかは人それぞれだと思いますが、そんな感じになる。で、諏訪大社では、少なくとも中世では、重要な祭祀の元である「御神渡り」は
興萩命 と 、下照姫
の夫婦による現象だと考えられていました。ということは、興萩命には2面性があって、出雲的には八束水臣津野命の別名、賀茂的には阿遅須枳高日子根の別名、ということになります。下社は賀茂系なので、当然
興萩命 = 阿遅須枳高日子根 = 賀茂別雷神 = 火雷神 = 建御雷神
となると思います。上社は出雲系の建御名方富命が主祭神なので
興萩命 = 建御名方富命 = 八束水臣津野命
となります。建御名方富命の妻神は八坂刀売なので、
八坂刀売 = 下照姫 = 布帝耳神 = 天甕津日女命 = 天照大神
となります。小坂鎮守神社の辺りは、太陽女神を祀っていた形跡がありますので、上社の領地であれば
建御名方富命(興萩命) と 天照大神(下照姫、八坂刀売)
を夫婦として扱っていたのだと思います。というか、中世に「下照姫」と述べている、ということは
出雲系か賀茂系の信仰というしかないのです。そもそも。
で、下社の方では、
雷神(興萩命) と 天照大神(下照姫、八坂刀売)
を夫婦として扱っていました。要は出雲の、伊農郡と楯縫郡の対立? というか違いがそのまま諏訪に持ち込まれて
上社と下社に分かれたのだと思います。でも、中世以降、「諏訪大社」として一つに纏めるときに、上社も下社も
建御名方富命 と 八坂刀売
に纏めて、出雲でも賀茂でもない独自の神にして、「建御名方富命」が出雲なのか賀茂なのか、ということを
ある意味ごまかすというか、隠してるのだと思いますー;。でも、上社の思想が出雲式、下社の思想が賀茂式である
ということは残されました。だから、下社の
建御名方富命
は、雷神(建御雷神)も同然なわけです。だから、興萩命の開拓地と思われる荻野の地には
近戸という「千鹿頭(上社方面の神)」に通じる名前の神社に建御雷神と天照大神が祀られている。
表面的には上社的に見えて、中身は下社なわけです。
当然、かくの如き神社を作ったのは、金刺でしょ、長野県の神権は
金刺か、金刺以外がそれしかない
ってローランドみたいな言い草になってしまうくらい金刺まみれである。要は、下社系である。
というか、近戸では
建御雷神と天照大神
ってはっきり正体を現して、
建御名方富命 と 八坂刀売
とごまかしたりもしていないわけで。それは、楯縫郡の楯縫さんとか武居さんとか、そういう方々のご意向ですよねえ?
葛城に住んでいたときには、「終わり」とも名乗られていたようですけれども?
と思う。近戸の困ったところは、出入り口を義仲の怨霊が塞いでいるので、神々が外に出られない、
ということに尽きる。荻野池も同様に戸隠の廃墟等で塞がれている。
要は、神々は「岩戸の外」=「黄泉の国の外」に出られない。
ということは、結局、下社とは、里宮で、「近戸」こそが「隠された奥宮」ということでよろしい?
と思うわけで。山の神であり、先祖でもある
建御雷神と天照大神
を利用するだけして、お焚き上げで火あぶりにしてませんか? 「ご先祖サマ」が許すと思うかな?
とそんな感じになるわけですが。ということで、下社には行かずとも、近戸に行けば用は足りる、と思う。
あたくしは「黄泉の国」の廃墟と化した岡谷から賀茂別命をつれださなければならず。
八ヶ岳の封印も解かなければならない。どちらも今しばらくかかり、邪魔はけっこうすごいです。
昨日行っておいて、良かったと思います。