21年6月25日

 本日は私は、出かける用事がなかったので外作業のみでした。外作業は、母親は土の埋め戻し等、姉は土の清掃、石片付け、私は土の清掃でした。今日も夕方は夕立で大雨が降りました。

 テレビは昨夜は「VS魂」を見て、今日の昼は「夜会」の録画を見ました。

 盧遮那仏は大乗仏教特有の神、と書きましたが、阿弥陀如来も大乗仏教特有の神です。というか、仏教は本来の仏教の形式を伝える上座部(いわゆる小乗)仏教と大乗仏教に別れ、上座部仏教の方は、原則として「仏」とは釈迦牟尼仏のことのみで、例外的に少数の「仏」が存在するのみです。大乗の方は、やたらと多くの如来や仏が存在して、しかも観念的なものが多く、何が由来なのかはっきりしないものが多いのです。梵天(ブラウマー)や帝釈天(インドラ)のように、バラモン教由来の神々であることがはっきりしているものもありますが、そうでないものの方が多いようです。上座部仏教は「自らが修行して悟りを開くこと」を目的としていますが、大乗仏教は「出家者に限らず在家者を含めた一切の衆生の救済」を目的としており、自己救済よりも他者救済を解きます。そのため、上座部仏教からは「異端」とされています。個人的には、それでも「自力本願」を謳っているうちは、本来の仏教的な要素がまだ残っていた、と感じますが、「他力本願」と言いだして「修行」とか「悟り」ということをよくよく形骸化してしまった(「南無阿弥陀仏」と唱えれば良いだけの修行)以降は、良くも悪くも本来の仏教の思想からはかけ離れてしまった、と思います。そして、本来の仏教の思想は、「一人一人が修行しなさい」ということですので、「個人の救済」というものを重要視しているように思えますが、「誰でも救済」ということになると、必ずしも個人の救済、ということは意味しなくなります。古代の北東アジアの仏教の思想では、「救済」されるのは国家であって個人ではありませんでした。正式な修行者である僧侶ですら、国家鎮守のために存在するのであって、自らが悟りを開くために修行していたのではない、といえます。各種仏や菩薩も「国家を守る」ために存在していたのであって、「自ら悟りを開いた仏」であるから尊重されていたわけではありません。そもそも、お釈迦様自身が、王子としての地位や国家を捨てて、自らの悟りのために出家しているわけですから、国家鎮守を主な目的とする古代北東アジアの仏教なんて、お釈迦様の思想からは完全に「逆を向いている」わけです。別にそれが必ずしも悪いこととは言いませんけれども。でも、どんな宗教でもそうですが、大衆化・一般化するほど、宗教的な深遠な意味を追求するのではなく、凡庸化・平易化が求められると思います。でないと、一般庶民はついていけないからです。でも「平易化」されて「南無阿弥陀仏」の一言で良い、とされてしまうと、それがそもそも何を意味するのか、何を目的とするものなのかがはっきりしなくなって、要は形式を繰り返せば良い、ということになって「意味を理解する」ということは乏しくなります。「悟り」とまでいかなくても、人々が自分の頭で意味を考えて理解する、ということはどんどん希薄になっていく。そうして、「何かを信じていれば救われる」とか「天国へ行ける」とか、そういう本当かどうかも分からないことについて、何も考えることが求められない「宗教」ができあがって行く気がします。でも、仏教だって、本来のキリスト教だって、元々は、色々と問題のある世の中に対して、「自分の頭で考えて行動しなさい」ということが求められるものだったのではないのかなあ? と個人的には思うのですが。でも、誰かそれをねじ曲げてしまう者がいる気がします。

 個々の人が「悟りを開くこと」を重要視する仏教は、それまでのインドが階級社会で、しかも悟りを開いているのかどうかも怪しいようなバラモン(いわゆる神官階級)が一番偉い、とされていたことに対抗して、身分の低い階級の人でも、自ら悟りを開けば尊敬されるべき立場になることができる、という、一種の「生まれながらの階級否定」という性質がありました。お釈迦様が国を捨てたのも、「国を治めるような俗世の階級から抜け出た者」という意味があったのかもしれないと思います。それが観念的な神々、いわゆる如来とか菩薩を大量生産するように変化したのは、仏教を余所に広める際に、大抵の地域は素朴な精霊信仰も含めて多神教であって、大抵の神々には職能があって、人々に施す恩恵も神によって役割分担がある、という状態だったので、それに対応する形で仏教的神々が整備されたり、仏像に対する崇拝が生まれたものと思われます。初期の大乗仏教はインド北西のガンダーラ地方(現在のアフガニスタン~パキスタン)で発達しましたが、そこは古くはアケメネス朝、アレクサンドロス大王(ギリシャ人)、パルティア(イラン系民族)と支配者が入れ替わったので、ギリシャとかイラン系の文化が根強い地域でした。初期の仏教遺跡にはギリシャの神が現されたりしていたのです。ギリシャやイラン系の多神教の影響を受けて、仏教も多神教化し、神々の職能も整備されたのでした。そういう状況ですから、薬師如来がアスクレピオス(ギリシャ神話の医薬神)を元にしたものであっても、全然不思議ではなかったと思うのです。

 では阿弥陀如来って何でしょうか? 阿弥陀って極楽浄土の神サマです。要は、冥界の神ですから、元はギリシャ神話のハーデース、ローマにおけるプルートーだと個人的には思います。「ハーデースは全ての者を受け入れる神としても信仰されていた。神々に寵愛されるほどの英雄は除いて、金持ちも貧者も死後は等しく冥界へと下るからである。」とWikipediaにありますので、善光寺の趣旨にはぴったりの神サマであると思います。仏教の趣旨には合わないけど、となる-;。また、ハーデースについては「軍神アレースと密接に繋がりがあり、アレースが戦争を巻き起こすと、戦死者の魂が冥界に多く下ることになり、ハーデースの地下の王国は巨大になるとされた。」とありますので、これは阿弥陀如来と同一視された八幡神と同じ関係といえます。軍神である八幡神が頑張って戦争を起こせば起こすほど、阿弥陀如来の国は住人が増えて栄えるわけです。一方ハーデースは「富める者」でもありました。地下の鉱物資源の神ですし、穀物は大地から生えますし、ともかく死に神は一度自分の内側に溜め込んだ物を話さないので、富むしかないからです。だから、ハーデース信仰といったら、死に神信仰であって、死後良い思いをしたい、という信仰でもあるし、現実でも富貴を得たい、という信仰でもあると思います。死神の手先になる代わりに、生きていくのに最低限必要なお金だけは恵んで貰える、とそういうことは良くある話のような気がします。日本では本地垂迹により、八幡神、イザナギ、月読等が阿弥陀如来と習合しましたが、これらの神々は全て冥界神としての性質を持っていたといえます。誰かを殺す手伝いをすると、小銭を支払ってくれる冥界神ですな-;。だから、「冥界神信仰」というと、誰かを殺す手伝いをする代わりに、小銭を下さい、という信仰ともいえます。そういう汚い仕事を手伝いたくない、なんて言ったら、小銭が貰えなくなってドライアップさせられ、自分が殺される側になってしまうのが「黄泉の国」なのではないでしょうか。