21年6月23日

 本日はお出かけする日だったので出かけて。平日の昼間なのに、やたらと車がたくさん出ていた気がします。今日の用事はあまり多くなかったので、早めに帰ることができました。

 外作業は、母親は土の埋め戻し、姉は土の清掃、石片付け、私は土掘り、土の清掃でした。

 テレビはお昼に「ブンブブーン」の録画を見て、夜は「いただきハイジャンプ」の録画を見ました。オープニングで光ちゃんがセット?のドアを開け閉めしていて、「開くんだ」と言っていて「おや」と思う。割と光ちゃんが明るくてテンションが高かった気がします。

 武塔天神(=素盞嗚(すさのお))・父  ー  牛頭天王(=大国主)・息子

と最初は考えられていたのものが、時代が下るにつれて、

武塔天神=牛頭天王=素盞嗚(すさのお)=薬師如来(本地垂迹)

という件について。牛頭天王=大国主というのは、平安時代初期の文献にあるそうですから、平安時代初期にはすでに神仏習合の考え方が始まっていたことが分かります。牛頭天王というのは、本来は仏教の神なのです。一方、「父」とされた武塔天神は備後国風土記に疫神としてその名前がみられ、一応は日本固有の神、ということになります。でも、個人的には子音から、これはミトラスのことと考えます。おそらく、朝鮮における弥勒菩薩信仰に対応する形で、ほぼ同様の性質を持つものを「武塔天神」としたのではないでしょうか。朝鮮の伝承である鉢里公主(バリ公主)の弥勒菩薩は不治の病を治す薬、死者を蘇らせる薬を持つ者ですので、仏教的な「下生して世を変える」というような救世主的な性質とはまた異なって、医薬神的性質を持つ神となっています。それが分かっているので、日本に導入する際に、「仏教の弥勒菩薩」と「医薬神的な武塔神」に分けたのではないでしょうか。武塔天神を祀る八坂神社と弥勒菩薩を本尊とする広隆寺は地理的にも近く、こういう神と仏の作り替えに秦氏が関わっていたかもしれない、と個人的には思います。仏教の弥勒菩薩を、なるべく原形に近い形で導入しようとすると、医薬神としての性質を削らなければなりませんが、その性質は、それはそれで残しておきたかった、という理由があったのかもしれません。疫神としての武塔天神を新たに造ると、それは弥勒菩薩ではなく、薬師如来に結びつけることができます。要は、朝鮮でミトラスとイエス・キリストの性質がごっちゃになって、弥勒菩薩と薬師如来の性質が入り交じる感じになったので、それを再び分離するために「武塔天神」という神は造られたのだと思います。だから、名前はミトラスの変化形と思われるのに、蘇民将来に関する伝承は西欧でイエス・キリストの名前で流布している伝承と同類、ということになるのだと思います。朝鮮における2者の混同をまだ引きずってるわけです。

 で、「牛頭天王」の意味は何なのか、となります。これは仏教の神とされていますが、表面的にはやはり日本固有の神とされています。原形は何か、と言われましても、西欧の多神教の神の主神は大抵「牡牛の神」ですので、名前からでは特定できません。これはユーピテルのことでもゼウスのことでも良いし、ヒッタイトのテシュブ、ゾロアスターのヴァルナ(アフラ・マズダ)でも、まあまあ通る名だと思います。それ以外に、「ミトラス」に関する「牡牛」というものがあります。

 ローマにおける「ミトラス信仰」はかなり特殊で、古くからのゾロアスター教におけるミトラ信仰とは異なるものなのです。そもそも、ゾロアスターでは、神が造った「聖なる牡牛」を殺すのは悪魔、ということになっています。また、人々との関わりから述べれば、ゾロアスターのミトラは「死者の裁きを行う神」でもあり、仏教の閻魔様と似たような性質を持っていました。ゾロアスター教には「世界の終わりには神の裁きがある」という終末思想がありましたが(というよりも、この終末思想がキリスト教に影響を与えた、と言うべきなのですが)、ミトラが「神の裁き」の主体であったという思想はなかったように思います。ゾロアスター教は多神教で、ミトラはアフラ・マズダよりも下位の神ですので、「終末の裁き」はアフラ・マズダが主体か、あるいは「神々が協力してもたらすもの」だったのかも知れないと思います。ゾロアスター教のミトラは、下位の神ということで、軍神や牧畜の神ともされていたので、民間伝承ではミトラが人々の間に降りたって、禍福をもたらした、という話はあったかもしれません。これが時代が下ると「ミトラスの下生信仰」「弥勒菩薩の下生信仰」へと変化した可能性はあると思います。

 ローマにおけるミトラスは「牡牛を屠るミトラス」の図像に象徴されるように、「牡牛を殺す」ミトラスとして信仰されました。この場合の「牡牛」というのも、「牛頭天王」と同様、何が原形なのかがはっきりしません。ゾロアスター教の「聖なる牡牛」になぞらえたら、ミトラスが「神に逆らう悪魔」ということになってしまいます。19世紀の民俗学者キュモンは、ゾロアスター教の神話をベースにして、ミトラスは聖なる牡牛を殺したことで、世界の創造神となったり、救世主となった、というような信仰があったのではないか、という説を出しました。でも、最近ではこれに批判的な意見も多いようです。

 西欧、というか、地中海周辺、中近東まで含めると、「牡牛」というのは神話的に複雑な要素を持っているのです。一つには、各地の「主神」として扱われ、時にはクレタ島のミーノータウロスのように生贄を求める残酷な神です。もう一つは、ギルガメシュ伝説で、英雄ギルガメシュに殺される「天の牡牛」や、ミーノータウロスのように「殺される牡牛」としての姿です。でも、大抵の宗教ではそうだと思いますが、「主神」=「一番偉い神サマ」でないと意味がなくて、「主神」=「殺される神サマ」だと権威がなくなってしまいますので、西欧の神話における「牡牛」とは、「主神」か、あるいは「殺される神」か、どちらかの性質を持つようになったと思われます。でも、ミーノータウロスの神話のように、生贄をもとめるような権威のある存在であったミーノータウロスが人間の英雄テーセウスに殺されてしまうわけですから、牡牛の神に関しては、「一番偉い神サマ」と「殺される神サマ」の区別は、本当はつけられないものである、とちょっと神話に詳しい人であれば、みんな知ってたと思います。

 だから、ローマにおけるミトラス教の意味は2つある。あるいは2つしかない、と個人的には思います。ローマにおける最大の「牡牛」はユーピテルですから、「牡牛を屠るミトラス」とは「ユーピテルを屠るミトラス」ということになります。ユーピテルを屠る、ということはローマの思想や政治を正そう、という思想ともいえます。反体制の思想、世直しの思想、ともいえます。ローマの政治に不満のある人々の中にミトラスが下生してきて、ユーピテルの信者を倒し、世を良くしてくれたら、それこそが「救世主」なんじゃないでしょうか? まず、これがミトラス教の「表向きの思想」だと思うのです。で、もう一つ「表向き出ない裏向きの思想」があるわけで。反体制的な思想を持つ密議宗教であるミトラス教がなぜにローマ中に広がり得たのか? それはローマの政治家の保護を受けたからではないのか? と想像してみれば、「牡牛」の意味はただ一つ、「ユーピテル以外の全ての牡牛の神」ということになりはしないでしょうか? 表向きは「ユーピテルを正して政治を正そう」と言いながら、その実は「ユーピテルの政治に逆らう各地の牡牛神を生贄にして殺してしまおう」という思想なわけです。だから、牛頭天皇と同じく、この「牡牛」も、どの牡牛なのかはっきりしないし、それでこそローマらしい、という気が、個人的にはするのです。

 だから、武塔天神(ミトラス)に関する牡牛(牛頭天王)だから、どこの牡牛神のことでもいいんだー。要は、ミトラスを操っている者、要は「武塔天神」を作り出した真の者の生贄になるだけの「屠られる牡牛」である牛頭天王である。だから、大国主でも須佐之男でも構わないので、最終的には須佐之男ということになりました。そして、それは薬師如来と同じものとされることになりました。薬師如来は、イエス・キリストと同一視できるのではないか、と私が思っている医薬神です。イエス・キリストこそが、ローマが最大に生贄に望んだ「牡牛」なんじゃないのですかね? と思う。

 ということで

武塔天神=牛頭天王=素盞嗚(すさのお)=薬師如来(本地垂迹)

を改めると

ミトラス=牛頭天皇=須佐之男=イエス・キリスト

と習合されることになりました。平安中期から後のことと思われます。だから、9世紀くらいから後、ということになりましょうか。ローマではミトラス教は4世紀後半には廃れて、救世主的な性格などは、キリスト教のイエス・キリストに吸収されてしまいます。日本では、ミトラスの持つ救世主的な性質は弥勒菩薩に、イエス・キリストは薬師如来に、要は併せて和製大乗仏教に纏められることになりました。武塔天神(父)、牛頭天皇(子)として、武塔天神と牛頭天王は「同じ物」とする考え方もローマ式キリスト教的考え方、といえます。そう考えると、牛頭天皇も素盞嗚も薬師如来(イエス・キリスト)も、武塔天神に殺される生贄ということになります。

 でも、武塔天神(ミトラス)も、ゾロアスター的には下位の神ですし、ユーピテルに生贄を捧げるための死刑執行人に過ぎない、と言えます。そのユーピテル(建御雷神)の親は誰だったけかな? 建御雷神の親を生贄として殺したミトラスを越えた「超ミトラス」とも言うべきはイザナギではないの? と思うわけで。

 そして、その一方で、聖徳太子が自分とこの仏様よりも偉い、と認めていたと言われる「阿弥陀如来」がいるわけです。その一光三尊阿弥陀如来を背負うことで「一体化」してたのが、本田善光といえます。本田善光というのは金刺氏の人ではないのでしょうか? 何故、聖徳太子は金刺氏を自分よりも格上である、と考えたのでしょう? それはともかく、「子神は親神の生贄である」という、ローマ的キリスト教的思想は、古代における薬師如来の信仰に独特の影響を与えているように思うわけです。