22年9月17日_2

 本日は郡上八幡一択で。お城周りをば重点的に回ってきました。未婚の女神ね・・・-;。

 「巫山神女」について。もっと分かりやすく書かないといけないらしい。ともかく、「女神信仰」ですので、母系社会の時代からの非常に「古い女神」だと思って下さい。要するに身分階級社会もなければ、「夫」という概念もない時代からの女神です。よって、皇帝というものも存在しません。

 天候に関して豊穣をもたらす女神です。そして、人類の「母」になるためには、「夫」は必要ないですが「子種」は必要です。種を撒いてくれる男性がいないと、子孫の人類も持てませんし、雨風の豊穣も生み出すことができません。そこで、人類は、人類の繁栄と雨風の豊穣を求めて母女神に「男」を与えねばならないわけです。「夫」じゃないの、単に「男」です。母系社会だから人類は「父」を必要としないし、そんな概念は知りません。

 そして、女神は人類と異なる世界に住んでいるわけだから、「選ばれた男」はそこに送らないといけません。たぶん、それは「川の中」とかだと思います。「巫山神女」と「同一の女神」という説もある夏の女媧ちゃんは蛇女神だし、龍蛇女神の住処といったら水の中でしょ? と思う。というわけで、男はそこに送られます。そうすると、女媧ちゃんは人類を生み出すことができるし、男をバラバラの「子種」にして地上に撒いてくれるので植物が生えるわけだ。

 というわけで、「生贄の男をバラバラ?」とか、フェミニストの私でも「エグすぎる」と思う神話を持ってる気がする我らがカモカモの遠祖女媧ちゃんなわけですが、父系の思想が発達してくると、「女神に近い特別な男性」という概念も変わってきて、生贄になる代わりに「生きて神様とお話しできるシャーマン」という形に、まずは変化するようになりました。デュメジル先生は、この第1段階を1次機能と呼びました(たぶん)。で、女神には生きた男を捧げる代わりに何か別の者を代替に・・・、となっていったと思います。苗族の兄弟達はたぶん「殺魚祭」を雨乞いでするそうですので、魚を代替にするようになりました。中国では瓜を・・・棒の代替に・・・棒? 何の棒? ということで、瓢箪伏羲というものを捧げるようになりましたが、もっと父系が進んだら、伏羲は瓢箪から人格神の伏羲に昇格して、女媧ちゃんの夫として扱われるようになりました。で、ちょっと飛ばしますが、朝鮮では、未婚で死んだ娘は未婚で死んで可哀想、ということで、棒を・・・何の棒? を捧げる、ということで。たぶん、瓢箪も捧げたかもしれませんが、棒も「母女神」に捧げるようになったのではないか、と思います。で、毎度おなじみ日本では、田縣という神社に何かゴロゴロとしてる気が-;。ええと、これはきゅうりが変化したもので、って袁珂大先生みたいに「逆」のことを言いたくなるわけですが-;。

 要は「母女神」に男をバラバラにして生贄に捧げていたのが、特に男根を強調するようになり、それもあんまりなので瓜を代替に女神に捧げて雨乞いをするようになったわけです。それが伏羲であり、瓢箪なわけだ-;。でも男根をどーんと奉納する習慣は朝鮮にも残ったし、露骨な田縣にも残りました。これらは瓢箪とかの瓜類と「同じ扱い」であって、日本で女神に雨乞いに瓜を捧げるのは、男根を捧げるのと「同じ事」なわけで、人身御供のなごりなわけです。

 でも、父系の文化が台頭してくると、女神の子供達の中から特別に選ばれた男性がリーダーになる、という思想が生まれてきて、シャーマンだけでなく、王とか皇帝とか特別な軍事貴族階級が登場してきます。デュメジル先生は、この第2段階を2次機能と呼びました(たぶん)。でも、古代の王は殷とか、シャーマンから発達したものなので、1次機能と2次機能は、本来入り交じっているものだったのです。だから、「巫山神女」と交わった皇帝は、意味としては2次機能ではなく1次機能の存在であって、要は「瓢箪」の役割を果たして、人々に豊穣をもたらしたのです。「生贄に選ばれた男をバラバラ祭祀」の時代に比べれば、男性の立場はかなりマシになりました。私が思うに「黄帝」というのは、このくらいのレベルでの「理想の王権者」なのだと思います。女神と人々とを繋いで豊穣をもたらす指導者です。その理想の形が「高唐賦」なのだと思う。

 で、一方、父系が発達して「夫」と「父」という社会的概念が登場すると、不特定の男性を相手とする母系の女神、そして母系の女性達は「未婚の女」とみなされるようになりました。確かに彼女達は決まった夫がいません。ということで「未婚のまま亡くなった女性」というのは神話的には「母系の女性」という暗喩があったと思われます。でも、父系が浸透してくると「夫がいないと可哀想」という時代がやってきますので、「夫もいないで亡くなった女性は可哀想」という感じになってきました。それで、朝鮮では雨乞いで女神に奉納していた男根の造形を「未婚で死んだ可哀想な女性をなぐさめるため」に奉納するようになりました。で、朝鮮では仏教や儒教の強い影響で、「生贄の男をバラバラ」にするような恐ろしい女神は、娑蘇夫人とか閼英夫人のように良き妻、良き母に変化しました。でも、個人的には娑蘇夫人って女媧ちゃんだよね? と思います。

 で、中国大陸では、一部の過激な父系支持派の中に「生贄の男をバラバラ」なんてとんでもない、男女を入れ替えて「生贄の女をバラバラ」にしちゃえ、という単純で凶悪なのが登場しました-;。母系の女神を殺してしまえば、その部族ごと自分の支配下において奴隷化できるし。というわけで女媧ちゃんがバラバラになって植物にされてしまったものが「山海教」の「帝女」です。太母としての女媧ちゃんと、帝女の2系統の神話があるわけですから、この2つは別々に発生して発達したきたものと考えます。要は「原始女媧ちゃん」から『高唐賦』の女神と、「山海教」の「帝女」が別々に発生して発達してきたのが中国の神話だと私は考えているわけです。朝鮮の女神の系譜にはあまり詳しくありませんが、日本に神話でいえば、「死なないで帝祖となっている天照」と、「死んで蚕とかに代わった女神群」に大雑把に分かれるわけです。そして、「生贄の男をバラバラ?」の女神を投影して、神宮皇后とか「夫の方が先に早く死んじゃって自分と子供だけ栄える女神」ってけっこう日本の神話にもいるような気がします-;。(西方だとキュベレーとかイシスとか・・・-;)須佐之男を天界から追放する(殺す)天照大神にもその性質が認められます。須佐之男には「瓜」としての性質と「逆向きの殺す神」の2種類の性質が含まれているのです。

 だから、袁珂大先生は、せめて「高唐賦」から「山海経」に発展したと言ってくれれば、もう少し点数を高くあげれたのに? という気持ちです。どちらも元は「同じ女神」であるので、発達時期に相互に移行する要素は「全くなかった」とは言い切れないので、100点満点中5点はあげます。

 そして、今日城の建築に男女の二人の「人身御供」が捧げられた現場を検証してきたわけです。一人は「若い未婚の娘」である。霊を慰めるために人造男根を・・・って言うと朝鮮風ですが、日本人はそうは言わない。でも、神話的には女媧ちゃんであり「岩戸に放り込まれた天照大神」を意味することは明らかなわけです。(神話では天照大神は岩戸から復活するわけですが)天照大神を助けるのは力持ちの天之手力男神とされているわけで、日本的には人造男根よりも天之手力男神を天照大神に奉納すべき、となるところですが、なんだか「力持ちの男性」も人柱にされてしまっているようで。しかも、天主には「日本一」と書かれた木の切り株が頂点にあるわけで。木(植物)の神とは須佐之男である。ちょっと待ったー、そいつの出発点は単なるきゅうりのはず、と思うあたくしである。

 きゅうりを日本一にするために天照大神と天之手力男神を人柱にしろっていう城だよねえ、その城ねえ? と思う。しかも出入り口を善光寺と鞍馬寺と聖徳太子とかで封印してるわけで。裏鬼門は八坂だし。郡上八幡恐るべし・・・。

 ですが、行きも帰りもシャトルバスに乗れたので、好感度はけっこう高かった郡上八幡なわけで-;。「行け」と言われるわけだー;。行けば須佐之男の正体がきゅうり(正確には瓢箪)であることが分かる、ということで-;。アッティス、オシリス、エンキ・・・生贄に捧げられた魚の神のエンキだ、それ、と思う。

 美濃もそろそろ佳境です。でも旅はまだまだ続きです。