22年9月15日_2

 本日は外作業と買い物のみ。母親は土の埋め戻し、石の片付け、土の清掃等、姉は土の清掃、石片付け等、私は土掘りでした。

 裁縫は、シャツがカフス作り、父親のシャツは裾の始末、簡易シャツは襟ぐりの始末でした。

 テレビは昨夜は「ブンブブーン」の録画、今日の昼は「ブンブブーン」の録画の続きと「いたジャン」の録画を少し見ました。

22年9月15日

 朝から猿を探し回るの図。

 猿供養寺というところに行って来たわけです。で、出典を知らねば、ということで手元にある今昔を漁る。寺の縁起は

 2匹の猿が説法を聞きに来ていた。で、猿が功徳を積みたくて、和尚さんに法華教の写経を御願いした。で、猿はお礼に山菜などをお布施として届けてくれていた。写経が完成する前に猿達が訪ねてこなくなったので、和尚さんが心配していたところ、2匹の猿が山芋を掘っている途中で、穴に頭を突っ込んで死んでいるのが見つかった。依頼主が死んだので写経は頓挫し、和尚さんは猿達をねんごろに弔ってやった。
 何十年もの後に、都から国司が寺を訪ねてきて、「我ら夫婦は写経を祈願した功徳で人間に生まれ変わった猿である。未完成の写経を完成させたい」と言った。和尚さんは感動して写経を再開し、完成させた功徳で極楽往生を遂げた。国司夫婦はますます仏道の道に励んだ。めでたしめでたし。

という内容である。・・・どこのハイヌウェレ猿だそれ、とまず思う-;。で、猿を供養した寺なので「猿供養寺」と呼ばれるようになったわけですが、寺の元の名前は「乙宝寺」あるいは「乙寺」という。それは、寺を開いた時に、お釈迦様の目を片方納めたので「乙寺」という名前になって、中国にはもう片方を納めた寺があって「甲寺」と呼ばれている、という縁起があるそうである。現在「乙宝寺」というお寺は新潟市の北の方にあり、真言宗智山派のお寺である。ところが、「猿供養」の伝説と「乙宝寺」の伝説は新潟県内に複数箇所あって、5,6カ所くらいに登るのではないか、と思う。現在では伝説はあるけどお寺の影もないところもある。それは何故なのか? どこが今昔の乙宝寺なのか、というちょっとした歴史ミステリーにもなっているらしい。

猿が2匹、というのは「1匹の猿を2つに分けた」という暗喩であって、本当はそんなものではなくて、伝承地が複数にわたる、ということは5つか6つくらいにバラバラに分けたことを暗喩しているのだと思う。猿は良い行いをしたのに、(神に? あるいは天とか運命に?)殺されてしまい、新潟県各地に埋められた、とされたのだと思う。これが各地に伝承がある理由の一つである。「良い行いをしたのに殺される」というのは、炎帝の子孫と言いたいらしい賀茂系氏族が「炎帝を民間伝承化させる際に作った定型的パターン」であって、飛騨の両面宿儺、信濃の八面大王、上野の羊大夫と「同じ物」が近隣県に複数存在するので、越後の「法華猿」は長野県で言うところの「八面大王」であり、中国神話で言うところの「炎帝蚩尤(饕餮)」であり、要は須佐之男ということである。賀茂系氏族の自慢のご先祖サマでは??? と思う。

で、一方、この「法華猿」を始めとして、日本では猿神が生贄を求める、という話がいくつもある。尾張國府宮では「通りすがりの旅人を捕まえて人身御供にした」という祭祀を、形を変えつつ今でも行っている。板倉町猿供養寺では「旅の僧が山(神)を鎮めるための人身御供になった」という伝承があり、実際に人骨も出てきている。すなわち、これは「猿神に対する人身御供」であり、しかも山芋猿の頭が土に埋められた、のと対応するように旅の僧も土に埋められている。往古は生贄の頭だけ埋めていたものが、鎌倉末期には全身を埋めるものとなったのではないか。生贄は猿神と一体化する存在となるのだから、最初から猿として表現されることもある。そして、生贄の頭(乙)を埋めるから「乙宝寺」とした方が本来の意味なのではないか。

で、これは伝承より、国府機能と関わっていることは明らかである。国司は国を治める祭祀を行う立場でもある。要は「生贄の頭を猿神(須佐之男)に捧げる乙寺祭祀」は本来、国を鎮めるためのもので、国司が取り仕切っていたものではないのか、と思う。板倉は信越国境にあり、信越国境が重要視されていた時代はそこで祭祀が行われ、国府も上越にあった。信越国境よりも東北新潟国境が軍事的に重要視される時代になると、寺とその機能は次第に北に移され、新潟の北、奥越国境まで最終的に移された。これが、各地に「猿供養伝説」があるもう一つの理由ではないだろうか。

また、仏教的な功徳を積めば、猿でも人間に生まれ変われる、という点が、「自らを犠牲にして良い行いをすれば、良い境遇に生まれ変われる」という方便として平安時代以降多用された事実も示されているように思う。祭祀が開始されたころの往古は尾張國府宮の祭祀のように人身御供を無理矢理捕まえて殴ったり蹴ったりして弱らせて人身御供に捧げなければならなかったが、仏教のおかげで「次は良いところに生まれ変われるよ」と言うと、板倉の僧侶のように自ら進んで生贄になるものも出てくるようになったのではないか。板倉の確認されている人身御供は鎌倉末期のもので、国衙の機能がすでに失われていたので、人身御供の理由として「山崩れを防ぐ(山の神の怒りを防ぐ)」とされたのであろう。一方、尾張國府宮では国衙の機能が失われた後でも、国衙で行うべき祭祀を粘り強く続けてたわけだ。カモカモ様達の巨大拠点だし-;。

というわけで、なんというか、なんとかっていう新興宗教、仏とか大きな乗がどうとかっていうやつが、1500年前くらいにこの国に入ってきたと思うわけですが。「人身御供になれば良いところに生まれ変われるから人身御供になれ」っていう方便教だったようで。人を救うのではなくて、「人をたやすく殺すことを正当化する宗教」なんじゃないの。なんのためのそんなものをこの国に持ち込んだのか。

くそ先祖が!!!

と金刺の舎人のことを今日ほどそう思ったことはありません。しかもそれを広めることを協力した聖徳太子ってどういう人? と思うわけで。殺された2匹の猿は、夫婦神でもあって、猿をトーテムとする者達にとっては「遠祖」ともいえる。須佐之男でなければ、「イザナミとイザナギ」要は「女媧と伏羲」、越後でいうところの「穂屋姫と弥彦」に重ね合わせている、ともいえる。信濃で言うところの諏訪大社下社のお船祭りで焼かれる爺婆、道陸神で焼かれる爺婆でもある。親殺し、神殺しを誇る須佐之男の子孫を誇る人々もこの世にいるのです。彼らにはたくさんの「頭(乙)」がある。でも、一番重要な「弁髪」の頭は石峁遺跡の頃から次第に隠れて姿を見せない方針になっていたようで。

我が家の境界についてしのごの言ってたのがいたな、「境界の神だけに」とそんな気がどこかにするわけです。でもあたくしの個人的なことはともかくとして、人身御供を実際にやっていたところが、本命の頭に近いところでもあると思う。要は板倉町の猿供養寺が一番古く、本家本元の猿供養寺だったのではないか、とあたくしは思うわけです。

平安時代の貴族は、自らは仏道修行に励みながら、もう一方で国衙では人身御供の祭祀を当たり前にやってたわけだ。(人身御供を止めた清盛は平安も末期の人だし-;)まさに「平安の闇」ですな。