本日の日誌

本日は親の付き添いで病院に行ったので、作業は控えめであって。だいたい、家を建てる前の辺りまでの資料を揃えて。

病院の方は、それほど不安ではなかったけれども、なんとなく漠然と不安ではあって。昨日もヘリがけっこう出てたし。家を出る直前までKinKi-KidsのDVDを見てた。そうすると、7番目の兄さんに「良くも悪くも、病院のことはあなたが一番の得意分野でしょ。」と言われる気がするわけで。で、今回は、7番目の兄さんが降臨してきて、ずっと取り憑いていてくれたわけで。

どうも、ウロ部長サマが言うには、「PSAが上がってきたので、1年くらい薬を続けて、また薬を止めたい」とか「副作用が心配」とか言うわけで。10年以上もカソを飲んで来て副作用が特に出ていない(わけでもないけど、死ぬようなものはない。女性化乳房とかで普通は死なない)のに、何を心配するのか? とか、「副作用が心配なのなら、薬を止めるのではなくて、変える」なんじゃないの? とか思うわけですが、どうも「家族が希望するから抗がん剤を止めた」という方向に話を持っていきたいらしくて。「私に相談しないで、薬を止めないでください(あんたは信用できないから)。」と言ってやったら、「本当は薬はずっと飲み続けた方がいいんですけどね。」とかって言うわけで。何言ってやがる、サイコパスの殺人未遂鬼が、とか内心は思うわけですが-;。同業者に不安感をあおるようなこと言って、何の役に立つと思うのかが不明である。私が「取扱規約を持ってきて説明してください」って言い出さないうちにおとなしくしてた方が身のためだ、と思う。最近では、間欠療法も流行らないので。薬を止める理由は何もない。

だいたい、今は重要な主な病気は、みんな「プロトコル」って言って、学会規定の治療方針が決まってるものなので。それさえちゃんとわきまえていれば、ど素人よりもましなくらいの新人でも普通の処方箋くらいは書ける。医者の仕事は、そういう点では、90%の理論と10%の経験でできていると思うわけで。「こういう風に治療すべき」という「理屈」だけで9割は何もかもが決まる。残りの1割は、医者の手術の手技とか、経験則で分かっている微妙なこととか、そういうものであって。手技とかは、誰でも経験しないと身につかないから、それは経験を積むしかない。でないと、私みたいに、簡単な傷の縫合もできない医者ができあがるわけで(笑)。でも9割の「理屈」の方はそれなりに身についてるのよ、と思う。

でも、7番目の兄さんの「目の力」は、割と相性が良いというか、負担にならない気がするわけで。

あとは、Amazonが頼んだモノを連絡もなく送ってこなかったり、微妙に挙動が不審だと思うわけで。

台湾の伝承とか読んでいて思うけれども、地震とか津波を起こす神は、ウナギ(蛇でなきゃミミズ)でもあるし、人の姿にも化けられる神であると思う。これが「河の神」でもあるわけですが、人の姿をとる時には巨人であって、男根が蛇のように大きかったりする。で、特に思うわけですが、中国で豚を飼うようになると、重要な食料源である豚を神聖視して、「頭が豚で、尻尾が蛇」というような「合成神」を考え出すわけで。これが「竜」の始まりなわけです。で、「なんでも貪欲に食べてしまうその豚の頭」が「饕餮」である、と言われる気がするわけで。

だいたい、なんで、「饕餮」とは「頭だけの化け物」なのですかね? と思う。要するに、本来の「饕餮」とは、「河の神の代理人」であり、河伯に生け贄を捧げる代理人でもあるし、生け贄を受け取る代理人でもあるから、そうやって周辺の部族に生け贄を強要して圧迫すれば、自らが粛正されることになる。そうやって、饕餮は殺されて首にされてしまったので、その子孫達は「首になった饕餮」の子孫として、河の神に生け贄を捧げる儀式を続けてる。そうやって、生け贄の「祭り」と称して、人々から金を巻き上げ、自分だけがおいしい思いをすることをやめられないから、自らのために、「生首となった先祖」に生け贄を捧げ続けて、そうして先祖の神を利用している、と言われる気がするわけで@@。

「饕餮」とは、「蚩尤」とは、誰に殺されたのですかね? となれば、答えは「黄帝」となるわけですが。でも、「黄帝」であるところの「盤古」は、「死んで死体から太陽や月や大地ができた」と言われるし、「蚩尤」の方は「死んでバラバラにされた」という伝承があるわけで、残された伝承からは、盤古も蚩尤も似てるけど、違うモノなのか、同じものなのかはっきりしない、という感じになっている。

でも、あたしが思うに、台湾の伝承のウナギが化けた「巨人神」が「蚩尤(饕餮)」に相当するものだとすると、これは日本の伝承の中では、「ダイダラボッチ」と「須佐之男」に相当するものとなります。須佐之男は、織り姫に狼藉を働いて殺してしまう。これは台湾の巨人神と同じ性質です。そして、ダイダラボッチは開拓もするけれども、山を動かしたり勝手なことを気ままにやろうとする。これも、台湾の巨人神を同じ性質です。要するに、ダイダラボッチとは、ウナギであって、頭は豚であって、巨人神で「河伯」であるので、その子孫である「太田田井」を名乗る人々は「河の神の子孫」なわけです。だから「太田田井」の統領は、「河の神の代理人」であって、水害を起こさないために河の神に生け贄を捧げる祭祀を取り仕切る存在であるし、その祭りをやるための費用を人々から取り立てる権利も持ってる人なわけです。要するに「身分」ってそういうことなわけだ。で、ここで述べる「河の神」とは、「怒るとたたって、水害とか、津波(地震)を起こす神」なわけです。けっして、人々に良質の水を与えて、豊穣をもたらすための神ではなく、あくまでも「怒らせないようにするため」の神なわけ。だから、この神様は、お金を払えないような貧乏人には用がない神様なわけです-;。

で、困るわけだけれども、そもそも「神」とか「宗教」という概念は、「人類」のものではないわけです。人類よりも先行していたネアンデルタール人は、人類よりも大柄で、脳の容積も大きく、弱い人を看病したり、死者を埋葬したり、熊を埋葬してなんらかの宗教的行為をしていたらしくて。要は「神」とか「宗教」という概念は、人類はネアンデルタール人から借りてきてるに過ぎないわけです。で、人類の先祖はネアンデルタール人とかなり混血していて、今の「現世人類」は4%くらいネアンデルタール人の遺伝子を持っていると言われている。だから、「弱者を思いやる」とか「神を敬う」とか、「弱い立場の人を思いやる神」というような概念は4%のネアンデルタール人のご先祖サマから貰った文化であって、残りの96%は、「自分だけ良ければいい」というそういうお猿さんだったらしくて。お猿さんが、ネアンデルタール人を真似で「神」というものを作っても、それはどうしても「弱い立場の人を思いやる神」ではなくて、「怒るとたたる神」になってしまうらしくて。人類は、「神」というものは、本来「怒るとたたる神」ではなかったはず、とは分かっているけれども、「弱い立場の人を思いやる神」というものの概念が自力では理解できないらしくて。なぜなら、人類そのものが、本当は「自分だけ良ければいい」という自分勝手なお猿さんで、繁殖力の高さで繁栄しているけれども、人口が増えすぎて困ると、「邪魔な者は殺せばいい」というような思考回路しか持ってない生き物だからなわけです。ネアンデルタール人の「弱者保護」の精神は、おそらく彼らが繁殖力の低い猿であって、人口は抑制ではなくて、増やす必要があったから発達したものであるのだと思う。神という概念も、宗教という概念も原因は「繁殖力の低さを補いたい」というところから来てたのではないのか、と思う。

というわけで、ネアンデルタール人4%、自分勝手な猿96%の子孫達は、96%の先祖達から貰った繁殖力の高さを誇っているけれども、その先祖達が持っていた自分勝手な本能だけでは、世界は成り立たない、弱い立場の人達への思いやりも必要だし、環境を守り維持するための努力と節操も必要だ、と分かっている人もけっこういるわけで。そういう人達は、本来の「神」の姿とは何なのか、「思いやり」とか「公平」とか「平等」とは何なのかを知って、それを自分たちの生きる参考にもしたいし、理想にもしたいわけです。でも、ネアンデルタール人そのものは、2万年前に滅びてしまって、今、純粋なネアンデルタール人はいない。ネアンデルタール人の本能と思想を理解したくても教えてくれる人がいないわけです。

でも、人間の中には「転生」を繰り返して、何千年も「生きている人」もいる。だから、元は「人類」ではなくて、「ネアンデルタール人」であったものが転生している人もいる。そういう人は、ネアンデルタール人の「目」を持っていて、ネアンデルタール人の本能と思想を持って生まれてくる。そういう子供を「人類にとっての宝」とみるのか、「怒るとたたる神」を否定して、その祭祀を邪魔する「邪魔者」とみるかで評価は真っ二つに分かれる、ということで。蛙の王家は「怒るとたたる神」を否定されると、うまい汁を吸う理由が失われるので、それは困ると思ってる。だから、蛙の王家は、「河の神」である「饕餮」と、「河の神」を殺して良い世界を作ろうとした「盤古」を似たようなものとする神話をわざと作って、区別がつかないようにごまかしてしまってる。日本の神話においてもそうであって、須佐之男は本来「河伯」であったはずなのに、「ヤマタノオロチ」を退治する神、としても意図的に作られている。須佐之男は「河伯」ともとれるし、「黄帝」とも取れる性質を意図的に持たされている。

要するに「黄帝」とは、「ネアンデルタール的な理想」の世の中を求める代表のような存在なのに、性質の悪い「河伯」と意図的にまぜこぜにすることで、どっちがどっちなのか区別がつかないように、わざと神話を作っているわけで。どういうわけか、そういうことをされると、私にも「河伯」であるところの2番目の子と、「黄帝」であるところの7番目の兄さんの、どちらを取るべきであるのか分からなくなる、ということらしくて。「河伯」が「たたる神」であるなら、あの大地震で原発を爆発させようとしたのも「河伯」なんじゃん? と思う。それを「止める」ことを選ぶ、ということは、結局7番目の兄さんを選んだのと同じ事、ということで。それで、色々と動き出したんだなあ、と思う。「神は愛の神である」と説いたイエス・キリスト、「弱者が自分の身を守るためには言葉の使い方を学ぶべきである」ということを突きつけたアリストテレス、「法とは弱者の保護のためにある」と断言したハンムラビ大王、これらの人々は全て「同じ人」であって、何万年も「生きている」ネアンデルタール人、と言われる気がするわけで@@。爆発しそうな原発に「水をかけろ」って言ったらネアンデルタール人の証なの? 医者に殺人を目論むのではなくて、まともな仕事をしろって言ったらネアンデルタール人なんかい??? と思うわけですが@@。ともかく、蛙の王家は、それは私が「ネアンデルタール人の生まれ変わり」であって、矯正なんかできないから邪魔、だと思ってるし、「河伯」は許さざれるべき存在だと思ってる7番目の兄さんも邪魔らしくて。変な話だ、と思う。でも、どうも現実らしいです。もって生まれた思想なんて、上っ面の教育とかで左右はできないです。それは分かります。

本日の日誌

本日は親の付き添いで病院に行ったので、作業は控えめであって。だいたい、家を建てる前の辺りまでの資料を揃えて。

病院の方は、それほど不安ではなかったけれども、なんとなく漠然と不安ではあって。昨日もヘリがけっこう出てたし。家を出る直前までKinKi-KidsのDVDを見てた。そうすると、7番目の兄さんに「良くも悪くも、病院のことはあなたが一番の得意分野でしょ。」と言われる気がするわけで。で、今回は、7番目の兄さんが降臨してきて、ずっと取り憑いていてくれたわけで。

どうも、ウロ部長サマが言うには、「PSAが上がってきたので、1年くらい薬を続けて、また薬を止めたい」とか「副作用が心配」とか言うわけで。10年以上もカソを飲んで来て副作用が特に出ていない(わけでもないけど、死ぬようなものはない。女性化乳房とかで普通は死なない)のに、何を心配するのか? とか、「副作用が心配なのなら、薬を止めるのではなくて、変える」なんじゃないの? とか思うわけですが、どうも「家族が希望するから抗がん剤を止めた」という方向に話を持っていきたいらしくて。「私に相談しないで、薬を止めないでください(あんたは信用できないから)。」と言ってやったら、「本当は薬はずっと飲み続けた方がいいんですけどね。」とかって言うわけで。何言ってやがる、サイコパスの殺人未遂鬼が、とか内心は思うわけですが-;。同業者に不安感をあおるようなこと言って、何の役に立つと思うのかが不明である。私が「取扱規約を持ってきて説明してください」って言い出さないうちにおとなしくしてた方が身のためだ、と思う。最近では、間欠療法も流行らないので。薬を止める理由は何もない。

だいたい、今は重要な主な病気は、みんな「プロトコル」って言って、学会規定の治療方針が決まってるものなので。それさえちゃんとわきまえていれば、ど素人よりもましなくらいの新人でも普通の処方箋くらいは書ける。医者の仕事は、そういう点では、90%の理論と10%の経験でできていると思うわけで。「こういう風に治療すべき」という「理屈」だけで9割は何もかもが決まる。残りの1割は、医者の手術の手技とか、経験則で分かっている微妙なこととか、そういうものであって。手技とかは、誰でも経験しないと身につかないから、それは経験を積むしかない。でないと、私みたいに、簡単な傷の縫合もできない医者ができあがるわけで(笑)。でも9割の「理屈」の方はそれなりに身についてるのよ、と思う。

でも、7番目の兄さんの「目の力」は、割と相性が良いというか、負担にならない気がするわけで。

あとは、Amazonが頼んだモノを連絡もなく送ってこなかったり、微妙に挙動が不審だと思うわけで。

台湾の伝承とか読んでいて思うけれども、地震とか津波を起こす神は、ウナギ(蛇でなきゃミミズ)でもあるし、人の姿にも化けられる神であると思う。これが「河の神」でもあるわけですが、人の姿をとる時には巨人であって、男根が蛇のように大きかったりする。で、特に思うわけですが、中国で豚を飼うようになると、重要な食料源である豚を神聖視して、「頭が豚で、尻尾が蛇」というような「合成神」を考え出すわけで。これが「竜」の始まりなわけです。で、「なんでも貪欲に食べてしまうその豚の頭」が「饕餮」である、と言われる気がするわけで。

だいたい、なんで、「饕餮」とは「頭だけの化け物」なのですかね? と思う。要するに、本来の「饕餮」とは、「河の神の代理人」であり、河伯に生け贄を捧げる代理人でもあるし、生け贄を受け取る代理人でもあるから、そうやって周辺の部族に生け贄を強要して圧迫すれば、自らが粛正されることになる。そうやって、饕餮は殺されて首にされてしまったので、その子孫達は「首になった饕餮」の子孫として、河の神に生け贄を捧げる儀式を続けてる。そうやって、生け贄の「祭り」と称して、人々から金を巻き上げ、自分だけがおいしい思いをすることをやめられないから、自らのために、「生首となった先祖」に生け贄を捧げ続けて、そうして先祖の神を利用している、と言われる気がするわけで@@。

「饕餮」とは、「蚩尤」とは、誰に殺されたのですかね? となれば、答えは「黄帝」となるわけですが。でも、「黄帝」であるところの「盤古」は、「死んで死体から太陽や月や大地ができた」と言われるし、「蚩尤」の方は「死んでバラバラにされた」という伝承があるわけで、残された伝承からは、盤古も蚩尤も似てるけど、違うモノなのか、同じものなのかはっきりしない、という感じになっている。

でも、あたしが思うに、台湾の伝承のウナギが化けた「巨人神」が「蚩尤(饕餮)」に相当するものだとすると、これは日本の伝承の中では、「ダイダラボッチ」と「須佐之男」に相当するものとなります。須佐之男は、織り姫に狼藉を働いて殺してしまう。これは台湾の巨人神と同じ性質です。そして、ダイダラボッチは開拓もするけれども、山を動かしたり勝手なことを気ままにやろうとする。これも、台湾の巨人神を同じ性質です。要するに、ダイダラボッチとは、ウナギであって、頭は豚であって、巨人神で「河伯」であるので、その子孫である「太田田井」を名乗る人々は「河の神の子孫」なわけです。だから「太田田井」の統領は、「河の神の代理人」であって、水害を起こさないために河の神に生け贄を捧げる祭祀を取り仕切る存在であるし、その祭りをやるための費用を人々から取り立てる権利も持ってる人なわけです。要するに「身分」ってそういうことなわけだ。で、ここで述べる「河の神」とは、「怒るとたたって、水害とか、津波(地震)を起こす神」なわけです。けっして、人々に良質の水を与えて、豊穣をもたらすための神ではなく、あくまでも「怒らせないようにするため」の神なわけ。だから、この神様は、お金を払えないような貧乏人には用がない神様なわけです-;。

で、困るわけだけれども、そもそも「神」とか「宗教」という概念は、「人類」のものではないわけです。人類よりも先行していたネアンデルタール人は、人類よりも大柄で、脳の容積も大きく、弱い人を看病したり、死者を埋葬したり、熊を埋葬してなんらかの宗教的行為をしていたらしくて。要は「神」とか「宗教」という概念は、人類はネアンデルタール人から借りてきてるに過ぎないわけです。で、人類の先祖はネアンデルタール人とかなり混血していて、今の「現世人類」は4%くらいネアンデルタール人の遺伝子を持っていると言われている。だから、「弱者を思いやる」とか「神を敬う」とか、「弱い立場の人を思いやる神」というような概念は4%のネアンデルタール人のご先祖サマから貰った文化であって、残りの96%は、「自分だけ良ければいい」というそういうお猿さんだったらしくて。お猿さんが、ネアンデルタール人を真似で「神」というものを作っても、それはどうしても「弱い立場の人を思いやる神」ではなくて、「怒るとたたる神」になってしまうらしくて。人類は、「神」というものは、本来「怒るとたたる神」ではなかったはず、とは分かっているけれども、「弱い立場の人を思いやる神」というものの概念が自力では理解できないらしくて。なぜなら、人類そのものが、本当は「自分だけ良ければいい」という自分勝手なお猿さんで、繁殖力の高さで繁栄しているけれども、人口が増えすぎて困ると、「邪魔な者は殺せばいい」というような思考回路しか持ってない生き物だからなわけです。ネアンデルタール人の「弱者保護」の精神は、おそらく彼らが繁殖力の低い猿であって、人口は抑制ではなくて、増やす必要があったから発達したものであるのだと思う。神という概念も、宗教という概念も原因は「繁殖力の低さを補いたい」というところから来てたのではないのか、と思う。

というわけで、ネアンデルタール人4%、自分勝手な猿96%の子孫達は、96%の先祖達から貰った繁殖力の高さを誇っているけれども、その先祖達が持っていた自分勝手な本能だけでは、世界は成り立たない、弱い立場の人達への思いやりも必要だし、環境を守り維持するための努力と節操も必要だ、と分かっている人もけっこういるわけで。そういう人達は、本来の「神」の姿とは何なのか、「思いやり」とか「公平」とか「平等」とは何なのかを知って、それを自分たちの生きる参考にもしたいし、理想にもしたいわけです。でも、ネアンデルタール人そのものは、2万年前に滅びてしまって、今、純粋なネアンデルタール人はいない。ネアンデルタール人の本能と思想を理解したくても教えてくれる人がいないわけです。

でも、人間の中には「転生」を繰り返して、何千年も「生きている人」もいる。だから、元は「人類」ではなくて、「ネアンデルタール人」であったものが転生している人もいる。そういう人は、ネアンデルタール人の「目」を持っていて、ネアンデルタール人の本能と思想を持って生まれてくる。そういう子供を「人類にとっての宝」とみるのか、「怒るとたたる神」を否定して、その祭祀を邪魔する「邪魔者」とみるかで評価は真っ二つに分かれる、ということで。蛙の王家は「怒るとたたる神」を否定されると、うまい汁を吸う理由が失われるので、それは困ると思ってる。だから、蛙の王家は、「河の神」である「饕餮」と、「河の神」を殺して良い世界を作ろうとした「盤古」を似たようなものとする神話をわざと作って、区別がつかないようにごまかしてしまってる。日本の神話においてもそうであって、須佐之男は本来「河伯」であったはずなのに、「ヤマタノオロチ」を退治する神、としても意図的に作られている。須佐之男は「河伯」ともとれるし、「黄帝」とも取れる性質を意図的に持たされている。

要するに「黄帝」とは、「ネアンデルタール的な理想」の世の中を求める代表のような存在なのに、性質の悪い「河伯」と意図的にまぜこぜにすることで、どっちがどっちなのか区別がつかないように、わざと神話を作っているわけで。どういうわけか、そういうことをされると、私にも「河伯」であるところの2番目の子と、「黄帝」であるところの7番目の兄さんの、どちらを取るべきであるのか分からなくなる、ということらしくて。「河伯」が「たたる神」であるなら、あの大地震で原発を爆発させようとしたのも「河伯」なんじゃん? と思う。それを「止める」ことを選ぶ、ということは、結局7番目の兄さんを選んだのと同じ事、ということで。それで、色々と動き出したんだなあ、と思う。「神は愛の神である」と説いたイエス・キリスト、「弱者が自分の身を守るためには言葉の使い方を学ぶべきである」ということを突きつけたアリストテレス、「法とは弱者の保護のためにある」と断言したハンムラビ大王、これらの人々は全て「同じ人」であって、何万年も「生きている」ネアンデルタール人、と言われる気がするわけで@@。爆発しそうな原発に「水をかけろ」って言ったらネアンデルタール人の証なの? 医者に殺人を目論むのではなくて、まともな仕事をしろって言ったらネアンデルタール人なんかい??? と思うわけですが@@。ともかく、蛙の王家は、それは私が「ネアンデルタール人の生まれ変わり」であって、矯正なんかできないから邪魔、だと思ってるし、「河伯」は許さざれるべき存在だと思ってる7番目の兄さんも邪魔らしくて。変な話だ、と思う。でも、どうも現実らしいです。もって生まれた思想なんて、上っ面の教育とかで左右はできないです。それは分かります。

本日の日誌

本日は親の付き添いで病院に行ったので、作業は控えめであって。だいたい、家を建てる前の辺りまでの資料を揃えて。

病院の方は、それほど不安ではなかったけれども、なんとなく漠然と不安ではあって。昨日もヘリがけっこう出てたし。家を出る直前までKinKi-KidsのDVDを見てた。そうすると、7番目の兄さんに「良くも悪くも、病院のことはあなたが一番の得意分野でしょ。」と言われる気がするわけで。で、今回は、7番目の兄さんが降臨してきて、ずっと取り憑いていてくれたわけで。

どうも、ウロ部長サマが言うには、「PSAが上がってきたので、1年くらい薬を続けて、また薬を止めたい」とか「副作用が心配」とか言うわけで。10年以上もカソを飲んで来て副作用が特に出ていない(わけでもないけど、死ぬようなものはない。女性化乳房とかで普通は死なない)のに、何を心配するのか? とか、「副作用が心配なのなら、薬を止めるのではなくて、変える」なんじゃないの? とか思うわけですが、どうも「家族が希望するから抗がん剤を止めた」という方向に話を持っていきたいらしくて。「私に相談しないで、薬を止めないでください(あんたは信用できないから)。」と言ってやったら、「本当は薬はずっと飲み続けた方がいいんですけどね。」とかって言うわけで。何言ってやがる、サイコパスの殺人未遂鬼が、とか内心は思うわけですが-;。同業者に不安感をあおるようなこと言って、何の役に立つと思うのかが不明である。私が「取扱規約を持ってきて説明してください」って言い出さないうちにおとなしくしてた方が身のためだ、と思う。最近では、間欠療法も流行らないので。薬を止める理由は何もない。

だいたい、今は重要な主な病気は、みんな「プロトコル」って言って、学会規定の治療方針が決まってるものなので。それさえちゃんとわきまえていれば、ど素人よりもましなくらいの新人でも普通の処方箋くらいは書ける。医者の仕事は、そういう点では、90%の理論と10%の経験でできていると思うわけで。「こういう風に治療すべき」という「理屈」だけで9割は何もかもが決まる。残りの1割は、医者の手術の手技とか、経験則で分かっている微妙なこととか、そういうものであって。手技とかは、誰でも経験しないと身につかないから、それは経験を積むしかない。でないと、私みたいに、簡単な傷の縫合もできない医者ができあがるわけで(笑)。でも9割の「理屈」の方はそれなりに身についてるのよ、と思う。

でも、7番目の兄さんの「目の力」は、割と相性が良いというか、負担にならない気がするわけで。

あとは、Amazonが頼んだモノを連絡もなく送ってこなかったり、微妙に挙動が不審だと思うわけで。

台湾の伝承とか読んでいて思うけれども、地震とか津波を起こす神は、ウナギ(蛇でなきゃミミズ)でもあるし、人の姿にも化けられる神であると思う。これが「河の神」でもあるわけですが、人の姿をとる時には巨人であって、男根が蛇のように大きかったりする。で、特に思うわけですが、中国で豚を飼うようになると、重要な食料源である豚を神聖視して、「頭が豚で、尻尾が蛇」というような「合成神」を考え出すわけで。これが「竜」の始まりなわけです。で、「なんでも貪欲に食べてしまうその豚の頭」が「饕餮」である、と言われる気がするわけで。

だいたい、なんで、「饕餮」とは「頭だけの化け物」なのですかね? と思う。要するに、本来の「饕餮」とは、「河の神の代理人」であり、河伯に生け贄を捧げる代理人でもあるし、生け贄を受け取る代理人でもあるから、そうやって周辺の部族に生け贄を強要して圧迫すれば、自らが粛正されることになる。そうやって、饕餮は殺されて首にされてしまったので、その子孫達は「首になった饕餮」の子孫として、河の神に生け贄を捧げる儀式を続けてる。そうやって、生け贄の「祭り」と称して、人々から金を巻き上げ、自分だけがおいしい思いをすることをやめられないから、自らのために、「生首となった先祖」に生け贄を捧げ続けて、そうして先祖の神を利用している、と言われる気がするわけで@@。

「饕餮」とは、「蚩尤」とは、誰に殺されたのですかね? となれば、答えは「黄帝」となるわけですが。でも、「黄帝」であるところの「盤古」は、「死んで死体から太陽や月や大地ができた」と言われるし、「蚩尤」の方は「死んでバラバラにされた」という伝承があるわけで、残された伝承からは、盤古も蚩尤も似てるけど、違うモノなのか、同じものなのかはっきりしない、という感じになっている。

でも、あたしが思うに、台湾の伝承のウナギが化けた「巨人神」が「蚩尤(饕餮)」に相当するものだとすると、これは日本の伝承の中では、「ダイダラボッチ」と「須佐之男」に相当するものとなります。須佐之男は、織り姫に狼藉を働いて殺してしまう。これは台湾の巨人神と同じ性質です。そして、ダイダラボッチは開拓もするけれども、山を動かしたり勝手なことを気ままにやろうとする。これも、台湾の巨人神を同じ性質です。要するに、ダイダラボッチとは、ウナギであって、頭は豚であって、巨人神で「河伯」であるので、その子孫である「太田田井」を名乗る人々は「河の神の子孫」なわけです。だから「太田田井」の統領は、「河の神の代理人」であって、水害を起こさないために河の神に生け贄を捧げる祭祀を取り仕切る存在であるし、その祭りをやるための費用を人々から取り立てる権利も持ってる人なわけです。要するに「身分」ってそういうことなわけだ。で、ここで述べる「河の神」とは、「怒るとたたって、水害とか、津波(地震)を起こす神」なわけです。けっして、人々に良質の水を与えて、豊穣をもたらすための神ではなく、あくまでも「怒らせないようにするため」の神なわけ。だから、この神様は、お金を払えないような貧乏人には用がない神様なわけです-;。

で、困るわけだけれども、そもそも「神」とか「宗教」という概念は、「人類」のものではないわけです。人類よりも先行していたネアンデルタール人は、人類よりも大柄で、脳の容積も大きく、弱い人を看病したり、死者を埋葬したり、熊を埋葬してなんらかの宗教的行為をしていたらしくて。要は「神」とか「宗教」という概念は、人類はネアンデルタール人から借りてきてるに過ぎないわけです。で、人類の先祖はネアンデルタール人とかなり混血していて、今の「現世人類」は4%くらいネアンデルタール人の遺伝子を持っていると言われている。だから、「弱者を思いやる」とか「神を敬う」とか、「弱い立場の人を思いやる神」というような概念は4%のネアンデルタール人のご先祖サマから貰った文化であって、残りの96%は、「自分だけ良ければいい」というそういうお猿さんだったらしくて。お猿さんが、ネアンデルタール人を真似で「神」というものを作っても、それはどうしても「弱い立場の人を思いやる神」ではなくて、「怒るとたたる神」になってしまうらしくて。人類は、「神」というものは、本来「怒るとたたる神」ではなかったはず、とは分かっているけれども、「弱い立場の人を思いやる神」というものの概念が自力では理解できないらしくて。なぜなら、人類そのものが、本当は「自分だけ良ければいい」という自分勝手なお猿さんで、繁殖力の高さで繁栄しているけれども、人口が増えすぎて困ると、「邪魔な者は殺せばいい」というような思考回路しか持ってない生き物だからなわけです。ネアンデルタール人の「弱者保護」の精神は、おそらく彼らが繁殖力の低い猿であって、人口は抑制ではなくて、増やす必要があったから発達したものであるのだと思う。神という概念も、宗教という概念も原因は「繁殖力の低さを補いたい」というところから来てたのではないのか、と思う。

というわけで、ネアンデルタール人4%、自分勝手な猿96%の子孫達は、96%の先祖達から貰った繁殖力の高さを誇っているけれども、その先祖達が持っていた自分勝手な本能だけでは、世界は成り立たない、弱い立場の人達への思いやりも必要だし、環境を守り維持するための努力と節操も必要だ、と分かっている人もけっこういるわけで。そういう人達は、本来の「神」の姿とは何なのか、「思いやり」とか「公平」とか「平等」とは何なのかを知って、それを自分たちの生きる参考にもしたいし、理想にもしたいわけです。でも、ネアンデルタール人そのものは、2万年前に滅びてしまって、今、純粋なネアンデルタール人はいない。ネアンデルタール人の本能と思想を理解したくても教えてくれる人がいないわけです。

でも、人間の中には「転生」を繰り返して、何千年も「生きている人」もいる。だから、元は「人類」ではなくて、「ネアンデルタール人」であったものが転生している人もいる。そういう人は、ネアンデルタール人の「目」を持っていて、ネアンデルタール人の本能と思想を持って生まれてくる。そういう子供を「人類にとっての宝」とみるのか、「怒るとたたる神」を否定して、その祭祀を邪魔する「邪魔者」とみるかで評価は真っ二つに分かれる、ということで。蛙の王家は「怒るとたたる神」を否定されると、うまい汁を吸う理由が失われるので、それは困ると思ってる。だから、蛙の王家は、「河の神」である「饕餮」と、「河の神」を殺して良い世界を作ろうとした「盤古」を似たようなものとする神話をわざと作って、区別がつかないようにごまかしてしまってる。日本の神話においてもそうであって、須佐之男は本来「河伯」であったはずなのに、「ヤマタノオロチ」を退治する神、としても意図的に作られている。須佐之男は「河伯」ともとれるし、「黄帝」とも取れる性質を意図的に持たされている。

要するに「黄帝」とは、「ネアンデルタール的な理想」の世の中を求める代表のような存在なのに、性質の悪い「河伯」と意図的にまぜこぜにすることで、どっちがどっちなのか区別がつかないように、わざと神話を作っているわけで。どういうわけか、そういうことをされると、私にも「河伯」であるところの2番目の子と、「黄帝」であるところの7番目の兄さんの、どちらを取るべきであるのか分からなくなる、ということらしくて。「河伯」が「たたる神」であるなら、あの大地震で原発を爆発させようとしたのも「河伯」なんじゃん? と思う。それを「止める」ことを選ぶ、ということは、結局7番目の兄さんを選んだのと同じ事、ということで。それで、色々と動き出したんだなあ、と思う。「神は愛の神である」と説いたイエス・キリスト、「弱者が自分の身を守るためには言葉の使い方を学ぶべきである」ということを突きつけたアリストテレス、「法とは弱者の保護のためにある」と断言したハンムラビ大王、これらの人々は全て「同じ人」であって、何万年も「生きている」ネアンデルタール人、と言われる気がするわけで@@。爆発しそうな原発に「水をかけろ」って言ったらネアンデルタール人の証なの? 医者に殺人を目論むのではなくて、まともな仕事をしろって言ったらネアンデルタール人なんかい??? と思うわけですが@@。ともかく、蛙の王家は、それは私が「ネアンデルタール人の生まれ変わり」であって、矯正なんかできないから邪魔、だと思ってるし、「河伯」は許さざれるべき存在だと思ってる7番目の兄さんも邪魔らしくて。変な話だ、と思う。でも、どうも現実らしいです。もって生まれた思想なんて、上っ面の教育とかで左右はできないです。それは分かります。