昨夜は特に夢も見ず。「しやがれ」を見て寝て。
で、寝る前に日記を読んで貰ったら、案の定、親の方から一定の反発が来るわけで。で、特に「お歌」に関する反発が特に強いわけです。「なんで、自分がそんなことをしなければならないのか」とか「自分にはそんな能力はない」と述べるのです。でも、結局「やりたくない」のでしょ? となる。でも、いろいろ話した結果、私が歌詞をプリントアウトして、親に「誰それの歌だから」と言って、読んで貰う、ということになりました。そして話している過程で、親が「贈られてきた歌と現実との関わり」、それから「太陽女神に話しかけてくる人々と現実との関わり」に特に実感が持てないことが判明しました。それ以外のこと、例えば「敵」とされている人達の敵意がすごいこと、8,6,4といった数字が敵に好まれ、味方に嫌われていること、飛行機やヘリが警告を出すのに大きく関わっていること、テレビの中の味方の服装が警告と大きく関わっていること、には現実感を持てているわけです。でも、その人の服装には現実味が持てても、言ってくることにだけ現実味が持てない、というのも変です。
太陽女神が、何故そのような現象に「現実味」を持っているのかといえば、それはいろんな騒ぎが起きた初期にまでさかのぼる出来事があったからです。最初、家はごみだらけであって、味方の声は非常に届きにくかった。2012年の春に、太陽女神がミュージックステーションの録画を見たら、福山雅治氏がゲストで登場していて「生きてる生きてく」を唄っていた。それを見た直後から、明確にいろんなことを言う声が聞こえてくるようになった。しかも、何度も福山氏の映像を見るように要求された。そして、数日の間、すなわちしばらくいろんなことがあったあげく、「家におこもりしなければならない」と言われた。「いつまで?」と思っても答えはなかった。その時にも、またその週のミュージックステーションの録画を見なければ、と思いついて見てみた。見たら、ゲストに嵐が登場していて、登場した瞬間に画面に向かって「1年」と述べた。それで、太陽女神は、「1年家に掃除をしながらおこもりしなければならないし、福山雅治氏と嵐のメンバーは今起きている現象に、どう関わっているのかまでは分からないけれども、現実に大きく関わっている。」と確信を持つに至ったわけです。だいたい、そもそも、誰が敵なのか、それとも味方なのか。良い名字と悪い名字とは何なのか、ということには興味もなければ、知りもしなかったのは太陽女神も同様なので、外の人達に教えて貰わなければ分かるはずがない。今でも家族から「○○は良い名字?」とか「××は悪い名字?」って聞かれる度に、兄さん達にいちいち聞いて教えて貰っているわけだから、一人でそんなことが分かるはずもないわけです。しかも、自分が思っていることを、他人が言っているように表現するなら、それこそ「多重人格症」なんじゃないの? となるわけで。そんな表現方法を意図してしなければならない理由はありません。
それはともかく、お母さんの問題として、お母さんはそのあたりに「現実味が持てない」と述べた。その理由はお母さんにも「分からない」とも。その場では太陽女神にも分かりませんでした。だから、女神は自室に戻って、「指導医」であるトリイ・ヘイデンに尋ねました。「何故ですか?」と。そうしたら、こう言われました。「それは、お母さん自身が、そのことを現実のこととして認めたくないからです。それを現実のこととして認めたら、母と娘の間で築かれてきた共依存関係に第3者が入り込んで来ることを認めることになるからです。」そっかー、そういうことなんだ。と太陽女神は思いましたが、このように太陽女神自身は、一定の精神科領域の知識は持っていて、教科書に載っているような典型例については解釈できますが、非典型例については、自分でもすぐには対応できません。しかし、精神科領域の問題は、一人一人異なる問題を抱えていることが多くて、問題は千差万別です。そこで、症例経験の多い人物のアドバイスが必要とされるのです。
そして、お母さんも一定の譲歩を示してくれて、歌詞をプリントアウトしてくれば、その内容について述べる、と言ってくれました。専門医は、お母さんの述べるように、一度に大量の歌を渡すのではなくて、特に問題とされる点、「歌と現実との関わりに現実味が持てない」という点を補正できるような歌を少しずつ探して提示すべきだ、と述べました。歌の内容と現実で起きていることの間に関わりが認められるものはあまり多くないのですが、ないわけではない。そこから、現実味を持つ訓練を始めるのも一つの方法だと思うからです。
そして、お母さんの疑問にも、一つには答えたいと思います。例えば、太陽女神がお姉さんの結婚について、お母さんに述べた時に、お母さんは「では、どのような結果が良かったのか」と述べました。お母さんは、問題を提起すると、良くこのように述べます。しかし、それは第三者には判断できないことです。結婚というものを当事者同士だけのもの、とするのであれば、お姉さんが望む結果になることが、お姉さんにとって一番良かったのです。結婚というものが家同士の問題であるならば、それは家の問題を取り仕切るお母さんの望む結果になることがお母さんにとって一番良かったのです。そうとしか言えない。この場合、精神科的に問題となるのは、そういうことではないのです。ジブリの鈴木さんが連載の中で、カンヤダは貧しい農村出身の女性で、可能な目的を立てて、そこに向かって道筋を作ることができない人とされている。それと対象的にアツシ君は、可能な目的を立てて、そこに可能な方法でたどり着くことができる人、とされています。だから、お姉さんの「結婚」という事象に対して、当時、おそらくお姉さんとお母さんが最終的に望んだ「目的」はそれぞれ異なると思うのですが、それぞれの立てた「目的」は実現可能なものであったのか否か、それぞれはその「目的」に向かってどう道筋を立てたのか、そして最終的にその「目的」は達せられたのか否か、そういうことを精神科は総合的に判断して、どこに問題があるのか、あるいはないのか、で、その人の人となりを判断するのです。要するに、カンヤダのような無秩序な人間なのか、アツシ君のような理論的な人間なのか、ということです。そして、その人間性のどこかに病的な面が発見されれば、それに相応しい対応をするのです。
一方、結婚というものが当事者同士の問題であれば、当事者以外の者は、口を出すべきではありません。家同士の問題であれば、仕切るのは当然親のはずです。でも、ここに、その問題で、当事者でもなければ、親でもないのに、問題に巻き込まれて、心身の健康を損ない1年の留年生活を余儀なくされるほど尽くしたのに、昨夜の話し合いの中ですら忘れ去られていた人物がいます。何故、彼女が、関わるはずのない問題に巻き込まれたのかといえば、母親が自分のところにやってきて、愚痴をぐちぐちとうるさくいうので、母親のために何かせずにはいられない、という気持ちになる。それで頑張ってはみたけれども、自分には適する問題でもない、と思う。もし、自分の方が姉で、人生経験も豊富で、結婚していたりすれば、自分の経験からアドバイスできることはいくらでもあっただろうけれども、まだ若くて、男の人とつきあったこともなくて、人見知りも激しいお年頃であったのに、なんで姉の結婚問題で振り回されなければならないのだろう、と思う。親に対して、「親が介入するならするで、相手の人となりを知るために、調べるべきことはしっかり調べるべき。」と述べても、親の方は「三水のじいちゃんはそんなことはするもんじゃないと言っていた。」と言うし、だいたいその年で「親がこう言った」「ああ言った」なんて言うもんじゃないだろー、あなた自身がいい大人でしょ? とは当時から思っていたわけで。それで心身共に病んで留年するほど家族に尽くして疲れ果てたわけですが、感謝の言葉どころか、「お疲れ様」の一言すらなかったわけで。親は当時は、「親は子供の面倒を見るのが当たり前で感謝なんてされようと思ってはいない。」というようなことをいつも言っていた。だから、大陽女神は「自分の家族は、お互いに尽くし合っても感謝する必要性のない家族であって、それは世間のルールとはちょっと違うけれども、我が家ではそういうことなのだろう。」と納得することにした。でも、なんだか急に最近「感謝」「感謝」と言われるようになったわけで、「あれ?」と思う。我が家のルールは、いつ変わったのでしょうか? と思う。そして、ルールを変えるのであれば、私が失った1年はどうしたら良いのか? とも思った。そうしたら、西欧の人々にはこう答えられました。「例えば、専業主婦の人が離婚する際に、それまでの主婦としての賃金を請求し得るように、失われた時間はお金に換算しうる。あなたは、する必要のないことで1年間を無駄にしたけれども、学業を中断するにしても、その1年を自分のためにお金を稼いでいた時間だったとするならば、アルバイトをして月に10万円の収入があったとして、1年で120万円の現金は手に入れられていたはず。法律的には、それをお姉さんの結婚に関する労働の対価、あるいは損害賠償として請求し得ると、自分でも分かっているでしょう?」と、これは真面目に昨日言われたわけで。確かに、言われてみればそうかもしれないと思う。姉の結婚に関して、親が「どのような結果が一番良かったのか」と問うのであれば、私にとってはこれが一番ベストの結果だったように思う。それに、これは「労働の対価」とも言うべきものだから、その後の学生生活で、親が子供の面倒みたとかみないとか、そういうこととはまた別の問題だものね、と思う。恐ろしく現金主義な話ではあるわけですが。「時は金なり」ということになれば、望ましい解決方法はこれです。
そして、当時強く感じていたこと。自分に求められていたことは、親や家族に問題解決のためにアドバイスをすることを求められているのではなく、単純明快に、ことを母親の思い通りにするために動くことだったんだな、と思うわけで。思い通りに動かないと、いろいろと中傷されて、「お前は自分勝手だ」というようなことは何度も言われて、まだ若くて繊細であったので、非常に傷ついたりもしていて。で、親の方には、今でも述べるとおりに、「最初からうまくいかないと思っていた」とのことで、親が「うまくいかなければいい」と思っていたことで、1年間を無駄にさせられたわけです。今から思えば、自分にとって、笑ってしまうほど「不毛」な出来事であったと思う。親にとって、娘は自分と共依存関係に陥っている存在だから、自分と同じように考えることが「当たり前」であって、同じように考えない娘は、まあ娘ではない? みたいなことで、昨晩も似たようなことを相変わらず言われたなあ、と思うわけで。
しかし、当時の私は知るよしもないわけですが、こういう状況を間近で見て、母と娘の共依存関係に危機感を持った二人の若者がいた、ということで。彼らもまた医学生であったので、母親と娘との間の関係について、思ったことは私と似たり寄ったりであったと思う。問題は彼らだけの手には余るので、東京から応援が呼ばれました。曰く、長瀬君が、「ドラマのロケ」という形で松本にやってきた。彼は情報を直接二人から受け取って、東京に持ち帰った。長瀬君は7番目の兄さんと同い年で、かつ親友であるので、7番目の兄さんは専門書を自ら手に取ることになった。一方、問題の解決は若者達の間だけで図られるだけでなく、一方で小児精神科の専門家であるトリイ・ヘイデンの元にも届けられた。何故、「小児精神科」かといえば、太陽女神は既に成人していましたが、体が弱く奥手で、精神的にも幼かった。彼女自身はまだ子供のようであって、無事に「大人の世界」に引き出す必要があった。もう一方で、ジブリの三賢人の元にも届けられた。そこから、宮崎監督のアニメ制作ラッシュが始まるわけで。最初に作られた「もののけ姫」のヒロインであるサンは、人間の母親に捨てられて山犬の母親に育てられた娘であって、普通の人間ではない。「となりのトトロ」の主人公の2姉妹の母親は病気で入院中であって家にはいない。「紅の豚」のヒロインであるジーナさんは大人の女性であるので、母親は物語の中には登場しない。「千と千尋」の千尋のお母さんは魔法で豚に変えられっぱなしの上に、人間に戻ったときに、娘が自分のためにどんなに苦労したのかを覚えていなかった。「ハウルの動く城」のお母さんは自分の幸せのために娘を敵に売り飛ばして、言葉では「ごめんねソフィー」と言うけれども、ちっともそんなこと思っていなさそうな人。「ポニョ」のお母さんは海の女王だから、優しいお母さんだけれども普段は子供達のそばにはいない。どれもこれも、主人公級の女の子に関して、「普通のお母さん」というものは存在していないわけです。そして、物語の中で、「ヒロインのお母さん」に対して第三者が働きかける場面がほとんど登場しない。唯一といって良いのは、「もののけ姫」のサン、人間の娘というよりは「山犬の娘」と化していたサンについて、サンに心ひかれていたアシタカヒコが「母親」の山犬に叫んだ言葉、「サンを解き放て! 彼女は人間だぞ!」という言葉だけだ。アシタカヒコとは「ナガスネヒコ」の別名のこと。サンとは英語で「太陽」のこと。それは、20年以上も前に、蛇の兄さんが「母親」に向けて叫んだ言葉だ。そして映画のキャッチコピーはただ「生きろ」だった。ジブリの3賢人に一人につき、ただの1文字ずつの「生きろ」という言葉。問題解消に向けての「外」の人達の努力は、こうやって始まったのです。ただただ、今はまず、それを知ることから始めねばならないのです。20年前には、問題を解決するために、太陽女神は医者の世界から逃げ出さなければならなかった。今はまた、そのために医者を無償でやっているわけです。
そして、娘の物語を始める前に、お母さんの物語から始めねばなりません。お母さんは、娘に建礼門院徳子の話をした。お母さんは、徳子のことに興味を持ったけれども、徳子の人生に共感を持っているからではありません。平家物語の「おごれる者久しからず」という言葉が、徳子を象徴しているように思うからです。要するに徳子が「おごれる者」で、「盛者必衰」の象徴と思えるのです。では、平家物語には、どう書いてあるのでしょうか? 「おごれる者」とは「先相国入道平清盛」のこと、と書いてあります。あれ? 徳子のことって書いてないよね? となる。史実はどうであるのか? 徳子は、清盛の娘であって、父親の言いつけで天皇に入内しました。その結果皇子を得たけれども、平家が没落すると、産んだ皇子は皇位継承者から外されてしまいました。その生涯は、平家の栄光と没落と共にあり、彼女は自ら選んでお金持ちになったわけでもなければ、没落したわけでもない。父親の清盛の方は、自らのしあがった人物だから、彼のほうが「おごれる者」であるのは分かる。でも、娘の人生は「自らおごる」というほど能動的ではなくて、むしろ受動的な人生であったと思う。むしろ、自ら、「おごって」、「久しからず」であったのは、祇園女御とかであったのではないか、と思うわけで。彼女は、下級貴族出身で、白河上皇の側近となってその私生活をとりしきって栄華を誇り、上皇が死ぬと形見の衣装だけ貰って表舞台から引退してしまった人です。まさに「おごれる者久しからず」。でなければ、平滋子。彼女も下級貴族の出だけれども、後白河上皇の寵愛を受けて皇子を産んだ。皇子は天皇となったけれども、滋子は若くして病気で死んでしまった。まさに「盛者必衰」。なのに何故徳子? と思う。それに加えて、お母さんは、割と「裕福な家庭の人」が嫌いです。若い頃は「金持ちだけが良い思いをしている」みたいな気分が強かったし、それで共産主義的な思想に心惹かれたこともある。だから、徳子は母親にとっては、「恵まれたお嬢様が没落して、いい気味」みたいな、そういう感覚の存在であるのか、と娘は思う。でも、母親だって、彼女の環境としては、割と学業とかは良い環境を得ているわけです。進学校に進学できたし。その上の学校にも一応行っている。子供の頃の同級生で、そういう機会に恵まれた人は少ないはず。徳子は親に恵まれていたお嬢様でした。それをうらやむのは分かる。でも、親が没落したら没落しました。母親は、学校も出ているし、たとえ親が没落しても、一緒に没落はしなかったはず。そこのところは、うらやむところじゃない。なのに、何故、徳子を取り上げる?
これがずっと私には疑問だったわけです。そして、「専門医」のご意見を伺いました。そうしたら、こう言われた。「親に恵まれて、お嬢様だった人がいる」。そういう人はいたかもしれないけれども、母親のことではないですよねえ? と思う。「親が没落していないのに、没落させれらた人がいる。その人はそれを恨んでる。だから、その感覚からいくと、親も共に没落した徳子のような人物に心惹かれる可能性がある。いいかえれば、自分が落ちたように、親も没落したら良かったのに、と考えている。」誰のことですか? それ? 「お母さん自身が、その女性と共依存関係に陥っていて、その女性の感覚を自分のもののように感じて表現しようとしている。そうすることで、今も母子の一体感を維持しようとしている。それは、お母さんが、実の母親と共依存関係に、今も陥っているということです。」それはばあさまのことかいーーー、ということで。恨みがましい性格だから、曾祖父母のことは恨んでたんだ? と思うわけで。私の母親は、無意識にそういう祖母の気持ちに寄り添おうとして、「平家が没落した」ことを通して「(母にとっての)祖父母も没落したら良かったのに」と代理で言おうとしていた。「専門医」はこうおっしゃっているわけです。私にこんなことが考えつくわけがないわけです。(ていうか、ばあさまはばあさまで、恨んでたんだ。恨んでたんだよね? 恨みがましいよね? と思う。兄さん達からは「自分も人のこと言えない性格でしょ?」って言われる。さあ、ばあさまに似たのかもねえ(苦笑)。とは、思うわけですが。母親が私に、いろいろと言われるのは自分の親にいろいろと言われるみたいで嫌なのですかねえ? 遺伝なんじゃないの? きっと? 足の形も性格も。と思うわけですが-;。)
というわけで、いつも昼寝をしている時間にここまで書いたわけで。その後、母親といろいろと話していたら、「お前にいろいろ言われると、母親に言われている気分になって嫌になる。」と言われて@@。専門医すげーー、とまずはそれしか思わないわけで-;。でも、ということは、親が娘を中傷していろいろ言っていたのは、娘に対する不満ではなくて、「母親に対する不満」の代替であったわけです。「親に対する不満は親に言えよ!」と思う。確かに昔は封建的であったので、親に対する不満を直接親には言いにくかったかもしれない。でも、それを子供にぶつけるのは筋が違います。母親の親が、子供に取って不満な親であったことの責任は、それこそ孫娘にはないからです。で、祖母と曾祖母との関係を聞いてみたら、これまた丁寧で慇懃であったけれども、温かみのないもののようであったそうで。祖母と曾祖母の関係も普通のようではない。祖母と母親の関係も普通では無い。子供とその母親との間には、まず最初にお互いに互いの気持ちに寄り添うような「正常な共依存」の状態が生じます。それが、手間のかかる赤ん坊の世話をして、育てる、という行為を可能にしている。昔のことで、子育てにあまり手間暇をかけていないとしても、子供がいないよりはいる方が手間がかかるのは明白です。だから、太陽女神の母親の心の中にはまず母親の気持ちに寄り添おうとする赤ん坊の気持ちが生じている。でも、祖母はそういう気持ちに応えうる女性ではなかったので、現実的には母親は、成長するにつれて、「父親(女神の祖父)に頼って面倒を見て貰う」ということにした。母親との気持ちに寄り添おうとする赤ん坊の最初の健全な発育の気持ちは、そこでそのまま満たされることも正常に発展することもなく、「時間が止まってしまっている」のです。だから、母親が祖母に持つ気持ちは、「母親に正常な共依存を求める赤ん坊の気持ち」のまま固定されてしまっている。だから、その「共依存状態」から今も動かせないでいるのです。と、「専門医」に言われる@@。だって、そんなこと私に責任のないことじゃんーーー。これからだって、言いたいことは言っていくし、誰に対する不満だって、他の人に八つ当たりせずに、当人に直接言うのが筋じゃん、と思うわけで。兄さん達からは、「(あなたも)めげない性格だよね。」と言われたわけですがー;。まあ、言いたいことを言うときに、気が付けば、言い方を気をつけるくらいはするかも? と思う。それはおいておいて、トリイからは、「カウンセリングは当事者の双方に必要です。どちらも自分の問題点を自覚する必要性があるからです。」と言われるわけで。もう「師匠と呼ばせて下さい!」と思うわけですが。
でも、そう考えると、母親の描く「徳子像」は、ものすごく愚痴っぽくて、親の悪口ばっかり言ってる徳子になりそうな気がする。そんな徳子像は読みたくないかも。私のお気に入りの建礼門院右京大夫が泣くかも、と思う。そうしたら、かつて平資守であった人から、「(徳子)は普通の人でしたよ。あんまり良く覚えていないけど。」と言われて-;。なんだか、今日はさすがにカウンセリングでお腹いっぱいです、ということで。(そして帰りの車の中で、親と話したわけですが、親の兄さん達の評価が「蛙の王家」の評価そのものなことに気が付いて。亀の子の「小物ぶり」な評価に苦笑いするしかないわけですが、そんなものであろうな、と思う。そして、何故親にばかり、裏山の総本家の人達の声が届くのだろうか、とも思う-;。ともかく、そういう干渉をされるのが困るので、蛇の目の兄さん達と、蛙の王家は「交戦状態」になっているわけで。西欧の執念深くて気性の激しい太母の名前を貰っている太陽女神は、その名前に相応しい気性を持っている女神なので。富の王家は、その気性を欲しているわけですが。そういう気性の扱い方を「一緒に勉強して行きましょう」と6番目の子に言われるわけで。翔君と相葉君がストレスためて、どんどん暗くなりそうだーー、と思ったのですがー;。(守達神は「そんなこと知ったことでは無い。」と述べるわけで。まあ、それもそうなわけですが-;。)親は、徳子を通して「人生のはかなさ、みたいなものを表現したかった」とは述べていたわけですが。でも、あなた、元々そういう「環境に恵まれたお嬢様」とか、「お金持ち」とか好きではないでしょ? と思うわけで。「お金持ちなんて威張っていて、好き勝手やってるもの」というそういう感じの思想は、ばあさまが自分の実家に持っていた感想なんじゃないかと思いますよ、と、そう思うわけです。)