本日の日誌

今日は、いろんな設計図の見直しをしていて。で、2回くらいヘリコプターは出たわけですが、それ以外は静かで。そして、「封神演義」が届いたわけで。まだ、本文には入っていなくて、前書きしか読んでいないわけですが、いろいろと興味深いことが書いてあって。「封神演義」そのものは16世紀くらいに成立した「小説」であって、太公望が殷を滅ぼした、という史実を基にしてはあっても、神仙とかがじゃんじゃん出てくる「伝奇小説」であって。要するに、日本で言うと「南総里見八犬伝」みたいな、歴史を元にしたファンタジーみたいなものであって。で、そもそも殷が周に滅ぼされた、という「歴史」そのものが非常に「伝承的」であって、正式な歴史書の記述がそもそもどこまで「史実」であるのかも分からないわけで。殷の最後の王を堕落させた「妲己(だっき)」という狐の化身の美姫も、要するに「ダキニ女神」の一形態でしょ、それ? と思うわけで。これまた、元は「青い目の北方の遊牧民」達の太母女神の名前であって。で、「封神演義」そのものは大衆演劇の演目などになって、その登場人物は中国の庶民にとってはおなじみの存在ですし、人気のある存在のようなのですが、外国とかにはあまりちゃんと紹介されたことがない、ということで。その理由は、後の時代の孔子を始めとする儒家が、君主よりも活躍し、時に君主に意見する軍師の太公望のことを嫌ったから、みたいなことが書いてあって。でも、庶民的には、君主ですら言いたいことを言っちゃうような太公望だから人気があるんだよね? ということで。表向きはそんななわけですが、もっと根源的な問題としては、「男系の専制君主的秩序」の理想を重要視する孔子が、伝統的な母系の維持と現実的な政策を重要視する太公望を敵視していた、ということがあると思うのですが。で、興味深いことに、中国では10世紀くらいまで、人肉はれっきとした「食べ物」であったらしくて。歴史書なんかにそういうことを書いたものはよく見かけるらしいのですが。

で、「とっとと見るように」ということで、「レッド・クリフ」もせっせと見ているわけですが。中原は中原で、「人々はその目の如何に関わらず、自らの思想によってどちらにつくのかを決める。」って言われる気がするわけで。だいたい一口に「漢民族」なんて言うのが間違いなわけで、中原には多くの部族が住んでいるけれども、でも、混血もものすごく進んでいるので一族郎党が「ほぼ全て同じ目」ということは少ない? らしくて。一人一人が、自分の目の性質とか、地縁、血縁によってそれぞれの生き方を決めることが多いらしくて。大陸の羌族は、南の方では伝統的な蛙の目を持っている人が多くても、北の方に拡散して住んでいる人達は必ずしも蛙の目を持っているとは限らないし、北方の血が濃くなって人肉を食しても平気な人達も中にはいる、って言われるわけで。で、そうやって中原で入り交じって暮らしている人々は、普段はそれぞれの流儀で生きていても、北方の敵に対して共同で当たること、すなわち「同盟」の大切さは良く知っている、って言われる気がするわけで。そして、優れた政治家はデイヴィッド(ダビデ)やアリストテレスだけではなくて、東洋には法治国家の概念を最初に唱えた諸葛孔明がいることをお忘れ無く、って言われる気がするわけですが。でも、中原の人々は肉というものを良く食べますし、北方の人の血もけっこう混じっているので、「人喰い」の力を持っていたからといって、そうでない人々と分けて、「神」と「悪魔」という風に2分してしまうのは、西方の人達のむしろ「悪い癖」だって言われる気がするわけで。そういうところは、割と縄文系の人達と似た思想であって、どんな目の力を持っていようと「神」はただ「神」である、って言われる気がするわけですが。でも、人々の首をじゃんじゃん刎ねて好き勝手に威張る殷みたいなのは、酷すぎる、とみんな思っている、ということで。でも、そういう感じだから、中原の多くの部族は「人喰い」の才能くらい持っていないと、彼らの「ハーン」だとは認めてくれないだろう、って言われる気がするわけで。蛇の人達なんかは、混血の結果東洋的な顔立ちはしていても、中東地域の人々に「近い目」を持っていて、中原の人々から見れば「近い血」の人々には見えないらしいのですが。中原に強いコネを持つ人々といったら、やっぱり東洋出身の蛙の人たち、ということで。中原の人々は、彼らは彼らで、味方につくのかつかないのか、応援するならするでどんな気を送るのが相応しいかは、「自分達で決める」って言うらしいのですが。だから、この映画にはいろんな部族の有力者が出ているし、向こうからもこちらを見て、いろいろと考えて判断してる、って言われる気がするわけで。でもって、私の本質は、蛇の兄さんなんかからは「北方の気質が強いねえ」って言われる気がするわけですが、中原の人々からは「やっぱり南の方の蛙さん達に近い目をしてるよね。でも、その目の本質は妲己だよね。」って言われる気がするわけで。で、「封神演義」では太公望は「姜子牙」って言われているということで、その名前を貰っておけば、って言われる気がするわけで。「庶民に人気のある良い名だよ。」って言われる気がするわけですが。「封神演義」で妲己の処刑の場面をさっと読んで、すぐに「三銃士」でミレディーが処刑された場面を思い出したわけで。そっかー、ミレディーが「バチカンのダキニ」ってことなんだー、って、この2つを読めば分かるようになってたのですね? って思ったわけですが。でも、その名前はヨーロッパではむしろ「権威ある太母」の名前であって。私の「青と琥珀の目」の中にある「非東洋的」な目の性質は遠い先祖のエトルリアの太母ティニアに由来するのですねえ? って逆に思ったわけなのですが。

で、夜に「サンプル福山」を見たわけで。福山君もせっせと目の力を送ってくれていた気がするのですが。蛇の兄さんには珍しくいたわりの気持ちが強く伝わってきたわけで。でも、全体に思うことですが、中原の人々は、基本的には彼らの「ハーン」に相応しい目の力を持つ女神を求めるわけで、それは結局ケルトの太母達に似て、割と気性の激しい猛々しい女神な気がするわけで。それはゾロアスターの人達の言う「アフラ・アナーヒタ」ではない、と言われる気がするわけで。でも、蛇の兄さんの方は、「いくらハーンの名を貰う資質があっても、ケルトの太母みたいな凶悪な女神になって貰っては困る。」って言うわけで。微妙に意見の対立はあるよねえ? という気がするわけですが。中原の人達は、彼らは彼らで、中原のしきたりに従って、蛙の王族のお婿さん達を一番に考えるべきって思うらしくて、蛇の目の人達は西方から来た「門外客人」ってやっぱり言うわけですが(そして、蛇の目のお婿さん達には、中原の大ハーンの婿として相応しい力を示すことができるかな? って言っている気がするわけですが。)。まあ、でも、羌族の王家が大陸を離れてから久しいので、中原の「しきたり」を強引に私に押しつける気はないけれども? とは言われるわけなのですけれども。誰もが、中原には中原の、そして東洋には東洋の理(ことわり)がある、と言うわけで。彼らもまた誇り高い人々ではあると、そう思ったのですが。映画の中では、尚香(孫権の妹)役の人が、蛙の目の女の人であったように見えたので、おそらく彼らは劇中の尚香のような「太母」であって欲しいという思いがあるのではないのか、という気もするのですが。でも、私はあんなに活発で行動的なタイプでもないよねえ? と思うわけで。