茅野市の中ッ原遺跡から出土し、国宝に指定された縄文時代後期前半の「仮面の女神」が話題のようですので、それについて書いてみます。
茅野市の周辺は縄文時代にいち早く農耕(水稲耕作ではない農耕)が始まった場所ではないかと言われています。また、八ヶ岳山麓の黒曜石、糸魚川の翡翠は太陽信仰を象徴するもので、あちこちに輸出されて、この辺りは縄文時代の「国際文化」の中心地域として栄えていました。これを確か「日本海文化圏」とか言ったと思います。で、これが山梨県や関東一円を中心に広がっていました。(北端は函館あたりであったらしいです。)
そもそも翡翠を珍重するのは遼河文明の特徴です。遼河文明の「首狩り翡翠文化」は割と早い時代から黄河文明と入り交じったわけです。一方黄河文明の方は、更に南の長江文明圏から「農業文化」の影響を受けています。でも、これも必ずしも水稲中心の農業ではなかったわけです。
要するに、水稲耕作ではない農業と、翡翠を珍重する文化は、黄河かつ遼河文明の影響を受けていて、縄文時代の国際センター諏訪盆地に持ち込まれたものはこれに相当するわけです。で、これらの文明は人間の首を狩って神サマに犠牲を捧げるのも好きでしたが、そもそも
長江文化圏の農耕神を殺して豊穣を得よう
というどうしようもないものだったわけです。
中国神話における、盤古、炎帝神農、蚩尤あたりが最終的に死ぬのはこの文化から派生したものと思われます。要するに、これは後に黄河&遼河文明の最初の集大成である殷が、炎帝神農の子孫羌族の首を狩るという
歴史的事実
につながるわけです。要するに、羌族は母系社会ですので、炎帝神農とは
女神
なわけです。この女神を殺して豊穣を得ようと言うのが縄文の首狩り文化ですので、それでこの女神の像は脚を1本取り外されて、基本的にはお墓に埋められて
殺されて
いるわけです。殷の祭祀でやっていたことの日本版といえます。で、日本にくるとこれらの
殺神神話
は、
安曇野の八面大王、戸隠の鬼女紅葉、八岐大蛇と奇稲田姫 等
に変化するわけで、弥生時代に入って羌族の末裔が大規模な水稲耕作をこの国に持ち込んで、奇稲田姫を救出するまで
各地で女神は殺され続けられていた
わけです。で、その祭祀は諏訪大社の「蛙狩神事」として現代でも残っているわけです。なぜなら、諏訪大社の祭祀は起源がとても古くて、縄文文化を割と色濃く残しているからです。
だから、どうも縄文の女神が
どういう女神なのか分かっていてもあまり語りたくない
わけですが。ただ、新聞に「仮面の女神が目玉」みたいに書いてあったものですから、
確かにその女神は「目玉」の女神ではあるのですけれどね
と思ったわけです。要するに「仮面の女神」の最古の姿は炎帝神農かつ西王母なわけです。コロンな耳の夫を回収するためにどうも私としては忙しいので、縄文の女神を語れるまでにはまだまだ時間が必要そうですーー;。
あとは、ようやく霜の降りなくなった昨今ということで、マツバボタンの芽とか、山椒の双葉とかを発見して喜んでおります。山椒って木の割には発芽率の良い植物なのですよねえ。