22年12月28日

 昨日は埼玉金鎮神社x2,金鎮不動尊、諏訪神社、群馬世良田東照宮、長楽寺、大國神社に参拝してきました。そして、群馬に行ったときのお楽しみのこんにゃくパークに寄ることもできました。なんというか、群馬の方は「牧」という地名が残っていたり、平安時代頃からの古い古代の文化がどことなく残っているけれども、埼玉に行くと、神社が武蔵七党児玉氏、塩平氏、本庄氏の氏神社という具合に、明確に土地の武家の氏神社であることが全面に出ていて、さすが「関東武士団の本拠地だー。」という印象を受けました。群馬にもちょいちょい諏訪神社はあるわけですが、利根川周辺にもけっこうあります。だいたい「幕府が変わり、頭が変わっても、武家の神は変わらず諏訪・鹿島のみ。」と言われる気がするわけで、「埼玉すげー。」と思う。静岡はどことなく感じる人身御供の気配と男尊女卑の強さにげんなりしてたわけですが、関東武士団の根本は相続における男女平等だから、やっぱり、どことなく空気で男尊女卑的なものをあまり感じないわけです。うまく言葉にできないわけですが、埼玉、東京に併せて10年近く住んでいたので、「そうだ、これが私の知ってる関東だー。」という気がするわけで。

 どうも、近世の当地の政治は良く分かっていないわけですが、徳川の部下の小笠原が領主であったところが多かったようで、寺社に武田菱とか三つ葉の葵が目立った気がして。武田の本家が滅びてしまったので、分家筋の小笠原は近世では武田菱を使ってたのか? とか思いました。それから新田庄もあれこれ面白くて。新田・足利って近くにあることは知っていたので、新田の本拠地も栃木にあるかと思っていたら、群馬側にあったのねー、というのがまず一つ目の発見。新田の子孫に「徳川」を名乗る人がいたので、征夷大将軍には「源氏の子孫」でないとなれなかった時代に、家康が新田の家系に、家系が続いている、と主張して徳川を名乗ったのねー、というのが二つ目の発見。そういう因縁で、徳川の子孫は新田の子孫を名乗ったから、新田庄を大事にして東照宮を作ったり、長楽寺を作って、天海僧正に管理させていた、というのが三つ目の発見。天海って言ったら家康の知恵袋というか軍師というか、もう幕府の超重要人物だった人じゃんー、と思う。その天海がわざわざ世良田東照宮を作って管理した理由は何だろう? と思ってしまう。御前崎から始まって、久能山東照宮、富士山を通って、富士を封じる家康の「レイライン」の真の「終着点」はどこなのだろう? もしかして、日光東照宮の「奥の院」を移築したという世良田東照宮が終着点? と思ったあたくしでした。それから大國神社は、大国主命が祭神だけれども、全体としては「丹後道主」関連の女神が祀られていて、由来を興味深く感じました。

 ともかく、新田庄では徳川の強い影響を感じつつ、資料館に新田義貞のことなんかもちょこちょことあって。義貞と匂当内侍のお墓の写真とかあったので、二人の悲恋なんかにも思いをはせたわけですが。太平記は平家物語に比べると知名度が今一なので、良く知っている人は少ないような気がします。で、義貞のことに思いを馳せると「あれもなかなか悪い男で。」と高師直のことを色々言われる気がするわけで。地元民は義貞の悲劇については、悪いのは尊氏ではなくて高師直だと思っていそーー、と思う-;。まあ、師直は尊氏の知恵袋ですから。ひいじいさんはひいじいさんで諏訪で「小坂」という地名を見かけるとあれこれ言ってくるし、動乱の時代のクレイジーな人間関係なんて、もうぐっちゃぐちゃですよう、と思う。まあ、それはともかく、新田義貞は「まだいる」気がしたわけですが、そんなにタチは悪くない、というか、怨霊というレベルでの悪い人ではなくて、割と普通に良い人、という感じを受けたのでした。諏訪の吉良殿と似たり寄ったりみたいな感じ? かと??

そして、上杉謙信という人は、新潟では当たり前に英雄、富山ではあからさまに迷惑者という感じだったわけですが、関東では明確に「源氏の嫡流・関東管領」という扱いなような気がするわけで。だいたい、諏訪氏のように勝頼が死んで、従兄弟の家系が家を再興した、というのはあんまり「嫡流」とは人は見ないわけですが、他家の人間でも正式に養子に入った人は「嫡流」とみなすのが本邦のようで。謙信は源氏の子孫ではないけれども、源氏(関東管領・上杉氏)に養子に入ったから源氏という扱いらしいです。

 で、全部回れるかどうかは分からないけれども、武蔵国の式内社をざっと見ると「小豆」とつく神社がちょっと目立つわけで。あたくしも昔「小豆沢」というところに住んでいましたし。これが何を意味するかというと、「アジスキタカヒコネ」という賀茂系の神のことと思います。出雲の神ともされている。で、この神への信仰は、「別雷神」と同じ神、と言われている程度で、現在ではあまり盛んではありません。何故か? それは、この「アジスキタカヒコネ」が諏訪神の前身であるからだと思う。要はだいたい、諏訪信仰に置き換わっているわけです。諏訪神の妻神も昔は下光比売命であった形跡が上社関連に濃いわけで。「アジスキタカヒコネ」の妻神も下光比売命です。で、この神がどういう神かというと、一つには「小豆の神」であると思う。小豆は邪気を払う豆とされており、昔は赤飯は神に捧げる神饌でもあって。で、もう一つは「スギの神」というか、「木を立てる神」なわけです。五十猛が下社系の「木工神」とするならば、「アジスキタカヒコネ」は上社系の「木工神」でもあり軍神ということでもあるのかと。どう違うのかといえば、五十猛は海の向こうからやってきた「疫病神」であって、「アジスキタカヒコネ」はこの国を守るための軍神という感じになっているのかと。おそらく西欧の神で言うところのエススとかヘーラークレースにちょっと近い神だと思うわけで。

 世良田東照宮では、最近お正月に「除厄神事」とかで、「目に見えない邪気を弓矢で射る」神事をやっているとかで。神事の由来は京都にある、と説明書きにありましたが、これは東国的には「オビシャ」の変形版であると思う。しかも、「木工の仕事始めの神事」をやるとかで、神事に使う木がもう用意してあって寝かせてあって。これを更に切るような神事をやるんだなあ、と思う。というか、この2つの神事は「同じもの」であって、日の光を遮る「天の木(邪気)」を切り倒して、役にたつものに加工する、特に「神の役にたつものに変える」というのは、おそらく河姆渡あたりまで何とか残ってた「母系のまともな思想」の伝統なのである。そして、上社的諏訪信仰の根幹の思想である。肝心の諏訪大社では似てるけれども、縄文系の人々の祭祀を前面に出していて、西洋式の「天の邪気を切り倒す」というあからさまに思想が分かる祭祀はやってないわけですが、東国の「諏訪」とは全然関係なさそうな神社で、露骨に「諏訪信仰」を前面に出した神事をやってるんだー、これが関東武士団の「諏訪信仰」だー、へーー、と思う。諏訪大社では、「オビシャ」は「蛙狩神事」、「木工の仕事始め」は「御柱」に変換されてしまうわけで。もっとも、諏訪でやっている方が古い形式の祭祀なわけですが。みな、お正月の太陽の力が弱っているときにこういう祭祀をやって、太陽の力を強めようとしているわけです。というわけで、世良田東照宮は天海と家康の思想がまだ生きている、と感じられた、実に東国らしい神社だと思ったのでした。東国の衆は東国の衆で、西から来たのではなく、東国生まれ東国育ちの諏訪・鹿島の神が欲しくて沸騰中らしいです。