22年12月19日

 本日は外作業のみ。母親は土の埋め戻し、石片付け等、私は土の清掃、姉はお休みでした。今日もけっこう寒かったです。

 裁縫もお休み。

 昨夜は「ニノさん」、「ワルイこあつまれ」の録画、今日の昼は「ワルイこあつまれ」、「少クラプレミアム」、先週「夜会」の録画を見ました。

 今朝方はなんだか夢を見て。「Snow Man」の深沢君と何かの取材旅行?に行くことになって、行った先に一組の老夫婦がいて、夫が妻のために巨大できれいな駅を建設していた、という夢でした。

 日本では「月に兎が住んでいて、餅つきをしている」と言いますし、中国ではこれを「薬を杵でついて作っている」といいます。中国では(そして古代の日本でもそうだったけれども)、月には桂の木が生えていて、その葉から不老不死の薬が作られる、と考えられていました。中国では「月の女神」は嫦娥(あるいは西王母)ですので、兎はその部下というか、化身というか、随獣みたいな感じで働いているとされています。漢代ではすでにそう考えられていたから、紀元前300年くらいには、すでにそういう考えはできあがっていました。日本でいうと、弥生時代が始まるちょっと前くらいかと思います。

 で、古代中国では他にも、烏が太陽だったり(三足烏、日本で言うところの八咫烏)、ヒキガエルが月だったりするわけですが、こういう思想も漢代には完成していました。で、烏が太陽に関係する、ということの起源はもっと古くて良渚文化にまで遡ります。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころです。でも、良渚文化では、一見すると兎の神格化が乏しいように見えるわけです。「月の兎」の起源はどこなの、教えて、セーラームーン、ということで-;。あれこれ調べたわけですが、その起源は中国東北部にあった紅山文化にあるように思います。紀元前4700年頃-紀元前2900年頃とのことなので、良渚と重なる時代もあるけれども、良渚よりも古い文化です。そして、中国の「玉文化」の先駆文化でもある。

 紅山文化は母系文化で、兎は「太陽女神」とみなされていました。どうも、文化は母系だけれども、シャーマンの地位は男性だったのではないか、と疑うわけです。中国東北部から極東は「熊の太母信仰」が盛んであって、それが根強く西欧にも伝播しているように思いますし、檀君神話の熊女、日本の天照大御神と「どう見ても熊でしょ」という神々はいるわけなので。これが熊とある意味類似していて、穴に住む「兎」に意図的に変更されたのではないか、と思う。猛獣から、捕食動物である小型の草食獣に変更して、その結果、戦闘とか略奪行為が当然でもあった古代において「太陽女神」の地位は低下しました。それまでは「太陽女神」といえば、熊だの獅子だの虎だの、あるいは鳥でいえばワシだのと肉食の大型獣のトーテムが割り振られて、いかにも「略奪文化の女神」らしかったのが、今度は捕まえられて殺されるだけの女神に変更されてしまったわけです。でも、そうやって勝手に変更されて困る人達もいるわけで、西方の人達はどうやって対抗というか対応したかというと、自分達の「獅子女神」にやたらと兎みたいに長い耳をつけたりとか、自分達のワシ女神に兎の耳みたいな羽をつけたりとか、そういうやり方をしました。でも真面目に兎を「春の女神」とかにした人々もいたように思う。

 ともかく、そんな感じで、「太陽女神」のトーテムが熊から兎へと大きく変更されました。兎は声帯がなくてしゃべれないそうなので、「見猿、言わざる、聞かざる」のうち「言わざる」の原型が、特に女性向けに紅山文化で作られたように思います。これはまず「神々のことに口だしするな」という意味で始められたのではないか、と思う。

 で、紅山文化(中国東北部)は、距離の近さから朝鮮、日本の文化への影響が取り沙汰されるわけですが、個人的には中原経由で入ってきたものの方、良渚とかの影響の方が強いように思います。何故なら、朝鮮、日本の古代における支配者は中国東北部から入ってきた遊牧系の人々だと思うので、彼らは熊女と天照大御神にあるように、古い熊女神信仰を持ってたと思われるからです。太陽女神の兎化は、むしろ中原に輸出するために行われたもので、龍山文化以降、浸透して、更に月の女神に書き換えられたものだと思います。書き換えた側の人々には、書き換える理由がないので熊女のまま残ったのではないか、と思う。

 紅山文化では、太陽女神を模した玉兎は木に吊して崇拝の対象としたそうで、おそらく太陽女神に対する生贄は「木に吊した」のではないか、と思います。西欧ではオーディンとかエススに対する生贄を「木に吊して」いました。太陽女神のトーテムが熊から兎に変更されて、その地位が低下したことは、やがて世界全体の女性の地位につながるわけです。古代の人々は、「神」というものは殺せるものだけれども、生き返らせて、都合の良いように作り替えられるものでもあった、と考えていたようです。例えば、盤古という巨人が死んで、天や大地や日月草木になった、という神話がありますが、天や大地や日月草木が「死んでいるもの」とはあまり考えない。盤古は死んでも、生き返って天や大地や日月草木になっているわけです。だから、それと同じように、勝手な話ですが、熊女神は死んで兎女神に生まれ変わった、ともいえます。日本神話でいえば、このプロセスは、天照大御神が死んで下光比売命になった、というようなものであると思う。台湾の神話に「太陽が死んで月になった」という話があるので、これにならえば「兎の太陽女神」は死んで「兎の月女神」に変換されたわけです。金刺氏系が中心になって、高照姫とか下光比売命を殺そうとする祭祀をやっきになってやっているのがこれに相当するかと思う。

 でもって、それに対するものとして、「兎も猪も蛙も「偽の太陽」に過ぎないのだから、矢で射て串刺しにするのが上等」ってゆーのが露骨なのが上社なのかなあ、と神長官家の資料館の「兎の串刺し」を思い出して思うあたくしがいるわけですがー;。

 ともかく、西方では紀元前2200年頃から、アッカドのサルゴン大王のもと、「男を女に生まれ変わらせる女神」というのが台頭してくる。作為的な父系化の流れに対して、「頂点に立つ神が男でなければならないのであれば、その男を女に生まれ変わらせて、太陽女神とすれば良い。そうして世界を元の姿に戻せ。」という思想が流行し始めたように思います。ううむ。

 ということで、あたくしはしばらく兎さんを追いかけないといけません。口もきけない小動物のトーテムを押しつけられた女神に対して、「自分が言うことができないことを代わりに言って欲しい。」と思っているひいじいさんがいるような気がするからですが。あたくしの愛人様はそんなひいじいさんに対して「自分だったら、とっくの昔に死に別れた妻のことを、今の妻にあれこれ言ったりしない。」と言ってくる気がしますー;。まあ、あなたは原則として女が嫌いだから、薄情なところがあっても仕方ないけどさあ?? と思うわけですがー;。