本日は、水道についてちょっと書いて。玉砂利を発見するところまで行ったので、もう少し。あとは、親の病院に行って。ウロの医者めには、「薬を続けた方がいいと思います」と言わせておいたのでした。よくも出鱈目なことをやってくれたものだこと、と思う。私から見ると、よくよく威張って、居丈高に見えるわけですが、親に言わせると、私がいないときには、「あんなもんじゃない」と言ってるわけで-;。「あれで?」とか思う。
で、昼は「Love music」を見て、夜は「おしゃれイズム」と1週前の「初耳学」を見て。なんだか、とても疲れました-;。SixTONESもデビュー直前なので、あちこちできょも君を見る気がするわけで。
で、朝方夢を見て。なんだか、自分が働いていて、職場に自前で買ったプリンターを持ち込んだら、それを他の人に勝手に使われそうになって。「多少ならいいかな」と思って聞いたら、「8万5千枚刷りたい」とかって言われて、それはちょっと酷すぎる、と思ったら、光ちゃんと剛君が現れて、止めて助けてくれる、という夢で。
で、親と色々話していて、親と「お金のためだけの働いている人なんてそうはいない」という話をして。まあ、多少は「世の中のためになることもしたい」とか、そういう考えの人もいるし、少しはそういう考え方も大事でしょ、と思う。「ためになること」というのも、枠の中で自分が何をするのか、とかそういうとではなくて、システムとか制度をもうちょっとこう変えたら、いろんな人の生活が少し楽になるのに、とかそういうことを考えるのが大切なのだと思う。それがかなうことがあっても、かなわなくても、そういうことを考えて世に顕せば、賛成してくれる人が増えればいつかかなうかもしれないし、誰かがもっと良い修正案を出して、もっと良くなるかもしれないし。そうやって全体のことを考えることも大事だと思うのね。茶色頭さんたちも、小さい頭で知恵を絞って、1匹でも多くの仲間が冬越しできるように考えてるわけだし。
「初耳学」で、ニートの皆様が出ていたわけで。まあ、あそこに出ている人達は、出てることで人を呪ってなにがしかの見返りを得ているわけだから、表向きニートったって、真の意味のニートではないわけですが(苦笑)。まあ、一般論からいえば、武井壮君ではないけれども、「働かなくてすむ時間はとても贅沢なものなのだから、その時間を有効に使うべき」とか、乙武の言っていたように「一生ゲーム三昧で過ごして、最後に自分が「それで幸せだった」と思えればそれでいい」というあたりに私の考えも近いかなー、と思う。だいたい、ニートとかやってる人達の中にこそ、「大学出て就職してそこで失敗したら人生終わり、でそれが怖くて動けない。1回失敗したら2度も失敗するのが嫌。」みたいに思う人が多い気がするわけで。世の中、そんなに何でもガチガチ決まってるものではないので。実際に社会に出てみて、失敗なんて誰でもするものだし、仕事なんてやったりやらなかったり適当な人がいくらでもいるし、お金がなくてもふらふらしてる人も一杯いるし。誰も他人が何をするのかなんてそんなに気にしないし、誰かが失敗したからって「それであいつの人生終わりだ」なんて見下したりしないし。自分が犯罪を起こすか、犯罪に巻き込まれるかしない限り、世の中に「怖いモノ」なんて、それほどはない、ということをまず知らなければいけないと思う。特に「適当な人なんて山ほどいる」ので(笑)。自分だけが、ああでなきゃ、こうでなきゃ、って思うことこそ意味がない、と思うわけで。でも、それは学生から社会人になると痛感することだけれども、「時間がある」というのはとても貴重なことなので。時間に余裕がある人は、その意味を大切にしなければいけないと思うのです。だいたい、学生から社会人への移行時期に失敗して道に迷う人は「社会人はこうでなきゃいけない」という自分の中だけのイメージだけが先行しすぎてる気がするわけで。一般社会を直接知らないと、尚のことイメージにとらわれて自己評価ばっかりどんどん低くなる気がするわけで。私から言わせれば、おフランスの放浪姉さんとかは、ちょこっとバイトしては放浪する生活をしていて、「放浪すること」が目的で生きているのなら、生きる「目的」がちゃんとあるわけで、全然ニートとかではない気がするわけで。その人の生きる目的が生産的であろうが、なかろうが、そんなことはその人の自由じゃんねえ? と思う。大抵の人は、それは生きるためにお金を稼ぐ必要があるから、生産的な仕事をしますけど、できる範囲で放浪してふらふらしてる人だっていくらでもいるわけで。どちらがご当人にとって、「重要」であるのかは、その人にしか決められない問題である。
それから某ヘンリー君について。彼が「経済的に自立したい」と言って、日雇い労働者になって一から働きたい、とか、せいぜい農場を買って、自給自足の生活をして静かに暮らしたい、とかそういうことであれば、あまり誰も反発しないであろう、と思うわけですが-;。自分の名前を商標登録して、それをブランド化してお金儲けしよう、というところにいろいろな反発が来るのだと思う。でも、ヘンリー君の「名前」は彼がご先祖様から貰ったもので、自分で努力して勝ち取ったものではないので。先祖代々の仕事を放棄したいというのであれば、その仕事と共にあった「名前」も失わざるを得ないのは当然と思うわけですよ。妻のメグがやりたいのは、ハリウッド的なセレブ的イメージでの金稼ぎかもしれませんが。でも、そもそも「ハリウッド」もそうだし、「ブランド」というものもそうだけれども、そういうものは「虚構」からできあがっているものだから。映画とか、ドラマとか、教育的なものも、啓蒙的なものもあるし、娯楽も大切だから、そういったものを否定はしないけれども、でも、そういったものは「虚構」であって、あってもなくても人々の生活を直接物質的に支えるものではないので。「ブランド」というものも、鞄とか靴とか服とか、その業界で「誰もが認める一流のもの」であるという現実的な価値を伴っていてこそ「価値」があるのであって、名前だけが有名であれば良いというものではない。「王族」というのは「支配階級」であって、「戦う戦士階級」であって、富めるときも貧しいときも、勝ってる時も、負けてるときも、「王族」でなければならないのだし、「王族」であるからには、自分が金持ちであっても、なくても、領民の保護、弱者の保護、国家と司法という制度の保護が義務であるわけだから。現実にそういうことを行うのでなければ、その名前には意味も価値もない。現実の義務を放棄して、名前だけでお金儲けをしようというのはね、それはね、一般的に「節操ない」って言われるでしょうね、と思う-;。今「公務」をしていればそれで充分とはいえない。それは現代的な王族の仕事の一部であって、本当の本来の「王族」というものは、それだけのものではない。「王族」というのは、「虚構からなるブランド」になってはいけないものなのだと思うわけです。でも、いろんな人の「目」を見たけれども、アーチーちゃんの「目」は、母方の祖母のドリーに似ていると思う。だから、彼は「白い人だけど黒い人の目を持ってる子」なのだと思うわけです。そういう混血児はやはり北米に多いと思うので。彼は、祖母のドリーが属すコミュニティーの影響が強いところで育つのが良いと思う。両親はせっせとお金のために働いてればいいんじゃないんですかね? そういう生活がしたいんだろうし?? と思うわけですがー;。
そして、親に思うことですが、お金のことの大事だけれども、人は誰か好きな人のことを守りたい、とか、支えたい、とか思うってあんまり思わないよね?? と思う。あんまり、兄さん達のそういう歌に反応しないものね?? と思うわけですが。