本日の日誌

今日は追加分も含めて、写真の整理が完了する。明日は、総量とかちょっとやれば、今回提出分の書類も完了で、後は書面を読み直して印刷するだけになる。

お外組(母と姉)は、いつも通りで。でも、買い出しに出かけたので作業はあまりできなくて。

で、本も少しずつは読んでいるわけで。「小説 十八史略」を地図を片手に読んで、ようやく「合従と連衡」とか意味が分かるわけで。あとは、民話の本をいろいろ少しずつ読んでいて。ケルトの民話と、ゲルマンの民話は、似ている内容が多いのに、どこか違う気がするわけで。ケルトの民話の方が、北方の遊牧民の思想に近い、というか、人も動物も精霊的な存在も、割とそれぞれが違うものだと知りつつ、当たり前のように交わって付き合う、という感じが強いように思う。ゲルマンの方が、異なる者同士が互いに親しく付き合っていても、違う者であると強く意識しているようなそんな雰囲気がある。例えば、「家付きの精霊」みたいなものはどこにでもいて、彼らはパンとミルクとかわずかな供物と引き換えに、家事とかを手伝ってくれる。ゲルマンの精霊は、裏切りを許さず、裏切った相手を殺して煮て食べてしまったりする。ケルトの精霊は、自分を傷つけた相手でも、しまいには許して、精霊達の宴会に招いてくれたりする。そういう人間と精霊達との「距離感」みたいなものがケルトとゲルマンでは異なる気がするわけです。「世界の民話 ドイツ・スイス」を読んでいるわけですが、その中に「レートロマン」といって、スイスの中でもロマンス語という言葉を話す人達の民話があって。それを読んでいると、「ケルト海竜物語」と、どこか似た話があって、ケルト的な雰囲気を感じるわけで。調べてみたら、ロマンス語を話す人々は、遙か昔にスイスとイタリアの国境にある山岳地帯に移住したケルトの人々と、古代のイタリア人(エトルリア人)が混血した人々、とあって。彼らの言語は今では、ケルトの言葉は残っていないわけですが、文化(民話)の中にはケルトの思想が残っているんだなあ、と思う。

あとは、台湾の神話・伝説を読んでいて。これがけっこうやばい、というか、「邪眼」を持つ男の話が出てくる、「地下に住む人々(小人?)」の話が出てくる、どこかダイダラボッチを思わせる巨人の話が出てくる、ということで。西欧の民話に近い物語、中東に根強くある「邪眼」の思想、本邦の巨人神伝説とか、その起源は台湾の神話・伝説と同様「良渚文化」にあるものが多いのではないのか、と思う。台湾の「巨人伝説」は独特であって、この巨人は男性であって、しかも体が大きい分、男根もものすごく大きい(長い)ので、それを体に巻き付けて生活しているような感じであって-;。で、これがものすごい女好きであって。その大きな「イチモツ」を人々の橋代わりに使ったりするわけですが、女性が渡ると硬くてしっかりした橋になるけど、男性が渡ると萎えて危ない橋になる、とかってあるわけで-;。で、機織りの女性の部屋に「イチモツ」だけが入り込んで女性に狼藉を働くけれども、「イチモツ」が大きすぎて女性が死んでしまうので、しまいには嫌われて殺されてしまう、というような巨人であって。これはスサノオがアマテラスの機織り部屋に狼藉を働いて、地上(黄泉の国)に追放された、という話と「同起源」の話ですよねえ? 日本固有の話じゃないんだ?? と思う。逆に「邪眼」の話なんかは日本にはない気がするわけで。ダイダラボッチとスサノオの起源も元は同じものだったのだろうか? と思う。割と勉強になるわけです。

本日の日誌

今日は追加分も含めて、写真の整理が完了する。明日は、総量とかちょっとやれば、今回提出分の書類も完了で、後は書面を読み直して印刷するだけになる。

お外組(母と姉)は、いつも通りで。でも、買い出しに出かけたので作業はあまりできなくて。

で、本も少しずつは読んでいるわけで。「小説 十八史略」を地図を片手に読んで、ようやく「合従と連衡」とか意味が分かるわけで。あとは、民話の本をいろいろ少しずつ読んでいて。ケルトの民話と、ゲルマンの民話は、似ている内容が多いのに、どこか違う気がするわけで。ケルトの民話の方が、北方の遊牧民の思想に近い、というか、人も動物も精霊的な存在も、割とそれぞれが違うものだと知りつつ、当たり前のように交わって付き合う、という感じが強いように思う。ゲルマンの方が、異なる者同士が互いに親しく付き合っていても、違う者であると強く意識しているようなそんな雰囲気がある。例えば、「家付きの精霊」みたいなものはどこにでもいて、彼らはパンとミルクとかわずかな供物と引き換えに、家事とかを手伝ってくれる。ゲルマンの精霊は、裏切りを許さず、裏切った相手を殺して煮て食べてしまったりする。ケルトの精霊は、自分を傷つけた相手でも、しまいには許して、精霊達の宴会に招いてくれたりする。そういう人間と精霊達との「距離感」みたいなものがケルトとゲルマンでは異なる気がするわけです。「世界の民話 ドイツ・スイス」を読んでいるわけですが、その中に「レートロマン」といって、スイスの中でもロマンス語という言葉を話す人達の民話があって。それを読んでいると、「ケルト海竜物語」と、どこか似た話があって、ケルト的な雰囲気を感じるわけで。調べてみたら、ロマンス語を話す人々は、遙か昔にスイスとイタリアの国境にある山岳地帯に移住したケルトの人々と、古代のイタリア人(エトルリア人)が混血した人々、とあって。彼らの言語は今では、ケルトの言葉は残っていないわけですが、文化(民話)の中にはケルトの思想が残っているんだなあ、と思う。

あとは、台湾の神話・伝説を読んでいて。これがけっこうやばい、というか、「邪眼」を持つ男の話が出てくる、「地下に住む人々(小人?)」の話が出てくる、どこかダイダラボッチを思わせる巨人の話が出てくる、ということで。西欧の民話に近い物語、中東に根強くある「邪眼」の思想、本邦の巨人神伝説とか、その起源は台湾の神話・伝説と同様「良渚文化」にあるものが多いのではないのか、と思う。台湾の「巨人伝説」は独特であって、この巨人は男性であって、しかも体が大きい分、男根もものすごく大きい(長い)ので、それを体に巻き付けて生活しているような感じであって-;。で、これがものすごい女好きであって。その大きな「イチモツ」を人々の橋代わりに使ったりするわけですが、女性が渡ると硬くてしっかりした橋になるけど、男性が渡ると萎えて危ない橋になる、とかってあるわけで-;。で、機織りの女性の部屋に「イチモツ」だけが入り込んで女性に狼藉を働くけれども、「イチモツ」が大きすぎて女性が死んでしまうので、しまいには嫌われて殺されてしまう、というような巨人であって。これはスサノオがアマテラスの機織り部屋に狼藉を働いて、地上(黄泉の国)に追放された、という話と「同起源」の話ですよねえ? 日本固有の話じゃないんだ?? と思う。逆に「邪眼」の話なんかは日本にはない気がするわけで。ダイダラボッチとスサノオの起源も元は同じものだったのだろうか? と思う。割と勉強になるわけです。

本日の日誌

今日は追加分も含めて、写真の整理が完了する。明日は、総量とかちょっとやれば、今回提出分の書類も完了で、後は書面を読み直して印刷するだけになる。

お外組(母と姉)は、いつも通りで。でも、買い出しに出かけたので作業はあまりできなくて。

で、本も少しずつは読んでいるわけで。「小説 十八史略」を地図を片手に読んで、ようやく「合従と連衡」とか意味が分かるわけで。あとは、民話の本をいろいろ少しずつ読んでいて。ケルトの民話と、ゲルマンの民話は、似ている内容が多いのに、どこか違う気がするわけで。ケルトの民話の方が、北方の遊牧民の思想に近い、というか、人も動物も精霊的な存在も、割とそれぞれが違うものだと知りつつ、当たり前のように交わって付き合う、という感じが強いように思う。ゲルマンの方が、異なる者同士が互いに親しく付き合っていても、違う者であると強く意識しているようなそんな雰囲気がある。例えば、「家付きの精霊」みたいなものはどこにでもいて、彼らはパンとミルクとかわずかな供物と引き換えに、家事とかを手伝ってくれる。ゲルマンの精霊は、裏切りを許さず、裏切った相手を殺して煮て食べてしまったりする。ケルトの精霊は、自分を傷つけた相手でも、しまいには許して、精霊達の宴会に招いてくれたりする。そういう人間と精霊達との「距離感」みたいなものがケルトとゲルマンでは異なる気がするわけです。「世界の民話 ドイツ・スイス」を読んでいるわけですが、その中に「レートロマン」といって、スイスの中でもロマンス語という言葉を話す人達の民話があって。それを読んでいると、「ケルト海竜物語」と、どこか似た話があって、ケルト的な雰囲気を感じるわけで。調べてみたら、ロマンス語を話す人々は、遙か昔にスイスとイタリアの国境にある山岳地帯に移住したケルトの人々と、古代のイタリア人(エトルリア人)が混血した人々、とあって。彼らの言語は今では、ケルトの言葉は残っていないわけですが、文化(民話)の中にはケルトの思想が残っているんだなあ、と思う。

あとは、台湾の神話・伝説を読んでいて。これがけっこうやばい、というか、「邪眼」を持つ男の話が出てくる、「地下に住む人々(小人?)」の話が出てくる、どこかダイダラボッチを思わせる巨人の話が出てくる、ということで。西欧の民話に近い物語、中東に根強くある「邪眼」の思想、本邦の巨人神伝説とか、その起源は台湾の神話・伝説と同様「良渚文化」にあるものが多いのではないのか、と思う。台湾の「巨人伝説」は独特であって、この巨人は男性であって、しかも体が大きい分、男根もものすごく大きい(長い)ので、それを体に巻き付けて生活しているような感じであって-;。で、これがものすごい女好きであって。その大きな「イチモツ」を人々の橋代わりに使ったりするわけですが、女性が渡ると硬くてしっかりした橋になるけど、男性が渡ると萎えて危ない橋になる、とかってあるわけで-;。で、機織りの女性の部屋に「イチモツ」だけが入り込んで女性に狼藉を働くけれども、「イチモツ」が大きすぎて女性が死んでしまうので、しまいには嫌われて殺されてしまう、というような巨人であって。これはスサノオがアマテラスの機織り部屋に狼藉を働いて、地上(黄泉の国)に追放された、という話と「同起源」の話ですよねえ? 日本固有の話じゃないんだ?? と思う。逆に「邪眼」の話なんかは日本にはない気がするわけで。ダイダラボッチとスサノオの起源も元は同じものだったのだろうか? と思う。割と勉強になるわけです。

本日の日誌

なんだか今日は朝から暑くて。そしてぼちぼちと作業をして。だいたい、今までに提出した写真は纏めたので、補充で提出するものをいくつか纏めれば、それで完了すると思う。

お外組(母と姉)は、いつも通りで。親が、昼寝をしていて、ふと気がついて、空洞になっていた部分を再び掘り返してみたら、そこにも石が埋まっていたそうで。よくよくいろいろな物を埋めてくれたなー、と思う。

昨夜は、夕ご飯を食べて「嵐にしやがれ」を見ていたら、とても眠くなって、見終わった後もそのまま寝てしまって。日記を書く暇がなかったのです。で、朝方夢を見て。なんだかまだ自分が高校生で、学校で旅行に出かけて。大きな旅館? というか、合宿所に泊まったのですが、お風呂に入ろうとしたら、お湯がなんだか汚くて。目が覚めて、「風呂の下もちゃんと綺麗にするように」ということなんだろうな、と思う。

で、常々、次々と本を買う自分は「買い物依存症」ではないのか、と心配になるわけで。で、色々と注文してKinKi-KidsのDVDをみたくなって、見ていたら7番目の兄さんに、「次に南インドの祭祀についての本を1冊くらい、来月で良いから買い足しておくように」と言われる気がするわけで@@。「北インドの祭祀と、南インドの祭祀を比較したら、遊牧民由来の祭祀と、良渚文化由来の農耕祭祀の違いが分かるでしょ。」と言われる気がするわけで@@。相方さんには、「それは、買い物依存症じゃなくて、7番目の兄さんがせっかちなせいでしょ。だいたい、自分でインドの祭祀の本なんか買おうと思いつかないでしょ。どうもすみません。」と謝られてしまって@@。兄さんには「良渚由来の祭祀の異常さを知って欲しい」と言われる気がするわけで。

北方の遊牧民の思想は、基本的には現代の日本人が「仏教の輪廻転生」と考えるものに似ていて、人は死んだら、鳥に生まれ変わるかもしれない、でなければ熊かもしれないし、犬かもしれない。ともかく、「今の自分」とは違う物に「生まれ変わる」わけです。だから、犬も熊も鳥も、みな兄弟だし、命は等しい、となる。お互いに狩ったり狩られたりして、食い合うことはあっても、互いの命にも敬意は払われる。それは、かつての親であったかもしれないし、兄弟であったかもしれない存在だからです。シャーマンが、自然の精霊を下ろすのも、それは熊の神であったり、鳥の神であったり、山の神であったり、天の神であったりするかもしれない。でも、そういうものは、宗教的な概念としては人間と同様「生きているもの」だし、互いに生きているからこそ交信できる。シャーマンそのものも、個人として交信するわけです、いわば「人間の代表霊」みたいな形で彼らと会話するわけです。そこには「個」を超越した「種」とか、でなければ「山」「川」「空」といった自然現象を一つにまとめた概念が存在する。そして、ここで述べられる「輪廻転生」とは「魂の転生」であって、「肉体の転生」ではありません。肉体は次々と変わるけれども、魂は不変である。

一方、漁撈民の思想は、神である魚や蛇に、生け贄という餌を与えると、魚が増えて戻ってくる、という思想であって、「浦島太郎を餌にして撒いたら魚が戻ってくる」というような思想は、「魂の転生」ではなくて、「肉体の転生」になります。太郎の魂がどうなったのか、そもそも魂なんてあるのか、ということはともかく、「戻ってくる魚」は「太郎の肉体が変化したもの」であるわけです。だから、これが農耕になると、人を殺して肥料にしたら、その肉体は「収穫物」となって戻ってくるわけです。魂はどうなるのか、そもそも植物に魂なんてあるの? ということになる。

で、遊牧民の文化と、農耕をやってる漁労民の文化が衝突して習合しました。そうしたら、植物にも神霊が宿るし、神霊はバラバラになって殺されて、また新たに戻ってくる、ということになりました。それは、米や麦がいったん実って、また次の年に芽を出すことを指します。本当は、生物学的には、親の実と、次の年に生まれてくる芽は「異なるもの」なのだけれども、古代の人々は、「親の実」がそのまま「復活してくる」と考えました。だから、植物にも神霊が宿って、それが死と復活を繰り返すのなら、それを食べている人間も同じように死と復活を繰り返す、と考えるようになりました。北方の遊牧民から「魂」という概念は取り込んだのに、「魂の輪廻転生」は否定された。植物神が未来永劫「植物神」であるように、人間も未来永劫「人間」であるとされて区別されました。なぜなら、元々の漁撈民の思想では、魚も植物も「死んだ人」からできているものだから、この世界で「生きている物」は「人間だけ」だからです。それ以外のものは、動物でも植物でも「死んでいるもの」なのです。だから、植物神は「死人の神」なわけです。

そして、北方の遊牧民は「祖霊信仰」を持っていましたが、これも彼らの概念からいえば、「熊の神」とか「鳥の神」に対する概念的な信仰であって、別に特定の先祖に対する信仰ではありません。そして、神も死んでいる存在ではない。でも、遊牧民と漁撈民の混血児達は、これを「祖先信仰」に変えました。「祖先信仰」というと、それは誰か特定の「先祖」に対する信仰になります。それは、特に王族にとっては「英雄先祖」ということになるし、時には「農耕とか技術を教えた先祖」ということになります。どちらにしても「死んでいる人」に対する信仰です。要は「幽霊信仰」です。だから、遊牧民のシャーマンが下ろすのは「生きている神」であって、混血児の農耕民のシャーマンが下ろすのは「死んでいる神」なわけです。「祖霊」は生きている神だけれども、「祖先」は死んでるから。と言われる気がするわけで@@。だから、古代エジプトのオシリスは死して冥界神になってる。古代メソポタミアの英雄王であったギルガメシュも死して冥界神になってる。黄帝も同じ事で、誰か特定の「人間としてのモデル」がその中に含まれているのであれば、それも「死んでいる神」です。でも、遊牧民系の「天の神」と無理矢理習合させて、生きているのか、死んでいるのか、霊なのか、肉体も伴っているのかはっきりしない「合成神」として作られている。それを基にしているから、西欧の多神教の神々は、全てそういう神になっている。ギリシャ神話の主神ゼウスは、雷という自然現象の神で、自然神としては生きているけれども、肉体も持っていて人間や他の女神達と子孫を作る。その肉体は不変であるはずだけれども、生きているのか死んでいるのかも、宗教的には明確にされない、ということになる、と言われる気がするわけで@@。

良渚文化の王たちは「祖先信仰」が著しく、彼らは自らがシャーマンでもあって、「祖先である黄帝」と交信して、そのお告げで政治をしていた。要は、「幽霊のお告げ」で政治をしていた。でも、死者が話すことはあり得ないので、それは、知っている人にとっては、「単に好き勝手やるための方便」でしかありません。でも、良渚文化では、その思想が下まで浸透して人々を支配した。王は、先祖の神を強くするために、人の生け贄を捧げ、その「声」を聞いて好き勝手に政治をした。要するに、都合の悪い存在はどんどん消すことになり、命に対する倫理も敬意も消え失せることになる。農耕をする人達は人達で、「死んでいる神」に豊穣を求めるために人の生け贄を捧げるようになる。自らの力をつけるために、神と共に人肉を食べるようになる。そうして、ますます「幽霊と交信すること」の狂気と幻影に陥っていく、と言われる気がするわけで@@。だから、そうやって「死者から言霊を貰って運命を決めること」という祭祀が顕著に残っているところほど、良渚文化の影響が大きいところ、と言われる気がするわけで@@。要するにあれだ、それは日本でいうところの「イタコ」とかそういうやつでしょ? と思う。

で、そうなると、神々に人を食わせること、同じように自分でも人を食うことが重要になってしまう。そうして、人を食って、食った相手の魂を多くつかまえた者が、一番強い、というのが、古代殷の思想でしょ、と言われる気がするわけで。古代殷では、王の権力を示すためだけに、生け贄が捧げられた。より多くの生け贄を捧げられた王が、「強い神」となるとされたからです。だから、それと共に、「死んだ人の魂を転生させない」という呪法の研究も盛んになった。いったん捕まえた魂を逃がさないために、永遠に権力者のそばにとどめておくために、です。だから、良渚文化は、霊界との交信、魂の拘束という、「妙な呪法」まみれの文化になった。だけど、「なんで生きている人の運命を死んだ人が勝手に決めなきゃならないのさ。生きていく苦労をするのは、生きている人達であって、死んだ人にはそれは関係ないものでしょ。」と7番目の兄さんに言われる気がするわけで@@。うちの父親は死んだ親兄弟に「一生田舎にいろ」と言われたから、いつまでもその言葉に取り付かれてじたばたしてる。うちの母親は、最近は言わないけど、昔は「死んだ親がああ言った、とかこう言った」ということばっかりで動いてた。「死霊に取り憑かれて、現実が見えていない」ってどういうことなのか、良く考えてみるように、と言われる気がするわけで@@。要するに、そういうことなわけだ。でも不思議なことに、家を綺麗にしていくと、そういうことを言わなくなるんだねえ、と思う。

良渚の人々は、「死んだ黄帝がこう言った」という言葉に盲目的に従うことを強要され、慣らされて、それが今にまで続く。蛙の王家は、「死んだ黄帝がこう言った」って未来永劫言い続けていたい。ローマ人は「死んだイエスがこう言った」と言い続けていたい。でも、生まれ変わった「黄帝」が「自分はそんなこと言ってない」と言い、生まれ変わった「イエス」が「自分はそんなこと言ってない」と言ったら、蛙の王家とローマ人の「権威」は全て崩れ落ちる。だから、「協力しろ」と言われるし、「死ね」って言われるんでしょ。蛙の王家にとっては、黄帝もイエス・キリストも「死んでてくれないと困る」からである。でも、自分もあなたも生きてるでしょ? だいたいなんで、何千年も昔に死んだ人の言うこと聞いて生きなければいけないの? それこそが馬鹿馬鹿しい話だと常識で思うでしょ? と7番目の兄さんに言われる気がするわけで。私達は本当は、誰の生まれ変わりであっても「只人」であってそう生きるのが正しいのだと思う。でも、私達が「ああ言った」「こう言った」って勝手に言いたがる人がいるので、それを否定すると殺されそうになるわけだー;。でも、私達は生きていて幽霊じゃないんだから、自分の言いたいことは拙くても、自分で言うしかないわけですー;。

本日の日誌

なんだか今日は朝から暑くて。そしてぼちぼちと作業をして。だいたい、今までに提出した写真は纏めたので、補充で提出するものをいくつか纏めれば、それで完了すると思う。

お外組(母と姉)は、いつも通りで。親が、昼寝をしていて、ふと気がついて、空洞になっていた部分を再び掘り返してみたら、そこにも石が埋まっていたそうで。よくよくいろいろな物を埋めてくれたなー、と思う。

昨夜は、夕ご飯を食べて「嵐にしやがれ」を見ていたら、とても眠くなって、見終わった後もそのまま寝てしまって。日記を書く暇がなかったのです。で、朝方夢を見て。なんだかまだ自分が高校生で、学校で旅行に出かけて。大きな旅館? というか、合宿所に泊まったのですが、お風呂に入ろうとしたら、お湯がなんだか汚くて。目が覚めて、「風呂の下もちゃんと綺麗にするように」ということなんだろうな、と思う。

で、常々、次々と本を買う自分は「買い物依存症」ではないのか、と心配になるわけで。で、色々と注文してKinKi-KidsのDVDをみたくなって、見ていたら7番目の兄さんに、「次に南インドの祭祀についての本を1冊くらい、来月で良いから買い足しておくように」と言われる気がするわけで@@。「北インドの祭祀と、南インドの祭祀を比較したら、遊牧民由来の祭祀と、良渚文化由来の農耕祭祀の違いが分かるでしょ。」と言われる気がするわけで@@。相方さんには、「それは、買い物依存症じゃなくて、7番目の兄さんがせっかちなせいでしょ。だいたい、自分でインドの祭祀の本なんか買おうと思いつかないでしょ。どうもすみません。」と謝られてしまって@@。兄さんには「良渚由来の祭祀の異常さを知って欲しい」と言われる気がするわけで。

北方の遊牧民の思想は、基本的には現代の日本人が「仏教の輪廻転生」と考えるものに似ていて、人は死んだら、鳥に生まれ変わるかもしれない、でなければ熊かもしれないし、犬かもしれない。ともかく、「今の自分」とは違う物に「生まれ変わる」わけです。だから、犬も熊も鳥も、みな兄弟だし、命は等しい、となる。お互いに狩ったり狩られたりして、食い合うことはあっても、互いの命にも敬意は払われる。それは、かつての親であったかもしれないし、兄弟であったかもしれない存在だからです。シャーマンが、自然の精霊を下ろすのも、それは熊の神であったり、鳥の神であったり、山の神であったり、天の神であったりするかもしれない。でも、そういうものは、宗教的な概念としては人間と同様「生きているもの」だし、互いに生きているからこそ交信できる。シャーマンそのものも、個人として交信するわけです、いわば「人間の代表霊」みたいな形で彼らと会話するわけです。そこには「個」を超越した「種」とか、でなければ「山」「川」「空」といった自然現象を一つにまとめた概念が存在する。そして、ここで述べられる「輪廻転生」とは「魂の転生」であって、「肉体の転生」ではありません。肉体は次々と変わるけれども、魂は不変である。

一方、漁撈民の思想は、神である魚や蛇に、生け贄という餌を与えると、魚が増えて戻ってくる、という思想であって、「浦島太郎を餌にして撒いたら魚が戻ってくる」というような思想は、「魂の転生」ではなくて、「肉体の転生」になります。太郎の魂がどうなったのか、そもそも魂なんてあるのか、ということはともかく、「戻ってくる魚」は「太郎の肉体が変化したもの」であるわけです。だから、これが農耕になると、人を殺して肥料にしたら、その肉体は「収穫物」となって戻ってくるわけです。魂はどうなるのか、そもそも植物に魂なんてあるの? ということになる。

で、遊牧民の文化と、農耕をやってる漁労民の文化が衝突して習合しました。そうしたら、植物にも神霊が宿るし、神霊はバラバラになって殺されて、また新たに戻ってくる、ということになりました。それは、米や麦がいったん実って、また次の年に芽を出すことを指します。本当は、生物学的には、親の実と、次の年に生まれてくる芽は「異なるもの」なのだけれども、古代の人々は、「親の実」がそのまま「復活してくる」と考えました。だから、植物にも神霊が宿って、それが死と復活を繰り返すのなら、それを食べている人間も同じように死と復活を繰り返す、と考えるようになりました。北方の遊牧民から「魂」という概念は取り込んだのに、「魂の輪廻転生」は否定された。植物神が未来永劫「植物神」であるように、人間も未来永劫「人間」であるとされて区別されました。なぜなら、元々の漁撈民の思想では、魚も植物も「死んだ人」からできているものだから、この世界で「生きている物」は「人間だけ」だからです。それ以外のものは、動物でも植物でも「死んでいるもの」なのです。だから、植物神は「死人の神」なわけです。

そして、北方の遊牧民は「祖霊信仰」を持っていましたが、これも彼らの概念からいえば、「熊の神」とか「鳥の神」に対する概念的な信仰であって、別に特定の先祖に対する信仰ではありません。そして、神も死んでいる存在ではない。でも、遊牧民と漁撈民の混血児達は、これを「祖先信仰」に変えました。「祖先信仰」というと、それは誰か特定の「先祖」に対する信仰になります。それは、特に王族にとっては「英雄先祖」ということになるし、時には「農耕とか技術を教えた先祖」ということになります。どちらにしても「死んでいる人」に対する信仰です。要は「幽霊信仰」です。だから、遊牧民のシャーマンが下ろすのは「生きている神」であって、混血児の農耕民のシャーマンが下ろすのは「死んでいる神」なわけです。「祖霊」は生きている神だけれども、「祖先」は死んでるから。と言われる気がするわけで@@。だから、古代エジプトのオシリスは死して冥界神になってる。古代メソポタミアの英雄王であったギルガメシュも死して冥界神になってる。黄帝も同じ事で、誰か特定の「人間としてのモデル」がその中に含まれているのであれば、それも「死んでいる神」です。でも、遊牧民系の「天の神」と無理矢理習合させて、生きているのか、死んでいるのか、霊なのか、肉体も伴っているのかはっきりしない「合成神」として作られている。それを基にしているから、西欧の多神教の神々は、全てそういう神になっている。ギリシャ神話の主神ゼウスは、雷という自然現象の神で、自然神としては生きているけれども、肉体も持っていて人間や他の女神達と子孫を作る。その肉体は不変であるはずだけれども、生きているのか死んでいるのかも、宗教的には明確にされない、ということになる、と言われる気がするわけで@@。

良渚文化の王たちは「祖先信仰」が著しく、彼らは自らがシャーマンでもあって、「祖先である黄帝」と交信して、そのお告げで政治をしていた。要は、「幽霊のお告げ」で政治をしていた。でも、死者が話すことはあり得ないので、それは、知っている人にとっては、「単に好き勝手やるための方便」でしかありません。でも、良渚文化では、その思想が下まで浸透して人々を支配した。王は、先祖の神を強くするために、人の生け贄を捧げ、その「声」を聞いて好き勝手に政治をした。要するに、都合の悪い存在はどんどん消すことになり、命に対する倫理も敬意も消え失せることになる。農耕をする人達は人達で、「死んでいる神」に豊穣を求めるために人の生け贄を捧げるようになる。自らの力をつけるために、神と共に人肉を食べるようになる。そうして、ますます「幽霊と交信すること」の狂気と幻影に陥っていく、と言われる気がするわけで@@。だから、そうやって「死者から言霊を貰って運命を決めること」という祭祀が顕著に残っているところほど、良渚文化の影響が大きいところ、と言われる気がするわけで@@。要するにあれだ、それは日本でいうところの「イタコ」とかそういうやつでしょ? と思う。

で、そうなると、神々に人を食わせること、同じように自分でも人を食うことが重要になってしまう。そうして、人を食って、食った相手の魂を多くつかまえた者が、一番強い、というのが、古代殷の思想でしょ、と言われる気がするわけで。古代殷では、王の権力を示すためだけに、生け贄が捧げられた。より多くの生け贄を捧げられた王が、「強い神」となるとされたからです。だから、それと共に、「死んだ人の魂を転生させない」という呪法の研究も盛んになった。いったん捕まえた魂を逃がさないために、永遠に権力者のそばにとどめておくために、です。だから、良渚文化は、霊界との交信、魂の拘束という、「妙な呪法」まみれの文化になった。だけど、「なんで生きている人の運命を死んだ人が勝手に決めなきゃならないのさ。生きていく苦労をするのは、生きている人達であって、死んだ人にはそれは関係ないものでしょ。」と7番目の兄さんに言われる気がするわけで@@。うちの父親は死んだ親兄弟に「一生田舎にいろ」と言われたから、いつまでもその言葉に取り付かれてじたばたしてる。うちの母親は、最近は言わないけど、昔は「死んだ親がああ言った、とかこう言った」ということばっかりで動いてた。「死霊に取り憑かれて、現実が見えていない」ってどういうことなのか、良く考えてみるように、と言われる気がするわけで@@。要するに、そういうことなわけだ。でも不思議なことに、家を綺麗にしていくと、そういうことを言わなくなるんだねえ、と思う。

良渚の人々は、「死んだ黄帝がこう言った」という言葉に盲目的に従うことを強要され、慣らされて、それが今にまで続く。蛙の王家は、「死んだ黄帝がこう言った」って未来永劫言い続けていたい。ローマ人は「死んだイエスがこう言った」と言い続けていたい。でも、生まれ変わった「黄帝」が「自分はそんなこと言ってない」と言い、生まれ変わった「イエス」が「自分はそんなこと言ってない」と言ったら、蛙の王家とローマ人の「権威」は全て崩れ落ちる。だから、「協力しろ」と言われるし、「死ね」って言われるんでしょ。蛙の王家にとっては、黄帝もイエス・キリストも「死んでてくれないと困る」からである。でも、自分もあなたも生きてるでしょ? だいたいなんで、何千年も昔に死んだ人の言うこと聞いて生きなければいけないの? それこそが馬鹿馬鹿しい話だと常識で思うでしょ? と7番目の兄さんに言われる気がするわけで。私達は本当は、誰の生まれ変わりであっても「只人」であってそう生きるのが正しいのだと思う。でも、私達が「ああ言った」「こう言った」って勝手に言いたがる人がいるので、それを否定すると殺されそうになるわけだー;。でも、私達は生きていて幽霊じゃないんだから、自分の言いたいことは拙くても、自分で言うしかないわけですー;。