本日の日誌

おとといは「音楽の日」であって。一応タイムテーブルを確認したら、深夜帯の部にABC-ZとジャニーズWESTが出ると書いてあったので、2時まで頑張って見て。そうしたら、朝になって、ふっと「自分達の描いた手書きの設計図も出すように」と言われる気がするわけで。それを言いたくて、兄さん達は昨日がんばってたのかー、と思って。のんちゃんと良ちゃんも、ちゃんと最後まで見て良かった、と思ったのでした。で、それ以外では、KinKi-Kidsの二人が、一部の最後まで残っていたわけですが、なにげに光一君の後ろに、手越くんとまっすーが張り付いていて、「立派だ-」と思うわけで。

で、昨日の作業は、雨が降ってぐちゃぐちゃしていたので、お外組は庭の整備をしていて。庭の南西の隅から、バケツ5杯分のタール状のものが混じった汚い土とか、アスファルトの小さな塊とか出てきて、「いつ入れたんだろう? フェンスを貼った直後かも。」と話していて。それ以外にも、砕石をためておいたところに、砕石しかないはずなのに、いつの間にか土がたまっていたりして、不審であって。

で、昨夜はなんだか冷えたらしくて、今朝、朝ご飯を食べたら、吐いたり下したりしてしまってー;。暑いので、電気毛布の温度を下げたら、寒かったらしくてー;。カイロを入れて、暖かくしていたらすぐに回復しました。

午前中は、家人は買い出しに出かけて。作業はバケツ4杯くらい貼り付けであって。私は、手書きの資料を整理して。で、例によって、家人の言動が変であって。原因は裁判が近いことと、買え、と言われた本を私がせっせと買ってるからだと思う。要するに、西欧の多神教の神々の中には、黄帝に相当する神を重要視するところもあるけれども、長江文明由来の人食いの男性の豚の太陽神を重んじるところも多くて、そういうところほど、根源的には「人食い」とか「人の生け贄」をなんとも思っていないのだと思う。西欧では、上流階級は農耕を行わないので、本来であれば農耕に関わるはずの「豚の太陽神」への信仰は、武力による豊穣、例えば、馬とか武器とか金銀財宝とかの豊穣に変化して、その後、特にキリスト教化で、古い時代の神々を信仰することが禁止されると、中世には古い神話が騎士物語とかに変化して、詩人の詩とか文芸の場で盛んに「物語」として語られて、あちこちで流行するようになるわけで。そうなると、古い時代の「豚の太陽神」は、主君を裏切ったり、若い英雄を死に追いやったりして、「悲劇」を引き起こす「立役者」みたいな地位で語られるようになる。これは、この太陽神が「怒りにまかせて気まぐれに祟りを起こす神」であり、起源を損ねると相手が君主でも祟るし、元は若者を生け贄にした神でもあることの名残なのだと思う。それが、アーサー王の王国を滅ぼす王の甥モリガン、シャルルマーニュ大帝のお気に入りの騎士ローランを死においやるオジエ、英雄ジークフリートを殺してニベルング族滅亡の原因を作るハゲネとかに投影されているのだと思う。彼らは大抵、王の近親であって、裏切り者である。「シャルルマーニュ伝説」では、大帝の息子もけっこうぼんくらなドラ息子だしー;。これだから、中世の騎士物語も読んで勉強するように、って言われるんだなー、と思う。黄帝の「ぼんくら」のドラ息子で、混血の「ルーグ」が、良渚文系の基盤を築いて、自ら「豚の太陽神のシャーマン」として君臨し、人食いでお馬鹿さんになってる農耕民を専制君主として支配したわけだ。でも、黄帝を尊敬している人達も大勢いたから、印欧語族には、黄帝に相当する神も、ドラ息子に相当する神もいっしょくたに伝播して、各氏族がどちらを選ぶかで、「神」としてどちらが優位なのかが分かる。だから、西欧における「キリスト教化」の意味とは、なんでも「天の父なる神と、その子キリスト」に纏めてしまって、本当は人々がどちらを選んでいるのかを、区別がつきにくくしてる。特に「よそ者」からは全然分からなくなるので、性格の悪い方は、それにつけこんで悪いことをやりやすくなる。

西欧の騎士物語とか読んで、うちの家系の「性格の悪さ加減」を勉強しろってことですかねえ、と思う。そして、西欧の多神教には、小人とか、トロルとか、神とはいえないけれども、人でもないような風変わりな存在が公然と出てくるけれども、そういうものは、黄帝が出現する以前の、漁撈民の信仰、あるいは、北方の狩猟民の信仰での神々が、良渚と黄河文明の思想が拡がるにつれて、その地位が低下して変化したものなのだと思う。彼らの一部は「王権」を伴う神々と習合して、上流階級にも取り入れられたけれども、多くは被支配者である庶民の側にとどまり、超自然的な精霊的存在に変化して、庶民の生活を助けてくれたり、意地悪したりするようになったのだと思う。でも、基本的には「良渚文明」で出現した神々と「同じもの」であるので、なにがしかの犠牲を捧げられて、機嫌が良ければ、恩恵を授けてくれる性質は変わらない。

でも、まだ「二人兄弟」の謎が残っているのです。ロームルスとレムスではないけれども、双子の片方が「死ぬ」というのは、一方を犠牲に捧げることで、他方の豊穣を図るものだと思う。だいたい、ポリネシアの民話の中に、すでにその気配は萌芽してる。彼らは、「生と死」の境界が曖昧であって、そもそも「存在」として「生きている人」だけでは「完全」ではない、と思ってるのだと思う。人は「生と死」が対になって存在して、それで「完全」なのだと考えている。だから、「生きている人」というのは「生」の状態が強いから生きているのであって、「死」が強くなる死ぬ。だから、「生きている人」というのは、常に「自分の死霊」と共にいるのであって、生きていても「自分の幽霊」というものは常に存在しているわけです。そして、生きるために、自らの悪霊と常に戦ってるのかもしれないと思う。だから、「二人兄弟」というのは、「自分の生き霊を克服した人」が、生きた王となるべき英雄である、という考え方かもしれない、と思う。あるいは、自分に近い大切なものを神に捧げると、より大きな見返りが得られる、という考えもそこには含まれるのかもしれない(困窮した際に、我が子を生け贄にしたりするのは、こういうことだと思う)。あるいは、両方が混在した考えといえるかな、と思うのだけれど、しっくりとした答えが、自分の中で、まだ見つからない気がするのです。長男だけを大切にしたり、あるいは末子だけを大切にしたり、というのも、他の兄弟を「犠牲」にしているわけだし。古代の人々の「家」とか「相続」という概念も関係してるのかもしれないし。

ともかく、今日はNHKで潤ちゃんのドラマがあったから見たわけです。ええと、北海道150年記念とかで。ちょっとメロドラマ風味であったかな、と思う。まあ、でもNHKですし。潤ちゃんは、お芝居も上手ですし。真面目なお話だったんじゃないでしょうか。