本日も、晴れたり降ったりしていて。お昼休みに、奥が崩落したらしいです。火曜日に潜った時に、ちょっと掘りすぎかも、と思ってはいたのですが、もう少しで安全圏だしなー、と思ったら、言いそびれてしまってー;。雨が降る時期は崩れやすくなりますし、もっとちゃんと言っておけば良かったなー、と思って。自分の日記を読み返しても、「崩れた、崩れた」ってしょっちゅう書いてあるので、危ないところを頑張ってやってたんだなー、と思う。でも、ここまでやってきて、怪我するのもつまらない話ですから、もっと気を配っていければ、と思います。基礎の周囲が、崩れやすい土ばかりなので、そこの辺りを掘るときが、一番注意が必要なのです。
で、私の作業の方は、今日もノルマ以上に進めることができて。朝、3時半頃に蚊に喰われて目が覚めて、午後も家の中にいた蚊に喰われて。蚊三昧の一日だったのでした。
で、7番目の兄さんからは、「これで、甲賀三郎が、何故地上に戻ってきたときに、蛇の姿だったのか分かったでしょ?」と言われる気がするわけで。甲賀三郎は、諏訪地方の伝承で、兄弟に騙された三郎が、地面の深い穴に落とされて、地下世界をさまよった末に、地上に戻ってくる話ですが、戻ってきたときに何故か蛇の姿になっていて。人の姿に戻るまでに、もう一仕事、みたいな話であって。三郎が「穴に落とされる」というのは、男の子が植物の豊穣の祭祀で、埋められて殺されたので、大地(月)の女神と一体化して、蛇(月)の姿に生まれ変わる、というか、蛇(月)になる、という話ですねえ? と思う。だから、戻ってきた三郎は蛇(月)の姿なわけです。この「犠牲」である三郎の伝承が、御頭祭における神使(おこう)だよね、と言われる気がするわけで。御頭祭では、江戸時代までは、御贄柱という柱を立てて、そこに神の使いとされる8歳くらいの男の子を縛り付けて、その子を刺し殺そうとするところに、国司の使いが現れて、それを止めて、子供が解放されて祭りは終わる、という祭祀をやっていて。御頭祭は、今では剥製の鹿の頭を柱に供えているわけです。だから、昔は「男の子の頭」を切り落として、柱に供えたものだよね、「柱」とは「地面の上に生えた植物」だから、「男性性」のものです。男の子の頭は、「木の実」の化身でしょ、と言われる気がするわけで。「何の実ですかねえ?」と思ったら、「縄文時代の人は栗が好きだから、栗なんじゃないの?」と言われる気がするわけでー;。要するに、御頭祭は、栗の豊穣を願っている、「古栽培民」の祭祀でしょ、「農耕の祭祀」ですよ、と言われる気がするわけで-;。諏訪神が彼の地に入って、人の生け贄は禁止されたと言われている。でも、縄文時代には、男の子を生け贄にして、その子供は「湖の男神」の化身でもあったわけです。諏訪湖は「淡水」だから、「男性」なわけだ@@。でも、「湖の男神の化身」が現世における「神の代理人」という考え方そのものは、諏訪氏の当主が代々受け継いで、彼らは、室町時代くらいまで、冬になると蛇よろしく、地下室に籠もって冬ごもりをする、という生活を送っていました。殺されはしないけれども、「生きた蛇神の化身」としては生活してたわけです。農耕の豊穣のために。「でも、今でも男の子は殺さないけど、蛙は刺し殺すんだけどね。」と言われるわけでー;。それも、「農耕の豊穣の祭祀」ですねえ、と思う-;。しかも、「月の蛙」って言ったら、女性性なんで、それは「女の子」の代わりに殺されてるんですよねえ? と思う。要するに、縄文時代の諏訪の祭祀は、漁労民の祭祀を受けて、最初は男の子も女の子も殺す祭祀だったわけですが、「女の子」の方は縄文時代のうちに、自主的に「土偶」と「蛙」に置き換えられてしまって。男の子の方は、扱いが悪くて、弥生に入るまで殺され続けたもの、と言われる気がするわけでー;。鹿は角が生えてるものだから、原則としては「男性」と言われる気がするわけでー;。どうしてそういう差が生まれるかというと、縄文時代の諏訪の住民は、「母系の熊信仰」の人々であったから、女の子を大切にしていて、殺すのを嫌がったから、と言われる気がするわけで。
大名家の先祖は、諏訪にやってきて、人身御供は禁止したけれども、祭祀の一部は自分達が引き受けて、縄文系の人々も納得できる形で祭祀を続けたし、自分達が「湖の神の化身」ともなったわけです。で、どうして、そうしたかといえば、「そうやって、征服した先の住民の信仰を取り込んで、自分達の都合の良いように混血習合させて支配する手法は、印欧語族の十八番でしょ。「イエス・キリストの後継者」なんて言ったって、やって来たことは蛇のまねごとでしょ。」って誰かが言う気がするわけですが@@。しかも、筒粥神事というのは、でかい釜で米を炊いて吉凶を占うものだから、鳴釜神事と同じで、人の首を煮て農耕の吉凶を占う祭祀だよね、と言われる気がするわけでー;。その人、ものすごい「毒舌太郎」なんじゃないの? そういうところが、私と良く似てるとか、そういうこと?? と思うわけで-;。でも、こういうことで、富の王家のおっちゃんも、大名家のおっちゃんも、7番目の兄さんを前にすると、「ぐうの音」が出なくなるらしくてー;。富の王家のおっちゃんは、何とかの帝国っていう変な本に、「自分とこの先祖はウミヘビ~」みたいに書かせたら、7番目の兄さんに「漁撈民のふりをしても、あんたんとこは牛肉でしょ。」と言われたらしくてー;。「牛の神様」じゃなくて、「牛肉」なのね。まあ、神様って要は「食べ物」のことなんですけどね、漁撈民の信仰ではね、と思うわけですが-;。でも、諏訪の庶民的な信仰の根源は、今でもお山の大姥様(熊)にあるんじゃないの? と思う。多少方便でも、地元の人の気持ちを大切にすることも、大事なことではないかなー、と、まあ、そういう人達もいるわけです。まあまあ、どちらもお手柔らかに、と思うわけですが-;。