本日の日誌

本日は、雨が降ったり止んだりしていたのですが、作業する時間帯は晴れていたので、お外組は効率よく作業ができて。私の方は、割と順調に進んで、ノルマ以上に、作業が進んだのでした。

で、夜にテレビを見ていたら、ものすごい大きな音量でカーステレオを鳴らしている車が家の横にしばらく停まっていて。親は、「そういう騒がしいのがいるときは、こちらの気を引くためで、そういうときは誰か敷地の中に入ってるとき。」と言っていたのですが。敵はまだ懲りてないなー、と思う。

そして、色々と血なまぐさい話を聞いたので、ご飯を食べていても、「この一粒一粒が、すでに死んだ誰かの「首」かー。」と思うと、微妙に嬉しくないわけですがー;。北欧神話には、蜂蜜酒がいくらでも出てくる釜、というものがあって。こういう「中身が尽きない釜」も、「人の頭=月」の化身なんだろうな、と思う。なぜ、中身が「尽きない」のかといえば、「月」の体は大地や海だから、そこからの産物は「果てが無い」ということなのだと思う。「釜」の原型は「土器」であって、「土器」は土から作られるから、それもやはり「人」なわけです。だから、豊穣の祭祀用に作られて、わざわざ壊されて埋められた「グンデストルップの大釜」も、「人の首=月」なのだと思う。それを壊してバラして埋めることで、万物の豊穣を願っているわけです。だから、変形が著しいけれども、「こすると何でも願いを叶えてくれる」という「アラジンと魔法のランプ」の「ランプ」も「人の首=月」だし、ランプの精って、「月の神」ということになる気がします。「豊穣をもたらす人の首」だから、持主を守護して、かつ豊穣をもたらしてくれるのだと思う。

で、7番目の兄さんには、「漁撈民の信仰では、地上で実るものは「男性」、地下で成熟するものは「女性」でした。でも、小麦の化身は、タンムーズのように男性のこともあるけれども、ペルセポネーのように女性のこともある。日本の「早乙女」も米の化身だけれども、女性である。これはどうしてだと思う?」と聞かれる気がするわけで。しかも、ヨーロッパの民間伝承では、小麦の収穫が終わった後には、畑に魔女がいる、と考えるところもある、と金枝篇にある。ペルセポネーは「若い女性」だけれども、「畑の魔女」は「老婆」である。その差もどこから来るのか? と言われる気がするわけで。

そもそも、本来の漁撈民の信仰では、犠牲に性差がなく、犠牲は初子(嬰児)でした。昔の人は、子供は育つかどうか分からないので、一定の年齢に育つまでは「人間ではない」と考えていました。成人式とかの成人儀礼は、「人間ではない」ものが、「一人前の人間になる儀式」でもあります。だから、犠牲に捧げられるものは、「人間ではないもの」であり、そこに漁撈民のモラル感がある、と言われる気がするわけで。「有機物も無機物も、みんな同じもの」と言いつつも、犠牲にするものは、あくまでも「人間ではない」というところに、「人間尊重」の意思があるわけです。で、植物の栽培が始まると、地面の上のものは「男性」とされるものになりました。そして、彼らの文化を受け継いで、「穀物の化身」というものは、3種類に分かれました。一つめは、古い時代の「魚の化身」の形を引き継いで、「犠牲に性差がないもの」、「地面の上のもの」という考えを受け継いで「男性」とするもの。そして、最後に、「穀物=女性」と、無理矢理その役割をねじ曲げているもの、です。こう定めたのは、女性差別の強い父系の文化の人達、と言われる気がするわけで。男の子が大切で、生け贄にしたくないから、その役割を女の子にだけ意図的に押しつけているのです。こうすると、犠牲はペルセポネーのような、成人前の幼い女の子になります。

中国の少数民族の伝承には、「天人女房」の伝承が多いのです。母系の伝統を今も受け継ぐモソ族を含む、ナシ族の伝承では、天女が親の反対を押し切り、人の男と結婚して、地上に降り、夫と共に苦労しながら財産や子孫を増やす、という話があります。夫婦で協力して、苦労しても頑張っていこう、という話です。その一方で、男系のイ族の伝承には、イ族の先祖は竹から生まれた子供で、それを育てたイ族の母は、子供達が独り立ちした後は、天に昇っていってしまった、という話があります。これは、要するに母親が、その役目を終えた後に、「死ぬ」ことを意味する、と言われる気がするわけで。イ族の子供達は、竹から生まれた、「竹の実」であって、実が一人前になると、親は枯死します。要するに、死んでその首が「月」になる、という奴です。この場合、死ぬのは「老婆」ということになる。男系のイ族は、血縁を父親中心に考えるので、異母兄弟で結婚できず、その延長として近親婚を嫌います。近親婚を嫌えば、余所から妻を求めるしかありませんが、余所から妻が来れば、妻の側の伝統や文化が入ってくるし、相続によって財産がそちらに流れる可能性もある。それを防ぐためには、「よそ者」の妻は、用が済んだら、「首」にしてしまえばいい、ということになります。竹をわざわざ植物のトーテムに選ぶのは、そういうこと、と言われる気がするわけで@@。こういう思想を受け継いだ男系の人々は、若い娘を犠牲にせずに、用のなくなった老婆を犠牲にすることにしました。「麦畑に老婆がいる」とは、そういうことです。この思想が男系の印欧語族に受け継がれて、悪名高い印欧語族の「寡婦殉死」という制度を生み出しました。寡婦は夫の供をして、死なねばならぬ、というものです。この思想は遊牧民にも受け入れ易いものだったので、印欧語族に受け入れられたのです。遊牧民には、元々、動けなくなった年寄りは、その場に捨てていく、という習慣があったのでした。老婆を犠牲にする形式は、デーメーテール型ともえいます。妻として母として役目を終えた彼女は死なねばならず、死と共に「冬」が訪れます。そして、このように、女性のみを差別して、女性に犠牲を強いる思想が、男系の民族の農耕と共に、各地に伝播し、現在の男系文化の隆盛を生んでいるのです。でも、本来の漁労民の信仰を、漁労民でないものが、ねじ曲げて、弱い立場の女性にのみ、犠牲を強いることが当たり前にしてしまったことが、現在の世界のゆがみと狂気も生み出しているのです。そこには、元の漁労民の中にはあった、「人間を尊重する」という思想がもはやなく、「男だけが人間である」というような歪んだ思想しかないからです。

古代ギリシャでは、このように老婆が犠牲になる思想と、若い娘が犠牲になる思想が再集合して、デーメーテールとペルセポネーは「同じものである」ということになりました。元を辿れば、そういうことです。でも、彼らは、彼らの「豊穣の祭祀」は「エレウーシスの秘儀」と述べて、他にはひた隠しにしていました。彼らはいったいそこで何をしていたのでしょう? エレウーシスの民間伝承では、デーメーテール女神が、赤ん坊の王子を焼き殺して、不死にしようとする、という話がある。要するに、幼い男の赤ん坊を犠牲に捧げる、という思想がそこにあります。地中海周辺地域は、性差によらず初子を焼き殺す祭祀が盛んでしたから、これは本来の形に近い祭祀といえます。ギリシャ人は、本来は「寡婦殉死」の制度を持つ印欧語族のはずでしたが、地中海に進出して、そこの起源的な習俗を持つ人々と混血、習合して、再び元と同じような豊穣の祭祀に戻ってしまったのだと考えられます。そのことを、周囲の印欧語族に知られたくないから、「秘儀」としてこそこそやっていたのです。だから、こうやって、世界各地の人々の、「豊穣の祭祀」の歴史や形態を調べれば、その人達が元々はどこの誰であって、誰と混血している人達なのかって、すぐに分かってしまうものなんですよ、と言われる気がするわけで@@。

要するに、農耕に関する「人食いの月の神」は、伝播するに従って、時には意図的に、男性であったり、女性であったりする方向に枝分かれしていったから、彼らの祭祀を調べれば、どこでどんな風に枝分かれしていったのか一目瞭然だし、お里もばれる、ということで。それぞれの長所と短所もそれでばれる。だから、彼らの弱みや弱点を握って、支配することなど簡単なこと、と言われる気がするわけで@@。そうやって、人の弱みを見つけたり、時には作り出して、「支配すること」だけに何千年も腐心してきた「家系」があるらしくて。そういう人を人とも思わない状態を是正していかなければならないわけですが。でも、元の素朴な人食い人種に戻ることはできない。蛙の王家の作り出した階級制度に依って生きる人々と、階級制度の解消を求める人々とでは、利害が異なる、ということで。階級制度に依って生きる人々の代表格が、最古参の印欧語族である富の王家と7番目の兄さん、階級制度の解消を求める人々の代表格が大名家とイエス・キリストである、ということらしくて。その2つの利害は対立する。でも、蛙の王家に対抗するためには協力し合う必要がある、ということらしくて。とっつーには、「何でも覚えている7番目の兄さん、何も覚えていない太陽女神、でも2人は良く似ているから、お互いの足りないところを補い合うことがきっとできますよ。」と言って貰える気がするわけで。さあ、私のことは買いかぶっていすぎるかも? と思う。でも、戸塚君いい人だー、と思う。裁判官が誘導する方向には、できるだけ食いついて行きたいと思っているわけですがー;。「日記」の整理がとにかく、大変、ってそれだけです。まあ、うまくいってもいかなくても、できることは頑張ってみようと思います-;。

で、6月22日は伊野尾君、25日は太ちゃん、28日は紀香姉さんのお誕生日だったのでした。まとめてでごめんなさい。お誕生日、おめでとうございます<(_ _)>。