本日の日誌

本日も、お昼寝の時間に夕立が来て。雨が降っている以外は、お外組の人達は毎日作業をしているわけです。

私の方は、今日もなんとかノルマはこなして。

後は、古い文明をちょこちょこと調べつつ。古い時代の農耕儀礼には、必ず「人の生け贄」というものがつきまとうわけで。芋の女神ハイヌウェレとか、小麦のタンムーズとか。何故、人々は「神」と崇めるものを殺すのだろう? と思う。そうすると、「殺されるのは下位の神だから」と言われる気がするわけで。タンムーズは妻であるイナンナ女神の復活のために殺されます。古代メソポタミアの時代には、すでに、1つの命を生き返らせるには1つの犠牲が必要、みたいな思想があったわけで。ハイヌウェレでは上位の神はあからさまにははっきりしませんが、日本の場合だと、オオゲツヒメは須佐之男に殺されるわけだから、須佐之男の方が上位の神であるわけで。要するに、そこにあるのは弱肉強食の思想であって。植物の神様は、草食動物の神様に食べられる、草食動物の神様は肉食動物の神様に食べられる、となっているらしいです。で、人が狩猟民であった時代にはライオンとか虎とかの猛獣が、人々の理想の神であり、太陽神であったわけで。太陽神は、草食動物である月の神を食べる。月の神は、大地の神の化身である植物を食べる。人々の食料が、農耕によるようになっても、宗教的な思想は狩猟民のものを変化させたものだから、穀物を食べる時代になると、人間は肉食動物と草食動物の双方の「化身」として植物神を食べる。でも、植物の生育には地面が大事なので、人々が「母神」と崇めるものは、「天の太陽神」ではなくて、「地母神」に変更される、と言われる気がするわけで。人々が狩猟民であった時代には、天然の雨水をもたらす太陽神の方が重要であったので、人々は太陽を母神として崇めた、と言われる気がするわけで。

要するに、太陽神は肉食獣であるので、草食動物である月を食べる。草食動物である月は植物である地母神を食べる。農耕を行わない支配階級にはこういう単純な構図で済むけれども、被支配者である農民達にとっては、地母神は彼らの神でもあり、食物でもある、ということになる。だから、彼らは神を食らう、と言われる気がするわけで@@。でも、階級社会の中での農民は、元々被支配者ではなくて、戦争に負けたから、被支配者になってるだけなわけです。だから、彼らも狩猟民であった時代には、「天の太陽神」を持ってたはずなのですが、それは農耕の発生における必然によって、あるいは支配者の強制によって、「大地の神」に変更されている。

支配されて農耕民になった人々には、「神」を食べることは許されない。よって、彼らの祭祀の多くは狭小化して、取れた作物を神に捧げる、という表面上は穏やかなものに変化します。でも、「初物を神に捧げる」という思想は、元々「初子を神に捧げる」としていたことの名残です。昔は、そうやって始めて生まれた子供は、植物神の化身(あるいは魚神の化身)とみなされて、殺され、食べられ肥料あるいは餌にされていた。
一方、自発的に農耕民に移行した人々には、狩猟民が人を狩って食人の祭祀を行っていた時代の思想が、そのまま農耕に移行し、「人食いの太陽神」と「大地の神」が一体化した思想を形成してる。よって、食人の祭祀を行うときに、「食べる人」は肉食獣でもあり草食動物の化身でもある。「食べられる人」は草食動物の化身でもあり、植物の化身でもある。犠牲が苦しめば苦しむほど良いとされるのは、最上位の「神」が虎やライオンであって、これはネコ科の猛獣が獲物を苦しめてじゃらすことによるものである。そして、焼き畑を行うところでは、犠牲は植物の化身であるので焼き殺される。

でも、時代が下って、「儀式の神聖さ」の異議が失われてきて、俗化すると、「悪魔に生け贄を捧げて金を得る」という考えに変わったりして、生け贄と農耕の豊穣との関連も薄れてくる、ということらしくて。剣呑な話だ、と思うわけですが。