本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。「ウルトラフェス」は見たけれども、なんだかもうあれだけ重要な人達が目白押しで出ると、情報を貰って打ち合わせしなければいけないことがありすぎて、見ているのだけれども、「見る」ことに全然集中できないわけで-;。昨日の日記に書き忘れた点については、縄文系の姉さん達に、「これから家が良くなればなるほど、香取の神の稲垣君のスケジュールに空きが出てくるであろうことを忘れないように。」と言われるわけで。だいたい、人気のある人は、スケジュールが1年先まで埋まっている、とか当たり前の世界であるので。何かやりたいことがあれば、お金ではなくて時間が欲しい、というような世界でもあるわけで、私の関係者にはそういう兄さん達が多いわけだから。香取君も稲垣君も、とりあえず仕事を全然辞めてしまうわけではなくて、一応続行の意志は示しているわけだから、テレビで見る機会が全くなくなるわけではない。でも、その一方で、彼らの番組は視聴率的にはいまいちのものでもあるので、再編の機会に切ろうと思えばいつでも切れるものでもあるので。話の進捗具合によって、いくらでも変化しうるものでもあるわけです。そのことは、心の隅においておこうと思う。

で、後は福山君のコーナーで、結婚式でお父さんが余興でサックスで「家族になろうよ」を吹く、という動画が流されていて。親も気がついたけれども、私が吹奏楽をやっているときにアルトサックスを吹いていたことと何か関連はあるのだろうな、と思う。それにもまして、その動画はそもそもまず香取君の番組の「SmaSTATION!?」で流れたものですよねえ? と思うわけで。なんで、それをわざわざ流すのだろう? と思って。そうしたら、蛇の兄さんに、「いったい、何のために土曜日の深夜帯の仕事を辞めたと思うのか?」と兄さんに言われるわけで。そっか、それは「SmaSTATION!?」を見るためだったんだ? とふいに気がついて。生放送だから、私が見れば私と直接結縁できる。兄さんが見れば、香取君は兄さんと結縁できる。そうして、兄さんが私に伝えたいと思うことをリアルタイムにずっと香取の神が中継し続けてくれていたんだ? と気がついて。「SmaSTATION!?」が終わってしまうことは、蛇の兄さんにとっても名残惜しいことなんだな、と思って。でも、そういうことはみんな妻神を引き出すためにやっていることだから、それが可能になりつつあれば、その先の準備もできることから始めていかなければいけない時期だから、と言われるわけで。でもって、福山君の歌っている時に、家人がどう見ても首がくるくる巻いていて、アルトサックスよりも3割増しくらいでかいバリトンサックスを「アルトサックス」だって言い張るとか妙なアクシデントはあったわけですがー;。さすがにその間違いに気がつかないほど、その楽器について無知ではないー、と思って-;。

で、後は嵐の背景が「乱立する柱」であるので、まだ床下にいろいろ埋まっているんだろうな、とかそういうことであって。そういうことに気がつけるだけ、気がつく機会をまず持ってもらいらたいわけです。そうして、少しずつ彼らが、ここ20年以上も、様々な犠牲を代償として支払いながら、できうる限り続けてきてくれてきたことを鑑みることができるようにならねば、「情報を貰うだけ貰って、用がなくなったと思えば部下を平気で踏みつけにする上司」と言われてしまっても、それは仕方のないことだから。いくら、こちらが気がつかなくても、彼らはそれを続けることが仕事だから、といえばそれまでだけれども、人が血のにじむような思いをして、命をかけてまで自分たちのために続けてきてくれたことに対して、気がつくことができたのなら、まず謝意を示すのが当たり前のことだと思う。彼らはお互いにいくら迷惑を掛け合っても構わない「身内」ではそれこそないのだから。それなのに、差別するような真似を平気でしておいて、「裏切られたらどうしよう」もないものなわけです。人に差別されたくなければ、まず自分が人を差別しない人間になるしかない。人に裏切られたくなければ、まず自分が人の善意を踏みにじって裏切るような人間にならないでいるしかないのです。自分が人をまず裏切るような真似をしておいたなら、自分が裏切られた時に文句を言う権利はないのです。「立場」とか「階級」とか関係なくて、「平等」とは、「公平」とは、まずそのようなものなのではないでしょうか。(でも、こういうこと書くと「それはがっつり西欧主義」って言われるんだよね-;。どうにもね、東洋的な儒教主義は肌に合わなくて、大嫌いなわけです。その原因がもちろんどこにあるのかは誰でも知っていて、恐れおののく人は恐れおののいているわけですがー;。)

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。結局、親と話していると、「危うい」と感じることがいくつもあるので、「そういう時は話をする努力をしなければいけない。」と言われて、話をしたわけで。で、何が「危うい」と感じるかといえば、親にも言いましたけれども、いろんな騒ぎが始まった時には、今よりももっと何も分かっていない状況であっても、誰もが半信半疑であっても、兄さん達の言うとおりに話を進めてみよう、とそうやって話を進めてきたわけです。でも、今になると、親はたびたび「お前に協力してやってるんだからそれでいいだろう。」と言うようになって、その一方で、「半信半疑でも話を進めてみよう」とは言わなくなって、逆に「本当に迎えに来ると思うのか?」とか平然と言うようになっているわけで。「半信半疑でも話を進めてみよう」と述べるのは、文字通り、「信じて良いのか、疑って良いのか、分からない」ということで、それは誰だってこういうことに突然巻き込まれたらそうなるものだと思う。でも、「兄さん達の言うことに、とりあえず従ってみよう。」とやってきて、いろんな状況が変わってきて、一番は家の中での出鱈目な争いが少なくなってきているのだから、その点では「兄さん達の言葉に従って話を進めてみよう」と決めてきたのだから、兄さん達の影響力を認めるのが当然だし、客観的にそう判断するしかない状況しかないのに、今になって、兄さん達の言葉をはっきりと否定する言葉を口にするようになることに「危うさ」を感じるのです。だって「思うのか?」と問うのは、反語の表現であって、反語でその内容を否定する表現方法だからです。

そして、「危うい」と感じるもう一つは、「自分でも何が良くて、何が悪いのか分かるようになった」とかって軽々しく言ってしまうことなわけで。新しい品物が出れば、とっさの場合には私でさえ、未だに何を買って良いのかいくらでも迷う。そういう時に、兄さん達に助け船を出して貰わなければ間違ってしまいそうになることはいくらでもあるのに、「自分は分かる」なんて言う言葉なんて、それこそ何の信用もならない言葉であって。で、しかもこういう物言いは、母親と姉の共通した物言いであって、例えば姉は役所に出す書類も自分で全部整えることができないくせに、私の助けを得ることは嫌がる。しかも、助け船を出したところで、それに対して感謝することなんかまずなくて、できるようになったらなったで「もう自分でできるようになった」と言って、私を用済みの邪魔者扱いするような真似しかしないわけです。なぜそうするかといえば、妹から恩義を受けて、妹の方が自分よりも優位になって、自分の優位が崩されるのが嫌だからです。うちは、母親も全くこれと同じ物言いを良くするので。別に私は身内だから、誰に対しても、「自分はもうできるようになった。(だからお前は用済みの目下の存在だ。)」って言われても、よっぽどのことがなければ、それこそ「家族は持ちつ持たれつだから」と思って、自分が相手の役に立ったことについて、恩着せがましくなんかした気がない気がするわけですが。でも、これは相手が他人だったら、助けてくれた相手を「用済み」扱いする前に、まず謝意を示すべきでしょうが、って思う。兄さん達に何から何まで教えて貰っておきながら、自分がちょっといろんなことができるようになった、とそれだけのことで、自分を過信して、兄さん達を邪魔者扱いするの? 私に対してやってきたのと同じやり方で? と、それは経験上、そう思うしかないわけで。それに対しても、文句を言うと言うよりも、「危うい」し、いつまでもそんな甘いことを言ったり思ったりしているようでは、それこそどんな立派な家も、要塞も自分を守る役に立たず、敵につけ込まれるだけでしょうが、と思う。だから、家は良くなっているかもしれないけれども、家族はどんどん悪い方向に向かっているようにしか見えないわけで。

で、なんというか、親と話をしていると、「そんなつもりはない」とか、「なんでそう受け取られるのか分からない」とか言うわけです。でも、最後には兄さん達に対する本音が出てくるわけで。親はそれを、自分が育った環境のせいにするわけです。別にそれは良いのです。過去のことなのだから。だけど、兄さん達のことがあってもなくても、職業で人を差別する人は差別主義者なのです。自分がそうなった理由を探るのは良いけれども、それを「自分が差別主義者でなくなる」糧にして欲しい、とそう思うだけです。そして、それこそ赤ん坊ではないのだから、感情のままに「気に入らない」他人を踏みにじるのではなくて、理性で誰とどうおつきあいするべきか考えて欲しい。でなければ、結局敵につけこまれて、利用されることになって、自分も損をするし、周りの人達に大きな迷惑をかけるからです。しかも、いつまでもそんなことを続けていたのでは、良い家を建てている意味もなくなるじゃん、ということになるわけで。

ということで、誰がそうやって強力に、私にそういうことをするように勧めるのかといえば、「そんなことをするのは音楽家の兄さんしかいないでしょ。」ということで、富の王家の当主は気分が悪くなって、おそれおののいているわけで@@。「なんでさ?」と思いながら家に帰ったわけで。

で、帰ると「ウルトラフェス」を見たわけで。6番目の子は、スラブ系の東方教会と組んで、蛙の王家の思惑を太陽女神に暴露した。その才覚と功績で、スラブ系の人々は、彼に主神である「ペールーン」の名前を半分与えた、とは昨日から言われていて。「ペールーン」とは、インド・イラン系の人々の間では「ヴァルナ」と呼ばれる神であって、ゾロアスターのアフラ・マズダのことでもあるわけで。この神が時代が下ると、単に「神」と呼ばれるようになって、ムスリムの人達の「神」となるわけだから、イラン系の富の王家と、保守的なムスリムの人達は、神であっても庶民の出の神にその名前を与えることはあり得ない権威ある名前なわけですが。スラブ系の人達は、より西欧の人達に近い考え方を持っていて、神も王も実力次第、と思っている人達だから、その名に相応しい人物が現れた、と判断すれば、その名を与える。でも、誰かが「ヴァルナ」に連なる名前を手に入れると、それはその名に連なる他の部族の人達も、その事実を無視できないわけです。そういう事例に対抗したければ、自分のところの「ヴァルナ」の方が「目の力」とか「才能」において「上」だと証明できない限り、名前に連なる権利は「総取り」されてしまうことが多いわけだから。だから、新しく誕生した神には、他の部族の「ヴァルナ」に連なる名前を、どれだけ自分の取り分としたいかが尋ねられる。で、一方富の王家にとって、その名前が何を意味するかといえば、それはアフラ・マズダとそれに連なる「八束水臣津奴命(ヤツカミズノオミツヌカミ)」とその配偶神である「八坂刀売」であるわけで。6番目の子は、「目の力」の不自由な「八坂刀売」の代理人でもあり後見人として、「八坂刀売」の名前の半分を欲しい、と述べたので、それを承認しますか? と問い合わせが来るわけで。別に良いのではないの。「八束水臣津奴命」の名前は7番目の兄さんが貰っているし、そちらは富の王家の信頼が篤くて、何かあれば6番目の子を押さえ込めるだけの「目の力」が持ってる人だし、「太陽女神」をその二人が中心になって支えているのと同じ事で、二人で「仲悪く」ヴァルナの名前も分け合えば? と思うわけで-;。だから、「承認するよー」と言ったら、「そう言うと思った。」と言って、いろんな兄さん達からむしろ非難されるわけで@@。だって、親も言っているとおり、私にも大して「見る力」とか「聴く力」はないわけだから、大まかな方針とかを「どうしますか?」って聞かれれば、簡単なことには答えられるけど、細かい政治向きなことなんて「目の力」では打ち合わせできるだけの能力を持ってないから、そういうことはどちらにしても「内覧」である6番目の子に頼るしかないでしょうが?? と思うわけで。

だけど、富の王家は、6番目の子を警戒して、主神に関連する有力な神の名前をその人に与えて来なかったから、あっさり外部の勢力を借りて、6番目の子がその地位に食い込んできたことが面白くないらしくて。私が7番目の兄さんと組んで「駄目」と言えば、それは阻止できるのに、私がそういうことをする気がないのが、王家としては面白くない、ということで。でもって、「八坂刀売」の名前は、富の王家の主神というだけでなく、信濃国の国主の権利の半分に関わる問題、と言われるわけで。要するに、諏訪大社の夫婦神の1対として、国主の権利は蛇の兄さんに半分、私に半分あるわけですが、今度は新しく、私の権利の半分の更に半分が6番目の子に移るわけで。そうすると、6番目の子は、今現在は神婚が成立するまでの間、「国主代理」として、信濃国に関わっているわけですが、今度は神婚が成立した後も、「国主」として君臨できる、とそうなるわけで。蛙の王家は、そうなると常に正式な「国主」である6番目の子に頭を押さえられることになるので、ますます好き勝手言えなくなる。だいたい、6番目の子は、本日は「蛙の王家に好き勝手なことは言わせない。」としか言わなかったわけで。それで、「八坂刀売」の名前の権利の半分を6番目の子が手に入れた、ということは富の王家にとっても、蛙の王家にとっても、大ショックなことなわけだけれども、7番目の兄さんも蛇の兄さんも、妻神の損にならないことなら6番目の子のやることを放置する方針、なので私が承認を与えてしまうと、打つ手なし、になってしまうらしくて-;。そんなこと知らない-、蛙の王家にものも言わせなくする人材が必要だし、だいたい、その人たちは私の親戚なんだから、どんなにショックを受けても3日で回復して、また何か画策を始める人達でしょ、私と同じような性格なんだから、と思うと、あんまり同情する気がしないわけでー;。

でも、私一人が賛成しても、他に後押しする勢力もないと、そういうことできないでしょ? と思う。そうすると、6番目の子の後ろにいるのは、「諏訪大名家」と言われるわけで@@。ともかく、うちの親が「階級社会」とは、差別社会で、王様というものは人々を搾取するもの、とか何か出鱈目な妄想に取り憑かれているのも困るのだけれども、差別がどうのと言う前に、西洋と東洋では必ず「文化の違い」というものがつきまとうということを忘れないように、と7番目の兄さんに言われるわけで。西洋では、12枝族なんかがそうだけれども、12の部族が同盟を結んで、互いに対等な立場で、一人の王というか指導者を擁立しよう、という思想が古くから発達していて、そういう場合の「王」というのは、人々の中から人々が選ぶものなわけだから、「王」とはいっても、むしろ現代風に言えば「首相」とか「大統領」という感覚にものすごく近いのが西洋なわけです。だから、西洋では今でも相応しいと思う人は、どんどん新しい「王家」として求められるし、擁立されるし、流動的だし。逆に東洋は、最初は実力主義でも、「王家」が確率されると「総本家」というものを頂点として専制君主制が敷かれることがものすごく多いわけで、そういう場合、表向き最高権力を握っているのはいつでも「総本家の当主」、すなわち「王」とか「皇帝」と呼ばれる人達になるわけで。だから、蛙の王家は「太陽女神でも分家の出の者は王家の意向に従え。」と当たり前のように言う。それは富の王家も同じ事で、誰が諏訪神の名前を名乗るのか指定するのは地元の諏訪氏ではなくて、富の王家だから、諏訪神族は、日本武尊の直接の子孫であっても、諏訪神の任命権がないし、神に何かお願いしたいことがある際には、富の王家を通さないとならない、と言われるわけで@@。要するに、神サマに相当する子供が生まれることも希だから選ぶ余地はあまりないけれども、東国に影響力の強い諏訪神の任命権を持つのが富の王家であるということは、いつまでたっても、東国の支配権を西国の王族が牛耳っているのと同じ事、と言われるわけで。要するに、西国出身の蛇の兄さんは、大名家から見れば必ずしも歓迎すべき神とはいえないので、大名家は自分達が直接神とパイプを持てるコネクションを持つ「東国出身」の国主が欲しいわけで。6番目の子はバリバリの江戸っ子だから、それでその人を送り込む気になったのかー、と思うわけで。別にいいでしょ、信濃国は、西国出身の富の王家の草刈り場でもないし、未だに自分達のことは「華僑」だって言っている蛙の王家の草刈り場でもないので。ここは、ただ先祖代々ここで生まれ育って人達のものだし、人々に自らの国主を決める権利があって、当然である、と思うから。それで、地元民の私と、東国出身の6番目の子を、地元の人々が望むのであれば、何か問題があるのか? と思う。だいたい、神家党の方が、血筋的には富の王家のおっちゃんよりも私に近い人達でしょ? と思うわけで。大名家の当主と始めて、ちょっとご挨拶したわけですが、こちらは「蛇の目」の人であったわけで。

7番目の兄さんからは、私が決めて良いことは、私が決めればいい。何が差別で、何が正しいと思うのかも自分で判断して良いし、自分はただそれを守って支えていくだけだけれども、自分が「正しい」と考えている価値観は、東洋のものではなくて、西洋のものである、とそういう自覚を持つように、と言われるわけで。別に私だって価値観的な環境としては、親が生まれ育った環境と似たりよったりのところでしか育ってきていないので。何故、私自身が西洋式の価値観を正しい、と思うのかを、その理由を忘れないように、と言われる。それは、富の王家の当主が恐れおののくほどに、音楽家の兄さんの声がよく届くから、ということでー;。それは、どうしようもない。だいたい、ウェスタの人達の声はだいたいは私に届きにくいわけですが、一部に源ちゃんとか届きやすい人もいるわけで。今日、福山君の歌と、源ちゃんの歌を聴いて痛感したけれども、蛇の兄さんの方が「目の力」はよほど強いはずなのに、源ちゃんの「声」の方が私には良く届くわけだから-;。音楽家の兄さんには、「自分の部下が誰かに不当に差別されたら、例え相手が自分の親であっても、それを諫めて部下を守るのが、王として当然の態度であるので、それができもしない者を、西方の人々は誰も王とは認めない。」と言われただけであって。蛇の兄さんからは、「それは西欧式の考え方であって、東洋式の専制君主的な考えから見れば、部下がどんなに心を尽くして仕えても、上はしのごの言って足蹴にして当たり前なので。」とフォローはされるわけで-;。むー、でも、私はそれはいや、と思うわけで。どうにもこうにも、階級社会は差別社会で、無差別主義者が平等な社会? とか、そんな感じで、そんな大正時代のアナーキストが言いそうな文言は、親の育って時代から考えても、どう見ても時代遅れでしょうが? と思うわけで。「目の力」の優れた人が人々の上に立って、人々を守り支えていくこと、そして「目の力」の弱い人が、できる範囲で上に立っている人を支えていくことは、全然不公平でも不平等なことではないでしょうが、としか言えない。無政府主義な組織なんて、存在しないから、そうなったら人々はそれこそ個々に孤立して外敵のなすがままで、組織そのものが維持できないから、それこそ最大の不公平状態だと思う。上っ面だけの、無政府主義、共産主義が「平等な社会」だなんて、それこそイエズス会が作り出した妄言だし。そんなものに捕まっていてはいけない、とそれもそう思うだけなわけで。音楽家の兄さんには、「人の上になればなるほど、公平とは平等とは差別とは何なのかを、自分自身に問い続けていける自分でなければいけない。」とそう言われて。その人はその人で、西洋的な価値観を身につけて、西洋の神に相応しい存在に妻神を鍛えるつもりなわけです。そうする以外に、蛙の王家と富の王家の「神を傀儡にしよう」という策略から逃げられないから、ということで-;。でも、その兄さんも東国出身の人なので、今回は大名家と6番目の子に協力して恩を売ったし、妻神に対する影響力が誰よりも強いことを明らかにできれば、門外客人の「夫」でも、誰も自分をないがしろにできない、ということをその人はその人で良く知っているわけで。蛇の兄さんは、6番目の子と取引して、国主の権利を半分渡す代わりに、妻神の最初の「正式な夫」になることを承知させた、ということで-;。別にどうでもいいや、私の前で喧嘩してくれなければ、と思うわけで-;。おかげで、一応誰にとってもめでたしめでたしなんじゃん? と思うわけですが、分家筋を強く牛耳っていたい蛙の王家と富の王家は、大ショックを受けまくり、ということのようで。精神的なショックなんか3日もすれば回復するでしょ、みんな私の親戚だし、そんもんでしょ? と思うわけで、どこの王家も図々しいからそういう心配は誰もしないわけですが。でも、蛙の王家の忠臣と富の王家の忠臣は面白くない、B’zの兄さん達には「大陽の小町なんとか」という曲なんか「作るんじゃなかった」とぼやかれた気がするわけで-;。

で、「ウルトラフェス」が終わった後に、「NEWS ZERO」を見て。部下を「ハゲ」とかって罵った豊田議員が謝罪会見をした、とかでニュースになっていて。なんでも、録音によると、部下に「お前に私の心の痛みが分かるのかー」とかって怒鳴っていて。で、その後先に「そんなつもりはないー」と歌うように言っていて。で、部下を「ハゲ」と罵ったことについては、「夫の頭が薄いので」とかって言い訳していて。自分でも「なんでそんなことを言ったのか分からない」とも言っていて。なんにしても、奇妙な事件であるわけで。でも、私も忙しくてニュースなんて見ないので、このニュースは今始めて纏めて、しっかり見たわけです。その時、ふっとゆずの兄さん達の『人はみんな鏡だから』という歌詞を思い出して。世間で起きる事が我が家の「鏡」であるのなら、この事件を何を写した鏡なのだろうか? と思った。「そんなつもりはないー」と繰り返しながら、「なんでそんなことを言ったのか分からない」と繰り返しながら、部下を罵倒することをやめなかった人が誰か居たか? と思った、というか、「夫の頭が薄いので」ってわざわざそれを言う??? と、思わずそこを強く突っ込んでしまうわけですがー;。私が「危うい」と感じる以上に、世間がどう思っているのか、ということが「これ」なわけだ。でも、ともかくニュースと同様、反省して謝罪したことにはなっているので、それが単なるパフォーマンスでなければ良いが、とそう思うわけです。妙な健忘症にさえ取り憑かれていなければねー;。(というか「ウルトラフェス」よりも、最後のこれが本日の大ハイライトだと思ったわけですがー;。)個人的には、これが本日一番ショックだったわけですがー;。