魔の時間ですな

ええと、ついでに「ラピュタ」と「もののけ姫」の予告編を見たわけで。

「ラピュタ」はですねえ、要するに主人公のカップルの名前が「パズー」と「シータ」って言いまして、で二人併せて「破壊(とかつ再生)の力」を持つわけだ。「パズー」っていうのは、要するに「アメン・ベス・ネルガル系」の「伝統的な破壊(と再生)の軍神」なわけで。一方の「シータ」ってのは、蛙の女神の名前なので、要するに「破壊性を持つ蛙の女神」の象徴ということで、平ったくいうと、「エレシュキガル」というメソポタミアでイナンナと対を成す、いわば「イナンナ・エレシュキガル」とも言うべき「死の太母」の象徴なわけ。要するに、「パズー」と「シータ」っていう組み合わせというのは、「ネルガルとエレシュキガル」という「破壊と再生の夫婦神の象徴」であって、それを「取り分」として取るからには、その力を正しく使い、良くないものを破壊し、かつ残すべきものを再生できるような、強力な「力」と、それを使いこなせるだけの「人間性」が必要とされるわけで。だから、兄さんがラピュタが好きなのは、そしてそれを買い戻したいと願うのは、それができるのは彼が「伝統的な破壊(と再生)の軍神」として認められた時で、それだけの男だと認められたことになるからです。

で、一方の蛙娘はですねえ、「蛙の女神」っていうのは世界中見回すと、「生と豊穣の女神」から「死の太母」まで守備範囲が広いので、この私がどういう蛙娘か誰も良く分かっていなかった、ということで。ともかくつい最近に至るまで、みな、ラピュタが買い戻せるかどうかは兄さんの力量によるものと思っていたわけだ。

そして、現在のところ、「破壊(と再生)の軍神」としての権利は黙示録等で、明確に敵がその権利を主張しており、彼らはそれに乗っ取って、あちこちで争乱を起こして悪さをしてる。それだけに、それを「取り分」として主張できる力量には相当なものが必要なわけで、下手して負けちゃうと自分が潰されるか、自分の力を相手に利用されるだけになってしまう。

で、一方の「もののけ姫」。なんていうかですねえ、最後にいた病院と同じく、最初にいた病院でも「同じ事」が私に要求されていたのだと思う。「もののけ姫」は破壊性の強いアニメで、死の匂いが強いから、あれも買い戻すことはできない。しかも、何よりも私は「主人公サン」では無いと思うから取れない。たぶん1997年のあの時点では、みな私が「人ならぬ所に住んで、死者の世話をさせられていて、人ならぬ存在とされている」だけの存在にしか見えていなくて、ともかくそこを抜け出して「生きて生きて生き抜いていって欲しい」と思っていたんだと思う。それだけでもできたら、私には上等だ、と。だからみんな言ってた。「医者じゃなくたっていいじゃない。生きていくのに最低限必要なお金さえ稼げて、それでささやかにつましく生きて行ければそれでいいじゃない。」と、呼びかけてた。その方が、例え何の力もなくてもせめて「人として生き残れる可能性は高い」とみな思ってたわけだ。まあ、おかげさまで次の年には、蹴り入れてやめちゃったわけですが。そして、兄さんの方にはあくまでも「お前のあの娘の不幸が癒やせるのか?」と突きつけられていた。神としての力をほとんど持っていないのに、その立場になってしまった娘の不幸を、癒やし守れるだけの存在になれるのか? と。まあ、兄さんもちょっと前くらいまでは、そういう気持ちでいてくれたように思うんですけどねえ? と言うしかないわけで。

それが何だか、今になると「魔」から突きつけられた勝負には、「そんな風に妻の力を自分の道具として使うような男が許せるのか?」とか言われてるようですので、なんだかね、皆様の中で、ずいぶんと私も出世させて頂いたというか(苦笑)。たぶんね、「もののけ姫」の登場人物の中で、誰が一番私に近いのかといえば、それは主人公のサンではなくて、烏帽子であるのだと思う。だいたい「烏帽子」という名前が遊女を連想させる名であり、かつ物語の中の烏帽子は、そういうこともやったかもしれないけれども、自分の守り育てる小さな健全な村を守る情熱と優しさは人一倍であり、それなのに彼女自身はそれを守るために何でもやってのける、という矛盾した存在として描かれる。そして、彼女の目も、「そうするためなら何でもやる」という魔的な情熱に溢れている。どうにもね、私もそういう性分ですのでね。だから、私は「力」を好むのだと思う。そうできるだけの「力」が欲しい、と常に欲しているからだ。そういう私の欲を満たしてくれる男がいるのであれば、彼が妻の力を道具としてどしどし使うような冷酷な男でも全然結構である。戦いに必要なのは、どんな戦いでも「力」であって、「人間性を失わないで居て欲しい」なんてのは、結局勝ったあとの綺麗事な話に過ぎないのでね。まずは勝つことが先である、と。それだけのことですともさ? 味方からならともかく、敵から余計な世話を焼かれるようなことでは全くないですともさ。
(でも兄さんはすごく男気のある良い人だと思いますけれども? 個人的にはね。)

たぶんね、2番目の子とつきあっていた時に、私は彼が何か私には言えないような悩みを抱えていて、何か「戦わねばならないものがある」とは気が付いていたと思う。だから、そのことを正直に言って欲しいと思っていたし、彼が言ってさえくれれば、彼を支えて、共に戦っていくのに、といつも思っていた。彼にそれを言うだけの力がなかったのか、言えても言えなかったのかは知りませんけれども、そうしなかったから、結局蛙の人たちは、自分達の太母を自分達だけのものとして取り戻すことが永遠にできなくなったんだと思います。言ってくれてたら、私だって烏帽子のように、あなたたちを守り抜こうとしたと思うんですけれどもね。

 

ネルガルとエレシュキガルで結構。それでラピュタを買い戻せて兄さんを喜ばせて上げられるなら、それだけでもそう名乗る価値はあると思いますけれどもね。

アニメ日和

昨夜、夕飯の時にMステを見ようということになったのですが、兄さんがぐだぐだにならないためにサポートがいっぱい入って下さったようで、っていうか、ものすごく大勢の人の気配がするわけで、小さい蛙の人とか小さい蛇の人が周りにいっぱいいるような感覚がするわけです。で、兄さんは「支えるっていうのは『衆人環視』ってことかい。」と呟くわけで、要するにみんなで見てれば、兄さんも面子があるので、あんまりぐだぐだにならないだろう、とそんな感じだったらしいです。

で、福山君のライブの告知の映像は、見返せばそれほど長いものではなかったわけで、黒いスーツ着た福山君がけっこうとんがった感じで映っていたというか、そんな感じであって、まあ確かに「爽やか好青年という感じではない」という感じでしたが、まあ、私の中での「福山雅治」という人のイメージはだいたいあんな感じというか(正確にはもうちょっとナンパな感じですかねえ。だいたい「生きてる生きてく」くらいなイメージだったわけで)。で、兄さんは「あれは営業用。」って呟くわけですが、周囲からは
「お母さん、ああいう男が好きなんだ-。不良だ-。」とか「お父さんも不良だ-。」とかいう呟きが聞こえてくるわけで。いや、好きなんだ?って言われましても?? ああいう人なんじゃないの?? っていうイメージしかないんですけど@@。みたいなーー;。
で、どうしても一瞬映っただけでも、福山君の胸元あたりに視線がいってしまうわけで。そうするとまた、
「胸元を見たぞ。」とか「胸元をまさぐってるぞ。」とか「へー、そうやって見るんだ。」とかいう呟きが来るわけで(苦笑)。

それから、寝た後、朝方「生きてる生きてく」と「わたしは風になる」が続けてかかって目が覚めたわけで、「生きてる生きてく」は「子供が欲しい」ってような歌に聞こえますし、「わたしは風になる」は「戦いの後に会いにいきます」というような歌だったよなー、と思って目が覚めたのですが、その後、兄さんと他の二人から何か「お願い」をされた気がするわけですが。まあ、よろしいんじゃないですかね、別に、ということで。

 

で、起きてから、某ニュースサイトを見に行きましたら、なんというか、どこかの「法王」みたいな人のニュースが写真付きで載っていまして。それで閃いた兄さんが言うわけです。「そうか、別に宮司じゃなくたって、こいつでもいいわけだ。」と。それで、「ちょっとこれ見て貰える? だって、あなたこれ見ても別にカトリックに改宗したいと思わないでしょ。見るだけなら減るもんじゃなし。」ということで。「あー、いきなり頂上対決ですか? っていうか、こんなお手軽なことでいいんだ?@@」と思いながら、見て見たわけで、だからといって良く相手の反応も分からないというか。で、30秒くらい見ていたわけです。その他にも何人か「見た」気がするわけで。

その後、いくつかPV等を見ていたのですが、平原綾香嬢の「はじまりの風」を見ていた時に(彼女もけっこうやな感じの目をしてた気がするのですがーー;)、「そういえばこの曲は昔良く見ていたアニメの主題歌だったな。」と思い出しまして、「じゃ、今の目でアニメがどう見えるか、見て見ますか。」ということになったので、「彩雲国物語」のオープニングのアニメとか探してみたわけです。で、見ていると、1番目の子が、すごく気持ち悪がっているのが分かるわけで、「え? なんでこれで気持ち悪いの?」と思ったわけですが、どうも彼が言うには、アニメの登場人物は、実在の人物でもないですし、要するに「敵に踊らされている人でも『人は人』」ですが、そこにあるのは「生きてもいないのに踊らされるだけのもの」ということで、要するに「生の豊穣」を大切にする人には「死体が操られて踊らされている」もののように見えるらしいです。アニメって。そっかー、それだからアニメとか漫画とか(場合によってはフィクションの小説も)駄目なものなんだ。登場人物が全部「生きているもの」ではないから。ということで。でも、兄さんだって「星矢」をキーワードに使ったでしょ? って聞いてみましたら、兄さん的には漫画は好きでも嫌いでもなくて、帳尻あわせのために買うことはあっても、読めばすぐに捨てちゃうでしょ、あんなもん。ということで、どうも私みたいにため込んだりするのは相当な「悪食」なんだ、それ@@。と思ったわけですが。

で、その後Mr.Childrenの動画を見て、「終わりなき旅」の2011年のライブバージョンを見ていたわけです。ミスチルの桜井君の歌い方も兄さんとちょっと似ているというか、伝えたい言葉を強調して唄うような、歌い方をしているわけで。そして、曲にすごく入れ込んで唄う方だとも分かるわけで、そしてこの「終わりなき旅」は「昔の恋なんて忘れちゃえ」みたいな歌詞がありますから、それだけでもう「兄さんの歌」だなって分かるわけです。ここのところで、怒ってるのは「兄さんの歌」の一大特徴ですのでーー;。そして、見るとうまく言えないのですけれども、桜井君も蛙の人なんだな、となんとなく思うのです。GLAYが2番目の子を応援しているのだとすると、ミスチルは蛙でも兄さんの応援をしている人たちなわけだ。で、「終わりなき旅」への桜井君の感情移入もすごくて、そこには事態をそこまでにしてしまったことに対して、敵にも味方にもものすごく怒っている、まさに龍神の咆哮と激情があるように思えて、まるでこちらも巻き込まれてしまってちょっと腹が立つような感じがするわけです。あー、2011年ですもんね、この頃の兄さんの本音は、こんな感じであって、福山君のライブとかから感じるよりもずっとはっきりこっちに出ているわけだ。と思ったのですが、そうこうしていると、兄さんが誰かとハイタッチしている気配とかあって、「ん? 何かあったの?」と思ったのですが、更に1番目の子がすごく気持ち悪がっているのが分かるわけで、そしてみんなが「見返してやれ、見返してやれ! やり返せ!」って言ってるのが聞こえるわけで、どうも朝見た写真のあたりから反動が一番弱い子のところに来たらしくて、それはほっとけませんので、朝見たじいさんの写真を今度はもっと念入りに見て見たわけです。そうすると兄さんは、ものすごく攻撃的な気を送り込むわけで、1番目の子は気持ち悪くなっちゃったようで、そういう時の兄さんは「弱いものは潰れておれ!」って、ものすごく心優しいことしか怒鳴らないわけですーー;。で、誰かがサポートに入って下さって「あなたはあれを見てはいけません。目を閉じなさい。」って言っているわけです。そして、後ろで守ってくれていた1番目の子の気配がすっと消えて、そこに2番目の子が入ってくるのが感じられるわけで。で、30秒くらいしたら、兄さんが「もう止めましょう。」って言うわけで、見るのを止めましたら「止めるな! もっと勝負を続けろ!」って怒鳴っているのが聞こえるわけで、「何、それ?」と思いましたが、どうやら兄さんによると「視線が相手に届いている。」のだそうで、兄さんは「止めるなってことは、もう欲しくてたまらなくなってるな。自分は、こちらが見たいときに見て、見たくないときにうっちゃられるだけの「奴隷」だと思い知ればいいさ。」とか、超温厚な性格むき出しで、すごいこと言ってるわけで「げっ」と思ったわけですーー;。で、2番目の子も「そうか、こういうやり方があったんだ。」って驚いているわけで。

で、その後はまたいくつか動画を見て、そういえば2012年に、いろんなことが始まるときに、「家に籠もらなければならない」と言われて、「どのくらい?」って尋ねた時に、Mステで嵐が「1年」って言っていて、Mr.Childrenが「365日」を唄ったのを思い出して、「365日」を見て見たわけです。そしたら、これも「兄さんの歌」だ、と気が付いたわけで、そっか、あの時、家を閉じる前に兄さんの代理人のMr.Childrenと、2番目の子の代理人の嵐がメッセージと曲を送ってくれていたんだ、と気が付いたのです。

そして、その後いろいろと見ていたわけですが、あまりよろしくないお歌ですけれども、「イノセントワールド」を聴いたり、「HANABI」を聴いたり、「シーソーゲーム」を聴いたりしていたわけです。「イノセントワールド」は良くない曲ですが、一部に良い部分もあって、悪い影響が出ないのであれば、それを使いたいと思った兄さんが、「これ使おうかな、どうしようかな。」と悩んでいましたら、周りから「あんた自分の悪い歌はとっとと入れておいて。」って言う呟きと共に、いろんなものが兄さんに投げつけられる気配がするわけで(苦笑)。いや、それ「誕生日に真白な百合を」(2013年リリース)のことでしょ? きっとそれは2012年に出された「Beautiful life」と対をなすもので、とってはいけないものであって、中には「会えなくなる」とか「死」を連想させる表現があって、よろしくないものであることは私も分かっていましたけれども、歌詞の一部にぬけぬけと兄さんが私への気持ちを入れてる部分がありますので、兄さんはそれを聴かせたがるし、私も聴きたいと思うので、聴いていたわけですが、でもPVの福山君の顔には「この曲を取らないで欲しい」って書いてあることも知ってはいたわけで(苦笑)。で、「イノセントワールド」は使うことに決めたわけです。
で、「HANABI」。これは良くない曲で、「もう一回」って歌詞がものすごくたくさん入っているわけで、で、兄さんが「これって誰の曲だと思う?」と聞くわけです。ええと、歌詞の内容からすると、「人生はケセラセラ」とかって言ってた人の歌? っていうか、げーっ、あれも私に歌を送ってたんだ?@@ と思ったわけで。兄さんは、「あいつこんなこと考えてたんだ。ってせせら笑うわけですし、びっくりしました。
それから「シーソーゲーム」。これは男の子達に争うようにそそのかしている歌だから、駄目と。

で、ついでの久保田利伸の「LA・LA・LA LOVE SONG」を見たわけで、これも良くない曲ではあるわけです。で、何故か、久保田利伸を見ているとその後ろに、何かこちらに悪い気を送ろうとしている老人の姿が見えるわけで、でも、その首筋に小さくていやらしい目をした蛇女が巻き付いていて、じいさんの首を舐めたり嚙んだりしているわけで、じいさんはその感触ですぐ潰れちゃうまでは言ってませんが、真っ赤になって堪えていて、とてもこちらに集中できる状態ではない、と。それを見て兄さんが「あれも女の経験はあんまり無いと見える。」とか言ってせせら笑っているわけですが。っていうか、あの「小さな蛇女」って誰のことなんですかねえ? 自分で見てても嫌な感じがするんですけれども、「太陽の神サマ」ってもっと神々しいものだったんじゃないんだ?ーー; という気がするわけで。「いいじゃないですか。こちらだっていろいろ騒がれたりして、集中を邪魔されるようなこといろいろとされたんだから、邪魔仕返してやれば。」っていうわけで。

どうもね、神々の世界の力関係というのは絶対的なもので、力の強い方が、弱い者を操ろうとするのは、強い者にとっては、ご飯食べながらできるような超簡単なことらしいです。でも、弱くて踊らされるばかりの人からすれば、それは逃れられないものであるし、更に力がなければ踊らされていることしか気が付かないものらしいです。要するに力の強い人は、弱い人の写真を1枚見て、「ああしろ、こうしろ」と思えばそれで良いだけのことらしい。そっかー、それだからみんな「その力に溺れずに、人としての気持ちを忘れないで下さい。」っていうんだ、それは私にとっては「簡単過ぎる」ことだからだ。と思ったわけで。(でも、兄さんが中にいないと、自分ではうまく力を使えないわけですからね。もっとも、兄さんは「使える」と分かれば、速攻で頂上決戦を挑むような分かりやすい人でもあるわけですが。)

で、その後は、アニメの主題歌を見ていたわけで、「不思議の海のナディア」を見たわけです。ナディアは今では良くないものだと分かっているわけですが、これはいろいろな「因縁」を含んでいるアニメなわけで、まずそこから書きたいと思います。

ナディアの原案は、宮崎監督がNHKで連続アニメを作るために作られたもので、でも結局宮崎監督はそのアニメをNHKのためには作らずに、原案を元にして「天空の城ラピュタ」という映画を作ったわけです。でも、その原案はNHKの側にも残されましたので、NHKはNHKで庵野監督に依頼して、連続アニメを作り、それが「不思議の海のナディア」なわけ。だから、ラピュタとナディアは同じ原案を元にして作られた「双子のアニメ作品」といえるわけで、似ている部分も多少はあるわけです。で、ラピュタの方は良くない作品なわけで、何故かというと中に「滅びの言葉(パルス)」という言葉が出てくるわけで、そういう縁起でもないものはよろしくないということで。でも、主人公の名前から察すると、それは兄さんと私を応援してくれる意図も含まれた作品なわけです。

で、ナディアの方はというとですねえ、こっちもヒントはいっぱいあるんですけれども、内容は「良くない作品」なわけです。でも、私はナディアがずっと好きだったわけで、なんでかというとこれは2番目の子が、「好き」って言ったアニメなわけで、ずっと私にとっては彼との思い出のアニメだったわけで。
で、改めて見て見ると、このアニメの主人公はナディアという女の子で、父親は「ネモ船長」というのですが、「ネモ」というのは「アメン」に通じる言葉ですから、「父なるネモ船長」とは「父なるアメン」を暗示している存在なわけだ。で、見て思い出したのですが、このアニメの最後には、主人公のナディアは敵に操られてネモ船長を撃ち殺そうとしますし、実際ネモ船長は話の最後に死んでしまいますし。なるほど、これは「父なる神アメン(要するに兄さんのこと)」を殺してしまえという暗示に満ちたアニメなわけで、2番目の子はこれを私に勧めて見させる代わりに、つきあうことに成功したわけだ。それが最後に全部ぐだぐだになっちゃったわけだから、はっはっはっ、そりゃ兄さん怒りますよねえ(棒読み)。ということで、それで毎晩蛙の人たちのことを、「あいつら本当に意地悪なんだよ。」って呟くわけだ。まあ、直接愚痴を聞けるようなところまで話を進められればですねえ、好きなだけ兄さんの愚痴を聞き流して上げますので、言いたいだけ言ってくださいな、みたいな(苦笑)。

でもって、誰かさんは「ラピュタならその内に買い戻してあげられるかもしれん。」と呟くわけで。要するにそこに暗示されている「呪い」みたいなものの力よりもこちらが上であったり、それをこちらが自在に制御できれば、それはこちらの力として使えるから、取っても良いものになるわけだ。(そうすると「あいつ、世界のあちこちでパルスっていう気かい!」って突っ込みが周囲から来るわけで、あー、兄さんて怒らせればそういうことしそうな人ではありますけれどもねえ??ーー; とは思いますが(苦笑)。)

それから、良くないものをということで「千と千尋の神隠し」の予告編とか見て見たわけですが、要するにこれは「あの世」の話ですし、千尋があの世で、死人のために働く話ですから、たぶん我が家にとって、宮崎アニメの中で最大に取ってよろしくないものがこれである、と。そういうことなのだと思います。主題歌も「死」をイメージしていて良くないものです。で、この映画が、私にとってどの点がヒントとなり得たのかというと、これは2001年に発表されたものですから、要するにその頃から敵は私を狙っていて、陥れようとしていた。それで、

千尋にお金を握らせて、その代わりに殺そうとしていた「カオナシ」とは、あの病院のことです。あそこは「敵の本拠地」も同然であって、そこに誘い込もうと敵が画策していたことはみんな分かっていた。あの頃は、そのように直接敵と取引して代価を得るというようなことは、あなたの娘さんに「見合った行為」ではないと、敵も味方も考えていた。だから、敵は敢えてそうさせることで、娘さんを潰そうとしていた。宮崎監督はそのことを警告しようとして、敢えて見せてはならない映画を作って、最大限のヒントを送ろうとしていたのです。あそこで仕事を教えて貰えなかったのは、当然です。敵は、あなたの娘さんが彼らと労働契約を結ぶことを僭越な行為として、カオナシが千尋にしたように「潰す」ことしか考えていなかった。だから、仕事など教える気も、必要も敵には最初からなかったのです。確かにお金は生きていくためには大切なことなのかもしれないけれども、「見合った以上のことを行おうとすると潰される」ということはどういうことなのかということを知ってください。敵にとっては「支払う対価」がいくらだったかどうかなんて問題では無い。彼らはカオナシのように娘さんを、お金を与える代わりに潰すつもりだったんです。そして、本来であれば、清浄を保っていなければならないはずの娘さんが、彼らから「対価を貰って死者のために働く」ことこそが、誰にとっても問題だったんです。

って、うちの親に言ってくれ、とみなが言うわけですが。まあ、書くだけは書きますけれども、結局は結果オーライですのでね。それに、あそこで私が「死体をつつきながら対価を得ていて、なおかつ正常に生きていた」ということは、要するに「死の汚れを喰って私が生きていける存在」であることの証明であって、だからこそ、稲葉さんは「あなたなら出雲大社の穢れの中にでも入っていける。」とおっしゃるのだと、兄さんも気が付いたようですから。でもって、みんなは言うわけです。
要するに、私はあそこでピザは食べる、ハンバーガーは食べる、しかもゲーム、ビデオ、漫画と、よろしくないものはあり放題だった。そこで、敵は「怒り狂って自滅しろ」か「うつにでもなって自殺しろ」とか、そういう気しか送ってこなくて、そこで私は確かに「怒り狂って」いたかもしれないけれども、無秩序にその怒りを発散させることはなく、それを明確かつ的確に敵に向かって使ってた。要するに、それが私自身の持つ「力」であったことの証明である、とそういうことのようです。

そして、今となってはみんなが言うわけです。あの世で千尋が闇の中に消えてしまいそうになった時に、飛び込んできて、敵に酷使されていても、自分の命と引き替えにしてでも、千尋を助けてくれようとした小さな竜の男の子のことを忘れないで。彼は、もしもあそこであなたが潰れて消えてしまいそうになったら、自分の命と引き替えにあなたを助ける気だったのです。そして、それができるだけの力を持ったのも彼だけしかいなかったのです。その決意を伝えるために、宮崎監督はあの映画を作ってくれたのです、と。

そっか、その人には好みでもないじいさんをねめつけるようにお願いされてますので、忘れてる暇もなさそうに思われますが(苦笑)。そして、みな、この「千と千尋」の予告編の動画を「使え」と言ってくれる。この映画は買い戻せません。これに耐えうるのは鈍感な私と、せいぜい兄さんであって、他の二人にとっては「死の穢れ」が強すぎるからです。それは私にも分かります。(でも、予告編を「使う」だけでも、「境界を越える」ことになるらしいです。なぜなら、「死の穢れ」は本来敵の領分であるからです。)

それで、その後はおまけに「ハウルの動く城」の予告編も見てみたわけです。ハウルは魔法使いですけれども、自分の力をうまく制御できない。火の悪魔カルシファーは、爆発的な力を持つけれども、時に人としての心を失いそうになる。かかしのカブはソフィーに対して手も足も出ませんし(っていうか、これが目下の問題なんですよねえ? 確か?ーー;)、マルクルは保護の必要な子供です。要するに、これは3人が、自分の弱点をさらけ出す代わりに、「戻ってきて欲しい」という思いを伝えるために作られた映画なわけだ。まあ、余録としてこの予告編も「使って良い」とのことですので、そうさせて頂ければと思います。だって、ハウルも買い戻せないものです。なぜなら、主人公のハウルは兄さんじゃないんで、兄さんはこれを買い戻すことは許さないでしょうからね。(兄さんはどう見てもカルシファーですものね。)

 

ミスチルの「終わりなき旅」を見ていると、ステージの上で、兄さんの代理人として咆哮している桜井君に対して、客席から「絶対に届けさせるものか。お前も潰れてしまえ!」というものすごい気が発せられているのが分かります。桜井君も力の強い方ですから、それに押されたりはしていませんが、「死刑宣告」とやらが出された2011年という年は、そこまで「暗い」年だったのだな、と改めて思ったのでした。そして、あの病院での真実の情報が得られたことが、まあ、今日の勝負の戦利品ということなのでしょう。